月別: 2021年12月

2021/12/20

文系と理系とは何かについての現代哲学の考察

はじめに

曖昧に使われている文系と理系という言葉を現代哲学の点から整理します。


第1章 文系とは何か

学問で文系と言う場合、文字や文や文章の記号列を扱う学問と言えるでしょう。

記号は文字などだけではなく図象などの象徴表現を含む場合もあります。
記号列は例えば自然言語を指します。

さて学問や科学の研究と言えば「理」の研究とイコールと同一視されることが多いようです。
「理」とは何かと言う問題はおいて文系は必ずしも理を追求していないのがポイントです。

例えば文学では人間の感情や意欲について表現しようとするでしょう。
理性を超えた、非理性的なものを表現するのに情念を燃やす文学者や芸術家もいます。
理性的なものも非理性的なものも等しく研究するのが文系の醍醐味でしょう。

第2章 理系とは何か

「理」についてWikipediaの説明を拾ってみましょう。

「理 (り、Lĭ)とは、中国哲学の概念。本来、理は文字自身から、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味が派生する。もと動詞として使われたが、次に「地理」「肌理(きり)」(はだのきめ)などのように、ひろく事物のすじ目も意味するようになる。それが抽象化され、秩序、理法、道理などの意に使われるようになった」

ついでに漢字ペディアで「文」の説明も見てみましょう。

「①あや。もよう。いろどり。「文様」「文質」「文飾」 ②もじ(文字)。ことば。「文句」「金文」「邦文」 ③ことばをつづったもの。「文書」「詩文」「序文」 ④本。記録。書物。「文献」「文庫」 ⑤学問や芸術の分野。「文化」「文明」「人文」対武 ⑥もん。単位を表す。(ア)昔の貨幣の単位。一貫の一〇〇〇分の一。(イ)たび・くつなどの大きさの単位。一文は二・四(センチメートル)。 なりたち 象形。胸に文身(いれずみ)をほどこした人の形にかたどり、「あや」の意を表す。ひいて、文字・文章の意に用いる」

「理」と「文」では文の①の意味の「もよう」が重複しますので少し紛らわしさがありますので、「文」は文字列と言う意味だけ取ります。

「理」とは何かについて最も早く厳密に研究して結論を出したのが現代数学です。
但し「理」というものの狭い意味になるかもしれません。

ゴッドロープ・フレーゲやバートランド・ラッセルによって確立された現代論理学を基礎に形式主義による無定義概念や関係、推論の規則、公理主義による公理の設定から理論を作る考え方です。
奇しくもこの時から数学の理論というものは文字列、つまり文で記述されるようになりました。

言語学は記号列を扱いますが言語の大きく分けて統語論と意味論に分かれます。
数学の理論も大きく分けて証明論とモデル論に分かれます。

統語論と証明論は文字列の並べ方の規則に関するものです。
文で言えば文法でしょうか。

意味論とモデル論は記号列によって表されているとされるものです。
文でいえば文の内容でしょうか。

普通はこれを指して「理」ということが多いようです。
ここでは「理」を表すために記号列、すなわち「文」が用いられています。
なのでここでも文と理は先ほどの「もよう」という意味を共有するということとは別の意味で紛らわしさがあります。

「理」、すなわち意味やモデルや内容は文と切り離して存在し得るのかもしれませんが、数学ではその様な方法は存在するとしても採用はされていません。
ですからここでも文と理が同一視される勘違いが生じやすいという点を指摘しておきます。

理と言う場合、何の理かということで学問領域を分類出来て物の理は物理学、物質の変化の理は化学、生き物が生きる仕組みの理は生理学、薬の理は薬理学、土地の理は地理学等と言います。
少し特別な理があって論の理である論理学です。

これは現代数学の基礎論から現代的な理が生まれた話を先ほど書きましたが、数学的理は論理学をベースにしているという意味でも特別で基礎的な理となります。
中世の大学ののリベラルアーツ科の自由7科には文法、修辞学、算術、幾何学、天文学、音楽とともに専門に先立つ基礎の必修科目とされています。

論の理というのは記号列の理だから文法と同じではないかという意見があるかもしれません。
文法も論理と重なる部分があります。

但し文と言うのは理だけではなく、もっと広範なものを表現するので同じ文字列の規則に関するものでも論理とは異なる部分があります。

例えば命令や疑問は論理の記号列には必要ありません。
論理で感情や感動を表現する必要はありません。

論理を構成する文字列は平叙文だけで充分です。
それだけでは理解が難しい場合には文を注釈するために用います。

論理には2つの正しいがあります。

日本語の「正しい」は多義語なので時に混同や誤用されます。
論理の正しさとは命題が真偽について使われます。
命題が真の時に命題が正しいという表現をする時があります。

また論理学は推論の健全性や妥当性を研究する学問です。
推論が健全である/妥当であるとすれば推論は正しいということがあります。

この2つの正しいはちょっと分けて考える必要がありますがまあどこの言語でもボキャブラリーの上限と制限はありそうですのでやはり「正しい」みたいな言葉は紛らわしい場合が多いのでしょう。

世界中を見ても独立事象を独立でないと思い込んでいる言説や行動は多く見られます。
論理であれ理論であれ学問の機能は前提から結論を出すことです。
これは推論の健全性や妥当性と関係します。
また別の機能は帰納と演繹でしょう。

また別の問題として証明や実証や検証が入ってくる場合があります。
数学や論理学は対象に実証や検定や計測が必要ないので証明だけで十分です。

物理学などは自然が対象で記号列とそれが表す何かのすり合わせが必要になります。
観測とか測定とか言われます。
言語学でいう統語論と意味論、あるいはシニフィアンとシニフィエに相当するものです。

数学の理論は証明論とモデル論が大切で、記号列が表すものを人間の実感として分り易い様にモデル化したり、作ったモデルを記号列で表現して推論を行いますが、ここに実証が必要がないのが論理学と共に学問の中で特殊な位置を占めます。
数学における検証とは記号列内部における作業で証明の妥当性や健全性を明らかにするだけの作業です。

物理学のような学問との違いは物理学は対象があってそれにあった理論を作ること、あるいは作った物理学の理論のモデルが対象のモデルとして適切であるかのすり合わせが必要であることが物理学には必要ですが数学はそれが必要ありません。

ただ物理学の理論であっても現代では数学的な「理」の考え方をもって構成されなければいけません。
日本では理という言葉は江戸時代に公式に正当な学問とされた朱子学の理気二元論からの影響が大きいと思われます。

この場合「気」は物理学でいう研究対象である物質と同じ意味と解してもらうと分かりやすいかもしれません。

上記をまとめると学問、あるいは科学とは3つのもので構成されています。
1つ目は記号列が形成する理であり、2つ目は理から構成されるモデルであり、3つ目は観察や観測データを得るもので各分野の研究対象とされているものです。

2つ目と3つ目が同じように見えて明確に異なるところがポイントです。

 
第3章 記号の問題

文は理より広い範囲のものを表現できます。
例えば文学作品により芸術的なことを表現出来るでしょう。

別の疑問を提起してみましょう。

理を表現するのに文、すなわち記号列が必要なのか、記号列でなくてはいけないのかということを問題にしてみます。
おそらく文字列で表されている理と全く同じ内容を表すのに文字列以外の方法を使える可能性はあると考えられます。

一つのアイデアは完全なモデルを作ってしまうというものです。
理論体系、あるいは公理系が小さなもので要素や関係性が少なく有限なものである鵜とすれば全ての場合を網羅的にリストアップしてしまえる可能性があります。
論理学でいえば命題計算の真理表を作ってしまう場合でしょうか。

算術でいえば計算のアルゴリズムでその都度タスクをこなすのではなく、関数表を作ってしまうようなイメージです。
データを理論化するのではなくビックデータとして全て記憶し理論ではなく統計学などを用いてデータ分析で結果を出すようなやり方でしょうか。

証明できないので全てのパターンを確認してしまうのが証明になるのかどうかは数学史では地図の4色問題というのがあります。

地図は4色で塗り分け可能であるという理論があって証明がされていなかったのですが、コンピュータを使って有限ですが膨大な全てのパターンで4色塗り訳が可能であることを示して理論を証明した例が挙げられます。

記号列は記号列でも文は直列な記号列ですが、並列な記号列でもいいかもしれません。
また結局はデータのインプットからどの様に情報処理しデータをアウトプットするかだけの問題ですので、人間に感銘を与えるような文による美しい理論は必要ないのかもしれません。

ですから理は必ずしも記号列により表現する必要はないのかもしれませんが、情報、通信の科学、技術、産業が記号列による理をベースに成り立っており人類に大きな影響を与えている現状では記号列による理が、仮に他に理を表す方法があるにせよ、圧倒的に重要な現状にあります。

おわりに

文は記号列であること、理も結局は現状記号列で表されることを説明しました。
記号列を使わず理を表す方法もあるかもしれませんが今のところ記号列で理を表すのが主流です。

他方で人間の感覚からすると記号列だけで理を理解しようとすると古代の数学文書を理解するような冗長さとめんどくささがあるので図など併用するのが分かりやすくあります。
記号列の最も馴染みのあるものは自然言語で理以外の多くの事を表現する力がありますが、逆に理を表現する際には気付かぬ間に合理性や論理性でなくなってしまうことが頻繁に見られます。

自然言語には特有の癖みたいなものがありますので、それが自然言語で論理的、合理的に表現しようとしても知らないうちに合理性や論理性が失われている場合が多く見られます。
これはいわゆる日本で文系といわれる学問しか訓練してこなかった人だけではなく、理系を専攻した人でも論理学や数学基礎論を学んできちんと習得していないとやはりどこかに論理性、合理性の破綻が見られる場合があります。

そういう意味では教育においては論理学、あるいは数学基礎論における数理論理学ないし記号論理学を全ての人が学んでいるのが望ましいのですがなかなか日本のリベラルアーツ教育の現状では教員も足りず、その必要性も理解されていなさそうなので難しそうです。

国語を学ぶ際に詳説、あるいは論理学や数学に不案内な人のかいた評論を読むと論理的でないことがしばしばあるので困ることがあります。
理は共通言語となり得るので全ての人が論理学や理論の厳密性の基礎である現代数学基礎論を学ぶことが望ましいのでしょう。

2021/12/07

現代哲学の「差異」と「差延」入門

はじめに

コンピュータ科学、情報科学の創始者の一人にクロード・シャノンと言う人がいます。
シャノンは情報を「変化するパターンの中から選択できるもの」と簡潔に表現しました。

情報科学では技術の関係もあって情報をビットで扱います。
アスキーコードなどの言葉を聞いたことがおられる方もいらっしゃると思いますが、記号は2つあれば多文字の言語も一対一に相互変換することができます。
そのビットと言う言葉を導入したのがシャノンです。

このビットと言う2つの選択肢しかないものからVRやARなどリアル、あるいは実在が作られていることにご注意ください。

現代哲学の二大要素の1つ構造主義では従来の倫理思想の前提としてあった実在論の立場を取りません。
実体というものの存在を無視します。

しかし我々の脳の仕組み、認知システム上物事を実体として感じる素朴実在論を完全に排除してしまうと不便である以上に生活が成り立たないかもしれませんし、また不可能である可能性も高いです。

素朴実在論を排除して構造主義だけで生きていくのは無理と考えて、実体概念を利用しつつ構造主義を適宜利用していく際に便利なのが、差異や差延と言う考え方です。

差異や差延は哲学(存在論、認識論)をバリバリに構造主義で構築する際に学問的に利用しても良いのですが、もう少し意味を広くとって一般にも使える様にするといいかもしれません。

差異、差延は構造主義や現代哲学のような小難しい理論と結びつけなくても使えると便利な概念です。
しかも慣れてくれば差異や差延を使って構造主義や現代哲学の理解への取っ掛かりにもなります。

現代を生きるためのより便利な知恵を身につけましょう。


第1章 差異とは

差異という字面から見ると反対の言葉は同一や本当ということでしょうか。

仏教では対象を実体としてみることを仮、戯(時に色)などといいそれに対して空と言う概念を対置させます。
空は無でも不でも非でもないので、対象を認識できないという意味ではありません。実体として認識するのではなく空として認識できると言っています。

この場合実と空が対照的な概念になります。
本当は空なのだけれども実体として認識してしまっているといういい方も出来ます。

空と言うと空っぽな感じで無と取り違えてしまうことがありますが無は認識しないことなので空とは別物です。
空は空として対象を認識しているのですが具体的には何を認識しているのでしょうか。

ちょっと例えを入れて食べ物を例にして果物の実や魚介類の実を考えてみましょう。

果物や魚介類を食べ物として見ると食べられる内側の実が本質で皮や殻は本質ではないものになります。
川や殻を開けてみて実がなかったらがっかりではありますが我々はそれを果物や魚介類とは認識できています。

逆に皮や殻を取って身を料理の食材として出された果物や魚介類を見ても、あるいは食べてみてもそれが何か分からない場合もあります。
調理してあるともっと分からなくなったりもします。

とすると対象を認知する際には食べ物としての本質である実の部分ではなく見せかけを作っている皮や殻の方が大切であるということになります。

次に対象である事物は属性を持っていると考えてみましょう。
また属性の他に本質があると考えてみましょう。

属性と本質が別個にあるかもしれませんが、複数の属性の中の何か特定の属性をその時の目的に応じて本質といえる場合もあるかもしれません。
そうすると物事は色々な属性を持っているということになるかもしれませんが、見方を変えてみると物事とは属性しか持っておらず属性の集合が物事だと発想の転換をすることができるかもしれません。

これを果物や魚介類の例えに当てはめてみましょう。
果物や魚介類の本質は食べられる部分である実であり食べられない部分である殻や皮は属性となります。

もう一つの見方は果物や魚介類は2つの属性から成り立っていると考えることです。
1つは実を持つという属性、もう一つは殻や皮を持つという属性です。
果物や魚介類の本質を食べ物であることと見た場合、実が果物や魚介類の属性かつ本質であり、殻や皮は本質ではなく唯の属性です。

何であれ我々が認知、認識する事物は属性を持ちます。
属性とは言えない本質を持つかもしれませんが、本質などは考え方の問題と言うだけで事物は属性だけからしか成り立っていないかもしれず、その時の目的に応じてどれかの属性を本質としているとも考えられます。

前者の本質と言う言葉を実体と言い換えてみましょう。
そうすると事物は実体を持ち実体は色々な属性を持っています。
後者の考え方では実体とか本質と言う考え方は必要なら導入すればいいだけのもので二次的なものでしかありません。
我々が認識するのは属性なので属性ではない本質なり実体があるとするとそれは直接認識できないかもしれません。

これはプラトンのいうイデアやカントの物自体というものになり大雑把にいうと実在論と言います。

この様な属性と本体を分けるのではなく属性の集合こそ事物そのものであると考えるのが空論や構造主義的哲学になりますが、実在論との対比で中世神学の言葉を使うと唯名論と言います。

有名な唯名論者にウィレムのオッカムという学者がいて現代思想家で記号論者のウンベルト・エーコの小説を実写化したショーン・コネリーが主演の「薔薇の名前」という映画の主人公がいます。

「オッカムの剃刀」という論法で有名で何であれ思想や理論の中にあってもなくてもいい要素があれば無駄なので切り捨ててしまえという考え方です。

この様な考え方を用いるとイデアや物自体は切り捨てられてしまいますので後者の空論や構造主義的哲学だけが残ります。

すなわち事物と言うのは属性の集合体でしかなく、その集合体を本質や実体と言うこともできるが、そうしたければそうすればいいが特にそうする必要も感じなければ、事物とは属性の集合でしかない、という結論になります。


第2章 IDとプロファイリング

犯罪捜査の方法でプロファイリングと言うのがあり一時本や映画で流行しました。
犯人の残した色々な手がかりから犯人像を構成していくものです。

カタカナ英語でいうとプロファイルはプロフィールです。
人でも事物でも様々な属性を持っています。

それをリスティングしたものをプロフィールとしましょう。
その人や事物の全ての属性を網羅できればいいのですが、これは出来る場合もあるかもしれませんし、できない場合もあるかもしれません。

「全て」にこだわる必要はないのである程度の分量の属性の情報が分かればその人や事物をアイデンティフィケート出来る、あるいは同一化できる、あるいはIDを決められると考えてみましょう。

ある程度のプロフィールを確定すれば認証可能になるということです。
またすべてでなくてもいくつかのプロフィール情報があれば認証できるかもしれません。

簡単にはID名やアカウント名、パスワードがあればいいかもしれませんし、指紋や顔認証なら1つで良いかもしれません。
正体不明の事件の犯人であれば色々な情報があれば犯人絞り込みに有利でしょう。

プロフィールは情報のリストです。
情報とは「変化するパターンの中から選択できるもの」です。

情報技術はデータと情報処理で成り立ちます。
我々は属性と言うデータを情報処理して実体と言うリアリティを生み出すヴァーチャルリアリティのようなイメージが空論や構造主義的哲学になります。
ですから素朴実在論と言うのは実体というものが我々がどう思うかに関わらず世界に存在していて我々がそれを発見するという風に考えますが、空論や構造主義的哲学では実体は作るもの、発明するものです。

IDがあってそれにプロフィールがくっついているのではなく、プロフィールが先にあってそれからID、アカウントを作るわけです。

IDが重複しないために必要なものは差異です。
全てのプロフィールが同じである異なるIDを2つ作ることはできません。
少なくともパスワードくらいは変えるでしょう。

何らかの差異がなければ物事の同一性、単一性、唯一性が担保できません。


第3章 差異

分かりやすい差異はイエスかノーかで示す事でしょう。

新しい携帯やタブやPCを買ったときにいろいろ登録するために性別や生年月日や国籍や時間や電話や住所などいろいろ入力する場合があります。

性別で男にチェックすれば女にチェックできませんし、女にチェックすれば男にチェックできません。
また国籍は日本にチェックすれば他の国にはチェックできません。

チェックするということはイエスで、チェックしないということはノーです。
属性は情報はイエスとノーという差異で示すわけです。
「変化するパターンの中から選択できるもの」が情報だからです。

我々の物理的な身体を情報にしたければどうしたらいいでしょう。
二次元的に表現したければ絵をかくようなものです。

しかも油絵のようにアナログに描くのではなくドット絵を描くようなものです。
空間的な位置や教会を表現できるわけです。

アナログではなくデジタルな情報で表現することは「変化するパターンの中から選択できるもの」を明確に示すことができます。
イエスかノー、チェックするかしないか、0か1で表現するかのようにシンプルに2つの記号列だけで最終的には表現できます。

これは情報の最も分かりやすい形でしょう。

第4章 差延

人も事物も差異でID付け、すなわち名をつけることができます。
もう一つ時間と言う要素を考えてみましょう。

物理学では時間は一つの次元ですので属性と見ることができます。
時間は連続的であることが自明の前提にされることもあり、この場合には時間と言う属性は事実上無視して扱われ属性ではなく前提として扱われることが多いでしょう。

個人認証であれば生まれたときや死んだとき、冠婚葬祭などの節目の折に属性の変化をした日時などを示すために時間が記述されることがあります。
何かのライフイベントによりその人の属性が変わったと考えるわけです。

これが普通の考え方かもしれませんが、現代哲学はもっと基礎から根本的に考えます。

そもそも属性が変わるのは一生涯に何度かあるライフイベントの時だけではないかもしれません。
もっと頻繁に属性を替割る場合もあるでしょう。

しかし現代哲学ではもっとラディカルな考え方をします。
何であれ属性というものは一瞬一瞬全て違うと考えます。
言い換えると属性は時間の経過を通して連続的に変わり続けているのです。

仏教では無常無我と言います。
つまり一瞬前の人や事物は今の人や事物とは違うものですし、一瞬後の人や事物は今の人や事物とは違うものです。
属性、あるいは属性の集合からなる事物は変わり続けているのです。

時間ごとに事物が違うものになっていると考えるとなぜ異なっているものを同一の事物として扱っているのかが問題になります。

変化してもそれを同一のものとして見なすことを差延と言います。
属性と言う差異は変化しますが、時間の経過があるにもかかわらず同一のものとして見ることです。
差延は直感的で体験的で自然な我々の感覚によく合っています。

事物の同一性や恒常性という考え方ともあっています。
ただ同一性や恒常性は根本的に考えると根拠がありません。
証明も実証も検証も出来ないのでそれは仮定や仮説に過ぎずに厳密な学問ではそれを自明の前提とするのは間違いです。

これが現代哲学の同一性批判と同一性にかわる我々が変化しているある物事を継続的に同じものとして見てしまう性質を説明する概念になります。

例えば自己同一性です。
自己と言うのは瞬間毎に変化していますし、赤ちゃんの時と老人になってからでは同じ存在とは言えないかもしれません。
しかし我々はそれを同じ人と感じます。

自己同一性というものがある根拠は厳密に考えるとないのです。


おわりに

構造主義は形式主義ですので記号的な要素とその要素間の関係性だけで記述されます。

別々の要素を扱うには要素間の差異が必要で普通は別の記号を使えば十分です。

逆に別の記号が充てられているものでもそれ以外の要素との関係が全く同じであれば同一のものとみなしてしまってもいい場合もあり、論理学では同一律などとして使われています。

ジャックデリダは構造主義的世界観を「差異の体系」と呼びましたが、従来型の哲学は「実体の体系」とも言えるでしょうか。

「実体がまずあり、実体には属性があり、属性の違いにより実体同士に差異があることを認識する」というのが従来的な考え方であれば構造主義的な考え方は「対象に色々な属性の差異があり、属性の差異ゆえに個性やリアリティが生じて実在や実体と言う考え方を生む」と言う風に捉えられます。
属性とは感覚で捉えられたり観念的に認識されたりする対象の性質です。

計算機科学の創始者たちであるライプニッツやチューリングなどが生きている時には見られなかった景色、構造主義的世界は現在は工学、技術、生産性、産業の発展によりコンピュータや通信技術が作られ大量の情報を保存し通信し情報処理することで現実の世界に生活と密着して実現しています。

昔と違って文明の発達と圧倒的な人類のあらゆる部分の進歩により構造主義的世界は現実に我々の生活に必須な形で観念だけではなく具体的に実現して構造主義的世界の実例となっていますので構造主義を理解するには有利な環境です。
プログラミングやコンピュータサイエンスから構造主義を勉強してみるのもいいでしょう。

2021/12/01

増岡医師 診療日追加のお知らせ

令和4年1月より、増岡先生の診療日に毎週木曜日(終日)も追加となります。初診の方はもちろん、現在お掛かりの再診の方もご予約お待ちしております。宜しくお願い致します。