月別: 2022年8月

2022/08/25

(9月)臨時休診のお知らせ

  • 令和4年9月3日(土) 終日 諸星医師
  • 令和4年9月6日(火) 終日 安田医師、諸星医師
  • 令和4年9月20日(火) 終日 諸星医師
  • 令和4年9月28日(水) 終日 宇野医師
  • 令和4年9月29日(木) 終日 関口医師

上記は臨時休診とさせていただきます。皆さまにはご迷惑をおかけし申し訳ございません。何卒宜しくお願い致します。

2022/08/23

やさしい仏教とはなにか

はじめに

あいまいな説明は分かりづらいでしょう。

はっきり説明した方が分かりやすいはずです。
仏教の説明を明確で断定的に行います。

仏教とは

多少の反論はあっても仏教とは仏陀になるための教えです。
これは必要条件ではなく十分条件です。
つまり仏陀になるための教えを説いていているならば間違いなく仏教です。

仏教以外で仏陀になる教えを説いている思想はありません。
仏陀になるための教えを説いていないのに仏教であることはありません。

しかしこれは狭い意味の仏教であり、広い意味の仏教では仏陀になる教えは仏教の必要条件であるという考え方が出てきます。
しまいには更にもっと広くとって仏陀になるための教えに触れていなくても仏教とされるものも出てきます。

例えば仏陀になれない人があまりにも多いので仏陀になれない人のための教えも仏教と言われます。

仏陀とは

仏陀とは“目覚めた者”“覚醒した者”を表します。
「仏陀」とは仏教独自の概念です。

「仏陀」と「人が仏陀になれること」を認めれば仏教ですが、これを認めなければ仏教とは言えません。
仏陀を略して仏と言います。

では仏陀とは何でしょう?

仏陀とは「十二因縁生起」ということを理解した人間です。
十二因縁生起は因縁、あるいは縁起と略されます。
因縁を理解する事を「悟り」、悟って仏陀になることを「解脱」といいます。

仏陀は「因縁」を理解していることを除けば我々と変わりのない普通の人間です。
仏陀は超人ではありません。
超能力者でもありません。
特殊な精神状態になれる人間でもありません。
理知的に「因縁」を理解している他に特に特徴のない人間です。

これは仏教の二大潮流である北伝仏教と南伝仏教のうち北伝仏教の大乗仏教の核心です。
南伝仏教では仏陀を特殊な人間として扱うのでこれは当てはまりません。
ここでは北伝仏教の大乗仏教の考え方のみ扱います。

日本の仏教は全て大乗仏教の系譜です。
最近ではスリランカ人などと共に日本にも南伝仏教が入ってきているようです。

仏陀になる方法

誰でも「因縁」や「空」の概念を理解すれば仏陀です。
「因縁」や「空」は知的に理解するものです。

知的な理解の努力をしなくてもインスピレーションで理解する場合もあるかもしれません。
しかしそれは知的に理解できますし言語化して表現できます。
誰でも勉強すれば理解できます。

お釈迦様は「十二因縁生起」、略して「因縁」や「縁起」を理解する事で悟りました。
悟った後に「中道」と言う別の考え方も理解したようです。

「中道」とは「十二因縁生起」とは異なる考え方も受け入れるということです。
この因縁と中道、この2つが仏教が他の思想や宗教に比べて独自な点になります。

大乗仏教の開祖ナーガールジュナ(龍樹)はこれを洗練させ空論、中観論、十二門論を著しました。
それを天台宗の中興の祖智顗が三諦論(空論、中論、仮(戯)論からなる)として更に洗練させます。

結局どれを理解しても悟って仏陀になれます。

因縁、空と中道、中観、中

因縁と空は現在の言葉でいうと哲学の構造主義です。

哲学の存在論と認識論を構造主義で解釈したものを因縁や空と言います。
中道、中観、中は現代の言葉でいうとポスト構造主義と相対主義です。
因縁や空を絶対化せず、実在論など別の考え方と相対的に見ろという考え方です。

ですから欧米では仏教を宗教と見ず哲学として見る見方があります。

悟って仏陀になるとどうなるか?

悟って仏陀になっても生物学的にただの人間であることに変わりはありません。
超人や超能力者や特殊な精神状態になれるわけでもありません。
因縁や空以外のなにか別のことを理解したのと変わりません。

悟れば幸せや感動や喜びを得られるとも限りません。
知的な喜びはあるかもしれませんが関心のない人は「ふーん」で終わる人もいるでしょう。

悟っても普通の人と同じように苦しみます。
病気やケガもしますし、老いますし、死にます。
死んだらどうなるか分かるわけでもありません。
宇宙の法則を理解するわけでもありません。

倫理や道徳や正義は含まれていません。
つまり個人や集団の思考や行動、社会の規律やルールは悟りからは得られません。

これは西洋人が仏教と言うものをキリスト教のような宗教ではなく哲学だという理由の一つになります。
西洋人は宗教は道徳を規定すると考えます。

悟ることによって苦しむ可能性がある人もいます。
例えば神や復活や天国や輪廻転生の概念を解体することも出来ますし、相対化することでスルーすることも出来るようになるからです。

真善美のような判断力が変わるわけでもありません。
悟りが文化や芸術をもたらすこともありません。
藝術や創作表現のように人に感動や喜びを与えられるようになるとも限りません。
何か新しい考え方を理解した人と変わりません。

因縁や空自体には他の何かの考え方と決定的な差があるわけでもありません。
因縁や空を理解するメリットはそれである種の問題の解答を得られるからです。

お釈迦様は輪廻転生により永遠になくなる可能性が0にならない苦しみからどうしたら解放されるかの解法に因縁を使いました。
しかしそんなことに興味がなく問題とも思わず解決も求めるつもりがない人には悟っても意味がないかもしれません。

お釈迦様の偉さ

お釈迦様が偉いのは哲学上の問題を解決したからです。
構造主義の第一発見者と言えます。

構造主義により実在論を相対化できるようになりました。
日本のような国ではこれは哲学の出発点になりました。
一方欧米諸国では哲学の最終的な結論となりました

本題に戻ると悟ったから幸せになれるとは限りません。
ただしある種の知的な問題を知的に解決することができます。

お釈迦様の問題は「輪廻転生があるので苦しみは死んでも永久になくならない」という問題でした。
お釈迦様はその問題を解決する答えを自分で理解・発案したわけです。

お釈迦様は輪廻転生も人も苦しみも全て因縁からできているに過ぎないので死んだ後に苦しむことはないことを理解して悟った直後に死のうと考えました。

結局死ぬのをやめて自分の理解したことを世の中の人々に広めようとしたわけですが、どこかの段階で因縁論も一つの仮説にすぎないことに気付いたと思われます。

終わりに

現代哲学と数理哲学と仏教はおなじものなので理解するとメリットがあります。
逆に神などを絶対化する宗教者などには面白くない考え方かもしれません。
仏教は絶対を無視して相対化しますが、絶対主義者は相対主義を受け入れるわけにはいきません。絶対主義を失うからです。

仏教の中でも仏を絶対化するような考え方をする人は因縁や空や中に反対するかもしれません。
超人や特殊な精神状態が好きな人にも嫌われるかもしれません。

そういう人であっても仏教の考え方を理解した上で、自分の心情や嗜好を大切にすれば両立できない事もないでしょう。
論理的には特にそれぞれの考え方を創刊づける必要はないからです。

また我々の脳は論理的矛盾があっても安定できる能力を持っています。

2022/08/16

一番簡単な数学の空間と位相と哲学について

はじめに

数学は哲学を知ると理解が容易になります。
現代数学は数学の中で用いる概念を全て手作りします。
これが他の学問と数学を分かつ特徴になります。

そうした数学の最初にあるものは元(element)と集合(set)です。
元と集合をセットしていくことで元と集合に構造を与えるのが現代数学の第一歩になります。

元と集合のセッティングにより我々になじみのユークリッド空間を作る手始めとして位相について解説します。

位相と空間

空間とは何でしょう?
勉強の世界では高校までに数学や物理学で空間の勉強をします。
これは無限の点の連続な集合でデカルトの座標系で位置を表現できると考えるユークリッド空間と言われるものです。

ユークリッド空間はわれわれが一番親近感を持つ空間で、空間と言えばユークリッド空間と同じ意味と思っている人も多いと思います。

中学や高校では空間は勉強の出発点になります。
しかし大学の物理や数学の専門課程では空間は作るものです。
ユークリッド空間は物理学者や数学者がつくるたくさんの空間の1つに過ぎません。

ユークリッド空間が当たり前過ぎるとこれこそが世界を形づくる唯一の正しい空間と思うかもしれません。
しかし哲学では知りませんが数学ではユークリッド空間が世界を作る特別な空間とは考えません。

そうである可能性もありませんがそうでない可能性も同様にあります。

物理学や数学ではこのそうでない可能性を考えたくさんの空間を作ります。
この「見つける」とは言わず「つくる」という表現を使うのが、また別の意味での中高の勉強と大学の勉強の違いになります。

空間の作り方

物理学や数学の専門課程で空間を作る第一歩として集合論や位相論を使います。
集合論や位相論は数学や物理の初歩になります。
ここを出発点に応用的な宇宙論や素粒子論、幾何学、代数学、解析学などへ進む方向が1つの道になります。

一方でこれらの道の反対方向には数学を哲学的に理解する方向性があって数学基礎論などと呼ばれます。

これらの道に進む前に学ぶのが集合論と位相論です。
丁度全ての道の最初にあるために集合位相論は自然科学の自然的な意味もあれば本格的な哲学的な意味もあります。

位相は集合論の応用の1つです。
位相論は数学の教科書では抽象的で洗練された形で表現され説明されます。

ここでは位相を分かりやすく説明したいと思います。

元とエレメント

元の集まりを集合と言います。
元(エレメント)が集まることで集合となります。

集合とは“set”でエレメントをセットして集合を作ります。
違う見方をするとエレメントに集合をセットするという言い方も出来ます。

どちらの見方もできる様にしておくと便利でしょう。

集合論から作られるものに点や数があります。
元と言うのはまさに「もと」であり「素(エレメント)」です。
元をもととして点や数がつくられます。

点や線のエレメントが元です。
元はエレメントですので一様にみな同じ元で元自体にはそれぞれの個性や違いはありません。

それぞれ区別がつかないエレメントを区別するのが数学の第一歩になります。
エレメントを個別化し個性を与えます。
元に他の元とは違う個性を与え他の元と違うものにしていく作業が数学の第一歩になります。
位相はそのための1つの方法です。 

この「位相」は物理学で周期的なものに使うphaseではなく、topologyという別の概念ですが日本語では同じ言葉で表します。

元と集合、エレメントとセットのセッティング

元(エレメント)が複数あるとその全体は一つの集合です。
また元の全体ではなく元のなかのいくつかを選んで集合を作ることができます。
それぞれ区別がつかないエレメントを区別するために色々な方法があります。

エレメントを個別化し個性を与えます。
そのために集合(set)を使います。

集合(set)を使ってセッティングを行います。
あるエレメントがどの集合に属しているかによってエレメントを区別します。
そのためには色々な集合を決めていく必要があります。

集合(set)をセッティングします。

集合の種類、つまりどのエレメントを含む集合かは元の数が多ければ多い程、作れる集合の数も増えていきます。つまりセッティングの仕方も増えていきます。セットを予め決めておいてエレメントがどのセットに登場するか、どのセットに属するかを決めることでエレメントに個性が生まれます。

エレメントは複数の集合に属すると考えます。
すると属する集合がそのエレメントの個性になります。

エレメントとセットの関係はこの逆も成り立ちます。
どのエレメントを含むかが集合に個性を与えます。
つまりエレメントとセットの関係はどちらを中心に考えることも出来ます。

これが位相を考える際の大切な特徴になります。
エレメントがたくさんの集合のどれに属するのかによりエレメントに個性が生まれます。

エレメントに個性が生まれると同時に集合にも個性が生まれます。
どのエレメントを含む集合かにより他の集合との違いが生まれます。

数学と哲学

数とは何か?

点とは何か?

空間とは何か?

これは数学の問題だけではなく哲学の問題でもあります。
現代数学と古典数学の違いは哲学です。
特に現代数学です。

古典数学にも哲学があると反論されるかもしれません。
しかし古典数学の哲学は実在論をベースにしています。
実在論であることに気が付いていないか、実在論を信仰しているかのどちらかです。つまり無知か宗教でした。

これは仕方がないことではありますが近代における科学は現代の目から見ると学問と言うより宗教に近い面があります。
実在論止まりであれば、古典数学に哲学があるとしても古典哲学です。
これは行き詰まりか思考停止をもたらしました。

現代の数学では「数とは何か?」「点とは何か?」「空間とは何か?」を妥協せず考え続け解答を与えました。
考えることを止めないのは学問であり哲学です。

コンパートメント

現代の数学では「数とは何か?」「点とは何か?」「空間とは何か?」という問題は「数をどのように作るか?」「点をどのように作るか?」「空間をどのように作るか?」と言う問題に変わります。
この考え方は「創造できるのは神だけで人間は作ることができない」という考え方に差し障ります。

中世神学の普遍論争で分かるように実在論は神の実在とセットです。
現代科学と現代哲学の特徴は「作ることができるのは神だけ」という考え方をスルーするようになったことです。

位相の話に戻ります。

エレメントを集合に属させるためにはエレメントに名前を与えて集合にエレメントの名前のタグやらタブやらをたくさんつけていく方法があります。
あるいは逆に集合に名前と付けてエレメントにそのエレメントが属する集合の名前が書いたタブやらタグやらをつけていくことも可能です。

このどちらか、あるいは両方によりエレメントが属している集合や集合が含んでいるエレメントを特定することができます。
これは記号を用いた方法です。

別の方法を考えましょう。
集合に元を与えること、あるいは元に集合をあたえることは元や集合の隣接のさせ方と理解します。

集合は弁図や袋のように図形的、もしくは立体的にイメージされることがあります。エレメント同士、集合同士、あるいはエレメントと集合の隣接関係をイメージしやすい様にエレメントと集合をセッティングしてみましょう。

位相はコンパートメント(区画化)でイメージすることができます。
二つのエレメントが同じか違うかはエレメントの間に仕切りがあるかどうかで区別されます。

あるエレメントが仕切りを超えて別のエレメントがある集合に到達する経路があれば二つのエレメントを区別することはできず、そのような経路がなければ仕切りが2つのエレメントを完全に分かつために仕切りを全て確認していけば閉じた穴のない区画として見ることができます。

この場合区画の形は問題ではありません。2つの経路をつなぐ開いた穴のある区画かどうかのみが問題になります。

この見方で行くとエレメントを分かつ仕切りをどのようにつくって区画(コンパートメント)を完成させるかがまずテーマになります。
あるいは結果的に同じ事ですが仕切り作りで区画を完成させてそのどれにいくつのエレメントを入れていくかが別の形の同じテーマになります。

この立体的にコンパートメントを作っていく立体幾何学的なイメージが位相理解の最初の一歩です。
コンパートメントやエレメントをどんどん加えてもいいですし既にあるコンパートメントを細かく区切って細密なコンパートメントにしていきます。

この作業を規則的に行いたければ何らかの法則性、蜂が巣をつくるやり方でも高層ビルのように立方体や直方体を積んでいくやり方でも構いません。

コンパートメントの融合と共通部分

コンパートメントはいくつか組み合わせて大きなコンパートメントと見なすこともできます。
その場合大きなコンパートメントの中には仕切りで区切られた小さなコンパートメントで埋まっているでしょう。

コンパートメントはエレメントの集合なので小さな集合は大きな集合に含まれる場合があります。
コンパートメントをたくさん含んだ大きなコンパートメント、小さな集合で埋め尽くされている大きな集合を考えましょう。

その様な大きな集合(コンパートメント)がある場合、小さなコンパートメントを共有している場合があります。

有限と無限、離散と非連続

位相は有限な元で考えることができます。
位相を考えるのに無限や連続は必ずしも必要ありません。
ただユークリッド空間のような空間を考える際には無限や連続を導入する必要があります。

数学は無限を扱う学問です。
無限のプロがいるとすれば数学者です。
数や点や空間と同じように無限も作るものです。

特に集合論や位相論は無限研究の発祥地になります。
位相ではエレメントやコンパートメントが無限にある場合を考えます。
さらには唯の無限ではなく整数に対する実数のような連続した無限を考えます。

コンパートメントで位相をイメージするのは一つの捉え方です。
そもそもコンパートメントで位相をイメージする前に挙げた例、タブやタグでエレメントやセットに名前を与えてそれぞれを関連付ける記号的な方法もあります。
それだけでも位相の有用性はありますが、空間を考えるには立体の像や図形を考える様な幾何学的なイメージを持ち、他人とも共有するのが便利です。

一方中学や高校で習う空間、ユークリッド空間は元(点)で埋め尽くされて点のない点、隙間がない集合がイメージです。

連続な点の集合と配置が空間が空間です。
無限、さらには連続というものを考えることは数や点や空間を考えることと同じような哲学的意味合いを含みます。
哲学的な理解と共に実務的、操作的方法で空間、無限、連続を扱うのが現代数学です。

古典的な哲学や数学ではそれら全ては実在していると考えられていました。
集合論や位相論は現代数学ですので現代哲学が適用されます。
すなわち無限も連続も実在の可否は無視して作ることを考えます。

古典的な表現でいうとユークリッド空間は位相構造を持ちます。
位相構造のある空間を位相空間と言います。
現代的に表現すると位相構造を持つように作られた位相空間の1つがユークリッド空間です。

ユークリッド空間以外にも位相空間はたくさんあります。
位相空間を作るにはまず元と集合を作りそれらをセッティングします。
元と集合が無限でもそれを作れるのが現代数学です。
作るという表現がぴんと来なければ、決める、あるいは判定できるようにしておきます。

空間とは元と集合の集まりです。
そのセッティング(配置)を決めれば空間になります。
無限のものを作る場合には作るというより決めておくという表現がいいかもしれません。
元や集合やそのセッティングを決めることで空間を作ります。

境界

位相を区画(コンパートメント)で例えたときに仕切りの話をしました。
この仕切りを元で作ります。

区画の中はエレメントがあるかないか複数あって他はスカスカのイメージではなく、隙間なくエレメントで埋め尽くし、スカスカな隙間が全くない状態をイメージします。

そしてエレメントのイメージを点とします。
そして点を有限でなく無限であり、非連続でなく連続と考えます。

連続性は位相の特徴ではありませんが、ユークリッド空間を構成するために現代数学の他のところから連続性を借りてきます。
最後の部分は話の流れからはイメージできない部分でしょう。

これにイメージ、というより有限を無限に、非連続を連続に帰る操作法を考えることが集合・位相論の肝になります。

境界を点で作る時、境界の点は区画に属するのでしょうか?
区画外に属するのでしょうか?
現代数学ではこれを最初に決めておきます。

仕切りの点が区画に属する時これを閉集合と言います。
仕切りの点が区画に属さない場合、この境界の点に囲まれた集合を開集合と言います。
そうすると集合は3種類考えられます。

閉集合と開集合と閉集合でも開集合でもない集合です。

全ての閉集合か開集合を予め決めておくことで位相空間を作ることができます。
ある閉集合に含まれない全ての元は開集合をなし、ある開集合に属さない全ての元は閉集合をなすと決めておきます。
すると全ての開集合を決めれば全ての閉集合がきまり、全ての閉集合を決めれば全ての開集合もきまります。

どっちか決まれば残りは決まるのでどちらか一方だけを決めておけばいいということになります。
これは集合からの位相の理解のアプローチです。

集合ではなく元を中心に位相をイメージする方法もあります。
点を中心に位相をイメージするのはある点を含む集合全てをそれぞれの点について考えます。
ある点を含む開集合全体、あるいは閉集合全体を全ての点について決めます。
そうすると位相構造は自動的に定まります。

空集合、閉集合、元のどれから位相を決めていっても構いません。
どの方法でも同じものを作れます。

ただし空集合でも閉集合でもない集合から位相を決めていくのは事実上困難です。
無限の点と構造を作る場合には有限ならば許されるかもしれない行き当たりばったりな方法ではなく決め方のルールを明確にして具体的な方法を示す必要があります。

計算機のプログラムのアルゴリズムを作ることと一緒です。
アルゴリズムはシンプルで具体的で操作的なものです。
計算機科学は数学の一分野ですが行き当たりばったりとなじまない学問分野です。

開集合か閉集合か点の近傍(点を含む全ての開集合か閉集合)を全ての点で決めることが最もシンプルな位相空間の決め方になります。
この様に決めた位相空間にルールを導入します。
開集合と開集合を合わせた集合は無限個の開集合を合わせても開集合になります。

一方で開集合と開集合が共有する元は閉集合が有限であればやはり開集合ですが、無限であれば閉集合になることがあります。

閉集合の場合は閉集合をいくつ併せて閉集合になります。
他方で閉集合同士が共有する元は集合が無限であれば閉集合になりますが、無限であれば開集合になる場合もあります。

この2つに全体集合と空集合は開集合かつ閉集合というルールを満たすようにすると位相空間を作ることができます。

立体や図形と位相

位相はtopologyと言います。
古典ギリシア語のtoposとlogosを組み合わせたものです。
Toposとは位置とか形とかいう意味です。

先のルールに従い位相空間を作ってもそれが立体や図形としてイメージする必要は必ずしもありません。
コンパートメントモデルの前で示した記号と対応関係で非幾何学的に示しても構いません。
ですが位相は幾何学的なモデルを使うのに非常に便利なものでもあります。

位相を使っても幾何学的なモデルやイメージを作るのが困難な場合もあります。
また全ての位相空間をイメージ出来る必要もありません。

しかし位相を規則的に決めると構成される位相構造や位相空間を幾何学的にモデル化やイメージしやすい場合があります。
ユークリッド幾何学がその代表的な例になります。

こう書くとユークリッド空間は簡単につくれそうですが、ユークリッド空間を作るには位相意外にも色々な構造を作ってその構造を組み入れておかなければなりません。例えば先ほどの連続性や距離です。

例えば位相と連続性だけで空間を作ると点の間の距離が定まりませんので我々のイメージにはぐにゃぐにゃした物体を思い浮かべることになります。
ただ位相の他に連続性や距離や点や集合の分離性などの規則を単純に決め、それを素直にイメージすればユークリッド空間になります。
ですから位相はユークリッド空間をつくるさいに与える構造の1つでしかないとも言えます。

空間の中の点の全ての集合について開集合、閉集合、その他の集合が決まり判定できることで空間に位相を導入します。
この判定が容易にいくような操作的な方法を予め定めておきます。

そのために≧や>、⊃や⊇や∋の記号を作って機能を決めておきます。
同じようなことを繰り返しますが≧や>、⊃や⊇や∋などの記号や機能も最初から作っておいて導入、適応する概念であり、概念の積み重ねでモデルやイメージを作っていきます。

≧や>、⊃や⊇や∋などの記号や機能はユークリッド空間ありきでユークリッド空間の後にできたものではなく、ユークリッド空間に先立っており、それを空間に適用するかしないかを考えるのが現代数学です。

数学の哲学

数学の哲学は特別なものではなくやはり普通の哲学を数学に適用したものに過ぎません。
古典数学では古典哲学の実在論が数学の哲学になります。
ここでは我々が実在すると感じるものは神や自然が実在を保証してくれます。

現代数学の哲学は現代哲学です。
現代哲学では実在論的見方もしますが、同時に非実在論的な様々な考え方を許容します。

非実在論的な考え方でもっとも重要なものは構造主義です。
現代数学は構造主義により数学を作ります。
ユークリッド空間も作ります。
ユークリッド空間を作るための材料の一つが位相です。

位相と言う材料を使ってユークリッド空間以外にも色々なものが造れます。
ユークリッド空間のような空間はもちろん、空間が何を指すかはともかく、空間以外のものも作れます。

要は何かをつくるのは哲学、もっと広く言うと思想になります。
実在論者は実在論に基づいた数学を作るでしょうし、構造主義者は構造主義に基づいた数学をつくるでしょう。

そしてポスト構造主義者はどちらの数学も受け入れるわけです。

おわりに

位相の理解と位相からユークリッド空間を作る話をしました。

高等学校は高等という言葉はつきますが高等教育を行いません。
それでは大学では高等教育を行うかと言うとこれも行わないことが多いようです。
初等教育と高等教育の違いは学ぶ学問に哲学があるかどうかでしょう。

初等教育は暗記と反復して反応と応用速度を速めることを教育と呼びます。
高等教育では学問の中核の哲学を勉強します。
初等教育のような大学の講義があまりにも多すぎるため多くの大学生が高等教育を理解できないまま大学生活を行います。

数学の基礎論や集合位相論、物理学の量子力学などは学問の哲学を知っておけば理解が容易ですし、集合位相論や量子理気学を理解すればその先の数学や物理学の先の分野にも躓かず進めます。

学習や教育の効率の悪さは深刻な問題です。
哲学は学問の学問ですので勉強の効率を上げるために活用するとよいでしょう。

2022/08/04

低気圧による問題:気象病

気象病とは

昔から雨の前には頭痛が起こることがあることが知られていました。
雨の日の前の頭痛の訴えを聞いた事がある人は多いのではないでしょうか。

体験したことがない人には分かりにくいですが症状がきつい人には大変な苦痛です。
この頭痛前の体調異常には、頭痛、倦怠感、生理前症候群の悪化などいろいろありますが、近年ではこれを気象病と呼ぶ人が増えているようです。

医療機関で検査しても異常が出ないのであきらめるしかない、あるいはドクターショッピングすることになる、あるいは自己流の対処でどうにかするしかなく、医療の盲点になっています。

昔は検査異常がなければ死ぬわけでもないので医療で対処する必要でないと無視されてきた色々な状態が現在では医学研究されるようになってきました。
これは健康とは病気を治すようにゼロをプラスにすることだけではなく、ゼロをプラスにする健康増進が医療の重要な課題になったからです。

雨の前の頭痛

近年雨の日の前の頭痛などの天候に関連する心身の不調が取り上げられるようになってきました。
特によく聞くのが頭痛の訴えです。
これはどのような仕組みで起こるのでしょうか。

結論から書くと体液の生体内での分布が関係します。
体液の分布の変化を起こすのは気圧の変化による体の反応です。

雨の前には前線通過などでだいたい気圧が低下します。
この気圧の変化に対して人間の身体は伸び縮みをします。
気圧や水圧は人間の身体の表面を外から中に向かって全方向から押します。
すると圧力が高まれば人間の身体は体積が縮みますし、圧力が高まれば体積が大きくなります。

我々が普通生活していると気圧の変化は緩やかですので気圧の変化の影響を感じることはありません。
しかし気圧が急に変わる時には体が変化を感じることがあります。

雨の前には前線の通過などで気圧が急に下がることがあります。
これによって体が膨張し体液の分布が変わります。
身体が膨張する際には血管外の組織に体液がたまります。
これが激しく起こることを浮腫と言います。

いわゆる寝起きや立ちっぱなしの後にむくみで顔や足などで浮腫がおきて足がパンパンになるのは女性やある程度歳を取った人には普通に思い当たるでしょう。

天候の変化による気圧の変化は小幅です。
山登りなどで高地にいったり、スキューバダイビングや素潜りから浮き上がる際にはもっと急激で大幅な圧力低下が生じ、体にはもっと異なる変化が生じます。

酸素分圧の低下による呼吸不全や溶存ガスの気泡化による空気塞栓が生じる場合がありますが天気の変化位ではそんな変化は起こりません
しかし体の膨張や体液分布の変化が生じるので体に負荷がかかります。

この体の膨張や変形、体液の移動が気象病の原因と考えられます。

体の仕組み

大雑把に言うと我々の身体は気圧と上皮を身体の内部から押す力が均衡して形づくられ体積が決まります 。

我々の身体は皮膚や粘膜などの外皮に包まれており体中を血管が張り巡らされています。
上皮の内部で血管の外にスペースがありそこに細胞と基質、繊維、血管外液などの細胞間質があります。
これは手やあし、胸腹部臓器などをイメージしてもらうといいですが、中枢神経系はこれとは違う作られ方をしています。

細胞内も細胞間質も体液が増え膨張しますが、特に注意が必要なのは脳などの中枢神経系です。
中枢神経系は頭蓋骨や脊柱管という閉鎖的なスペースの中に脳脊髄液と言う体液に浸されて存在しています。
解剖の本などでは脳は頭蓋内を浮かんでいるように見えます。

組織標本をみると脳の実施痛を構成する神経細胞やグリア細胞は神経細胞同士が基質や線維がなく神経細胞同士が直接密接して接している様に見えますが細胞の同士の間には脳脊髄液をが大量に含まれて水浸し状態のようになっています。
脳の細胞間質には線維や基質がなく脳脊髄液だけがあるのが特徴で脳脊髄液が細胞間質を形成している点がポイントです。

脳は脳を栄養する血管を除いた脳実質は線維も基質もないのとても柔らかく変形しやすいです。
そのために骨や硬膜、軟膜、くも膜に固定されて守られているようにイメージしてもらうといいと思います。

気象病の病理

気象病は緩やかな減圧で生じます。

減圧で生じる疾患では減圧症や高山病が有名です。
これらの疾患は急速で大幅な気圧や水圧の変化で生じます。

気象病は減圧症や高山病と比べて圧の変化が緩やかなのと条件が異なります。
高山病は酸素分圧が大幅に低下するほど気圧が低下するので換気や呼吸障害が病理の大きな部分を占めます。
また減圧症は体液に溶存している気体の気泡化による空気塞栓が関与するので循環障害が関係します。

それに対して気象病は換気障害が生じたり空気塞栓が生じたり程には気圧は変化しません。
気象病に似た条件は飛行機やヘリコプターで離陸する際や低い山への山登り(3000m級の富士山や8000m級のエベレストではなく日帰りで行ける様な山へのハイキング)の状況が近いかもしれません。
この様な低い気圧の変化でもやはり血管外の体液の貯留が生じます。

血管外の細胞や細胞外液の両方が膨張し、血管内の循環血液量は低下するでしょう。
この様な体液の移動は中枢神経系に影響を与えます。

骨や硬膜で囲まれた変形しないスペースの中で脳の神経細胞やグリア細胞の膨張が生じます。
この脳の細胞浮腫が頭痛の原因と考えられます。

この脳細胞の浮腫による頭痛は実は二日酔いの頭痛もそうで低気圧性頭痛は二日酔いの頭痛の似た病態と考えられます。

気象病の治療

気象病にはなり易い人となりにくい人がいます。
気象病になりにくい人は普段身体を使っている人、体を鍛えている人、頑丈な体質の人、女性よりは男性、低血圧よりは高血圧傾向の人、子供よりは壮年期で目立つ鵜傾向があります。

こうしてみると普段から自律機能を鍛えている人、血管運動性を鍛えている人、過去や現在運動を含めた健康感の高い人は気象病と言われても良く分からない人もいるかもしれません。
そういう意味では普段から健康的で身体を鍛えていると気象病予防になると考えられます。

多分気候の変化を風や気温、湿度、気圧などから感じることができる能力が人間にはあると考えられます。
農業や漁業など自然と密接な仕事の人はこういう能力が鍛えられ開発されていると考えられます。
ただ運動不足ではない生活や仕事を送っている人は気象病にはなりにくいようです。

気象病は確立した疾患概念ではないので確実に認知されている治療薬はないと思います。
しかし経験的に、あるいは二日酔いや高山病などの似た病態に対する治療薬はある程度効果が認められます。

低気圧性頭痛では漢方薬の五苓散という利水剤が効果があることが知られており、これは気象病の頭痛にも効果があるようです。

五苓散は二日酔いの頭痛の予防に効果があります。
五苓散の作用機序としてアクアポリンと言う細胞内外の水の移動を司る細胞膜の部分を阻害することが知られています。
ここから細胞内に水が入らないようにして細胞の膨張を防ぐ脳浮腫の予防が頭痛の予防にもなります。

また高山病の予防や治療にはダイアモックスと言う薬が使われます。
これは炭酸脱水素酵素阻害薬と言う利尿剤としても使われる薬が使われます。
高山病は酸素分圧低下による病理があり気象病とは違いますがともに肺水腫は浮腫などの体液分布の問題が現れます。

利尿剤の使用は循環血液量の低下と血液濃縮のリスクがあるので一概に使用は推奨できないと思われますが、穏やかに効き、かつ炭酸脱水素作用の阻害作用のあるダイアモックスが伝統的に高山病とその予防に使われてきました。
この薬剤は気象病の頭痛もある程度低減させる効果があるようです。

重い高山病はステロイドなど使用しますが気象病で使用するにはややオーバーかもしれません。
非ステロイド性消炎鎮痛薬と呼ばれるロキソニンやイブプロフェンなどは広い疼痛に効果がありますが、やはり低気圧性頭痛にも効果があります。

いろいろな薬剤を紹介しましたがどれも医学会でコンセンサスになっているものではないので使用には注意を要するでしょう。

2022/08/02

一番やさしい数学とはなにか

はじめに

「数学とはなにか」ということを改めて考える必要がある人はあまりいないかもしれません。しかし数学とは何かについての基本的な哲学を持てるようになると数学がとてつもなく面白くなります。
それはネットで流れているような数学の雑学とは別のものです。

“数理哲学”というと色々な意味が含まれてしまうかもしれませんが、ここで説明するのは数学を基礎づける哲学の簡単な説明です。
「数学を基礎づける哲学」を勉強すると数学に対する見方が全く変わります。

物心つかない頃から数の数え方を皮切りに教えられてきた数学に対する見方がひっくり返るようなエキサイティングな体験ができるでしょう。

多くの方々が改めて数学を勉強してみようというきっかけになることを祈っております!

数学という言葉

“数の学”と書いて数学と書きます。
この名称を見れば誰でも「数学は数についての学問だ」と思うでしょう。

では数とは何でしょうか?

“数学を基礎づける”哲学を考えるならばこういう問いが必要です。

そもそも日本では“数の学”と書いて“数学”という言葉を使いますが、英語では”mathematics”、他のヨーロッパでも”mathematics”の語源である古代ギリシア語の“μανθάνω”という言葉から派生した類似の言葉を使います。
“μανθάνω”は「学ぶ」と言う意味で、mathematicsはそこから派生した「学ぶべきもの」という意味です。

近現代数学は欧米諸国によって作られましたが、それらの国々では日本語の「数学」を「学ぶべきもの」という別の意味で翻訳するわけです。
ですから筋から言えば“mathematics”を「数学」と訳したのは誤訳と言えます。

欧米人は数学を「学ぶべきもの」というとても重要なものと考えているのに対して、日本人はmathematicsを「数に関する学問」という学んでも学ばなくてもどっちでもいい様な学問としてとらえているわけです。

日本ではよく学問に“学”や“科”を付けます。
典型的なのは「科学」という言葉でしょう。
日本語の科学は英語のscienceに相当し、scienceの語源はギリシア語の“知識”です。

数学と同じく近現代の科学は欧米諸国で作られたので、欧米諸国が漢字文化圏の「科学」という言葉をscienceの翻訳に充てたのではなく、欧米諸国の“science”という言葉に漢字文化圏が「科学」という言葉を当てたのでしょう。
Phisics、chemistry、biorogyを「物理学」「化学」「生物学」を語尾に学をつけて訳したのも同じ事情でしょう。

我々は物心つくかつかないかのうちから数を覚えます。
お風呂で親と一緒に数を数えた記憶がある人は少なくないでしょう。
日本では昔から読み書きそろばんは庶民にまで広く浸透していました。

最近は小学校でも算数をmathematicsと訳しているようですが、昔は小学校の算数はarithmeticと訳されました。
Arithmeticは「算数」「算術」を表します。

数を覚えた後には加減乗除の数値演算を教えます。
Mathematicsを数学と訳した人はこの印象が強すぎたのかもしれません。
この数とは演算するものであると教えられた印象が強いためarithmeticを科とする学問、mathematicsを数学と訳したのかもしれません。

今でこそ学問と言えば理系が優位ですが昔は学問と言えば文系を指しました。
外国の文物を翻訳するような偉い学者の先生が数学音痴であったとしてもしかたがないでしょう。

かくして学問のプリンケプスであり女王と冠されるmathematicsは、万人の学ぶべきものではなくただの「数の学問」に誤訳され格下げされてしまいました。

数について

数学という言葉はmathematicsの誤訳である云々はおいておいて「数学」という言葉をスタート地点に考えてみましょう。

数を自明な前提として数学を進めるのは初等数学や古典数学です。
しかしもし数学を基礎づける哲学を考えるのであれば「数とはなにか」を考えることが出発点になります。

これは小・中・高と学んできた算数や数学の学習方法とは逆に進む道になります。
それらは複雑に見えますが「数」を応用する方向性での複雑さです。

その道を逆に進むことが「数とは何か」を探す道になります。
その道の第一歩で行き当たるのは「数」ではなく「元」です。

「元」という言葉は集合論で登場します。
「現代の数学は集合論の上に作られている」というような表現を聞いた事があるかもしれません。
元よりなるものを集合、または集合は元より成り立ちます。

元に様々な性質を与えることにより数を作り出すことが数学の哲学の初めの一歩でした。
他方で数より奥深くにあるものが分かるとそこから別のものが作れます。

元から作れるのは数だけではないのです。
数は元の1つの例に過ぎません。
まさに“数学のもと”です。

元から作った数以外のものを数学の範疇に入れるかどうかは好き好きです。
理論物理学などは元を使って色々なものを作り出しています。

元から数を作る

まず具体的なところからはじめます。
数がどのように造られていくか?我々の幼児期の体験を思い出しましょう。

両親は我々に数の名前を教えます。
まずは呼び名です。
そしてもう少し大きくなると数の書き方を教えます。

数の名前とは呼び名と記法からなるわけです。
数え方を覚えると演算、つまり算術を習います。
これは現代では塾や学校が代行することも多いでしょう。

小学校に入れば分数や少数も習います。
中学生になれば自然数や分数、少数を拡張した整数、有理数、実数を習うでしょう。

大体中学校までが義務教育で文理の違いもないのでここまでは成人の共通認識となります。

数に与える性質-1

もう少し別の観点からどの様に元から数を造るのか眺めてみましょう。
実はお風呂で数を数える時に我々は数の持つ隠れた性質を教わっています。

まずは単位元の存在です。
これを“1”といいます。
自然数は1に1から一つずつ1を加えていくことで等間隔で作られていきます。

これは呼び名も数字もそうです。

また順序や最小値の存在の整列の概念を実は習っています。
更に自然数が不連続性(非完備性)や無限(濃度)、位相、点列や距離空間の概念などがすでにここに含まれています。

これらは分数、少数、負の数などを習うことにより反復しかつ洗練されて我々の頭に刷り込まれていきます。
意識して学ぶというよりインプリンティング、つまり刷り込まれ条件反射化して記憶されます。
しかし意識していないため数の性質を覚えてゆく自覚はありません。

自覚なく元に性質を与えられていく、言い換えると構造を与えられているところがポイントになります。

数に与える性質-2

初等教育、幼児期と学童期において学習の1つのクライマックスになるのが読み書きそろばんのそろばん、すなわち加減乗除の習得でしょう。

足し算を学び、そして引き算を学びます。
これは集合の元の間の加法の習得であり、言葉を変えれば数を群として扱うことを刷り込まれます。
ここで無意識に単元と逆元、そして零元の存在、結合法則や交換法則を学んでいます。

これが数値演算、言い換えれば算術の計算の初体験であり一つ目のものになります。

その後に2つ目の演算である乗法、すなわち掛け算と割り算を学び元の間の相互作用と数の体系、すなわち体を学びます。
中学生になると幾何学に座標を与える代数幾何学や関数という写像を学びますが基礎は小学校までで学ぶ算数に含まれています。

元から数へ

集合をgroupとすると元はグループのmemberですが同時にelementと訳します。
エレメント、あるいはメンバー同士の関係のルールを作ることにより数(number)を作ります。
その際に与える構造は集合論と位相論における性質と元同士の演算を規定する代数系の構造になります。

こどもは教えられることによってこれらの性質や構造を無意識に獲得し無意識に使用します。

これらは原始人は無意識にも知っていたのかは分かりません。
もしかしたら猿の時から持っていたのかもしれませんし、実は気が付いたのはごく最近かもしれません。

個体発生は系統発生に準ずるがのごとくに我々は赤ちゃんから大人への過程では刷り込まれることで、原始人から人間になるまでの間には進化の過程で経験的に獲得し文化として集団で維持されてきたのかもしれません。

転換点は無意識の状態から意識されるようになった時、あるいは数が根源であったと思っていた時から数は元から作れると認識した時になります。

数の起源

公理的集合論から初めて数を構築することは高等数学の入り口になります。

元からはいわゆる我々が数として認識している自然数、整数、有理数、あるいは無理数や実数、そして場合によっては複素数以外にも様々な数学的、あるいは理論科学的要素を作ることができます。
公理的集合論を更に掘り下げると圏論などの数学的構造の更にシンプルな定式化が可能です。

我々は偉大な先人が創造した数学的構築物を好きなだけ学ぶことができますし、つまらなくても興味深さがなくても良いのであれば自由に自分で数学的構造を創造ることも出来ます。

19世紀末にある天才数学者が「自然数だけは神が造った」といいました。
我々は高々100年前には天才数学者さえ知らなかった数の作り方を知っているのです。
それは天国、楽園、浄土、涅槃とさえも入れえる幸福な時代に生きています。

もちろん数を起源として元を数から抽象して創造したものと考えても構いません。
しかしそれと同時に元から数を想像できるという考え方を同時に持つ必要があります。

これは20世紀初頭に論争した論理・形式・直感主義者たちや数学を人間の手で一から構築しようとしたブルバキなどの努力があってもなお理解されないことがある考え方です。

しかし数学を基礎づける哲学、―単に数理哲学と呼んでもいいかもしれませんが―、の根源には、現代哲学や大乗仏教の中道が相対主義の考え方と並んでこの様な考え方があります。