月別: 2022年5月

2022/05/26

コロナうつ

「コロナうつ」という言葉

「コロナうつ」というのは正式な医学における病名ではありません。そもそも「うつ」というのが病名ではなく、症状のことです。

「うつ病」は気分障害です。それに対して「うつ」や「抑うつ」などが主体でなく、「心配」や「不安」が主体であるものを「不安障害」と言います。

「うつ病」というと病気や障害、症、という疾患単位のようなものを差しますが、「うつ」では症状だけであり曖昧ですが広く使うことができます。

コロナうつイメージ

「コロナうつ」って何?

2019年末から、2022年5月時点に至るまで『covid-19』いわゆる新型コロナウイルス感染症は、世界的規模で2年以上にわたり続いています。日本でも一時期は下火になったかに見えましたが、オミクロン株の登場等により、再び感染者数が増加するなど、終息への道のりは不透明なものになっています。

この間、日本では緊急事態宣言の発出や自粛要請が繰り返されています。2021年には夏季オリンピックが東京で開催されたこともありました。また、前述のオミクロン株の感染力が強いということも分かってきました。さらに子供がコロナを媒介することもはっきりしました。加えてPCR検査も容易に受けられるようになったことからか、陽性者数が高いレベルで推移し、自粛を要請される期間は非常に長く続きました。

こうした状況の中、テレビやネットなどのメディアで、「コロナうつ」という言葉が聞かれるようになってきました。これはコロナ禍におけるメンタルの不調を指しているものと思われますが、「コロナうつ」は、学会や政府、国際機関等によって定義された、正式な精神疾患分類ではありません。

しかし、メンタルの不調に関して、医療の関係者ではない層やメディアなどが、感じたり気づいたりして名前を付けられるということは、実は意味のあることだと思います。医療における専門家が「『コロナうつ』などというものは存在しない」といってこうした事象を無視してしまうのは。独善的な権威主義の弊害ですし、貴重な情報はどこから入ってくるかわからないものです。

コロナ禍初期における医療関係者の「うつ」

少なくとも、新型コロナウイルス感染症が蔓延し始めた当初には、私の実際の経験により、コロナ禍を原因とした「うつ病」の発症が確かにあったと考えられます。それはコロナに対応した医療関係のスタッフにみられたものです。

ある病院内でもコロナウイルス感染症者が出てしまいました。その対応を任されたスタッフにうつ病が発生したのです。私はその病院の院長の依頼により、スタッフの皆さんの診療・カウンセリングを行いました。中には労災認定を受け、現在でも診療を続けている方もいます。

原因としては、未知の病気である新型コロナウイルス感染症に対応する中で、病院の管理側も手探り状態で、負担が特定のスタッフに集中してしまい、過度な緊張を長期間強いられたこと、また様々な要因による「徒労感」が引き金になったと考えられます。

コロナが発生した際、病院では、さらに感染を広げてしまわないように、病棟でコロナが発症した時に患者さんと接触した可能性のあるスタッフに、その後の治療においても、コロナの患者さんの病棟専従として配置していました。これがそのスタッフの方にとって、大きな肉体的、精神的負担となっていました。

スタッフの方自身にも、感染の恐怖がありました。若くても、免疫力が低下していたら感染し、重症化するリスクがあることはわかっていました。また、これは仕方のない面があるかもしれませんが、組織の要請として負担が一部のスタッフに集中したことにより、病院上層部への不信感や怒りの感情が生じた部分もありました。

さらに、その病院は患者さんが高齢者中心のリハビリ型病院でした。こうした老年期医療の病院では、通常でも冬季にはウイルスや細菌等による肺炎などが増加し、死亡率が高まります。そこに新型コロナが重なったことになります。

限られた人数のスタッフで、緊張した状況の中、それでも頑張ってコロナ患者さんを診ていたのですが、患者さんの中に死亡例も出てきたことで、徒労感、というか、元気を奪われるような、がっかりとした気分に苛まれるようになってしまいました。その結果、事態がひと段落した時に、燃え尽きてしまうスタッフの方が続出したのです。中には適応障害など、ある種の心的外傷性障害を発症した方や、うつ病になり診療が必要になったスタッフの方も発生しました。

上記はひとつの例ですが、医療スタッフ関係に関わらず、この2年余りのうちに、私自身が診療を通して感じたことや、他の医師から聞いたことなどを通した、「コロナとうつ」について考えてみたいと思います。


コロナとうつ病

コロナ初期とその後の影響

前述のようにコロナ初期には、コロナ対応した人々のうつ病発生が見られ、医療機関によっては大量に退職者が出てしまうなどの問題も発生しました。医療機関だけでなく、企業や保健所でも、コロナに関係する部署で責任を負う立場にあって、過重な対応を強いられた方が、やはりうつ病になる場合が見られました。

コロナの発生から時間が経過し、そうした医療機関の方々のおかげで、コロナ患者発生時の対応ノウハウが蓄積されてくると、その手順もスムーズになっていきました。スタッフの方の負担が軽減し、未知のものへの恐怖も薄らいできたからか、初期に観られたような医療関連における「コロナうつ」は減少していきました。

その一方で、コロナの影響による経済的な問題、また特に地方で見られたようですが、自粛を無視した行動などに対する非難などの二次的な原因で、「うつ病」が悪化するケースが見られています。地方などでは自粛要請を無視したとみられるような行動(東京に暮らすお子さんの帰省等も含めて)に対し、“コロナ村八分”のようなことが起きる傾向が強かったという話を聞いています。

私は比較的都心部で診療を行っていますが、このようなことは、実は都市部でもあることで、コロナで自粛しなかったり、マスクしなかったりするような行動には、仕事場でも公共空間でも厳しい目が向けられることがありました。

社会問題としてのコロナと「うつ」

コロナ禍は様々な社会問題も浮き彫りにしました。たとえば子育て世代への負担です。コロナ期間中、子供を預ける場所がなくなったり、コロナ疑いなどで子供と離れることになったりと、様々な問題が子育て世代に降りかかりました。

また、社会の経済状況も関係しています。不景気や失業、金銭問題は「うつ」や「自殺」の増加や悪化につながることが少なくありません。しかし、それをご自身が意識していても、診察ではそれに言及なさらない方も、しばしばいらっしゃるようです。

こうした社会状況の中から、テレビやネットなど大衆的メディアで拡散されやすいような「コロナうつ」という言葉が生まれたのかもしれませんが、珍しい病態として注目されうる「コロナうつ」のようなものは、医学的には存在しないと思っています。しかし一方、医学的診断という狭い範疇のみで、人々の精神的な苦しみを捉えてしまうのは、医師や医学自体の見識や懐の狭さを表してしまうものです。

実際、コロナによって仕事や景気に悪影響が出てしまっている以上、10年以上前であればともかく、経済的に逼迫している人や、仕事の行き詰まっている人、中小企業などの事業経営で追い詰められた人などを取り巻く「うつ的気分」も含め、今は「コロナうつ」として積極的に、広くとらえていく方がいいのではないかと私は考えています。

コロナに関連してうつ的になる人は、間接直接問わずいるはずですし、ネットでもテレビでも、一般的なメディアで「コロナうつ」として取り上げることは、社会の連帯や紐帯のために有意義な事だとも思います。

コロナの影響によるうつや関連事例

災害としてのコロナと「うつ」

コロナ禍は、災害という側面もあります。少し別の話になりますが、突然の、国レベルで影響を与える規模の大災害などは、精神科疾患に悪影響を及ぼすとは限りません。むしろ統合失調症など、ある種の疾患では、症状に改善や安定化がみられることがあります。

社会的な災害時に目立つものとして、「躁状態」や「不安」があります。

東日本大震災の初期には、ある大臣が躁状態になり、メディアとのやり取りにおいて、多弁、興奮、脱抑制状態の傾向がみられ、トラブルを起こした例がありました。
またコロナの初期でも、ある大学教授が公的な許可なくコロナが発生した豪華客船に乗船し、ネットで配信して問題になりました。

身近な例で言えば、お葬式の時、軽い「躁状態」になっている人を見かけたことはありませんか?これもその一種かもしれません。こうした状態を精神分析学では「躁的防衛」と呼ばれる防衛機制と考えることがあります。躁転することで気分修正を行うのでしょう。

医師から見ると原因の一部が災害にあると思われても、それに患者さん自身が気付いていなかったり、気づいていてもおっしゃらない場合もあります。災害と「うつ」の関係は、丁寧に見極めていくことが大切かもしれません。

育児疲れと「うつ」

職場のストレスを訴えて受診される患者さんの中には、コロナ期間中に保育園が休園になったり、学童保育が中断したり、はたまた親がコロナに罹ってしまい、子供と隔離されてしまったりと様々な問題の中で育児疲れがある方が多くいらっしゃいます。

ご自身はそれが自分の症状や状態に関係していると感じていない場合もありますが、医師から見ると、30代~40代における「職場うつ」では、小さなお子さんがいることが多いように見受けられます。

コロナと不安障害

コロナは高齢者ほど重症化する側目があり、年配の方や年配の方と同居するご家族が、コロナに対して大きな不安感を持つケースが多々みられます。「不安」というものは、特に初期のうつ病でよく見られるものですが、うつ病以外でもしばしば起こりうるという、いわゆる疾患特異性がないもので、感度も特異度も陽性反応的中率も低く、「不安」があるからと言って、うつ病とは確定されません。

「不安」が病態の主体になるのは、うつ病などの精神病よりは、不安障害などの神経症と考えられてきました。精神病でも「不安」は一般的に見られますが、精神病は「不安」以外の症状が、入院を必要とするほど顕著に現れます。

実際に、むしろコロナ禍で目立ったのは、「不安」や「懸念」の拡大と増大です。これにより、様々な神経症性障害、パニック障害や広場恐怖、社交不安障害、強迫性障害などには、よくも悪くも影響を与えたと思います。

コロナでは在宅勤務等のリモートワークが拡大し、自分の家や部屋に留まれるため、自ら様々な「不安」のトリガー(引金)となる事象を回避する必要がなくなりました。そのため、社会的活動が著しく減少した方が多く見られます。

コロナと虐待

コロナ禍で虐待は増加しました。さらに虐待に限らず、コロナによる自粛・在宅が続くことで、困難に直面した家庭も非常に数多く見られます。

特に第一波の際は、学校や保育園等、子供たちの自粛もあり、家族全員が家の中に詰め込まれた状態になりました。
リモートワークで親が家にいて、子供と過ごす時間が長くなることで、フラストレーションが増え、思わず大きな声でどなってしまい、近隣から通告をされてしまったり、子供を叩いてしまったと親が自ら児童相談所に連絡したりと、児童相談所では扱い件数も増加したとのことです。

コロナで親の収入が減ったり、親自体が将来に不安を感じてしまったりすることで、それがストレスとなり、子供にあたってしまうケースもあります。
もともと家族が「機能不全」であったりするなど、コロナ以前から養育で悩んでいた親たちが、コロナに入って悩みが増幅され、爆発しているケースも感じられます。
これらがもとで、家庭に居場所のない子供たちも増加しているのではないでしょうか。

コロナ禍の近隣トラブル

コロナ禍で、近隣住民とのトラブルも増幅されたように感じられます。特に、小さな借家で、大家さんも同じ建物内に住んでいるような場合にはトラブルがみられたと聞きます。中でも騒音問題が顕著で、例えば生活保護の決まった額での賃貸物件の場合、防音設備が弱く、コロナの間は問題が増えているようです。

世界中で、家に閉じ込められるフラストレーションからか、様々な考え方のもと『外に出て活動できるようにするべきだ』というデモンストレーションが行われました。日本人はむしろおとなしかった方でしょう。

在宅・自粛という流れは、ある意味“軟禁状態”を引き起こすものですので、閉じ込められた際に発生する「拘禁反応」という様々な反応が出ます。症状は様々ですが、第一波の際には、ホテルに隔離された患者さんで、裸になってホテル中走り回った方もいました。


コロナうつの診断

そもそも「うつ病」の診断では病因は問いません。コロナで「うつ病」を発症したとしても、それを「コロナうつ病」と命名するのは少々安易で、その様な「病名」を堂々と主張すると、精神科医の間では怪訝な目で見られる傾向が最近はあります。

コロナが原因でなかったとしても、コロナがもともとある「うつ病」の疾患修飾因子として働いた可能性はあります。さらに、うつ病が悪化したケースもありますが、やはり直接のコロナ不安というよりは、もう何段階か間接的なステップを踏んでいるように思えます。

また、社会的要素が非常に影響する精神科では、立地や機能的立ち位置により、医療機関ごとの患者層や疾患がまるで異なります。そういう意味ではコロナの直接的な打撃により、うつ病になっている人が増えている地域や立場の人はあるのかもしれません。


コロナうつの治療

まず、どのような症状についてもそうですが、患者さんの個々の状況や病状をしっかり聴取し、理解に努めることが、「コロナうつ」の診療では大切です。

「コロナうつ症候群」は、様々な症候群をまとめたようなものとみた方がいいでしょう。コロナが何らかの形で関係し、うつ症状を持つものと考えると、いくつかに類型化することは可能ですが、患者さんによって各人各様ですから、個別にオーダーメイドの医療をしていくことが必要になります。

精神科も早期発見・早期治療が重要で、予後にも経過にも転機にも影響します。「コロナうつ症候群」という観点から、なんらかの症状が認められる場合は、速やかに診療を行い、症状を改善してしまった方が、後遺症が残りにくくなり、治療終了に至り易くなります。

コロナうつの治療イメージ

2022/05/18

やさしい現代哲学の「自分」「主体性」「自覚」入門

はじめに

現代哲学の2つの主題、ポスト構造主義と構造主義(による存在論と認識論、併せて哲学)はただの理論です。
しかも理論についての理論です。

「理論」自体も抽象的なものですが、更にその抽象的「理論」の「理論」なので更に抽象的です。
この抽象的なものを日々の生活に生かし具体的な思考や行動に応用するためには、応用のための技術を考えなければいけません。

現代哲学の現実への応用技術として導入すると便利なのは「自分」と自分に関する諸々の概念です。
現代哲学による「自分」の解説と「自分」の現実への応用方法を解説します。

第1章 現代哲学を現実に適用する

ポスト構造主義とは理論というものは正しさや確かさを検証することができない、という考え方です。
ですからある理論を他の理論に対して特別なものと見なすことはできないと考えます。
もちろん「正しさ」や「確かさ」の意味を細かく説明しないといけませんがざっくりいうとそういうことです。

構造主義は事物の現前の生成する仕組みを説明する理論です。
構造主義以外に事物の現前を説明する理論に素朴実在論があります。

素朴実在論は単純で自然で直感的な理論です。
「事物が実在するから我々の精神現象として事物の現前が生じる」というものです。

構造主義的存在論/認識論、まとめて構造主義的哲学と素朴実在論は理論であり、相互に独立の理論ですので、どちらかしか成り立たないこともあれば、両方成り立つこともあれば、どちらも成り立たないことも可能性としてあります。

存在とか認識とは何か、を明確にして思考やコミュニケートする必要にする場合にはどの理論的な立場に立つのか明確にしないと存在や認識について正確な思考もコミュニケートもできません。
ですから現代哲学を現実適用する場合には構造主義的哲学と素朴実在論に対する立場をその都度意識する必要があります。

これが現代哲学の現実適用の大前提です。
この大前提に基づいてさらに具体的な適用方法を考える際に導入すると便利なのが「自分」と「自分に関係するいくつかの概念」です。

第2章 自分は特別

素朴実在論を否定して構造主義的哲学を肯定する立場を取ると、全ての「事物が実体を持つ」とか「事物が実在する」という命題は棄却されます。
実在の代わりに使われる言葉として現代哲学で適当なのは「差延」とか「シミュラークル」という言葉かもしれません。

現代哲学と仏教は同じ思想です。
現代数学では「無定義概念」「無定義語」、仏教では「無常」「空」などが実在に代わる言葉の候補でしょう。

「無我」という言葉も使われます。
「諸行無常、諸法無我」などと用いられ、無我と言うと全ての存在に我が実在しないということになります。

現代哲学や大乗仏教の空論では我だけではなく全ての存在の実在を「否定する」のではなく「無視する」「留保する(アポケーする)」理論ですので「無我」という言葉は事物の存在の中で「自分」だけを特別視する言葉になっています。

「自分が存在しない」ことに理解できれば「全ての事物」「全ての存在」が実在しないことも簡単に理解できます。

しかし敢えて「無我」についてはお釈迦様にとっては「自分」が実在しなければ十分だったのであり、仏教の教理もやはり「自分」が実在しなければ十分ですので無駄がなく謙虚で控えめな結論だけ示したと言えます。

「苦しみから解放される」という仏教の目的にとっては「無我」だけで十分です。
「無我」であって他の事物が実在しても理論上矛盾は生じません。

構造主義的哲学も素朴実在論も両立しうると上述したことを思い出して下さい。

これにはいくつもの解釈が可能で「全ての事物が構造主義的哲学と素朴実在論に当てはまる」場合もあれば、あるいくつかの事物については構造主義が成り立ち、それ以外の事物については素朴実在論がなりたつ」場合もあるとあらゆるケースの可能性を想像力を膨らませて考えるのが理論的には正しい態度です。

第3章 現代哲学を用いた実践理論の作成

試行錯誤して作り上げることをフランス語でレヴィ・ストロースは「プリコーラージュ」といいました。
何かを作る際には創意工夫と試行錯誤が必要でしょう。

現実とは自分や他人や色々な事物や外的環境あるいは内的環境で成り立っており、そのすべてをひっくるめて現象と言い、現象の中で注意により意識されて実体感を持つものを現前と言います。

別に特別な理由があるわけではありませんが現前を「自分」と「自分以外の現前」に分けて考えます。
現象学者で実存主義哲学の大哲学者ハイデガーは「自分」を「現存在」という特別な言葉で表し、他の存在者(≒現前)とは違う名称を特別に付けました。

我々も先人の知恵にあやかってみましょう。

現代哲学的に現実を生きることを考える際に現代哲学その物以外に加えておくと便利なのは

「自分」「主体性」「自主性」「選択」「実践」「メタ認知」「記憶」「自覚」など

別に自分とそれ以外を分ける必要はないかもしれませんが、あとで分ける必要がないと分かれば分けるのを止めればいいだけです。

生きるということは一瞬一瞬刹那的にある種のスポーツをやっている場合の如く十分な思考や決断の自覚なく運動の選択を行っている場合もあります。
その時は「自分」と言う感覚や自意識なく行動しているでしょう。

現代哲学を前提にするとその時に採用している、理論、思想など大仰ないいかでなくても考え方や思考パターンをある程度意識しているような生き方ですので上のような反射的なスポーツをやっている時のような場合に比べると頭の中がどんくさくなるかもしれません。

自分が何の考え方に従って思考・行動しているかを把握し、考え方を切り替えた場合、切り替えた場合にもそれを自覚します。
ある知殿記憶力が継続的に働いていることになりますし、現在対処している現実的な反応や対処に対して脳を働かせることの他に、いつでも自分の状態を第三者的、客観的に認識できるようになっているということでもあります。
意識や注意が現実的なことの認識にも、自分の考え方や思考パターンの把握や切り替え時の思考にも向けられるようになっていることになります。

これはある種の意識の問題だとも言えます。

そして意識と自分は関りが深そうです。
伝統的な精神医学では精神を知情意に分けて意を独自に研究します。

精神医学では意識する主体を自我、意識される客体を自己と自分を分けることがあります。
自我心理学と言えば防衛機制、すなわちストレスに対する心の反射を扱います。

自己心理学と言うのもあり心の問題を自己愛の障害として扱い、心理発達において自己愛形成に関係する要素、鏡対象(母など)、理想化対象(父など)、双子対象(友達や仲間)との自己対象転移(自己愛転移)というものを使って分析し治療します。

また意識には方向性と清明度と範囲などがあると考えます。
方向性は注意の方向や注意力の分散機能などです。
清明度は意識の覚醒度や睡眠状態、意識混濁や気絶や昏睡のような意識消失などです。

意識の範囲は意識野と言います。
狭ければ意識狭窄と言いますし、スポーツ選手がゾーンに入った時のように意識野が通常体験しない程広くなる場合もあります。

仏教では人間の感覚を細かく分類しますが、深さを持った階層構造と捉えるとともに一番表層にある感覚は六感と呼ばれ、現代の五感と呼ばれる視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚に加えたもう一つの感覚であると考えます。
意識の正常性について考える方が分かりやすいかもしれません。

これは精神医学で研究されますが、精神科以外でも様々な医学領域で意識の障害の問題が取り上げられることがあります。

第4章 自分と意識

現実を問題にする場合には自他の区別が問題になります。
どの精神要素が自分に所属しているか、あるいは自分に所属している様に感じられるか、他者に所属しているか、あるいは他者に所属している様に感じられるかなどは明瞭ではありません。

現代哲学者で精神医学者ジャック・ラカンの理論では、ego(自我)、autre(小文字の他者)、Autre(大文字の他者)、Es(エス、イドやリビドー)、無意識、想像的関係、が独特に関わりあって「自分」や「現前」の認識を生じます。

精神科医療で頻繁に見られる精神病、特に統合失調症では自他が不鮮明になったり逆転したりその他多くのことが生じます。
精神が異常だから生じるのではなくこれは異常でなくても機会がないだけで誰でも生じ得ます。

精神科では自我障害というものがあります。
更には実体意識性の障害というものがあります。

前者は自他境界が精神的に失調することで、例えば自分が考えていることを他人が考えていると感じたり、自分の行動を何かから操られていると感じたりします。
実体意識性の障害はないものやいないものを入ると感じたり、いるものやあるものをあると感じなくなったりします。

実体感や実在感、自分である、あるいは自分の一部であるという意識や自分でない、あるいは自分の一部でないという意識は精神現象や現実世界と関わるうえで無視できない要素です。

主体性や自主性という言葉があります。
主体の反対は客体でしょうか。

主体は自分が主であるという感覚で客体は他者が存在しかつ自分でない他者がその他者の主人であるということです。
自主性は自分が自分の主であり他のものが自分の主ではない、すなわち思考や行動を支配しないということです。

自分の意識や主体性が極端に大きく高まり広がると「世界はわが心の現われであり、行動により世界に影響を与えて変化させるのが偽であり、世界の全てのことは自分が引き受け受け入れる」ような陽明学のような唯心論になります。

他方で主体性が極端に低くなると何かに狂信的で自分で考え無くなったり、精神が奴隷的になったり、実存哲学でいう畜群や頽落と言った没個性な状態や付和雷同、大勢順応、迎合、曲学阿世と言った状態になります。

この両極端な姿勢の間に色々なレベルの自主性、主体性の状態があり状況によりそれをコントロールできると良いでしょう。

現代哲学の大前提であるポスト構造主義や構造主義的哲学、素朴実在論などを理解しながら考え方や思考パターンの決定、思想や理論やイデオロギー選択を行いそれに従う場合にはある程度以上の意識レベルの高さや主体性、メタ認知能力や自覚の発揮が必要になるでしょう。
精神的緊張やエネルギーを要することになります。

他方で精神的に緊張が極端に低くなったり心的エネルギーが減退した場合には解離性障害と言う病態を発するという説があります。

おわりに

自分と言う意識を持ち、自主性と主体性を持ち、自分で考え、判断し、決断し、行動し、その結果を自分自身で受け入れる、ということを行えるのが近代的な主体であり、近代的人権概念が想定した人間です。

正常であってこれが行えないと尊敬されないか社会が悪いということになり、病的な状態に精神がなりこれが達成されないと精神障害による心身消失や心神耗弱と鑑定されて犯罪を犯しても罪が減刑されたり無罪になる場合もあります。

時に異常と正常の区別は人間の理解や可能性を阻害します。
差別とかではなく異常と呼ばれているものを知ることで正常のより深い奥行きを理解できるからです。
自分というものは現代哲学の大前提から構成できるものです。

構造主義(あるいは形式主義)的に思ったより簡単に構成できるはずなので、現在のAI研究の速度が速さは驚くにあたりません。
「人間はコンピュータではない」とともに「人間はコンピュータである」という見方もできるといいでしょう。

命題はその否定命題とともに両方の見方を同時にする、これが現代哲学のテクニックでもあります。
現代哲学をマスターして色々な技術を開発すれば格段に生きやすくなりますし頭もよくなります。
物の見方、考え方が爆発的に増えるからです。

但しそれを使いこなす「主」、多くは「自分」について考えておくと便利です。
実存的世界の中では我々は色々な目にあいます。
時に自分の行動の結果を自分で享受することになります。

幸せになるためには苦しむより楽しむ方がいいでしょう。
そのために自分を使って結果を変えられるのです。

「自分」「自主」「主体」「自覚」などをシステムとして組み込む現代哲学の利用法以外にも組み込まないシステムも作れるかもしれません。
それは試行錯誤して自分で作ってみればいいでしょう。

自分というものは自然であるとともに人工的なものでもあります。
現代哲学を現実に利用するということは結局何を作るかです。

今回は「自分」と「自分」を組み込んだ現実的思考行動システムについて一例をあげてみました。

2022/05/10

究極にやさしい現代哲学のお釈迦様と仏教入門

はじめに

日本人であればだれでも一度はお釈迦様とその教えのことを勉強するでしょう。
しかし「良く分からない」「分かるような分からないようなはっきりしない気持ちがする」「だから何?」という感想を持った人が多いかもしれません。
「分からない」のならいいのですが「何が分からないのか分からない」「分かったような気がする」という人も多いでしょう。

お釈迦様の教えは重層的です。
この場合、“難解”と言うことではなくて、“誰にでも入りやすい様になっている”“色々な意図や目的を持っている”と言う意味です。

お釈迦様の仏教の主要概念についてはその存在意義を理解していた方がいいのでまとめました。

第1章 仏教の文献

お釈迦様の仏教を理解するためにはお釈迦様の人生を大雑把でいいので知っておいた方がよいです。

教相判釈という言葉があります。
略して教判といいます。

「判釈」は文字通り釈迦を判断、判別するということでしょう。
教相は教えの相、つまりいつ説かれたのか、誰に対して説かれたのか、どういう意図でとかれたのかを研究します。

それに加味して仏教は世界の中で文献学や書誌学が最も早く成立した分野でしょう。
文献は文献を生み注釈は注釈を生みます。

仏典を経蔵、論蔵、律蔵などと分類し経蔵を釈迦の勤行録、論蔵を注釈などと分類しますが、切ったり張ったり解釈したり増補したり削除したり文献同士をくっつけたり文献が失われたりして残された文献群はどんどん変化していきます。

ここからオリジナルの部分やどの時代のどの場所で作られた文献かなど研究していくととてつもなく複雑です。
口伝からインド諸語、サンスクリット語、中国語、その他いろいろな言語間の翻訳もあり翻訳論も複雑です。

ですから文献群を収集したり整理したり偽経と判断したりするのが国家事業となって三蔵法師が天竺にいったり、全ての仏教教典をあつめて大蔵経として編纂します。

また教相判釈というものも生まれます。
天台宗の五時八教説などは有名です。

第2章 お釈迦様の人生

お釈迦様はインドの小国の王子様です。
お釈迦様は苦しむのが嫌いでしたので自分がどうしたら苦しまなくなるかを考えました。

お釈迦様の時代には輪廻転生が信じられていたので、死んで終わりではなく生まれ変わります。
ですから死んだら苦しまなくなるわけではなく、生まれ変わった後にまた苦しむ可能性がなくなりません。

お釈迦様はそれが嫌でした。
ですから苦しまない方法を見つけて習得するために修行をはじめました。
その結果苦しまない方法を発見し身につけることに成功しました。

この段階でお釈迦様は一旦死んでしまおうとなさったのですが、思い直して自分の見出した方法を世の中に広めることにしました。
そして仏教と仏教教団を作りこの世を去りました。

第3章 因縁や縁起は哲学

お釈迦様が悟れたのは日本でいう縁起というものを悟ったからです。
正式名称は十二因縁生起、略して因縁です。
因果はまた全然別の意味のですので混同しないようにしましょう。

十二因縁生起の表すことはお釈迦様の悟った時とは違う方法でも悟れると思われます。
経典の中にも十二因縁生起以外の縁起の説明があるようです。

お釈迦様が悟ったことはお釈迦様の言葉でいうと「無常」「無我」になると思います。
「悟った」という言葉を使っていますが、「理解した」に置き換えても構いません。

「解脱」という言葉が使われますが、これも「悟る」と同じ意味合いで使われます。
「解脱」は二度と「輪廻転生しなくてよくなった、輪廻転生から脱した」という意味合いでしょう。

実際にはお釈迦様は「輪廻転生というものは存在しない」という考え方に納得したと解するのが正確です。
お釈迦様が成し遂げたのは「十二因縁生起」という理論を作ってそれに自分自身で納得し満足した、ということです。

これはあくまで理論です。
「論」ですから言葉では言い表せないものでも不立文字でもありません。
きちんと言葉で説明することができる合理的体系です。

理ですから矛盾もありません。
理論として整合性を持っているということです。
無矛盾とも言います。

論理といくつかの前提を用いることで誰でも同じ結論に到達できます。
これは現代数学や現代自然科学などの科学の精神と一緒です。

ある定理を証明するのに証明の仕方は必ずしも一通りではありません。
釈迦は十二因縁生起で説明しましたが、後代の大乗仏教の祖、ナーガールジュナや天台宗の中興の祖智顗は空論でそれを説明しています。

現代数学の形式主義も同じことを説明していますし、現代哲学の構造主義的な認識論や存在論であるラカンの理論も同じことを説明しています。

普通の歴史のある宗教などでは思想の核心の理論が時代と共に変化していきます。
仏教は核心が変化することがありません。
お釈迦様の悟ったことは哲学的存在論と認識論の完成形だからです。

西洋の現代哲学もお釈迦様の悟りと同じ内容なのでやはり西洋哲学の完成形です。
インドにおいては西洋現代哲学に先立つこと2000年以上前に西洋哲学を終着点と言える思想が完成していたのです。

歴史上東洋哲学のごく早期に哲学の完全形を作り上げていたため東洋思想は仏教の影響を受けざるを得ませんでした。
西洋哲学の最後に出来た完全なものが東洋哲学においては倫理思想の歴史の初めにあるのです。

これを指して仏教は宗教ではなく哲学であるという人もいます。
実際にお釈迦様を悟りに導いたのは倫理や思想ではなく西洋的な意味での存在論と認識論からなる哲学でした。

第4章 死か布教か

お釈迦さまは悟った後、死のうと思いました。
教典をみるとその時点ではお釈迦さまは中を悟った形跡がありません。
ということは自分が悟った内容こそ正しいと思ったと思われます。

お釈迦様の悟った理論から導かれるのは輪廻転生も魂も霊もないということです。
ですから死んでしまえば二度と苦しむことはなく苦から完全に逃れることができます。

お釈迦様の目的は達成されました。
しかしお釈迦様に迷いが生じます。
自分の悟ったことを人々に広めるべきではないかということです。

結果はお釈迦様は死ぬのをやめて自分の悟ったことを人々に広めることにしました。
お釈迦さまの教えを広めるということは単純にいえば縁起の考え方を広めるということです。
あるいは別のやり方で同じことを結果的に理解してもらわなければなりません。

十二因縁生起を直接理解するのは大変むずかしいです。
お釈迦様は縁起や無常無我を別の表現でも説明してますが、そこからお者様の悟ったことの深い意味まで達するのもやはり難しいです。

悟りの核心を理解してもらうという中核的なことの他に教えを広めるということはそのための体制を結果的につくることになります。
ですから仏教教団を作り、学びを求める人を教える仕組みを作らなければなりません。

お釈迦様に手取り足取り教えてもらえば一番ですが、組織が大きくなるとそれが難しくなります。
そうなると仏教の内容を学べる内容だけでなく教団の育成と維持のための説法も必要になります。

第5章 四諦説法

仏教を全く知らない人に仏教を説明するには仏教の概観を示すのが良いでしょう。
お釈迦様は四諦と言う形で教えの内容と方針をまとめています。

四諦とは苦諦、集諦、滅諦、道諦の4つからなります。
「諦」とはこの場合真理と同じように考えてください。

苦諦とは苦しみがあることを示します。
集諦は苦しみには原因があることを示します。
滅諦は苦しみを滅ぼすことができることを保証します。
道諦は苦しみを滅ぼす方法があることを保証します。

哲学的にはお釈迦様の悟りの内容は存在論や認識論についての最終的な結論を示す哲学と考えることができますが、お釈迦様の教えのテーマは「苦しみから逃れること」と限定しています。

四諦自体は教えの具体的内容を示していませんが、仏教の教義や教団の目的を「苦から逃れること」に限定しています。
西洋哲学の言い方でいうと仏教とは実存哲学であるとお釈迦様は宣言しているわけです。

ですから仏教は後の西洋哲学に影響を与えます。
典型的なのはニーチェでしょう。
ニーチェはお釈迦様を明確に意識しています。

ニーチェの思想の内容も見方によってはお釈迦様に似ています。
欧米の高級インテリは19世紀以降仏教の多かれ少なかれ知識があったのでしょう。

四諦自体は仏教の外延的な説明で具体的な内容を示していないので一部に見過ごされがちです。

第6章 八正道

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定からなります。
仏教における正しい生き方です。
四諦も見過ごされがちですが八正道も見過ごされがちな考え方です。

これも四諦のように仏教の一番必要な内容である縁起や無常無我について直接的にも間接的にも何も言及していない、仏教の核心とは関係ない教えです。
実際、お釈迦様の悟りの場面では四諦や八正道は出てきません(出てきていたらごめんなさい)。

お釈迦様が自分自身が悟るためには四諦も八正道も必要ないからです。
布教の段階になって教えの内容を説明するために出てくる概念でしょう。

四諦がお釈迦様が教える内容を大まかにまとめるものであるとすれば、八正道は仏教において人はどう生きるべきかを示しています。
これは四諦の道諦など考えれば悟るための方法、修行の方法の様に見えます。

但し「正しい」の内容が定義されていないので実は内容がありません。
仏教における「正しい」何かを理解するためには悟る必要があるのです。

ですから八正道はやはり四諦と同じように仏教のアウトラインです。
内容がありません。

それと共に修行のための方法と見なされることが多いと思いますが、悟った人の実践道徳と言えます。
大乗仏教においては「空」や「中」の概念を習得してしまえば悟ったことになります。

悟った人の実践道徳はその人の自由にすればいいだけであり、どんな行動を取ろうとそれで悟っていないことにはなりません。

縁起から直接「正しい何か」を導き出すこと、演繹することは大乗仏教の理論構成上ありません。
ですから大乗仏教はほぼ縁起を理解するための哲学になります。
これも仏教が宗教ではなく哲学と言う人がいる所以です。

第7章 中道

これも初転法輪、つまり釈迦が布教を始めて以降加わった概念です。
釈迦が自分が悟ったと感じたときのその内容は大乗仏教でいうと「空」になります。

釈迦が悟った時の記述には中道はありません。
実際「空」で納得すればやはり輪廻転生や魂の否定にも納得しますから釈迦の目的は達せられます。

釈迦がどの時点で中道に気が付いたのかは分かりませんか、悟った時から何となく感じていたか、不況の際に気が付いたかであると思われます。
厳密に考えると空も一つの仮説であってそれが現実に正しいかどうかは何も結論できません。
空である可能性もあれば空でない可能性も同様にあります。

釈迦は論理的思考や形式的思考にたけていたことは初転法輪の説法の仕方から見ても間違いないと思います。
論理的に考えると空である可能性と空せない可能性はどちらもあるのでどちらの見方もできる様になりなさい、というのが中道です。

現代的に言えばポスト構造主義の思想の相対主義です。

第8章 思考と禅定

空は難しく中道は簡単です。
空が難しいのは実在論のバイアスがかかっているからです。

我々は普通事物が実在するという先入観を持っています。
事物が空であるという感覚はしばしば誰にでも訪れることがあります。
しかし実在論を完全に排除して空を一般化する理論を作ろうとするととんでもなく難解になります。
人類における最大の難問の1つと言えたでしょう。

ひとたび何らかの方法で空を一般化することに成功すれば、それを説明する方法はあとからなら後付けでいくらでも作ることができます。
この一般化は思弁においてでも直感的、感覚的においてでも構いません。

普通は思弁と直感両方を要すことが多いと思います。
直感的、感覚的に空を理解する方法としておそらくお釈迦様は禅定を考えていたでしょう。
大乗仏教ではナーガールジュナの中観派のあとに発展した瑜伽行唯識派が空の理解のための禅定を重視したと思います。

現代哲学の構造主義的存在論や認識論は空の思想と同じですが、この構造主義的哲学を初めて自覚的に理論化、体系化したのは精神科医、精神分析家のジャック・ラカンです。

禅定が必要と言う意味は内省や内観が必要ということです。
つまり自分の内部、精神の観察が必要ということです。
精神科医や精神分析学者は内省や内観のプロと言えます。

あるいは現代では古代より空を一般化する直感を得たり理論を作るための材料が豊富に存在します。
実際現代哲学の構造主義的哲学は複数の学問領域から影響と受けて色々な要素を受け取って作られています。
現在は科学的資料や学問の集積があるため、禅定がなくても純粋な理論家でも空を一般化することができる時代になっているのかもしれません。

一方禅定だけで空の一般化に成功してもそれを維持するのが難しい可能性があります。
自分の中でその感覚を忘れてしまうかもしれません。

ですから理論化しておくのがいいのですが、言葉の能力、思考力、論理的能力が備わっており、かつ運がよくないと理論化ができない、あるいは失敗する場合も多いでしょう。

おわりに

仏教と現代哲学の核心は同じものであり、お釈迦様は十二因縁生起、ナーガールジュナは空論、天台智顗は三諦論、ジャック・ラカンのシェーマL、ジャック・デリダの理論といろいろあります。
これは時代を下るほど簡単になっていきます。

現代では仏教をマスターするのに必要なのは修行ではなく勉強です。
出家する必要はなく本を読めばいいのです。
ただある程度努力は必要です。

現代哲学は難解の様に思われることがありますが、実は現代哲学よりはそれより前の哲学の方がきちんと理解しようとすると難解です。

哲学者自身も気付かない先入観や認知の偏り・歪みがあったりするのですがそれを説明もなく前提としているので何を言いたいか分からない場合があります。
どこかで筋が通っていなかったりするため突然それを解消するために納得できない前提を差しはさんできたりします。

仏教や現代哲学にはそれがありません。
完成しているからです。

実際西洋哲学と言う学問は学問の進歩と言う意味では終わった学問です。
新しい哲学者が新しい哲学を唱えても応用哲学や哲学史に過ぎません。
ですから現在は哲学科ではなく倫理学科の方が一般的でしょう。

倫理は哲学を含めた思想全般を研究する学問です。
高校の社会科で哲学はなく倫理があるのはそのためです。

フランシス・フクヤマという学者が社会思想における歴史の終わりの概念を唱えたことがありますが、個人の哲学においてはやはり哲学は終わった学問です。

終わっているということは完成しているということで、他の科学のように完成することがない学問と違いますから、全ての人が現代哲学か仏教を必修として学ぶのが良いでしょう。