月別: 2021年7月

2021/07/25

超簡単な仏教入門

超簡単な仏教入門

はじめに
 仏教はお釈迦様によって開かれました。お釈迦様はインドの人です。インド人は合理的です。ですから仏教は合理的です。仏教が合理的でなく見えるのであればそれは仏教であるのか疑ってかかる必要があります。

 合理的なものは簡単です。たとえ複雑に見えても少数の原理、原則の組み合わせにすぎません。

 仏教の原理原則とは空と中の概念です。お釈迦様から大乗仏教の創始者ナーガールジュナ(龍樹)、現在の大乗仏教諸派に共通する原理・原則はその2つだけです。その他のことは仏教の本質とは関係ありません。

 この空と中の概念は現代哲学の構造主義とポスト構造主義の概念にそのまま相当します。東洋思想である仏教の根本と西洋哲学の終着点である現代哲学が同じものであるわけです。

 現代哲学は現在の人文・社会科学だけではなく数学や自然科学と技術の基礎です。仏教と現代哲学は人類の到達した同じ終着点です。現代哲学を習得するとこと仏教の根本を理解することは道義です。現代において何か真理みたいなことを知りたいと思えば仏教を理解すれば十分です。

 現代においては簡単とは短く短時間で理解できることであるべきです。中と空をいかに簡単に理解できるか、これが現代仏教の課題であるべきはずのことです。本書では中と空を極少かつ分かりやすく説明します。


序論 般若心経

 般若心経と言われるお経は

 色即是空 空即是色
色不異空 空不異色

 有名な般若心経の一節です。
「色は空でもあり、空は色でもある。色は空と異ならない、空は色と異ならない」と読めます。

 これは仏教の「中」を表しています。中とは中観とも言います。「色を空とも見ることができる、空を色とも見ることができる」「色と見ることは空と見ることと矛盾しない、空と見ることは色と見ることと矛盾しない」ということを表しています。

 物事を空と見ることを空論といいます。物事を色と見ることを戯論(あるいは仮論)といいます。有名な上記の文句は「物事は2つの見方で同時に見ることができる。空論で見ることもできるし、戯論で見ることもできる」ということを表しています。この考え方を中論、あるいは中観論といいます。

 なぜこういうことを言いたかったのか?
 例えばこの章句をそれぞれ否定にしてみましょう。

 色即是非空 空即是非色
 色異空 空異色

のような形になります。これは「色は空ではない、空は色ではない。色と空は異なる、空と式は異なる」となります。これは「空論と戯論は両立しない」という意味にも受け取れます。

 空論は人類における一大発明でこれを理解すると戯論を否定して空論のほうが正しい、という考え方に陥りがちです。

 空論を最初に想像したのはお釈迦様です。お釈迦様が菩提樹の下で最初に悟った内容は空論です。この時点では中観論に対する記載が仏典になくお釈迦様が中観論を理解していたのかどうかは分かりません。この時点より後の経典を見てもお釈迦様が中観論を理解していたのかどうかははっきりしません。お釈迦様が説いたのは「中道」という考え方ですがそれが中観論と同じものと思われますがはっきりしません。はっきり中観論を説いたのは大乗仏教の第一祖ナーガールジュナ(龍樹)です。

 空論は斬新な考え方でこれを理解したり思いつくと戯論を否定してしまいがちです。現代哲学では空論は構造主義に相当しますが構造主義がブームだった時には戯論と大体同じ内容である実在論や素朴実在論、モダニズムの哲学を否定する動きが起こりました。
 空論と戯論は本来どちらかが成り立てばどちらかは成り立たないという背反の関係ではありません。どっちも成り立つ場合もあるし、どちらかだけが成り立ち他方は成り立たない場合もあるし、どちらも成り立たない場合もあるという独立の関係でとらえるべき理論です。
 空論や構造主義のセンセーショナルさに惑わされて空論や構造主義の絶対化から相対化に進むにはやや時間がかかる傾向があるようです。
 では中観論や現代哲学で中観論に相当するポスト構造主義で相対化される空論や戯論(現代哲学では構造主義や素朴実在論)とは何でしょうか。

第2章 お釈迦様とデカルトの悟り
 空論を理解するために人類の偉大なる2つの悟り、お釈迦様の悟りとデカルトの悟りを比較してみます。

・デカルトの素朴実在論
 デカルトは事物の存在の確実さと存在する事物に対する認識の正しさを追求し、“cogito ergo sum(我考える、故に我あり)”という答えに行きつきました。これは仏教の戯論と哲学における素朴実在論の典型的な例になります。ここで短く西洋哲学について説明します。西洋哲学は事物の存在と認識の正しさや確かさについて研究する学問です。ですので西洋哲学は存在論と認識論から成り立ちます。実在論という言葉を使いましたが中世の神学では実在論とはイデアが実在するという理論でした。イデアとは事物の本質という意味で事物自体は本質ではないという前提が背景にあります。それと区別して素朴実在論とは事物は確実に存在するし、人間は存在する事物をありのままに正しく認識できるという考え方です。これは時代や場所を問わず大人が普通に持っている考え方で意識するしないに関わらず当たり前のこととされています。デカルトはこの当たり前のことを裏付ける考え方として”我考える、故に我あり“に到達しました。言い換えると素朴実在論を正当化し絶対化するための考え方です。

 この言葉を分析します。デカルトはまず自分が存在することの根拠を自分が自分自身を認識できることに置きました。自分がリアリティをもって自分の自我を感じられるので自分が実際に存在することは間違いないと考えました。そして人間は自分自身をありのままに正確に認識できるとデカルトは考えます。少なくとも自分自身については素朴実在論は成り立つと考えます。そこからさらに発展させて全ての認識されるものは実際に存在しているから認識されるのだし、その実在するものに対する正確な認識も間違いなく行えると考えます。そして最後にそうした考え方の正しさを保証するのは「神が誠実だから」と考えます。ついでに要素還元的方法論、全体としては複雑でよく分からないものでも、部分に聞関して部分ごとに理解して元の通り組み立てなおせば全体も正確に理解できると考えます。このデカルトの考え方は近代哲学の原点とされます。確かに「神の誠実」という考え方が唐突に出てくる点を除いては素朴実在論的な感覚をよく説明した理論です。近代哲学のみならず近代の思想はこの素朴実在論を前提として成り立っておりモダニズムと呼ばれます。素朴実在論について繰り返しますと素朴実在論とは事物が確実に存在し人間には存在する事物をありのままに正確に認識する能力があるという考え方です。仏教では素朴実在論は戯論(仮論)と同じものです。

・菩提樹の下でお釈迦様の悟ったこと
 西洋哲学のデカルトは存在論と認識論について考えましたが、お釈迦様が解決しようとした問題は自分がいかに苦しみから逃れられるかです。お釈迦様にとっては生きていることも苦しみでした。あるいは生きていていいこともあるかもしれませんが老いや病や死から完全に逃れることはできません。お釈迦様は永久に苦しみから逃れられる方法を考えました。死ねば苦しむことはないかというとインドでは輪廻転生が信じられていて死んでもまた生まれ変わるのでやはり苦しみから完全に逃れられることはありません。

 お釈迦様がこの問題を空の理論によって解決しました。輪廻転生は輪廻転生をする実体を前提として成り立つ考え方です。実体とは例えば魂とか霊魂などで肉体は滅んでも魂や霊魂が輪廻転生を繰り返すと考えます。お釈迦様が悟ったのは「魂や霊魂は存在しない」ということです。輪廻転生する実体が存在しないとなると輪廻転生の考え方自体が成り立たなくなります。お釈迦様は輪廻転生をするもの、つまり人間(や生き物)とは何かについて考えました。ここでお釈迦様はデカルトのように人間を要素に分解して考えてみました。お釈迦様の分析では人間とは五蘊から成り立ちます。五蘊とは色(物質的要素)、受(感覚)、想(表象)、行(潜在意識)、識(意識)から成り立ちます。ではこの中で輪廻転生するのは何か?お釈迦様の考えではこの五蘊の何が欠けても人間ではありません。例えば死んだら肉体はなくなります。とすると色を除いた受、想、行、識のどれかが輪廻転生する実体なのか?もっと突き詰めると実体があるという前提は正しいのか?あらゆる可能性を場合分けして論理的に考えればこれらの疑問について検討しなければいけません。お釈迦様は論理的考察や瞑想による内省を通じて精神的要素である受、想、行、識を分析しました。その結果、五蘊のいずれも実体であるとは言えない、そもそも実体というものはなく五蘊のいずれも空である、魂も霊魂も存在しないし、そもそも人間自身が空である、という考え方に到達しました。これを五蘊皆空といいます。

 すると次にでは我々が実体と思っているものは何なのか、なぜ我々は空を実体と勘違いしてしまうのか?という疑問が生じます。この疑問に答える理論を十二因縁生起、略して因縁といいます。無明より行が生じ、行より識が生じ、識より名色が生じ、名色より六処が生じ、六処より蝕が生じ、蝕より受が生じ、受より渇愛が生じ、渇愛より取が生じ、取より有が生じ、有より生が生じ、生より老病死が生じる、この生成の関係を十二因縁生起といいます。これによりお釈迦様は世の中の全ての事物を空として見ることができるようになりました。これは素朴実在論とは本質的に異なる見方であり空論といいます。

 最初に返って輪廻転生する実体がないのですから輪廻転生というものは存在しない、つまり死んでも生まれ変わらないので死んだらおしまいである、つまり死により苦しみから逃れられることをお釈迦様は悟りました。これを輪廻転生の輪から逃れたという意味で解脱といいます。よく誤解される点としてお釈迦様は悟ったことで輪廻転生の輪から逃れることができたという解釈がありますがこれは誤解で、実際にはお釈迦様は輪廻転生自体が存在しないことを悟ったのです。ですからお釈迦様は苦から逃れるという自分の問題を解決したのでこのまま死んでもいいやと死んでしまおうとなされますが、自分が悟ったことを世の中に広めようと思いなおして余生を布教に費やしました。
ここまで見てもお釈迦様はちょっと人類史上に他に見当たらないくらい天才だと思います。もちろん修行中にいろいろな学派の人々に学んで修行したことが記載されていますのでお釈迦様一人で一から全て築き上げたのではないのかもしれませんがそれでも洋の東西問わずちょっと比肩することのできない天才だと思います。

 にもかかわらずお釈迦様の天才性はここで終わっていません。ここまででお釈迦様が悟ったのは空の理論、空論です。その後のお釈迦様の言行録を記した経典から察するにお釈迦様は中、同じことですが中観の理論も悟っていたと考えられます

・デカルトとお釈迦様の比較
 デカルトの理論は素朴実在論の一つの形です。自然に人間が抱いている、あるいは発達の過程で身に付ける素朴実在論的感覚を正当化するために理論構築されています。

 一方でお釈迦様は身についた素朴実在論とは全く異なる理論を構築しています。その空の理論はなぜ人間が素朴実在論を抱いてしまうのか、事物が確実に存在すると思うのか、事物が存在するとしてそれを正しく認識できると思うのか、までを完璧に説明しています。また実体や実在の代わりに空を置くことで素朴実在論に代わる合理的な存在論や認識論を構築することに成功しています。空論があれば素朴実在論はなくてもいいのです。ですから空論は素朴実在論批判に使用できます。実際に西洋哲学の歴史では近代より後の哲学、ニーチェのような現代までの過渡期の哲学や構造主義が素朴実在論をモダニズム批判という形で徹底的に批判しています。こうした過渡期以降の近代思想批判の哲学は空の理論と近縁な理論です。

 しかし実際には素朴実在論も空論もどちらが正しいということも間違っているということもできません。どちらもただの理論に過ぎません。あるいは一つの説、または仮説に過ぎません。更には素朴実在論と空論は背反した理論ではなく独立した理論です。つまりどちらかを立てればどちらかが立たないということはありません。両方が同時に成り立つことも可能です。どちらかが正しくて他方を批判する道具にするという性質のものではありません。他方の理論を批判したところで特に自分の理論が正しいという根拠もないので虚しさしかありません。無理筋というか無理無論、それこそ空理空論で目糞鼻糞を笑うが如しです。

 この点を整理するのが中論、中観論になります。


第3章 中と中観の理論

第2章までで空論をお釈迦様で戯論をデカルトの素朴実在論の例で説明しました。

 後に大乗仏教の創始者ナーガールジュナ(龍樹)はお釈迦様の悟りの内容を抽出し空論と中観論としてまとめました。更に時代が下って中国仏教の中興の祖である天台智顗は中観論を中論とし、素朴実在論である戯論(または仮論)を加えた形で中論、空論、戯論の3つの理論からなる三諦論としてまとめられます。

 空論と戯論は西洋哲学における存在論と認識論に関する2つの理論です。中論は空論も戯論もどちらかに偏ることなく両方の見方ができるようにせよ、という理論です。この理論もやはりお釈迦様が由来だと思われます。それはお釈迦様の中道の考え方です。どちらにも偏るなという考え方です。空はインパクトが大きく一度理解すると空論を絶対化し極端や過激に走りそうですが、どちらの考え方も絶対といえる根拠がなく仮説に過ぎず、更に両社は背反ではなく両立させることが可能であることを説いています。

  中論は西洋哲学におけるポスト構造主義の理論に相当します。ポスト構造主義はイデオロギーに関する相対主義でどんなイデオロギーもそれが正しく確かであるという客観的根拠はないという考え方です。客観的でなければ主観的にはあるイデオロギーを正しく確かであると個々人が思うのは勝手ですが、他人がそのイデオロギーを正しくも確かでもないと思うのは普通のことだということです。万人が正しく確かであるという根拠があればあるイデオロギーを絶対化できますがそのようなものは普通はないという事実を認めた考え方です。イデオロギーを世俗の生活に影響を及ぼすか及ぼさないかで区別するとポスト構造主義はイデオロギーについてのイデオロギーであって世俗の生活に影響を及ぼすものではありません。そのためメタイデオロギーと呼んで世俗の生活に影響を与えるイデオロギーと区別します。ポスト構造主義の立場から言えば全てのイデオロギーは絶対性がありません。相対的なものなので相対主義といわれます。中論も同じです。中論を受け入れるとイデオロギーというのはどれもただの選択肢でしかなくどれを選択するかは完全に自由です。選択する人間の主体性、自主性、自覚、メタ認知が重要視されます。中論はメタイデオロギーになる一方、空論や戯論は対象を考える際の2つの異なる考え方を提供してくれる一方で既に世の中にあるイデオロギーが空論に基づいて作られているか戯論に基づいて作られているのかを系統分類するのに役に立ちます。特に西洋哲学の分類に役に立ちます。


おわりに
 空論、中観論はお釈迦様から現代の仏教各派を貫く仏教の根幹です。この2つがあれば他がどんなに仏教に見えなくても仏教といえますし、この2つがなければいかに見た目が仏教のように見えようと仏教とは言えません。空論と中観論、もしくは三諦論以外の全てのものは仏教では枝葉末節です。

 例えば日蓮宗の日蓮は“天台智顗の三諦論と法華経に還れ”といいました。この場合、「三諦論に還れ」はいいのですが「法華経に還れ」は枝葉末節です。この2つを並べていることで日蓮が悟っていたかどうかがよく分からなくなってしまいます。法華経には本佛論というのがあり法華経を絡ませると胡散臭くなったり世俗性や政治色が出てしまいます。日蓮の時代の激動の時代背景を考えると行動する仏教者としてそのように自らの仏教を組み立てたのかもしれませんが、仏教としては純度が下がって不順になります。

 空論と中観論の現代哲学との相同性を考えれば我々日本人は思想というものを日本本来の清明心や正直、誠の思想、武士道などを除けば仏教という形での空論と中観論から始まり現代思想という形での空論と中観論として受容してきました。始まりにして終わりであり始まりと終わりが同じ形で収斂しています。

 過去の知識や学問が大量に集積し現在も爆発的に進歩している現代では空や中観の理解は時間がたつごとに容易になっています。数学や科学技術、特に情報の科学技術は現代哲学のプロトタイプともいえる現代数学の申し子であるため社会全体が現代哲学=仏教的になっています。

 我々は悟りの世界、解脱の世界に、すなわち涅槃に生きているわけです。恵まれた環境の中でしかも仏教をマスターすれば現実応用により大きな利益も得られます。万人が幸せになる思想である仏教を多くの人々がマスターするように願います。

2021/07/12

超簡単な構造主義入門

はじめに

構造主義とは何でしょう?英語ではストラクチャーという言葉から作られたstructuralismと言います。
以下にstructureという言葉が含まれている単語を見てみましょう。

Structure,structural:組み立てられたもの、構造、組み立てる、広げる、建てる、積み重ねる、置く、構造上の

ストラクチャーの派生語
construct 、construction : 建設する、構成する、共に積み重ねる、組み立て、建設、構造
destroy、 destruction 、destructive 、destryer: 破壊する、こわす、破壊する 、 建物を下へ、:破壊、破壊的な、破壊者
infrastructure : インフラ
instruct、instrument、 instrumental 、instrumentality 、instruction 、instructor、 instructive
: 教える、準備する、楽器、道具、器具 、建設に必要な道具、器械の、楽器の、助け、手段、媒介、斡旋、指図 、教訓、教授 、知識を与える、心の中に築く、つみ重ねる、教師、専任講師、教訓的な、ためになる
industry、 industrial、industrialize 、industrious 、industriously:産業、勤勉、産業の、産業化する、 勤勉な、勤勉に、こつこつと
obstruct : 遮る、妨害する、さえぎる、塞ぐ、反対物を積み重ねる、obstruction:妨害(物)、障害
restructure 、reconstruct、 reconstruction、 restructuring: 作り直す、再構成する、再建する、改造する、再建、復元、改築、再構築、(赤字会社の)立て直し
substructure :基礎工事、土台
superstructure :上部構造、上部工事、建造物
construe:語を結合する、解釈する、古典などの訳読(意味を組み立てる)
misconstrue :意義を取り違える、間違って解釈する
strength、strengthen :力、体力、強める
strenuous :精力的な、たゆまず努力する
strongbox :金庫
substratum :基礎、基層

上記の様にストラクチャーを一言でいうと「作ること」です。
Structuralismは日本語では構造主義、仏教では空論と呼ばれます。

構造主義と対照的な考え方を素朴実在論と言います。素朴実在論は物事はそもそも「ある」と考えます。構造主義では物事を「作る」という点から考えます。

超簡単な構造主義入門では「超簡単」の名に恥じぬよう短い時間と文章で説明します。またやさしい言い回しと直感的で理解できる論理で説明します。

第1章 構造とは?

構造主義はstructuralismの日本語訳ですがこれは語訳です。誤訳が言い過ぎならば限りなく分かりにくく限りにくく誤解を招く言葉です。
構造という言葉からstructuralismを理解しようとすると普通は理解できないでしょう。ですから構造主義という言葉を別の若いりやすい言葉に代えてしまうのがいいのですが、慣例ですし学述語ですので仕方がないので構造主義と言う言葉を使います。

構造主義とは物事を作る主義、あるいは物事を分析してどのように作られているか理解する主義です。

物事を作ることを構築、物事の作られ方を分析するのを脱構築ということがあります。これも専門用語ですがこれはsutructuralismの実態を上手く表しているので「構造主義」という言葉より「構築主義」という言葉の方がぴったりくるかもしれません。

一つの原因は構造は「構造する」という述語動詞を作れないのに対して構築は「構築する」という動詞熟語を作れることにあります。そういう意味では構造主義よりは「構築主義」の方がいいかもしれません。

そういう目で見ると英語のstructuralismも「struct」という動詞化は一般的ではありません。
「構築」や「脱構築」はconstruction、deconstructionですが「construct」の方が動詞化しやすいのでstructuralismよりも「constructuralism」の方が名は体を表しているかもしれません。

構造主義は「物事を作る主義」「作られた物事を解体する主義」です。
これと対照的な考え方を素朴実在論と言います。
「物事が実際に、現在にある(存在する)」言い換えると「物事が実在する」という考え方です。

構造主義は物事を作る、物事は作られると考える考え方で、素朴実在論は物事が実在するという考え方です。この両者は実は両立します。しかし伝統的には西洋哲学では素朴実在論の前提に立った哲学しか存在しませんでした。

知らない人は知っている人から見ると「分かっていないのに分かっているつもりになっているような結論を導き出してしまう」ことがよくなります。

西洋哲学の歴史では構造主義がなく素朴実在論しかなかったので、素朴実在論が無意識の前提となっていました。構造主義を知らない哲学者の考え方は必然的に「物事は作られなくても実在する」「作られた物事は新たな別の実在となる」となります。構造主義はこれに反例を示しました。

第2章 構造主義の歴史

構造主義の歴史は西洋と東洋で異なります。まず東洋での構造主義の歴史を見ましょう。

西洋哲学からみれば驚くべきことですが、東洋哲学ではかいつまんで言うと最初から構造主義と素朴実在論の両方の考え方がありました。
ポイントはお釈迦様です。お釈迦様は後に空論と中観論としてまとめられる考え方を考案なさいました。

空論と中観論は西洋哲学では構造主義とポスト構造主義と同じものです。お釈迦様以前にも色々な考え方がありましたが文化的な意味はともかく、哲学的な意味では無視してかまいません。

このようにそもそも東洋哲学は出発点からして構造主義であったため誤解されたり変形されたり忘れられることはあっても常に東洋思想には構造主義がありました。

一方西洋哲学の歴史を見ましょう。古代ギリシアの哲学を出発点として良いでしょう。古代ギリシア哲学では素朴実在論の考え方しかありませんでした。その状況は近代哲学のヘーゲルくらいまで続きます。

つまり西洋哲学は素朴実在論しかなく構造主義がありませんでした。構造主義が出来た(あるいは東洋から輸入された?)のが20世紀頃からです。20世紀の半ばには哲学界で構造主義が流行しこれは先鋭化、過激化し素朴実在論への攻撃、批判に使われました。

しかし構造主義は素朴実在論と両立してもいいことに気付いて作られたのがポスト構造主義です。構造主義は空論と、ポスト構造主義と中観論は同じものです。
ですから東洋哲学では構造主義は出発点でしたが、西洋哲学では構造主義では終着点であったのが興味深い点です。

第3章 作るということ

素朴実在論では事物はある=存在していると考えます。
一方構造主義では事物は人間の認識能力が作ったものと考えます。

構造主義から見れば素朴実在論が事物があると思い込んでいるのはいろんな形で対象の事物を認識できること、対象の事物にリアリティを感じることによっているだけの話です。

それに加えて特殊な場合には人間の願望が関わる場合があります。人間がある事物が存在してほしいと猛烈に願望を持っている場合にはその願望対象の事物が存在していると思い込む場合があります(これはニーチェの神の存在に絡む考え方として知られます)。

つまりまとめると、構造主義から見ると素朴実在論の事物が実在するという考え方は、人間が事物を認識できて、それにリアリティを感じるからに過ぎないというものです。
この背景にあるのは構造主義が人間が事物を認識していることも、事物にリアリティを感じていることも、事物が実在する根拠にはならないという考え方があります。論理的と言うより場合分けと言った方が適切かもしれませんが、人間がある事物を認識しているからと言ってもその事物は実在する場合も実在しない場合もあり得ます。
また人間がある実部の存在感にリアリティを感じるからと言っても実際のその事物が存在するか存在しないかは全く関係のない別の問題であると考えます。つまり結局素朴実在論は構造主義から見れば独り善がりに過ぎません。

このように構造主義は何かの実在を何かの基礎にできるとは考えません。その代わりに構造主義では事物を自分で作ります。これを構築と言います。

実在すると感じられる事物もどのように作ることが出来るか分析します。これを脱構築と言います。さらに実在していると感じられる事物を自分で作った事物と置き換えます。つまり実在すると感じられる事物をありのままに受け入れる事を拒否します。その上で自分自身で作ったものに置き換えます。

ですから構造主義では全ての事物を自分で作ったものに置き換えます。素朴実在論については無視します。つまり素朴実在論が成り立とうが成り立つまいが関係なく構造主義だけで整合的に世界を作り直します。

これは逆に素朴実在論から見ると人工的で不自然に見えます。素朴でも自然でも直感的でもありません。しかし現代はその様に作られています。
数学、自然科学、工学などの数学と自然科学を前提とした技術から成り立つ人為的な世界が現代社会です。次章で例を挙げながら事物の作り方と分析方法を説明します。

第4章 「作る」を究める

大雑把な枠組みを示したところで抽象的な「作る」の説明よりOJT(on the job training、実践トレーニング)によって具体例を示してそこから一般的な理解を深めてみましょう。

数を作る

数は昔の人は、あるいは高等数学(大学の数学)を勉強したことがない人は実在だと思っています。しかし大学の数学でまず学ぶことは「数の作り方」です。

まず集合と言う概念を導入します。バラバラな集合を順序付けると順序集合、さらに最大・最小限、上界・下界、上限・下限、を導入することで整列集合という自然数の原型を作ることが出来ます。
また集合の濃度や集合、完備性を導入すると数えられる自然数とそれと一対一対応できる整数、有理数などの可府番濃度と無理数や実数などの数えられない無限の濃度などの各種の数の種類生まれてきます。

これは数の芽生えで更に集合に位相を導入し空間(形)、更には距離空間という性質を導入します。
そして集合の要素同士の演算、つまり加減乗除などの算数を導入すると大体我々が数や量と思っているものが出来上がります。

これを素朴実在論者と比較してみましょう。

ピタゴラス学派は万物は数でできていると唱えましたが無理数を発見した都合の悪い人物が現れたので殺してしまったと伝えられています。

幾何学は昔から最も厳密な学問と見なされておりましたが近代に非ユークリッド幾何学が見つかり点や線の定義が意味不明と認識されるようになり幾何学全体の厳密性にも疑問が生じたためヒルベルトが形式主義、公理主義を確立し幾何学の基礎を作り直しました。

集合論を作ったカントールは「自然数は神が作った。その他は人間のわざである」と信じていたクロネッカーにいじめられましたが現在では人間が作った自然数が数学の基礎になっています。

神が作った自然数もあるのかもしれませんがそれは無視されています。当然整数も有理数も実数も複素数も人間が作っています。
現代のIT産業はハード面は物理や化学の科学技術からできたものですがソフト面は現代数学から作られたものです。

人間を作る

人間の実在を最初に批判したのは構造主義の創始者のお釈迦様です。
お釈迦様は人間は五蘊から成り立っているが五蘊は皆、空であると悟りました。人間を作る五蘊が皆空ですから人間も空です。

インドでは輪廻転生ということが信じられていましたがお釈迦様は消滅することなく永遠に苦しみがあることに問題を感じていました。お釈迦様は輪廻転生する魂や霊魂、心と言った実体が存在しないことを悟ったわけです。
死んだら終わりでもう苦しまなくてもいいことを理解してお釈迦様は悟りました。

もう一つ、20世紀のフランス人、ラカンと言う精神医学者が精神分析学に構造主義を導入しシェーマLという方法を作って自我や自己同一性を作る仕組みを解明しました。
この方法は自己意識が作られる過程を説明するのにとどまらず、全ての人間が認識する対象が作られる仕組みを分析するのに有効です。

具体的には鏡を見て映った姿を自分だと顔認証します。あるいは赤ちゃんが手を見て動かし触ってそれが自分に属して自分の意志で動かせると気が付きます。
指紋認証?とでも言いましょうか。名前を呼ばれているのに慣れるとそれが自分の名前と反射的に覚えます。
幼稚園に入ればその幼稚園の桃組に所属していると自己や役割同一性が生まれていきます。そういったプロファイルの全体を自己と認識します。

もう一人、やはり20世紀のフランスの学者のフーコーと言う人が現代より前の素朴実在論に立脚した「人間」という概念がどのように作られたかを解明しました。
これを思想史では人間の終わりと言います。

素朴実在論における人間とは聖書の神の似姿で作られたアダム、あるいは知恵の実を食べたあとのアダムが究極の人間と言えるかもしれませんし、プラトンのイデア論によるイデアルな完全な人間像、人間中の人間がいると考えます。構造主義ではそのような人間は実在しませんし、そのような人間を想定したければ必要に応じて作るだけです。

歴史を作る

過去は記録や復元が可能でしょうか。
素朴実在論では真実の過去があると考えます。時に過去の真実や事実に到達し確認できると考えます。

過去の事が正確に分かると思い込む人もいます。
素朴実在論ではそのような真実の過去を歴史と考えます。

構造主義では過去も歴史も人間の頭の中で作られたものでしかありません。残された資料の解釈と推測があるだけです。
それを歴史と言ってもいいのですがそれは構造主義流の「歴史」の概念であって素朴実在論が想定する実在する「歴史」の概念がありません。

これもフーコーが言ったことでこれを歴史の終わりと言いました。歴史の歪曲や改竄や捏造などの言葉が使われ批判されることがありますが、構造主義においては歴史は元々シミュレーションでしかありません。

「歴史の歪曲、改竄、捏造」という言葉の裏側に前提されている「正しい歴史認識」なるものは元々ありません。現代的な科学の方法論に基づく歴史という構造主義に基づく歴史の概念があるだけです。

現象、他者や外部の同一性と恒常性

ラカンのシェーマエルという方法は自己同一性の説明だけに使用可能ではありません。
全ての認識されるもの、我々の意識に現象する対象が作られる仕組みを説明します。逆に言えば全ての認識できるものを我々は作ることが出来ます。

素朴実在論では事物の実在は我々が認識することとリアリティを感じることから成り立ちます。
例えば聖書のエリヤは荒野で神の存在を感じ神の声を聴きます。
彼は神を認識しリアリティも感じたので彼が神が存在すると主張することはもっともな事でしょう。

この荒野の体験がなくてもエリヤの中には既に身につけた神概念があったでしょう。しかし実際に神の見たり声を聴いたり存在感を実在感、実体感で感じることが出来たのは貴重な体験です。

構造主義からみると彼は神の声と言う感覚と臨在感を感じることで神と言う概念をより新しい形でアップグレードと言えるでしょう。
ただこの荒野の体験の有無にかかわらず構造主義から見ればエリヤの中では神の概念があり、それが荒野の体験で作り直された、あるいは変更されたということで、エリヤの神は彼の中で作られたものであることに変わりはありません。
エリヤやエリヤ以外の誰がどう思おうと、素朴実在論の意味で神が実在するかどうかとは無関係です。エリヤ以外にも聖書の中には神と直接関わりあった人がいますがやはり同じです。

群盲象を撫づで知られるゾウの認識を考えてみましょう。
仏教はお釈迦様の説法を弟子が理解できなかったせいか、後世に誤解されたか、誤って使ったか、偽経のせいか、はたまたお釈迦様の指導力の問題かお釈迦様自体が考えがまとまりきっていなかったためかおそらく正確に教えが伝わっていなかった節があります。
例えばお釈迦様が輪廻転生から解脱して涅槃に至ったとか、中道の教えとかがそれですが、この例えも誤解されて伝わった可能性があります。

目の不自由な人がゾウを撫でて撫でた部分で別々の印象を持ちそれぞれのゾウのイメージが異なるという話です。
目が見える人がその様を見てゾウの部分的なイメージしか持てていないことを指し目が見えている人は全体と本質が理解できるような例えとして使われます。
しかしゾウを見ることができればゾウの本質を理解できたと言えるでしょうか?
目が見えるなりのゾウのイメージを作っただけです。

素朴実在論では本質や実体という考え方がありますが、そもそも構造主義では実在がありそれを正しく認識できるという考え方がありません。
視覚で捉えようが触覚で捉えようがその人がその人のやり方でその段階でのゾウのイメージを作っているだけです。

理論の作り方

構造主義のプロトタイプは仏教を除けば現代数学です。現代数学は構造主義も素朴実在論も完備しています。
ですから特段構造主義を知らなくても大きな業績を上げることは出来ます。

数学とはmathematicsの翻訳です。ギリシア語語源ですがそもそもの意味は学ぶべきものと言う意味です。数学を数の学問と考えるのは誤りです。

では数学とは何を対象とした学問かと言うと理論を対象とした学問です。理論とは何か、理論とはどのように作るのかを研究します。
数学基礎論を知っていて論理主義、形式主義、公理主義などの考え方を理解していると理論を作るのに役に立ちます。

記号も数学の研究対象です。自然言語も含みますがデジタル、特に記号2つでできている相性が良く、結果として現代数学から現代のIT産業が生まれました。

数学は自然科学と言えるかどうか分かりませんが物理学の様な自然科学の代表的学問と比べると観測がないという違いがあります。
自然科学は観測と理論で作られています。観測したデータに合うように理論を作り、自然現象が理論に合うかどうかをデータを取って確かめます。

理論を整合的に作りたければ数学の素養が必要です。逆に現代数学の基礎論を知っていれば理論というものが簡単に作れることが分かります。
理論というものを作り、操る技術にたけていますので、合理性、論理性というものは数学の素養がなければ高いレベルで身につきません。

自然科学のみならず、社会、人文科学や芸術、エンターテイメント、人間の感情や意志を扱う場合にも、宗教や思想などのイデオロギーを考える際にも数学の素養が必要です。そもそもそれがないと一致したコミュニケーションを取る土台がないのと一緒です。

ですから理系では大学のリベラルアーツで必修教科とされています。現代哲学と現代数学の基礎論は文理に関わらず本来高等教育においては必修科目となるべきでしょう。

おわりに

構造主義と空論、ポスト構造主義と中観論は東洋思想の初めにして西洋思想の終わり、いわば時代を超えた真理ですから万人が身につけるべきです。
哲学と言う学問は現代哲学で完成しているので大学で古典哲学を教えて現代哲学を教えない教員は怠慢です。

現代社会で構造主義が占める割合は増加しています。科学や技術、産業の発展のためです。それらは構造主義を基礎にしています。特に目立つのはITです。情報や通信の科学、技術、産業が留まるところを知らずに急伸してスマホから動画配信まで我々のあらゆる日常、社会生活に影響を与えています。

ポスト構造主義と中観論は構造主義と空論を理解していなくても簡単ですが、構造主義を理解する事で爆発的な有用性を発揮します。

日本は世界でも少ない仏教国で日常生活のいたるところに仏教が根付いている数少ない国です。歴史の初めの時期から仏教とともに歩んできました。我々の周りは空と中に満ちています。空と中を理解すれば悟りと解脱と涅槃にいるのと一緒ですし、西洋哲学をマスターしているとも言えます。

多くの人が構造主義を理解できる様願ってやみません。

2021/07/12

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