月別: 2009年12月

2009/12/03

はしご、科学の仮説と現代思想のモデル

科学と現代思想というものを同型群としてとらえてみます。
ある面からみるとこの見方が可能です。

①現代思想の意義というのは、近代思想と異なる上に近代思想よりもより強力にいろいろなものを説明できるモデルを提供したこと。
②そのことにより近代思想の側から見ると反例が提示されたことになるが、これは近代思想のレジティマシーを崩し、近代思想を批判するための強力なツールを提供したこと。

です。

科学における宗教は、現代思想における近代思想のようなものです。

科学によって神はオッカムのカミソリで切り捨てられてしまいました。
科学を使えば世界の説明原理としての神はあってもなくてもよいどうでもいいものになり、存在の必要がなくなってしまったからです。
どうように近代思想は現代思想によってオッカムのカミソリで切り捨てられてしまいました。
現代思想があれば近代思想の奉ずる真理というものはあってもなくてもどうでもいい特に必要のないものになり、結果真理の体系=形而上学すなわち近代思想は存在の必要がありません。

さらに科学は永遠に仮説しかない世界ですが、現代思想には永遠にモデルしかありません。
どちらも真理の体系という特権は永遠に剥奪されています。
どちらも真理という概念がない世界です。
どちらも自分が絶対に正しいと主張することは永遠にありません。

2009/12/03

経済と情報の問題―情報の問題―

情報能力はcontemporarismを支える一つの土台です。
情報の質、量、検索能力、解析能力、処理能力、情報伝達、教育、知識、教養、そういったもの全ての情報に関する能力というのは現代主義には有利に働く傾向があると考えられます。

より高い知的能力を身につけ、より用意に情報にアクセスできるようになり、得た情報からより高度に有益なもの、有益な情報を引き出せる能力、情報処理能力というのは情報というコンテンツ自体ではなくその情報を使いこなすための基盤となる、教育などで得られる構造化=フレームワーク化能力です。
すなわち知的能力ということで、これは単に知識が多いというのとは違います。
人類が進歩するということは生産力の向上やら技術の進歩やらいろいろな進歩がありますが、一ついえるのは人類というのは全体として確実に情報量や知的能力が高まって行っており、これはほぼ一方行的に上昇し続けていると考えられます。

現代性というのは大脳皮質をより上手に使う方向性になります。
現代思想はそれ以前の思想に比べれば極端に大脳皮質機能に偏重かかっていると思われます。
現代思想は大脳皮質の自動化に抗する、それに支配されず、その性質を知って、それをうまく乗りこなすことを目指しているような思想です。
大脳は人をだましますが、知らずにだまされるのではなく騙されていることを自覚しながら、いつでもどのようにだまされているのかを提示できる心の準備を持ち続けながら生きる思想です。
大脳皮質の作った世界は迷いの世と言われたり、シミュレーションと言われたりして、ヴァーチャルにリアルな世界です。
大切なのは自覚することです。

情報の格差もまたひとつの権力ですので、

2009/12/03

経済と情報の問題―経済の問題―

生産力の向上は貧困をなくしてゆきます。
一応強調しておくことは格差と貧困問題は別のことだということです。
大切なのは貧困問題であり、格差というのはそれ単独では問題ではないと思われます。
貧困は実に切実な問題であり人に苦痛を与え悩ませます。
それゆえ貧困は人の自由を奪うための強力な脅しとなる場合があります。
挑戦して失敗すると貧困になるということがフーコー流にいうと強力な装置でした。
あるいは反社会的な行為をすると社会は貧困という刑を与えるのが今までの歴史でした。
どんな場合でも、たとえ失敗しても罪を犯しても社会に逆らっても貧困にならないほど豊かな社会というのは現代主義親和的です。

現在はそのような社会ではなく過渡期だと思われます。
そこでcontemporarism的なものとパラノイド的=modernism的なものが混在する傾向にあると考えられます。
将来もっと豊かな社会になっていくにつれて社会が自由、個人、多様性などが認められるようになる、contemporarism親和的な社会に移行していくと考えられます。
現在は豊かさと貧しさが交じり合うまだらな状況ですので、contemporarismとparanoidismもモザイクをなしていると考えられます。
経済的にcontemporarismを進めていくには豊かになること、すなわち生産性の向上が全てです。
社会の生産力が上がればそれだけcontemporarismが支持される土壌ができていくと考えられます。

貧しい社会はパラノイド親和的です。
おそらく貧しい社会ではパラノイド的であった方がいろいろ都合がよいことが多いのでしょう。
おそらく無理なことを無理やり通そうとして無理な理屈をつけたり妙な正当化をしてしまうシチュエーションが多いためと考えられます。
そのような社会ではむしろ現代主義的な生き方、自由であったり個人主義的であったり多様性を尊重したりすることはいろいろなやり方で壊されたりスポイルされたりします。
それはいいとか悪いとかではなく、その方が貧しい社会ではうまいやり方だったのでしょう。

2009/12/01

構造化について(2)

構造には広義の意味と狭義の意味がります。
広義の意味では構造内の整合性や一貫性、無矛盾性が保たれている必要はありません。
関係性で規定される体系というだけのことで、別にその体系内で矛盾があることもあり、ダブルスタンダード、トリプルスタンダードである場合もあり、時間とともに変化して姿が変わってもかまいません。
狭義に構造化という場合、公理的な構造をイメージします。
モジュールとして非常にまっとまっており、これらを組み合わせて使ってもいいですが、きちんと独立性などが考えられ、破綻がないように全体で組み合わさっているものです。

構造化は現代思想の大切な問題で特にドゥルーズにおいて大切です。
ドゥルーズ的な行き方をドゥルーズィズムと呼び、そのような行き方をする人をドゥルーズィアンないしドゥルーズィストなどと呼んでみましょう。
情報の科学や技術的観点で考えてみます。
ここでは情報を狭い意味で使ってみます。
元の情報が構造化されていようが構造化されていまいが、それを対象として構造化を行うとそこから新しい構造の意味が生成します。
構造化するとは何らかの原理原則にのっとり、対象/元の情報を構造化し、新しい情報に加工することです。
この場合、元の情報は解体されたという意味と新しい情報が生成されたという意味の両方があります。
まあ片方しかない場合もあるかもしれませんが。
現情報を構造化/情報処理する方法はおそらく数え切れないほどありえます。
どのような原理原則を用いて(考え方といってもいいしフレームワークと言ってもいい)もとの情報を処理するかによって数限りない新しい情報や意味、概念、なんといってもいいですが様々なものが生成します。
対象の情報は一意性ではなく多義性の観点から眺められます。
もちろん必要に応じて一意性の観点から眺めてもかまいません。
意思決定学やプラグマティズム、パラノイディズムによりダイナミックにスピーディーに進んで行きたいときなどは大胆に様々な観点=シゾイディズム性は切り離していくべきときも多いと考えられます。

情報処理、構造化、機械、リゾーム(マルチインターフェイス)その他様々な観点から考えるとドゥルーズを構造主義観点から理解するのはしやすくなります。
また力、欲望と欲望の形、など力と力の発動の形を考察していく必要がドゥルーズをまた別の観点から理解するために必要です。

2009/12/01

生産性の向上とcontemoprarism

生産性の増大、生産力の向上、共同体や組織の規模の向上、技術の進歩という観点からcontemporarismについて考えてみます。
生産性や生産能力が高まるほどに環境はcontemporarism親和的になっていくように見えます。
生産性の低い社会はパラノイド性の強い社会のように歴史を眺めると見えます。
生産性の低い社会では個人主義や自由主義が成り立つ余地が低そうに見えます。
生産性の高い社会では個人が共同体や組織に従属せずに生き易くなります。
組織や共同体の大きさ、また対象関係論的な人間の内外界での関係性、それに現代主義的精神と近代主義ないしそれ以前の精神性というのはどういうわけか関係があるように見えます。
マルクスやら近代主義の思想家達がこの観点からいろいろ議論している気持ちというのは理解できる余地がなんとなくあります。
生産力の低い貧しい社会では発想がゼロサム的になりますし、誰かが得をしたら誰かが損をするような観点を持ちやすくなるのかもしれないと思います。
近代社会主義者や共産主義者などの集団主義者の勘違いは経済的格差はよくないと思い込んでいたところにもあるような気がします。
これは生産性の低い社会では結構流通しそうな考え方です。
この考え方、感じ方が社会の生産性が高まっていったときにどうなるかです。
社会主義者や共産主義者は社会の生産性が高まったときにも、生産性が低いときと同じようなこの図式が成り立つという先入観を持っていたように思います。
実際はある適度以上生産性が高まった社会ではこのような嫉妬的というか、吝嗇的な見方や感じ方しなくなる可能性があります。
何の関係でそうなったかは知りませんが、豊かになり成熟した社会では近代以前のものの感じ方は人々は持たなくなっていく傾向があるようです。
今も時々誤解があることですが格差と貧困問題は本来全く別のことです。
貧困はなくした方がいいかもしれませんが、較差はむしろあった方がいい可能性すらもあります。
豊かな社会ではパラノイド的な強圧的な圧力やそれに個人がまかれたり従属したりする必要が薄くなるのはそうしなくても生きていけるからです。
何かに依存したり支配されなくても食っていけることがあります。
また個々人が主体的、自覚的になること、また個々人の力が強くなることは経済に助けられている面があります。
必要最低限の生きていく糧をより簡単に得られる、より生産力を享受できる状況では人の精神は自由になります。
自由で主体的な個人は経済的な格差に関係なく強いものでより個人主義的土壌を育てます。
支配、被支配の関係に時代がより新しくなる(生産性、技術が進歩する)につれて関わらないで生きていくことができます。
自由、主体、意志、恒産というか生きていく糧をもった個人は較差や金持ちでも支配しにくいものです。

経済的な生産性の向上とcontemporarismは親和性があります。
両方とも自由や個人、解放、創造性、オープン性などについて同じようなベクトルを向いているからです。
これがたまたまなのか何らかのつながりがあるのかは分かりません。