月別: 2021年11月

2021/11/16

年末年始の診療日について

  • 令和3年12月27日(月)院長・平田 通常診療
  • 令和3年12月28日(火)院長・安田・佐中 通常診療 / 諸星 休診
  • 令和3年12月29日(水)院長・田中・関口 通常診療 / 西川 休診
  • 令和3年12月30日(木)クリニック休診
  • 令和3年12月31日(金)クリニック休診
  • 令和4年1月1日(土)クリニック休診
  • 令和4年1月2日(日)クリニック休診
  • 令和4年1月3日(月)平田 通常診療  / 院長 休診

上記スケジュールにて年末年始の診療を行ってまいります。ご理解ご協力のほど宜しくお願い申し上げます。

2021/11/16

現代哲学による「正しい歴史認識」入門

はじめに

「正しい歴史認識」この言葉はこの数十年のトピックであり続けた古くて新しい時事問題です。
2021年4月現在の状況では2020年より更にニュースがフェイクニュース化しもはやニュースというものを信じられない状況になりました。

これはとても面白い状況です。
更に現代思想の考え方にぴったり合う考え方です。

現代哲学をベースとする現代思想ではもともとニュースだけでなく文字通り全てをシミュレーション、シミュラークル(紛い物)として捉えてきました。
ですから現代思想から見ればニュースと言うのは本質的にフェイクニュースでしかありえず、それが周知となって社会の多くの人がニュースを懐疑的に見るのが常識で、ニュースを疑いなく信じていた人々が大多数を占めていた今までが異常であるように見ていました。

ようやく時代が現代哲学に追いついたわけです。

そういう現代哲学からみれば「正しい歴史認識」という言葉は突っ込みどころが満載です。
「正しい」も「歴史」も「認識」も3つとも全て現代哲学のメインテーマだったからです。

学問の自由がある日本では学がある人であればその人の政治信条に関係なくこの言葉自体を使う人はいないでしょう。
現代哲学ではこの言葉は突っ込みどころ満載過ぎて全てを書き尽くすことはできませんが、いくつかの方向からこの言葉を分析してみたいと思います。


第1章 現代哲学の歴史の見方

現代思想において構造主義の四天王と言われた思想家にミシェル・フーコーというフランス人がいます。
フランスでは20世紀中盤以降に構造主義が流行しその後のポスト構造主義と併せてフランス現代思想と呼ばれました。
この時代は色々な分野の学問が構造主義で再構成されて行きました。

フーコーは構造主義の四天王と言われ文献学、書誌学、歴史学の分野を構造主義で再構築しましたが彼自身は自らを構造主義者ではないとも述べています。
実際に彼の思想はポスト構造主義でもあり文献学、書誌学、歴史学の基礎理論を構築し直しています。

歴史とは文字で記された過去の出来事です。
ですから文字で記録が残されている時代を歴史時代と言い、文字記録がない時代を先史時代と言います。
併せてヒストリーと呼んで過去の出来事の正確な理解、認識を目指す学問と考えましょう。

このフーコーは「歴史の終わり」「人間の終わり」という考え方を提示しました。
他に「近代の終わり」というのを提起した思想家もいます。

現代哲学は素朴実在論の同一性批判を行った哲学です。
認知科学の仮説で「同一の記憶を想起することはない、同じことを思い出している様に感じても思い出される記憶はそのたびに新たに構成されたものである」というのを聞いたことがある方もおられると思います。
近代まで他に代替案がないために無意識に絶対的な前提とされていた素朴実在論では時間の同一性というものを無意識に想定しています。

例えば自己同一性と言うのは自己と言うのは連続な存在であり、一瞬前の自分は一瞬後の自分と多少の変化はあっても同じ存在であるということを前提としています。

現代哲学ではこの前提を排除します。
否定するわけではありませんが学問的に実証も証明も出来ず再現性もないため前提とは出来ないと考えます。

これは自己同一性や記憶の同一性の批判になりますが、自己や記憶にだけ当てはまるわけではありません。
全ての物事に当てはまります。
すなわちヒストリー、または歴史の同一性の批判にもなります。

過去の出来事と言うのは連続性をもって存在していないかもしれないし、もっと言えばある瞬間の過去の出来事、あるいは全ての過去の出来事は存在していない可能性もあります。

何となく量子力学を思い浮かべる人もいるでしょう。

もう一点、近代は理性や知性、科学技術を万能と見なす傾向がある時代でした。

過去の歴史が実在するとしてそれを解き明かす方法はないかもしれないのですが、近代においては知性と理性、科学技術によって過去の真実に到達できるという考え方が強固にありました。

簡単のために文字資料で過去の出来事を研究する歴史に限定してみましょう。

ある世代以上の皇国史観や唯物史観などで思弁的理論研究ばかり行い資料を読み込む実証研究を軽んじた時代はともかく、現役世代の歴史家は丹念に過去の文献を読み込み実証を目指す地道な実証研究を行っていると思います。

この様な地に足の着いた研究をした人であれば同意されると思いますが、書誌文献から歴史を再構成するということは困難極まりないというよりはむしろ不可能とさえ感じられることです。

第2章 文献・書誌研究

ざっと各種領域の文献書誌研究を見てみましょう。

儒教においては中国宋の時代に朱子学というものが発生しそれが江戸幕府の正当な学問になりました。

朱子学は理と気で世の中の全てを説明する究極理論のようなものですが、証明も実証性もないのはもちろん古代の儒教とのつながりが全く不明であり儒教の正統思想とする根拠が特にありませんでした。
そこで朱子学内部からは山崎闇斎や浅見けいさいが幕府朝廷簒奪論を説き、陽明学が生まれ、中国の考証学の先駆けとなる古学と言う文献学と思想が生まれます。

伊藤仁斎、山鹿素行、荻生徂徠などで古義学と言ったり古文辞学と言ったりしましたが、文献研究からは孔子の授業と朱子学は別物で関係がないとする説です。

一方仏教では大阪の私塾懐徳堂の富永仲基が大乗仏教の多くの仏典が仏典結集などで残されたオリジナルの原始仏教の古典とは関係がない事を音韻学などを用いて立証します。

中医学の考証学は幕末の江戸医学館の研究が世界のトップで数々の事件で元の形が遺っていない中医学の書誌学、文献学研究などで中医学の変遷を当時最も的確に理解していました。

本邦以外でも20世紀に入ってからは聖書の文研研究を行う聖書学が起こり、現在では聖書は複数の時代の複数の著者の複数の思想の混入や思想の進歩、改変などが分かるようになってきています。

このようにさらっと書くとあたかも研究により各分野の歴史の真実に近づいている様に読む方もいらっしゃると思いますが、そもそも過去の出来事を現代に正確に再現することは不可能です。
再現できたと思っても正確に再現できていることを証明も実証も出来ません。

歴史記述は純粋な学問探求を行っていれば通説はしょっちゅう変わるのが普通です。
そしてそれ以前に現代全ての科学の基礎になっている現代哲学の観点から見れば「真実の過去の出来事」なるものは先ほども書いた通り原理的に存在を実証できません。


第3章 認識とは

「正しい歴史認識」の歴史についての現代哲学の見解を前章で書きました。
「歴史」とともに「認識」というのも現代哲学では重要な言葉です。

そもそも西洋哲学は存在論と認識論が主で他は雑学のようなものです。
「過去の出来事の認識」は困難に違いありませんが、そもそも現代哲学では現在の出来事の認識」も簡単にできるとは考えません。
現在の認識どころか、自分の今目の前で起こっていること、体験していることの認識ですら複雑な問題をはらんでいると考えます。

「歴史の認識」となると現在体験できない過去の出来事だけでなく、書誌文献を通して行われます。
書誌学や文献学自体が難解な学問ですが、もう一点、言語学や記号論の問題も関わってきます。
「テクストをどう読むか」と言う問題は書誌の成立年代や文献の改変などとは別にそれ自体が基礎固めからしっかりしないと学問の体裁を整えられません。

そもそも構造主義は数学の記号学的研究や言語学を母体として生まれた学問です。
記号論こそが情報の科学技術産業、ということは全ての学問は突き詰めれば情報の研究ですので全ての科学技術産業の基礎になっているわけです。


第4章 正しさについて

「正しい歴史認識」を形成する最後の要素が「正しい」です。

「正しさ」「確かさ」は終始一貫西洋哲学の主題でした。
これは「存在論」と「認識論」が西洋哲学の主題であったと先に書いた事とは違う側面からの見方です。

何か実在するものがある、物事には実体があるという考え方に立てば存在する物事には実と虚、嘘の姿と本当の姿があるという考え方になるのかもしれません。
これに則れば「正しい歴史」がある、「正しい歴史を正しく認識できる」という論法が成り立つでしょう。

近代哲学以前の古い哲学では何となくこれで話が通じたのかもしれませんが、現代哲学ではこれでは話の意味が通じません。
「正しい」の定義を問われることになります。

この場合は思想の自由が認められている国では「正しさ」を科学的な方法で定義しようとするでしょう。
現代哲学でブラッシュアップされた歴史学や文献学、現代哲学でアップデートされた認識論で正しいを定義します。

それ以外には公正と思える方法がないからです。

この科学的に「正しさ」を決めることを否定する場合には2つのパターンが考えられます。
意図的ではなく科学的は方法を取らない場合と意図的に科学的な方法を取らない場合です。

更に分類すると意図的ではなく科学的な方法を取らない場合は知能が足りないか学問の自由が保障されていないか何かの理由で科学的であることを禁じられておりそれに従っている場合です。

意図的に科学的な方法を取らない場合は政治的なプロパガンダか知性や理性を超える感情や情動に打ち勝てない場合でしょう。


おわりに

「正しい歴史認識」「差別」「自己責任論」などが新たな形でここ数十年認知されるようになりました。

問題自体は昔からあると言えばあるものです。
ただ考察や議論の質が劣化している様に見えます。

一つにはこれらの概念が通年化しつつあるのは戦前派、戦中派の人が減少し発言力が無くなってきたことが考えられます。

昔でしたら現代哲学が登場する前でもお話にもならず論破されて終わりだったかもしれません。

他には教養主義の終焉とメディアの変質があるのかもしれません。
本を読まなくなった時期とインターネットが普及する時期の間に新聞やテレビが大きな力を閉めていた時期があり、この時期には日本社会が変質したように見えます。

インターネットは情報集めには向いていますが、やはり教科書にはならず、基礎的な学問の習得には向いていないようです。
ある程度体系的で習得に脳のエネルギー消費による脳疲労や集中的持続的な学習時間を要するような理論の習得には主となる教材にはやはり本がいいようです。

「正しい歴史認識」なるものを唱える人は現代哲学は知らないのは仕方がないとしてモダニズム的な脳の持ち主で近代哲学に基づくイデオロギーに固着している可能性があるため接触や関わるのには注意が必要かもしれません。

2021/11/05

現代哲学における大人の倫理・道徳入門

はじめに

「倫理」は狭い意味では正しい生き方、広い意味では人の思いなしを意味します。

後者は「倫理」という言葉を現代哲学など新しい考え方を取り入れてより厳密にしたもので「倫理学」という人文科学の分野や高校の社会科の倫理など学問的に抽象化した場合の使い方であり、普通「倫理」と言えば狭い意味での「人として正しい生き方の理」を指します。

一方「道徳」という言葉は行動に関する倫理です。
「道徳」も倫理と同じように狭い意味と広い意味があってもよさそうですが実際には正しい行動という狭い意味での使い方が主です。

狭い意味と広い意味があるのは狭い意味が昔からの古い考え方である物事には正しいものと正しくないものがあるという「正しさ」の存在を前提としているからです。

一方倫理の広い意味に「正しい」という概念が含まれていないのは「正しい」という言葉は「正しい」を定義しないと意味がなく使えないことを現代哲学が前提としているからです。

ですから「倫理」の広い意味での思いなしと言う使い方は狭い意味より新しい使い方です。

古い思想家の倫理や道徳に関する理論は何らかの「正しい」ものの存在を前提にしていますが現代思想以降は「正しさ」は必要がなければ使う必要がありません。

ですから現代哲学を影響を受けた倫理や道徳、言い換えれば生き方や行動のモデルはそのモデルが「正しい」ことを主張しません。

現代哲学の現代的な生き方や考え方、行動のモデルとしてはドゥルーズやガタリのモデルがあります。

ドゥルーズとガタリのモデルは現代哲学から導かれる最も無駄のない生き方のモデルと言えるかもしれません。
無駄がないということは現代哲学の要素以外を使っていないということです。

現代哲学の要素とはポスト構造主義の思想の相対化や構造主義だけですのでドゥルーズとガタリのモデルは非常に自由闊達に感じられるモデルになっています。

他方でドゥルーズとガタリのモデルは現代哲学の2大要素しか使っていないので社会や世俗を前提としていない理論的なモデルと言えます。
ですから実際ドゥルーズとガタリのモデルの様に生きようとすると現実的には軋轢を生じるものと思われます。

日本では1980年代にニューアカデミズムと呼ばれる現代思想の流行があったのですが現代思想に影響を受けた人々の過激に聞こえる主張を避けられたのかその時点では現代哲学は誤解され一般への定着が弱かったように見えます。

だからという訳ではありませんが、現代哲学をもっとかみ砕いたうえでドゥルーズとガタリとは別の現代哲学的な倫理のモデルを本書で提示します。


第1章 現代哲学の倫理のモデル

近代哲学とは何かというとたった2つのもので構成されます。
ポスト構造主義と構造主義です。

より詳しく言うとポスト構造主義の思想の相対主義と構造主義の構造主義的存在論と構造主義的認識論を合わせて構造主義的哲学です。
ポスト構造主義と構造主義は思想に関する思想、理論に関する理論ですので、現実的な自然や世界とは関係がありません。

言語学は統語論と意味論、数理論理学は証明論とモデル理論で構成されますが、現代哲学は統語論や証明論に相当し、倫理は意味論やモデル理論に相当します。

現代哲学も理論の理論ですからやはり形式に過ぎません。
形式から生き方や考え方、行動などへの意味を生成するにはやや細工が必要です。

もっと言えば社会と世俗と直接の関係がありません。
理論の理論でしかなく形式でしかない現代哲学からほぼ直接導かれる世俗や社会と関係がないこの最小限の要素から生き方のモデルはドゥルーズとガタリのモデルのようなものになります。

それになるべく最小限の要素を加えて生き方、考え方、行動など倫理と言う意味とモデルの骨格を作る工夫をします。
 

第2章 主体性、自由、自覚、他者の追加

現代哲学を形成する2つの思想、ポスト構造主義と構造主義は前提とします。

ポスト構造主義は特定の思想を特別視しないという考え方で、言い換えれば思想の相対主義の考え方です。
構造主義は存在の実在性、実体性を前提とせず形式や構造や関係性から認識が構築されるという考え方で、形式主義的に認識を分析したり、脱構築したり構築したりもする考え方です。

この2つに更に見通しよく分り易くするためいくつかの要素を追加します。

自己(主体)、自由、選択(実践)、自覚(メタ認知と記憶など)、他者(コミュニケーション)などを加えてみましょう。
これらの要素も構造主義的に形式化出来ますがそれは割愛します。

これらは近代思想までの倫理や思想で重視されてきたものです。
その意味では近代思想を継承した保守的な倫理観の現代思想によるアレンジと言えるかもしれません。

自己と主体性

自己や主体を取り上げるのは自己や自己の役割の同一性や恒常性が倫理システムの安定性をある程度保証すると考えるからです。

ある人のある瞬間の発言や行動が次の瞬間全く継続性のないものに変わることを許容するのはドゥルーズとガタリのモデルになります。

精神分析学や精神医学などではこれを同一性拡散等と呼び、いろいろな精神障害で見られますが境界性パーソナリティー障害(情緒不安定性パーソナリティー障害)でよく使われる概念です。
障害とは保健医療福祉の分野では障害構造論で定義されそれは他者が生活を送るのに困る状態を指します。

主体性とは自分で思考し判断し決断し行動しその結果を受け入れ、それらの全てを自覚し記憶している状態を指します。

自由と選択

ポスト構造主義の思想や理論の相対主義の結論は理論や思想は世の中にたくさんあるかもしれませんがその中に他と比べて特別な思想や理論はないということです。
ここから導き出されるのは分かりやすく言えば人間はどのような思考や発言や行動をしても構わないということです。
どのような思想や信念をもってどのような人生や生活を送ろうとも特に意味はなく特別視されないということです。

これを自由と呼ぶことにします。

俗に言うなら人に何かの思想を強要されたり人に何かの思想を強要したりする事には正当性がないということになります。
現代哲学自体は理論の理論で唯の形式に過ぎませんので、世俗や社会での生き方を決定するためには何らかの思考や行動指針を決定する必要があります。

これを選択と呼び自分の選択した行動指針に従って実践することで発言や行動を通じて社会と関わります。

自覚、記憶、メタ認知

主体が自由に思想を選択しそれを実践してその結果を認識し記憶するのがひとまとまりのサイクルになります。

現代思想では必ずしも時間が連続であるという見方はしません。
また物事が時間の経過を通して同一であるとする前提は現代哲学にはありません。

空間における同一性を唯一性、単一性とし空間的実在論とすれば、時間同一性は一貫性、恒常性であり時間実在性です。
自明なる時間実在性は保証できないので、仏教で無常無我の観点から批判されるものです。

現代哲学では空間同一性や時間同一性を構造主義の観点から、差異、差延という概念に置き換えます。
すなわち現代哲学では自分にせよ他人にせよ物事にせと一瞬でなくなる可能性もありますし、瞬間瞬間で姿も位置も変えている可能性があります。

しかし現実の生活でその様な体験をすることはまれでしょう。
普通は我々は物事が持続し一貫して存在する安定した世界に住んでいる様に感じています。
この安定性は我々の持つ能力である記憶力やメタ認知能力、自覚により成り立ちます。

物事が瞬間瞬間生成消滅したり、位置や姿を変えてもいいでしょう。
また人や他者であれば瞬間瞬間全く違う記憶を持って生きる様なあり方もあるかもしれません。

しかし時間も空間も存在も認識も全て不連続になります。
これは今回のモデルである最後の要素の他者とコミュニケーションが確立できません。

従ってある程度の時空間の同一性や一貫性を担保するためにメタ認知や記憶や自覚を導入しています。

他者とコミュニケーション

社会や世俗と言う場合、構造主義ですので他者との関係性を形式的に規定しなければいけません。
またメタ認知や記憶や自覚について前節で考えましたがこれも時空を貫く自己間でのコミュニケーションと言えるかもしれません。

自己や他者との関係は無理解と戦いに基づく戦闘的なものであっても良いかもしれませんがここでは意思伝達と理解を確立するためのモデルを検討します。

この場合は言葉や文や字、もっと一般的に言えば記号のルールが必要になります。
それ以外の方法もあるかもしれませんが記号や象徴は伝統的で認知されているインターフェースであり方法であるのでこれを取り上げます。

伝達のための物理的な通信の媒体や正しく届く信頼性のようなハードの問題はおいておいて、発信側の記号列が受信側に正確に伝わる場合を考えます。

問題は発信側が伝えたい内容を記号列に変換する時と受信側が記号列を受信した後それを理解する時に受信側に理解できるように変換される段階で発生します。

同じ記号列を発し手と受け手が全く違う理解をする可能性があります。
ですから変換規則を定めておく必要があります。

一応その様なインフラをそろえて初めて社会や世俗を含めた倫理や道徳を現代哲学的かつ現実的に議論できる基盤が整備できるわけです。


第3章 伝統的な倫理による解釈

我々は現代哲学をマスターしたところで現実生活の大きな割合を伝統思想的、素朴実在論的に生きています。
これは個体発生的にも系統発生的にもそうなっていると思われますし、もし大人になっても素朴実在論的な対象認知と把握を行えなければ他者からは知能障害と見なされることもあるでしょう。

現代哲学の妙味は形式、構造、関係性に過ぎないものから実体や実在と体験される認識や表象を生成することです。
その点で前章までで取り上げた現代哲学的な倫理モデルを素朴実在論や伝統思想に置き換えて解釈してみましょう。

自己と主体性

自己と主体性の重視は近代以降は人権とされて万人に平等のものとされていますが、中世においては貴族や士大夫や武士などの貴人、古代においては例えば古代ギリシアでは自由市民だけが有して奴隷やバーバリアンには認められていないものでした。

自己や主体性は客観的に他者から承認されていなくても主観的に自尊心や自信を持つことは大切です。

自分以外の他者全てに否定されても孟子の「百万人と言えども我行かん」の精神を持てれば素晴らしい事でしょう。

しかし本人の信念内容が内部的に整合性や無矛盾性がなく体系的、形式的に破綻している場合にはおかしい人になってしまいます。
そのおかしさに自分で気付くことができなければやはり知能障害やメタ認知、時に自己愛性パーソナリティ障害等何らかの精神障害が疑われてしまうでしょう。

自分のおかしさを自覚しつつも言動や行動などに整合性やまとまりがなく矛盾に満ちている場合はケースバイケースかもしれません。

どちらにせよコミュニケーション障害をきたす可能性があるので社会や世俗で人生や生活を送る際に色々な困難に遭遇するかもしれません。

自由と選択

現代哲学の自由は憲法の自由に似ていて思想や信仰や表現の自由です。
別の言い方をすると内面の自由です。

哲学には実存主義者のサルトルが「人間は自由の刑に処せられている」と言うほど我々は自由ですし、その自由を何かに保障してもらおうと依存する必要はありません。

もっと即物的な言い方を言うと哲学的自由、形式主義的自由です。
他の自由主義と言うと政治的自由主義、経済学的自由主義などが挙げられますがそれは社会的、世俗的なイデオロギー内での自由の主張であり現代哲学の自由や自由主義とは異なるものです。

ですから現代哲学の自由主義をメタ自由主義、現実を扱うイデオロギーの自由を現実的自由主義として区別します。

現代哲学は理論の理論、思想の思想、イデオロギーのイデオロギーですが前者の理論をメタ理論、メタ思想、メタイデオロギーとすると後者は現実的理論、現実的思想、現実的イデオロギーとなります。

メタ自由主義は現実的思想選択の自由の主張であって現実の世界と関わる倫理に直接関係ありませんが、メタ自由主義を否定するような現実的思想は排斥します。

メタ理論と現実的理論を分けているのはタイプ理論を言う手法で同者を同列の理論にしてしまうと矛盾が生じるのでそれを避けるための簡便な方法です。

主体性と自由と自己選択を守るためには時に勇気やリスクテイクを必要とします。
現代ではゲーム理論のしっぺ返し戦略が1つの倫理の様に働いていますが、現代哲学的な倫理を守るためにも時に戦う勇気や負けるリスクを引き受ける必要があるかもしれません。

自覚、記憶、メタ認知

ソクラテスの「自分が知らないことを知っている」、ウィットゲンシュタインの「語るべきでないことは沈黙すべきである」などの言葉がありますが、これらの言葉が含んでいるのはメタ認知能力です。

自分を冷静客観的、第三者的な立場で客観的に見ることができる能力です。

混乱ではなくある程度の安定性を確保するには自己や他者との関係性である役割の同一性は恒常性をある程度矛盾なく一貫性をもって保つことのできる期間が必要です。

自己や他者が頻繁に入れ替わりそのことを自覚しておらずその記憶もなければ自他のコミュニケーションは成立しないか成立しても瞬間的なものになります。

また現実的イデオロギーを選択する際にしばしば覚悟が必要になります。
何かの世俗的イデオロギーを選択してそれを貫くということは他者や現実の様々なことと軋轢を生じる可能性があります。

また自分の選択が自分自身でも誤っていると発見したり後悔することもあるでしょう。
その場合にもそれを受け入れ直視する精神力が必要になることがあります。

他者、コミュニケーション

他者とのコミュニケーションを組み込むということは、自分以外に現実、外部、社会、世俗を考えるということで自分以外の様々なものとの出会いと関係性の構築、交流を意味します。

コミュニケーションとは他者と関わるにあたり意思伝達、どの様な通信手段を用いて、送受信された情報をどのように情報処理して共通認識に達するのかの試行錯誤の積み重ねです。
安定して継続したコミュニケーションが維持できることもありますが、自分も他人もそれ以外の物事も無常ですので瞬間毎に変化します。

確立した規約、ルールやプロトコールを維持し続ける事ができる場合もありますが、しばしば修正しないといけない場合もあるでしょう。
他者と関われば関わるほど情報量が増大しますので処理能力を超えることも普通に出てくるでしょう。

またもっと俗な問題としてはコミュニケーションの内容が快い時もあれば不快な場合もあるでしょうし、そもそもコミュニケーションしたい相手とコミュニケーションできない時もあれば、コミュニケーションしたくない相手とコミュニケーションしないといけない場合もあるでしょう。

コミュニケーションをできていることで戦いになることもあるでしょうし、コミュニケーションできない事で平和な関係でいられる場合もあるかもしれません。


おわりに

現代哲学は直接倫理や道徳を語ることはありません。
現代哲学を使って倫理道徳を語る場合は現代思想と呼ぶのが適当でしょう。
思想であれば批判したり推奨したり何でも自由です。

現代哲学は唯の形式的理論に過ぎませんので我々の現実生活には直接関わりません。
ですが我々は生きて生活している時には現実と関わります。

普通は心理的発達や教育により素朴実在論を身につけますので物事の実態が存在すると考えています。
これは現代哲学をマスターしても失うべきではない考え方です。

保守的な考え方かもしれませんが我々は伝統的な思想や理論、倫理や道徳から学ぶことがたくさんあります。
自分史的な蓄積も歴史的な蓄積も全てのものを活かして我々は幸福に生きていくべきです。

逆に素朴実在論的な知恵しかないのであれば流石に現代社会では時代遅れです。
現代は現代哲学(現代数学なども含めた)的な知の基盤の上に気付かれており自然科学やIT産業など全て現代哲学の上に築かれているのでそれを捨てて生きることはできません。

倫理や道徳も同じで現代哲学なしのオールドファッションな思想でつくられた倫理道徳則しかないのでは人間同士の間に軋轢が生じてしまいます。
人間はホモサピエンスであり知性こそ人間なのですから常に知性をアップデートしていくのが良いに違いありません。