医師 奥村 克行のブログ

2022/01/05

現代哲学の「実」と「シミュレーション」「シミュラークル」入門
―フェイクニュースとは―

はじめに

 哲学ではよく「実」がつく言葉を使います。

 例えば実在、実体、実存、実感、現実、確実、事実、真実、実証、実質、誠実、実直、実像、実利、実力、実家などの単語に「実」の字が含まれます。

 実際に「実」があるかないかは哲学の主要なテーマになりました。

 中世神学の普遍論争では実在論と唯名論が対立する理論として論争されました。

 実在論は「実際に在る」ということで、逆に唯名論は「ただ名しかない」、言い換えると「名があるだけで実際にはない」という意味に名付けられています。

 その後の大陸合理論やイギリス経験論、ドイツ観念論などの近代哲学は大雑把にいうと「実」を探求するための哲学理論とも言えます。

 その後の近代哲学と現代哲学(構造主義的哲学とポスト構造主義)の端境期にはニーチェの哲学、実存哲学、現象学、科学の隆盛、構造主義の誕生などがあり、「実」というものに対しての捉え直しが始まります。

 現代哲学の解説や説明をしているとあまりにも「実」という言葉が出てくるため、この言葉を深く理解する事で現代哲学の理解がより容易になる方法が見つかるのではないかと思い立ち「実」の言葉と概念を考察してみる事にしました。


第1章 「実」という言葉

 「実」という言葉について一般的な意味や成り立ちを見ていきましょう。

「実」の意味は漢字ペディアによると、

「①み。くだもの。「果実」 ②みのる。「実生」「結実」 ③みちる。内容がそなわる。「実質」「充実」 対名・虚 ④まこと。まごころ。「実直」「誠実」 ⑤ほんとう。ありのまま。「実例」「真実」」

で、字の成り立ちはやはり漢字ペディアによると、

「旧字は、会意。宀と、貫(財宝)とから成り、家の中に財宝が満ちていることから、ひいて「みちる」、転じて「みのる」「み」の意を表す。教育用漢字は省略形による。」

となっています。

 倫理学では実在論(realism)、実体(entity)、実存(ex…)、論理実証主義、その他さまざまな重要な概念に「実」の字が使われます。

 現代哲学の説明や解説にあまりに「実」の字がたくさん出てきてくどいというかしつこい感じがしましたので別の文字を使おうとしても適当な文字が見つからず、別の表現を使おうとすると文で書かないといけなくなり文章が長くなってしまいます。

 とすると「実」という字は他に代えの効きにくい日本語では重要な文字なのでしょう。

 逆に「実」の対義語をネットで調べてみます。

 サヤ、殻、皮、虚、名、偽、贋、嘘、仮、逆などの言葉が見つかりました。

 この中で学問で使うのは先ほどの唯名論の名で名称とか名目とか名前と言う意味で実在と対置されます。

 また実数に対して虚数と言う言葉が使われます。

 中世の唯名論は実在はなく名前、名目、名称しかないという考え方とすれば現代哲学の構造主義や仏教の空論、あるいは諸行無常や諸法無我の考えと同じものだったのかもしれません。

第2章 「実」に対応する構造主義の言葉

 現代哲学で実が重要になるのは、実の大義概念が現代哲学の中核になるからです。

 現代哲学を形成する2つの理論は構造主義的哲学とポスト構造主義です。

 構造主義的哲学では存在論と認識論を構造主義を使って形式化するのですがその際に素朴実在論で実体とでも呼ばれるような適当な言葉がなくて不便を感じます。

 他の同じ内容の思想である原始仏教では諸行無常、諸法無我、大乗仏教では空、現代哲学では差延、シミュレーション、シミュラークル、現代数学では無定義概念や無定義語と表現していると思うのですが、この中では空が一番簡略で良いかもしれません。

 構造をマトリックスの様に表現すると実と見えるものはマトリックスの結節点になりますので、「結節」という表現でもいいかもしれません。

 IT的に言うとVRとかARという言葉が非常にいい所をついている様に見えます。

 そこから類推して「作られたリアリティ」「構築されたリアリティ」という日本語を訳して「constructed reality(CR)」という言葉などはなかなかいいのではないかと思います。

 唯名論が構造主義的哲学と同じ内容かは分かりませんがもし同じ内容なら「唯名」というのも候補に挙がるかもしれません。

 実を否定する「不実」「非実」「無実」「否実」などでは何を表しているか不明なのでふさわしいとは思えません。

 ここでは現代思想史に準じて「実」に対する構造主義的存在論/認識論の概念を「シミュラークル」と呼ぶことにしましょう。


第3章 「実」がなぜ大切か

 「実」感は実はあって当たり前のものとは必ずしも言えません。

 実感なく理解する場合もあります。

 認識に強い納得を伴うような場合を納得と言ったりします。

 実感がない場合は例えば精神医学で自分の存在や自分の身体や精神活動にリアリティーが持てない場合を離人症と言います。

 また現実にリアリティが持てない場合を現実感喪失症候群と言ったりします。

 逆に突飛な他人の理解できない想像に実感がこもり過ぎて確かで正しい考えだと思い修正が効かなくなることを妄想と言います。

 実感、あるいはリアリティの形成には知性や理性、あるいは悟性や感性だけではない、というのが現代哲学の考え方です。

 モデルに知的なもの以外を導入しないといけません。

 知情意の情や意の部分でしょうか。

 現象学のフッサールは指向性(ノエシス、ノエマ)という考え方を導入しました。

 ハイデガーは道具的連関から存在者の存在様式を分析しています。

 ニーチェは人間がリアリティを作り上げる過程を力への意志やルサンチマンで説明しました。

 精神分析学の創始者フロイトは精神力動においてエス、イド、リビドーなどと呼ばれる要素を導入しました。

 ラカンは現前の生成を説明するシェーマの中に要素としてエス(イド、リビドー)を組み込んでいます。

 これらの思想家たちは現代哲学の前駆者です。

 これらの情意の要素はフーコー、ドゥルーズ=ガタリ、デリダなどの現代思想家にも取り入れられています。

 情意、あるいは潜在意識のような良く分からないものを取り入れなければならないのは現象するもの、現前するものがいかにリアリティや実体感を持ち臨在感を持ちうるかを説明するためであるというのが1つの解答になります。

 リアリティとはすごいものであり恐ろしいものです。

 普通我々はリアリティを感じるからリアリティを感じる対象の実在を信じます。

 「我々は自分の信じたいものを信じる」これを言ったのはユリウス・シーザーです。

「我々は自分の信じたいものにリアリティを感じる」これを看破したのはニーチェです。

同時に「我々はリアリティを感じるものの実在を信じる」という言い換えと結論が導き出されます。

 これ故にニーチェは現代哲学の創始者と言われることがあります。

 要するに実体感(リアリティ)が実在論(リアリズム)を生むわけで、「実」の感覚と理解があったからこそ実在論が力を持ってこれたということになります。


おわりに

 リアリティは実在の根拠になります。

 逆の論法が用いられ、いつの間にか物事にリアリティがあるのは実在するからという説が生まれ自明な前提と見なされます。

 これが構造主義的存在論/実在論=構造主的哲学が生まれる前の思い込みであり勘違いです。

 リアリティがあることは実在の根拠にはなりません。

 エリヤが荒野で神の存在を感じたからと言って、エリヤ以外の人々が神を信じなければいけない根拠にはなりません。

 エリヤだけ信じたければ信じればいいのですが、エリヤ本人にしても神の存在をリアルに感じたことを根拠に神が存在するとするのは論理的飛躍があります。

 昔はその考え方しかなかったのですが、現代は「実」の代わりに「シミュラークル」という考え方があります。

 そもそも構造主義を使いこなせればリアリティを作ることは簡単です。

 好きなように、と言ったら言い過ぎかもしれませんがいくらでも色々なリアリティを持った現前を作り出すことが可能です。

 しかしシミュラークルの考え方ではリアリティを根拠に事物の実在を結論しません。

 事物にリアリティを感じるか感じないかは、事物が実在するか実在しないかとは全く関係のない独立事象だからです。

 ですから構造主義の観点で見るとリアリティを感させる事物はシミュレーションです。

 実在かもしれませんが、実在ではないかもしれません。

 となるともはや実物であるかどうかはどうでもいい話になります。

 どちらとも証明も実証も出来ず結論を下す根拠がありません。

 ですからリアリティを感じさせる事物は「実」ではなく「シミュラークル」と呼びます。

 これは我々の認識に劇的な変化をもたらします。

 例えばフェイクニュースです。

 シミュレーションとシミュラークルの考え方で物事を考える際には全てのニュースを信じません。

 懐疑的に見ます。

 信じたければ自分の意志によって信じます。

 多くの場合信じるよりは分析して可能性を考え、自分の判断で取捨選択し行動の指針にするか決断します。

 極端に言えばニュースというものは全てフェイクとして見ています。

 これは現代哲学的に見れば健全な懐疑主義と言えます。

 逆にこの様な認識がなくメディアに与えられたニュースをそのまま信じる人は古い素朴実在論の考え方しか持っていない人なのだなと考えます。

 1970年代以降はある程度のリベラルアーツをおさめた世界の教養人は学問的にそういう見方をしているはずです。

 こういう見方ができる人と素朴無垢にメディアに与えられたニュースを信じて右往左往する人では時間と共に差がより大きく広がっていくでしょう。

 「実」と「シミュレーション」「シミュラークル」これは現代社会における大きなポイントですので全ての人が理解するのが望ましいでしょう。

2021/12/20

文系と理系とは何かについての現代哲学の考察

はじめに

 曖昧に使われている文系と理系という言葉を現代哲学の点から整理します。


第1章 文系とは何か

 学問で文系と言う場合、文字や文や文章の記号列を扱う学問と言えるでしょう。

 記号は文字などだけではなく図象などの象徴表現を含む場合もあります。

 記号列は例えば自然言語を指します。

 さて学問や科学の研究と言えば「理」の研究とイコールと同一視されることが多いようです。

 「理」とは何かと言う問題はおいて文系は必ずしも理を追求していないのがポイントです。

 例えば文学では人間の感情や意欲について表現しようとするでしょう。

 理性を超えた、非理性的なものを表現するのに情念を燃やす文学者や芸術家もいます。

 理性的なものも非理性的なものも等しく研究するのが文系の醍醐味でしょう。

第2章 理系とは何か

 「理」についてWikipediaの説明を拾ってみましょう。

「理 (り、Lĭ)とは、中国哲学の概念。本来、理は文字自身から、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味が派生する。もと動詞として使われたが、次に「地理」「肌理(きり)」(はだのきめ)などのように、ひろく事物のすじ目も意味するようになる。それが抽象化され、秩序、理法、道理などの意に使われるようになった」

ついでに漢字ペディアで「文」の説明も見てみましょう。

「①あや。もよう。いろどり。「文様」「文質」「文飾」 ②もじ(文字)。ことば。「文句」「金文」「邦文」 ③ことばをつづったもの。「文書」「詩文」「序文」 ④本。記録。書物。「文献」「文庫」 ⑤学問や芸術の分野。「文化」「文明」「人文」対武 ⑥もん。単位を表す。(ア)昔の貨幣の単位。一貫の一〇〇〇分の一。(イ)たび・くつなどの大きさの単位。一文は二・四(センチメートル)。 なりたち 象形。胸に文身(いれずみ)をほどこした人の形にかたどり、「あや」の意を表す。ひいて、文字・文章の意に用いる」

 「理」と「文」では文の①の意味の「もよう」が重複しますので少し紛らわしさがありますので、「文」は文字列と言う意味だけ取ります。

 「理」とは何かについて最も早く厳密に研究して結論を出したのが現代数学です。

 但し「理」というものの狭い意味になるかもしれません。

 ゴッドロープ・フレーゲやバートランド・ラッセルによって確立された現代論理学を基礎に形式主義による無定義概念や関係、推論の規則、公理主義による公理の設定から理論を作る考え方です。

 奇しくもこの時から数学の理論というものは文字列、つまり文で記述されるようになりました。

 言語学は記号列を扱いますが言語の大きく分けて統語論と意味論に分かれます。

 数学の理論も大きく分けて証明論とモデル論に分かれます。

 統語論と証明論は文字列の並べ方の規則に関するものです。

 文で言えば文法でしょうか。

 意味論とモデル論は記号列によって表されているとされるものです。

 文でいえば文の内容でしょうか。

 普通はこれを指して「理」ということが多いようです。
 ここでは「理」を表すために記号列、すなわち「文」が用いられています。

 なのでここでも文と理は先ほどの「もよう」という意味を共有するということとは別の意味で紛らわしさがあります。

 「理」、すなわち意味やモデルや内容は文と切り離して存在し得るのかもしれませんが、数学ではその様な方法は存在するとしても採用はされていません。

 ですからここでも文と理が同一視される勘違いが生じやすいという点を指摘しておきます。

 理と言う場合、何の理かということで学問領域を分類出来て物の理は物理学、物質の変化の理は化学、生き物が生きる仕組みの理は生理学、薬の理は薬理学、土地の理は地理学等と言います。

 少し特別な理があって論の理である論理学です。

 これは現代数学の基礎論から現代的な理が生まれた話を先ほど書きましたが、数学的理は論理学をベースにしているという意味でも特別で基礎的な理となります。

 中世の大学ののリベラルアーツ科の自由7科には文法、修辞学、算術、幾何学、天文学、音楽とともに専門に先立つ基礎の必修科目とされています。

 論の理というのは記号列の理だから文法と同じではないかという意見があるかもしれません。

 文法も論理と重なる部分があります。

 但し文と言うのは理だけではなく、もっと広範なものを表現するので同じ文字列の規則に関するものでも論理とは異なる部分があります。

 例えば命令や疑問は論理の記号列には必要ありません。

 論理で感情や感動を表現する必要はありません。

 論理を構成する文字列は平叙文だけで充分です。

 それだけでは理解が難しい場合には文を注釈するために用います。

 論理には2つの正しいがあります。

 日本語の「正しい」は多義語なので時に混同や誤用されます。

 論理の正しさとは命題が真偽についてつかわれます。

 命題が真の時に命題が正しいという表現をする時があります。

 また論理学は推論の健全性や妥当性を研究する学問です。

 推論が健全である/妥当であるとすれば推論は正しいということがあります。

 この2つの正しいはちょっと分けて考える必要がありますがまあどこの言語でもボキャブラリーの上限と制限はありそうですのでやはり「正しい」みたいな言葉は紛らわしい場合が多いのでしょう。

 世界中を見ても独立事象を独立でないと思い込んでいる言説や行動は多く見られます。

 論理であれ理論であれ学問の機能は前提から結論を出すことです。

 これは推論の健全性や妥当性と関係します。

 また別の機能は帰納と演繹でしょう。

 また別の問題として証明や実証や検証が入ってくる場合があります。

 数学や論理学は対象に実証や検定や計測が必要ないので証明だけで十分です。

 物理学などは自然が対象で記号列とそれが表す何かのすり合わせが必要になります。

 観測とか測定とか言われます。

 言語学でいう統語論と意味論、あるいはシニフィアンとシニフィエに相当するものです。

 数学の理論は証明論とモデル論が大切で、記号列が表すものを人間の実感として分り易い様にモデル化したり、作ったモデルを記号列で表現して推論を行いますが、ここに実証が必要がないのが論理学と共に学問の中で特殊な位置を占めます。

 数学における検証とは記号列内部における作業で証明の妥当性や健全性を明らかにするだけの作業です。

 物理学のような学問との違いは物理学は対象があってそれにあった理論を作ること、あるいは作った物理学の理論のモデルが対象のモデルとして適切であるかのすり合わせが必要であることが物理学には必要ですが数学はそれが必要ありません。

 ただ物理学の理論であっても現代では数学的な「理」の考え方をもって構成されなければいけません。

 日本では理という言葉は江戸時代に公式に正当な学問とされた朱子学の理気二元論からの影響が大きいと思われます。

 この場合「気」は物理学でいう研究対象である物質と同じ意味と解してもらうと分かりやすいかもしれません。

 上記をまとめると学問、あるいは科学とは3つのもので構成されています。

 1つ目は記号列が形成する理であり、2つ目は理から構成されるモデルであり、3つ目は観察や観測データを得るもので各分野の研究対象とされているものです。

 2つ目と3つ目が同じように見えて明確に異なるところがポイントです。

 
第3章 記号の問題

 文は理より広い範囲のものを表現できます。

 例えば文学作品により芸術的なことを表現出来るでしょう。

 別の疑問を提起してみましょう。

 理を表現するのに文、すなわち記号列が必要なのか、記号列でなくてはいけないのかということを問題にしてみます。

 おそらく文字列で表されている理と全く同じ内容を表すのに文字列以外の方法を使える可能性はあると考えられます。

 一つのアイデアは完全なモデルを作ってしまうというものです。

 理論体系、あるいは公理系が小さなもので要素や関係性が少なく有限なものである鵜とすれば全ての場合を網羅的にリストアップしてしまえる可能性があります。

 論理学でいえば命題計算の真理表を作ってしまう場合でしょうか。

 算術でいえば計算のアルゴリズムでその都度タスクをこなすのではなく、関数表を作ってしまうようなイメージです。

 データを理論化するのではなくビックデータとして全て記憶し理論ではなく統計学などを用いてデータ分析で結果を出すようなやり方でしょうか。

 証明できないので全てのパターンを確認してしまうのが証明になるのかどうかは数学史では地図の4色問題というのがあります。

 地図は4色で塗り分け可能であるという理論があって証明がされていなかったのですが、コンピュータを使って有限ですが膨大な全てのパターンで4色塗り訳が可能であることを示して理論を証明した例が挙げられます。

 記号列は記号列でも文は直列な記号列ですが、並列な記号列でもいいかもしれません。

 また結局はデータのインプットからどの様に情報処理しデータをアウトプットするかだけの問題ですので、人間に感銘を与えるような文による美しい理論は必要ないのかもしれません。

 ですから理は必ずしも記号列により表現する必要はないのかもしれませんが、情報、通信の科学、技術、産業が記号列による理をベースに成り立っており人類に大きな影響を与えている現状では記号列による理が、仮に他に理を表す方法があるにせよ、圧倒的に重要な現状にあります。

おわりに

 文は記号列であること、理も結局は現状記号列で表されることを説明しました。

 記号列を使わず理を表す方法もあるかもしれませんが今のところ記号列で理を表すのが主流です。

 他方で人間の感覚からすると記号列だけで理を理解しようとすると古代の数学文書を理解するような冗長さとめんどくささがあるので図など併用するのが分かりやすくあります。

 記号列の最も馴染みのあるものは自然言語で理以外の多くの事を表現する力がありますが、逆に理を表現する際には気付かぬ間に合理性や論理性でなくなってしまうことが頻繁に見られます。

 自然言語には特有の癖みたいなものがありますので、それが自然言語で論理的、合理的に表現しようとしても知らないうちに合理性や論理性が失われている場合が多く見られます。

 これはいわゆる日本で文系といわれる学問しか訓練してこなかった人だけではなく、理系を専攻した人でも論理学や数学基礎論を学んできちんと習得していないとやはりどこかに論理性、合理性の破綻が見られる場合があります。

 そういう意味では教育においては論理学、あるいは数学基礎論における数理論理学ないし記号論理学を全ての人が学んでいるのが望ましいのですがなかなか日本のリベラルアーツ教育の現状では教員も足りず、その必要性も理解されていなさそうなので難しそうです。

 国語を学ぶ際に詳説、あるいは論理学や数学に不案内な人のかいた評論を読むと論理的でないことがしばしばあるので困ることがあります。

 理は共通言語となり得るので全ての人が論理学や理論の厳密性の基礎である現代数学基礎論を学ぶことが望ましいのでしょう。

2021/12/07

現代哲学の「差異」と「差延」入門

はじめに

 コンピュータ科学、情報科学の創始者の一人にクロード・シャノンと言う人がいます。

 シャノンは情報を「変化するパターンの中から選択できるもの」と簡潔に表現しました。

 情報科学では技術の関係もあって情報をビットで扱います。

 アスキーコードなどの言葉を聞いたことがおられる方もいらっしゃると思いますが、記号は2つあれば多文字の言語も一対一に相互変換することができます。

 そのビットと言う言葉を導入したのがシャノンです。

 このビットと言う2つの選択肢しかないものからVRやARなどリアル、あるいは実在が作られていることにご注意ください。

 現代哲学の二大要素の1つ構造主義では従来の倫理思想の前提としてあった実在論の立場を取りません。

 実体というものの存在を無視します。

 しかし我々の脳の仕組み、認知システム上物事を実体として感じる素朴実在論を完全に排除してしまうと不便である以上に生活が成り立たないかもしれませんし、また不可能である可能性も高いです。

 素朴実在論を排除して構造主義だけで生きていくのは無理と考えて、実体概念を利用しつつ構造主義を適宜利用していく際に便利なのが、差異や差延と言う考え方です。

 差異や差延は哲学(存在論、認識論)をバリバリに構造主義で構築する際に学問的に利用しても良いのですが、もう少し意味を広くとって一般にも使える様にするといいかもしれません。

 差異、差延は構造主義や現代哲学のような小難しい理論と結びつけなくても使えると便利な概念です。

 しかも慣れてくれば差異や差延を使って構造主義や現代哲学の理解への取っ掛かりにもなります。

 現代を生きるためのより便利な知恵を身につけましょう。


第1章 差異とは

 差異という字面から見ると反対の言葉は同一や本当ということでしょうか。

 仏教では対象を実体としてみることを仮、戯(時に色)などといいそれに対して空と言う概念を対置させます。

 空は無でも不でも非でもないので、対象を認識できないという意味ではありません。

 実体として認識するのではなく空として認識できると言っています。

この場合実と空が対照的な概念になります。
 
本当は空なのだけれども実体として認識してしまっているといういい方も出来ます。

 空と言うと空っぽな感じで無と取り違えてしまうことがありますが無は認識しないことなので空とは別物です。

 空は空として対象を認識しているのですが具体的には何を認識しているのでしょうか。

 ちょっと例えを入れて食べ物を例にして果物の実や魚介類の実を考えてみましょう。

 果物や魚介類を食べ物として見ると食べられる内側の実が本質で皮や殻は本質ではないものになります。

 川や殻を開けてみて実がなかったらがっかりではありますが我々はそれを果物や魚介類とは認識できています。

 逆に皮や殻を取って身を料理の食材として出された果物や魚介類を見ても、あるいは食べてみてもそれが何か分からない場合もあります。

 調理してあるともっと分からなくなったりもします。

とすると対象を認知する際には食べ物としての本質である実の部分ではなく見せかけを作っている皮や殻の方が大切であるということになります。

 次に対象である事物は属性を持っていると考えてみましょう。

 また属性の他に本質があると考えてみましょう。

 属性と本質が別個にあるかもしれませんが、複数の属性の中の何か特定の属性をその時の目的に応じて本質といえる場合もあるかもしれません。

 そうすると物事は色々な属性を持っているということになるかもしれませんが、見方を変えてみると物事とは属性しか持っておらず属性の集合が物事だと発想の転換をすることができるかもしれません。

 これを果物や魚介類の例えに当てはめてみましょう。

 果物や魚介類の本質は食べられる部分である実であり食べられない部分である殻や皮は属性となります。

 もう一つの見方は果物や魚介類は2つの属性から成り立っていると考えることです。

1つは実を持つという属性、もう一つは殻や皮を持つという属性です。

果物や魚介類の本質を食べ物であることと見た場合、実が果物や魚介類の属性かつ本質であり、殻や皮は本質ではなく唯の属性です。

何であれ我々が認知、認識する事物は属性を持ちます。

属性とは言えない本質を持つかもしれませんが、本質などは考え方の問題と言うだけで事物は属性だけからしか成り立っていないかもしれず、その時の目的に応じてどれかの属性を本質としているとも考えられます。

前者の本質と言う言葉を実体と言い換えてみましょう。

そうすると事物は実体を持ち実体は色々な属性を持っています。

後者の考え方では実体とか本質と言う考え方は必要なら導入すればいいだけのもので二次的なものでしかありません。

我々が認識するのは属性なので属性ではない本質なり実体があるとするとそれは直接認識できないかもしれません。

これはプラトンのいうイデアやカントの物自体というものになり大雑把にいうと実在論と言います。

この様な属性と本体を分けるのではなく属性の集合こそ事物そのものであると考えるのが空論や構造主義的哲学になりますが、実在論との対比で中世神学の言葉を使うと唯名論と言います。

有名な唯名論者にウィレムのオッカムという学者がいて現代思想家で記号論者のウンベルト・エーコの小説を実写化したショーン・コネリーが主演の「薔薇の名前」という映画の主人公がいます。

「オッカムの剃刀」という論法で有名で何であれ思想や理論の中にあってもなくてもいい要素があれば無駄なので切り捨ててしまえという考え方です。

この様な考え方を用いるとイデアや物自体は切り捨てられてしまいますので後者の空論や構造主義的哲学だけが残ります。

すなわち事物と言うのは属性の集合体でしかなく、その集合体を本質や実体と言うこともできるが、そうしたければそうすればいいが特にそうする必要も感じなければ、事物とは属性の集合でしかない、という結論になります。


第2章 IDとプロファイリング

 犯罪捜査の方法でプロファイリングと言うのがあり一時本や映画で流行しました。

 犯人の残した色々な手がかりから犯人像を構成していくものです。

 カタカナ英語でいうとプロファイルはプロフィールです。

 人でも事物でも様々な属性を持っています。

 それをリスティングしたものをプロフィールとしましょう。

 その人や事物の全ての属性を網羅できればいいのですが、これは出来る場合もあるかもしれませんし、できない場合もあるかもしれません。

 「全て」にこだわる必要はないのである程度の分量の属性の情報が分かればその人や事物をアイデンティフィケート出来る、あるいは同一化できる、あるいはIDを決められると考えてみましょう。

 ある程度のプロフィールを確定すれば認証可能になるということです。

 またすべてでなくてもいくつかのプロフィール情報があれば認証できるかもしれません。

 簡単にはID名やアカウント名、パスワードがあればいいかもしれませんし、指紋や顔認証なら1つで良いかもしれません。

 正体不明の事件の犯人であれば色々な情報があれば犯人絞り込みに有利でしょう。

 プロフィールは情報のリストです。

 情報とは「変化するパターンの中から選択できるもの」です。

 情報技術はデータと情報処理で成り立ちます。

 我々は属性と言うデータを情報処理して実体と言うリアリティを生み出すヴァーチャルリアリティのようなイメージが空論や構造主義的哲学になります。

 ですから素朴実在論と言うのは実体というものが我々がどう思うかに関わらず世界に存在していて我々がそれを発見するという風に考えますが、空論や構造主義的哲学では実体は作るもの、発明するものです。

 IDがあってそれにプロフィールがくっついているのではなく、プロフィールが先にあってそれからID、アカウントを作るわけです。

 IDが重複しないために必要なものは差異です。

 全てのプロフィールが同じである異なるIDを2つ作ることはできません。

 少なくともパスワードくらいは変えるでしょう。

 何らかの差異がなければ物事の同一性、単一性、唯一性が担保できません。


第3章 差異

 分かりやすい差異はイエスかノーかで示す事でしょう。

 新しい携帯やタブやPCを買ったときにいろいろ登録するために性別や生年月日や国籍や時間や電話や住所などいろいろ入力する場合があります。

 性別で男にチェックすれば女にチェックできませんし、女にチェックすれば男にチェックできません。

 また国籍は日本にチェックすれば他の国にはチェックできません。

 チェックするということはイエスで、チェックしないということはノーです。

 属性は情報はイエスとノーという差異で示すわけです。

 「変化するパターンの中から選択できるもの」が情報だからです。

 我々の物理的な身体を情報にしたければどうしたらいいでしょう。

 二次元的に表現したければ絵をかくようなものです。

 しかも油絵のようにアナログに描くのではなくドット絵を描くようなものです。

 空間的な位置や教会を表現できるわけです。

 アナログではなくデジタルな情報で表現することは「変化するパターンの中から選択できるもの」を明確に示すことができます。

 イエスかノー、チェックするかしないか、0か1で表現するかのようにシンプルに2つの記号列だけで最終的には表現できます。

 これは情報の最も分かりやすい形でしょう。

第4章 差延

 人も事物も差異でID付け、すなわち名をつけることができます。

 もう一つ時間と言う要素を考えてみましょう。

 物理学では時間は一つの次元ですので属性と見ることができます。

 時間は連続的であることが自明の前提にされることもあり、この場合には時間と言う属性は事実上無視して扱われ属性ではなく前提として扱われることが多いでしょう。

 個人認証であれば生まれたときや死んだとき、冠婚葬祭などの節目の折に属性の変化をした日時などを示すために時間が記述されることがあります。

 何かのライフイベントによりその人の属性が変わったと考えるわけです。

 これが普通の考え方かもしれませんが、現代哲学はもっと基礎から根本的に考えます。

 そもそも属性が変わるのは一生涯に何度かあるライフイベントの時だけではないかもしれません。

 もっと頻繁に属性を替割る場合もあるでしょう。

 しかし現代哲学ではもっとラディカルな考え方をします。

 何であれ属性というものは一瞬一瞬全て違うと考えます。

 言い換えると属性は時間の経過を通して連続的に変わり続けているのです。

 仏教では無常無我と言います。

 つまり一瞬前の人や事物は今の人や事物とは違うものですし、一瞬後の人や事物は今の人や事物とは違うものです。

 属性、あるいは属性の集合からなる事物は変わり続けているのです。

 時間ごとに事物が違うものになっていると考えるとなぜ異なっているものを同一の事物として扱っているのかが問題になります。

 変化してもそれを同一のものとして見なすことを差延と言います。

 属性と言う差異は変化しますが、時間の経過があるにもかかわらず同一のものとして見ることです。

 差延は直感的で体験的で自然な我々の感覚によく合っています。

 事物の同一性や恒常性という考え方ともあっています。

 ただ同一性や恒常性は根本的に考えると根拠がありません。

 証明も実証も検証も出来ないのでそれは仮定や仮説に過ぎずに厳密な学問ではそれを自明の前提とするのは間違いです。

 これが現代哲学の同一性批判と同一性にかわる我々が変化しているある物事を継続的に同じものとして見てしまう性質を説明する概念になります。

 例えば自己同一性です。

 自己と言うのは瞬間毎に変化していますし、赤ちゃんの時と老人になってからでは同じ存在とは言えないかもしれません。

 しかし我々はそれを同じ人と感じます。

 自己同一性というものがある根拠は厳密に考えるとないのです。


おわりに

 構造主義は形式主義ですので記号的な要素とその要素間の関係性だけで記述されます。

 別々の要素を扱うには要素間の差異が必要で普通は別の記号を使えば十分です。

 逆に別の記号が充てられているものでもそれ以外の要素との関係が全く同じであれば同一のものとみなしてしまってもいい場合もあり、論理学では同一律などとして使われています。

 ジャックデリダは構造主義的世界観を「差異の体系」と呼びましたが、従来型の哲学は「実体の体系」とも言えるでしょうか。

 「実体がまずあり、実体には属性があり、属性の違いにより実体同士に差異があることを認識する」というのが従来的な考え方であれば構造主義的な考え方は「対象に色々な属性の差異があり、属性の差異ゆえに個性やリアリティが生じて実在や実体と言う考え方を生む」と言う風に捉えられます。

 属性とは感覚で捉えられたり観念的に認識されたりする対象の性質です。

 計算機科学の創始者たちであるライプニッツやチューリングなどが生きている時には見られなかった景色、構造主義的世界は現在は工学、技術、生産性、産業の発展によりコンピュータや通信技術が作られ大量の情報を保存し通信し情報処理することで現実の世界に生活と密着して実現しています。

 昔と違って文明の発達と圧倒的な人類のあらゆる部分の進歩により構造主義的世界は現実に我々の生活に必須な形で観念だけではなく具体的に実現して構造主義的世界の実例となっていますので構造主義を理解するには有利な環境です。

 プログラミングやコンピュータサイエンスから構造主義を勉強してみるのもいいでしょう。

2021/11/16

現代哲学による「正しい歴史認識」入門

はじめに

 「正しい歴史認識」この言葉はこの数十年のトピックであり続けた古くて新しい時事問題です。

 2021年4月現在の状況では2020年より更にニュースがフェイクニュース化しもはやニュースというものを信じられない状況になりました。

 これはとても面白い状況です。

 更に現代思想の考え方にぴったり合う考え方です。

 現代哲学をベースとする現代思想ではもともとニュースだけでなく文字通り全てをシミュレーション、シミュラークル(紛い物)として捉えてきました。

 ですから現代思想から見ればニュースと言うのは本質的にフェイクニュースでしかありえず、それが周知となって社会の多くの人がニュースを懐疑的に見るのが常識で、ニュースを疑いなく信じていた人々が大多数を占めていた今までが異常であるように見ていました。

 ようやく時代が現代哲学に追いついたわけです。

 そういう現代哲学からみれば「正しい歴史認識」という言葉は突っ込みどころが満載です。

 「正しい」も「歴史」も「認識」も3つとも全て現代哲学のメインテーマだったからです。

 学問の自由がある日本では学がある人であればその人の政治信条に関係なくこの言葉自体を使う人はいないでしょう。

 現代哲学ではこの言葉は突っ込みどころ満載過ぎて全てを書き尽くすことはできませんが、いくつかの方向からこの言葉を分析してみたいと思います。


第1章 現代哲学の歴史の見方

 現代思想において構造主義の四天王と言われた思想家にミシェル・フーコーというフランス人がいます。

 フランスでは20世紀中盤以降に構造主義が流行しその後のポスト構造主義と併せてフランス現代思想と呼ばれました。

 この時代は色々な分野の学問が構造主義で再構成されて行きました。

 フーコーは構造主義の四天王と言われ文献学、書誌学、歴史学の分野を構造主義で再構築しましたが彼自身は自らを構造主義者ではないとも述べています。

実際に彼の思想はポスト構造主義でもあり文献学、書誌学、歴史学の基礎理論を構築し直しています。

歴史とは文字で記された過去の出来事です。

ですから文字で記録が残されている時代を歴史時代と言い、文字記録がない時代を先史時代と言います。

併せてヒストリーと呼んで過去の出来事の正確な理解、認識を目指す学問と考えましょう。

このフーコーは「歴史の終わり」「人間の終わり」という考え方を提示しました。

他に「近代の終わり」というのを提起した思想家もいます。

現代哲学は素朴実在論の同一性批判を行った哲学です。

認知科学の仮説で「同一の記憶を想起することはない、同じことを思い出している様に感じても思い出される記憶はそのたびに新たに構成されたものである」というのを聞いたことがある方もおられると思います。

近代まで他に代替案がないために無意識に絶対的な前提とされていた素朴実在論では時間の同一性というものを無意識に想定しています。

例えば自己同一性と言うのは自己と言うのは連続な存在であり、一瞬前の自分は一瞬後の自分と多少の変化はあっても同じ存在であるということを前提としています。

現代哲学ではこの前提を排除します。

否定するわけではありませんが学問的に実証も証明も出来ず再現性もないため前提とは出来ないと考えます。

これは自己同一性や記憶の同一性の批判になりますが、自己や記憶にだけ当てはまるわけではありません。

全ての物事に当てはまります。

すなわちヒストリー、または歴史の同一性の批判にもなります。

過去の出来事と言うのは連続性をもって存在していないかもしれないし、もっと言えばある瞬間の過去の出来事、あるいは全ての過去の出来事は存在していない可能性もあります。

何となく量子力学を思い浮かべる人もいるでしょう。

もう一点、近代は理性や知性、科学技術を万能と見なす傾向がある時代でした。

過去の歴史が実在するとしてそれを解き明かす方法はないかもしれないのですが、近代においては知性と理性、科学技術によって過去の真実に到達できるという考え方が強固にありました。

簡単のために文字資料で過去の出来事を研究する歴史に限定してみましょう。

ある世代以上の皇国史観や唯物史観などで思弁的理論研究ばかり行い資料を読み込む実証研究を軽んじた時代はともかく、現役世代の歴史家は丹念に過去の文献を読み込み実証を目指す地道な実証研究を行っていると思います。

この様な地に足の着いた研究をした人であれば同意されると思いますが、書誌文献から歴史を再構成するということは困難極まりないというよりはむしろ不可能とさえ感じられることです。

第2章 文献・書誌研究

 ざっと各種領域の文献書誌研究を見てみましょう。

 儒教においては中国宋の時代に朱子学というものが発生しそれが江戸幕府の正当な学問になりました。

 朱子学は理と気で世の中の全てを説明する究極理論のようなものですが、証明も実証性もないのはもちろん古代の儒教とのつながりが全く不明であり儒教の正統思想とする根拠が特にありませんでした。

 そこで朱子学内部からは山崎闇斎や浅見けいさいが幕府朝廷簒奪論を説き、陽明学が生まれ、中国の考証学の先駆けとなる古学と言う文献学と思想が生まれます。

 伊藤仁斎、山鹿素行、荻生徂徠などで古義学と言ったり古文辞学と言ったりしましたが、文献研究からは孔子の授業と朱子学は別物で関係がないとする説です。

 一方仏教では大阪の私塾懐徳堂の富永仲基が大乗仏教の多くの仏典が仏典結集などで残されたオリジナルの原始仏教の古典とは関係がない事を音韻学などを用いて立証します。

 中医学の考証学は幕末の江戸医学館の研究が世界のトップで数々の事件で元の形が遺っていない中医学の書誌学、文献学研究などで中医学の変遷を当時最も的確に理解していました。

 本邦以外でも20世紀に入ってからは聖書の文研研究を行う聖書学が起こり、現在では聖書は複数の時代の複数の著者の複数の思想の混入や思想の進歩、改変などが分かるようになってきています。

 このようにさらっと書くとあたかも研究により各分野の歴史の真実に近づいている様に読む方もいらっしゃると思いますが、そもそも過去の出来事を現代に正確に再現することは不可能です。

 再現できたと思っても正確に再現できていることを証明も実証も出来ません。

 歴史記述は純粋な学問探求を行っていれば通説はしょっちゅう変わるのが普通です。

 そしてそれ以前に現代全ての科学の基礎になっている現代哲学の観点から見れば「真実の過去の出来事」なるものは先ほども書いた通り原理的に存在を実証できません。


第3章 認識とは

 「正しい歴史認識」の歴史についての現代哲学の見解を前章で書きました。

 「歴史」とともに「認識」というのも現代哲学では重要な言葉です。

 そもそも西洋哲学は存在論と認識論が主で他は雑学のようなものです。

 「過去の出来事の認識」は困難に違いありませんが、そもそも現代哲学では現在の出来事の認識」も簡単にできるとは考えません。

 現在の認識どころか、自分の今目の前で起こっていること、体験していることの認識ですら複雑な問題をはらんでいると考えます。

 「歴史の認識」となると現在体験できない過去の出来事だけでなく、書誌文献を通して行われます。

 書誌学や文献学自体が難解な学問ですが、もう一点、言語学や記号論の問題も関わってきます。

 「テクストをどう読むか」と言う問題は書誌の成立年代や文献の改変などとは別にそれ自体が基礎固めからしっかりしないと学問の体裁を整えられません。

 そもそも構造主義は数学の記号学的研究や言語学を母体として生まれた学問です。

 記号論こそが情報の科学技術産業、ということは全ての学問は突き詰めれば情報の研究ですので全ての科学技術産業の基礎になっているわけです。


第4章 正しさについて

 「正しい歴史認識」を形成する最後の要素が「正しい」です。

 「正しさ」「確かさ」は終始一貫西洋哲学の主題でした。

 これは「存在論」と「認識論」が西洋哲学の主題であったと先に書いた事とは違う側面からの見方です。

 何か実在するものがある、物事には実体があるという考え方に立てば存在する物事には実と虚、嘘の姿と本当の姿があるという考え方になるのかもしれません。

 これに則れば「正しい歴史」がある、「正しい歴史を正しく認識できる」という論法が成り立つでしょう。

 近代哲学以前の古い哲学では何となくこれで話が通じたのかもしれませんが、現代哲学ではこれでは話の意味が通じません。

 「正しい」の定義を問われることになります。

 この場合は思想の自由が認められている国では「正しさ」を科学的な方法で定義しようとするでしょう。

 現代哲学でブラッシュアップされた歴史学や文献学、現代哲学でアップデートされた認識論で正しいを定義します。

 それ以外には公正と思える方法がないからです。

 この科学的に「正しさ」を決めることを否定する場合には2つのパターンが考えられます。

 意図的ではなく科学的は方法を取らない場合と意図的に科学的な方法を取らない場合です。

 更に分類すると意図的ではなく科学的な方法を取らない場合は知能が足りないか学問の自由が保障されていないか何かの理由で科学的であることを禁じられておりそれに従っている場合です。

 意図的に科学的な方法を取らない場合は政治的なプロパガンダか知性や理性を超える感情や情動に打ち勝てない場合でしょう。


おわりに

 「正しい歴史認識」「差別」「自己責任論」などが新たな形でここ数十年認知されるようになりました。

 問題自体は昔からあると言えばあるものです。

 ただ考察や議論の質が劣化している様に見えます。

 一つにはこれらの概念が通年化しつつあるのは戦前派、戦中派の人が減少し発言力が無くなってきたことが考えられます。

 昔でしたら現代哲学が登場する前でもお話にもならず論破されて終わりだったかもしれません。

 他には教養主義の終焉とメディアの変質があるのかもしれません。

 本を読まなくなった時期とインターネットが普及する時期の間に新聞やテレビが大きな力を閉めていた時期があり、この時期には日本社会が変質したように見えます。

 インターネットは情報集めには向いていますが、やはり教科書にはならず、基礎的な学問の習得には向いていないようです。

 ある程度体系的で習得に脳のエネルギー消費による脳疲労や集中的持続的な学習時間を要するような理論の習得には主となる教材にはやはり本がいいようです。

 「正しい歴史認識」なるものを唱える人は現代哲学は知らないのは仕方がないとしてモダニズム的な脳の持ち主で近代哲学に基づくイデオロギーに固着している可能性があるため接触や関わるのには注意が必要かもしれません。

2021/11/05

現代哲学における大人の倫理・道徳入門

はじめに

 
「倫理」は狭い意味では正しい生き方、広い意味では人の思いなしを意味します。

後者は「倫理」という言葉を現代哲学など新しい考え方を取り入れてより厳密にしたもので「倫理学」という人文科学の分野や高校の社会科の倫理など学問的に抽象化した場合の使い方であり、普通「倫理」と言えば狭い意味での「人として正しい生き方の理」を指します。

一方「道徳」という言葉は行動に関する倫理です。

「道徳」も倫理と同じように狭い意味と広い意味があってもよさそうですが実際には正しい行動という狭い意味での使い方が主です。

狭い意味と広い意味があるのは狭い意味が昔からの古い考え方である物事には正しいものと正しくないものがあるという「正しさ」の存在を前提としているからです。

一方倫理の広い意味に「正しい」という概念が含まれていないのは「正しい」という言葉は「正しい」を定義しないと意味がなく使えないことを現代哲学が前提としているからです。

ですから「倫理」の広い意味での思いなしと言う使い方は狭い意味より新しい使い方です。

古い思想家の倫理や道徳に関する理論は何らかの「正しい」ものの存在を前提にしていますが現代思想以降は「正しさ」は必要がなければ使う必要がありません。

ですから現代哲学を影響を受けた倫理や道徳、言い換えれば生き方や行動のモデルはそのモデルが「正しい」ことを主張しません。

現代哲学の現代的な生き方や考え方、行動のモデルとしてはドゥルーズやガタリのモデルがあります。

ドゥルーズとガタリのモデルは現代哲学から導かれる最も無駄のない生き方のモデルと言えるかもしれません。

無駄がないということは現代哲学の要素以外を使っていないということです。

現代哲学の要素とはポスト構造主義の思想の相対化や構造主義だけですのでドゥルーズとガタリのモデルは非常に自由闊達に感じられるモデルになっています。

他方でドゥルーズとガタリのモデルは現代哲学の2大要素しか使っていないので社会や世俗を前提としていない理論的なモデルと言えます。

ですから実際ドゥルーズとガタリのモデルの様に生きようとすると現実的には軋轢を生じるものと思われます。

日本では1980年代にニューアカデミズムと呼ばれる現代思想の流行があったのですが現代思想に影響を受けた人々の過激に聞こえる主張を避けられたのかその時点では現代哲学は誤解され一般への定着が弱かったように見えます。

だからという訳ではありませんが、現代哲学をもっとかみ砕いたうえでドゥルーズとガタリとは別の現代哲学的な倫理のモデルを本書で提示します。


第1章 現代哲学の倫理のモデル

 近代哲学とは何かというとたった2つのもので構成されます。

 ポスト構造主義と構造主義です。

 より詳しく言うとポスト構造主義の思想の相対主義と構造主義の構造主義的存在論と構造主義的認識論を合わせて構造主義的哲学です。

 ポスト構造主義と構造主義は思想に関する思想、理論に関する理論ですので、現実的な自然や世界とは関係がありません。

 言語学は統語論と意味論、数理論理学は証明論とモデル理論で構成されますが、現代哲学は統語論や証明論に相当し、倫理は意味論やモデル理論に相当します。

 現代哲学も理論の理論ですからやはり形式に過ぎません。
 形式から生き方や考え方、行動などへの意味を生成するにはやや細工が必要です。

 もっと言えば社会と世俗と直接の関係がありません。

 理論の理論でしかなく形式でしかない現代哲学からほぼ直接導かれる世俗や社会と関係がないこの最小限の要素から生き方のモデルはドゥルーズとガタリのモデルのようなものになります。

 それになるべく最小限の要素を加えて生き方、考え方、行動など倫理と言う意味とモデルの骨格を作る工夫をします。
 

第2章 主体性、自由、自覚、他者の追加

 現代哲学を形成する2つの思想、ポスト構造主義と構造主義は前提とします。

 ポスト構造主義は特定の思想を特別視しないという考え方で、言い換えれば思想の相対主義の考え方です。

 構造主義は存在の実在性、実体性を前提とせず形式や構造や関係性から認識が構築されるという考え方で、形式主義的に認識を分析したり、脱構築したり構築したりもする考え方です。

この2つに更に見通しよく分り易くするためいくつかの要素を追加します。

自己(主体)、自由、選択(実践)、自覚(メタ認知と記憶など)、他者(コミュニケーション)などを加えてみましょう。

これらの要素も構造主義的に形式化出来ますがそれは割愛します。

これらは近代思想までの倫理や思想で重視されてきたものです。

その意味では近代思想を継承した保守的な倫理観の現代思想によるアレンジと言えるかもしれません。

自己と主体性

自己や主体を取り上げるのは自己や自己の役割の同一性や恒常性が倫理システムの安定性をある程度保証すると考えるからです。

ある人のある瞬間の発言や行動が次の瞬間全く継続性のないものに変わることを許容するのはドゥルーズとガタリのモデルになります。

精神分析学や精神医学などではこれを同一性拡散等と呼び、いろいろな精神障害で見られますが境界性パーソナリティー障害(情緒不安定性パーソナリティー障害)でよく使われる概念です。

障害とは保健医療福祉の分野では障害構造論で定義されそれは他者が生活を送るのに困る状態を指します。

主体性とは自分で思考し判断し決断し行動しその結果を受け入れ、それらの全てを自覚し記憶している状態を指します。

自由と選択

 ポスト構造主義の思想や理論の相対主義の結論は理論や思想は世の中にたくさんあるかもしれませんがその中に他と比べて特別な思想や理論はないということです。

 ここから導き出されるのは分かりやすく言えば人間はどのような思考や発言や行動をしても構わないということです。

 どのような思想や信念をもってどのような人生や生活を送ろうとも特に意味はなく特別視されないということです。

 これを自由と呼ぶことにします。

 俗に言うなら人に何かの思想を強要されたり人に何かの思想を強要したりする事には正当性がないということになります。

 現代哲学自体は理論の理論で唯の形式に過ぎませんので、世俗や社会での生き方を決定するためには何らかの思考や行動指針を決定する必要があります。

 これを選択と呼び自分の選択した行動指針に従って実践することで発言や行動を通じて社会と関わります。

自覚、記憶、メタ認知

 主体が自由に思想を選択しそれを実践してその結果を認識し記憶するのがひとまとまりのサイクルになります。

 現代思想では必ずしも時間が連続であるという見方はしません。

 また物事が時間の経過を通して同一であるとする前提は現代哲学にはありません。

 空間における同一性を唯一性、単一性とし空間的実在論とすれば、時間同一性は一貫性、恒常性であり時間実在性です。

 自明なる時間実在性は保証できないので、仏教で無常無我の観点から批判されるものです。

 現代哲学では空間同一性や時間同一性を構造主義の観点から、差異、差延という概念に置き換えます。

 すなわち現代哲学では自分にせよ他人にせよ物事にせと一瞬でなくなる可能性もありますし、瞬間瞬間で姿も位置も変えている可能性があります。

 しかし現実の生活でその様な体験をすることはまれでしょう。

 普通は我々は物事が持続し一貫して存在する安定した世界に住んでいる様に感じています。

 この安定性は我々の持つ能力である記憶力やメタ認知能力、自覚により成り立ちます。

 物事が瞬間瞬間生成消滅したり、位置や姿を変えてもいいでしょう。

 また人や他者であれば瞬間瞬間全く違う記憶を持って生きる様なあり方もあるかもしれません。

 しかし時間も空間も存在も認識も全て不連続になります。

 これは今回のモデルである最後の要素の他者とコミュニケーションが確立できません。

 従ってある程度の時空間の同一性や一貫性を担保するためにメタ認知や記憶や自覚を導入しています。

他者とコミュニケーション

 社会や世俗と言う場合、構造主義ですので他者との関係性を形式的に規定しなければいけません。

 またメタ認知や記憶や自覚について前節で考えましたがこれも時空を貫く自己間でのコミュニケーションと言えるかもしれません。

 自己や他者との関係は無理解と戦いに基づく戦闘的なものであっても良いかもしれませんがここでは意思伝達と理解を確立するためのモデルを検討します。

 この場合は言葉や文や字、もっと一般的に言えば記号のルールが必要になります。

 それ以外の方法もあるかもしれませんが記号や象徴は伝統的で認知されているインターフェースであり方法であるのでこれを取り上げます。

 伝達のための物理的な通信の媒体や正しく届く信頼性のようなハードの問題はおいておいて、発信側の記号列が受信側に正確に伝わる場合を考えます。

 問題は発信側が伝えたい内容を記号列に変換する時と受信側が記号列を受信した後それを理解する時に受信側に理解できるように変換される段階で発生します。

 同じ記号列を発し手と受け手が全く違う理解をする可能性があります。

 ですから変換規則を定めておく必要があります。

 一応その様なインフラをそろえて初めて社会や世俗を含めた倫理や道徳を現代哲学的かつ現実的に議論できる基盤が整備できるわけです。


第3章 伝統的な倫理による解釈

 我々は現代哲学をマスターしたところで現実生活の大きな割合を伝統思想的、素朴実在論的に生きています。

 これは個体発生的にも系統発生的にもそうなっていると思われますし、もし大人になっても素朴実在論的な対象認知と把握を行えなければ他者からは知能障害と見なされることもあるでしょう。

 現代哲学の妙味は形式、構造、関係性に過ぎないものから実体や実在と体験される認識や表象を生成することです。

 その点で前章までで取り上げた現代哲学的な倫理モデルを素朴実在論や伝統思想に置き換えて解釈してみましょう。

自己と主体性

 自己と主体性の重視は近代以降は人権とされて万人に平等のものとされていますが、中世においては貴族や士大夫や武士などの貴人、古代においては例えば古代ギリシアでは自由市民だけが有して奴隷やバーバリアンには認められていないものでした。

 自己や主体性は客観的に他者から承認されていなくても主観的に自尊心や自信を持つことは大切です。

 自分以外の他者全てに否定されても孟子の「百万人と言えども我行かん」の精神を持てれば素晴らしい事でしょう。

 しかし本人の信念内容が内部的に整合性や無矛盾性がなく体系的、形式的に破綻している場合にはおかしい人になってしまいます。

 そのおかしさに自分で気付くことができなければやはり知能障害やメタ認知、時に自己愛性パーソナリティ障害等何らかの精神障害が疑われてしまうでしょう。

 自分のおかしさを自覚しつつも言動や行動などに整合性やまとまりがなく矛盾に満ちている場合はケースバイケースかもしれません。

 どちらにせよコミュニケーション障害をきたす可能性があるので社会や世俗で人生や生活を送る際に色々な困難に遭遇するかもしれません。

自由と選択

 現代哲学の自由は憲法の自由に似ていて思想や信仰や表現の自由です。

 別の言い方をすると内面の自由です。

 哲学には実存主義者のサルトルが「人間は自由の刑に処せられている」と言うほど我々は自由ですし、その自由を何かに保障してもらおうと依存する必要はありません。

 もっと即物的な言い方を言うと哲学的自由、形式主義的自由です。

 他の自由主義と言うと政治的自由主義、経済学的自由主義などが挙げられますがそれは社会的、世俗的なイデオロギー内での自由の主張であり現代哲学の自由や自由主義とは異なるものです。

 ですから現代哲学の自由主義をメタ自由主義、現実を扱うイデオロギーの自由を現実的自由主義として区別します。

 現代哲学は理論の理論、思想の思想、イデオロギーのイデオロギーですが前者の理論をメタ理論、メタ思想、メタイデオロギーとすると後者は現実的理論、現実的思想、現実的イデオロギーとなります。

 メタ自由主義は現実的思想選択の自由の主張であって現実の世界と関わる倫理に直接関係ありませんが、メタ自由主義を否定するような現実的思想は排斥します。

 メタ理論と現実的理論を分けているのはタイプ理論を言う手法で同者を同列の理論にしてしまうと矛盾が生じるのでそれを避けるための簡便な方法です。

 主体性と自由と自己選択を守るためには時に勇気やリスクテイクを必要とします。

 現代ではゲーム理論のしっぺ返し戦略が1つの倫理の様に働いていますが、現代哲学的な倫理を守るためにも時に戦う勇気や負けるリスクを引き受ける必要があるかもしれません。

自覚、記憶、メタ認知

 ソクラテスの「自分が知らないことを知っている」、ウィットゲンシュタインの「語るべきでないことは沈黙すべきである」などの言葉がありますが、これらの言葉が含んでいるのはメタ認知能力です。

 自分を冷静客観的、第三者的な立場で客観的に見ることができる能力です。

 混乱ではなくある程度の安定性を確保するには自己や他者との関係性である役割の同一性は恒常性をある程度矛盾なく一貫性をもって保つことのできる期間が必要です。

 自己や他者が頻繁に入れ替わりそのことを自覚しておらずその記憶もなければ自他のコミュニケーションは成立しないか成立しても瞬間的なものになります。

 また現実的イデオロギーを選択する際にしばしば覚悟が必要になります。

 何かの世俗的イデオロギーを選択してそれを貫くということは他者や現実の様々なことと軋轢を生じる可能性があります。

 また自分の選択が自分自身でも誤っていると発見したり後悔することもあるでしょう。

 その場合にもそれを受け入れ直視する精神力が必要になることがあります。

他者、コミュニケーション

 他者とのコミュニケーションを組み込むということは、自分以外に現実、外部、社会、世俗を考えるということで自分以外の様々なものとの出会いと関係性の構築、交流を意味します。

 コミュニケーションとは他者と関わるにあたり意思伝達、どの様な通信手段を用いて、送受信された情報をどのように情報処理して共通認識に達するのかの試行錯誤の積み重ねです。

 安定して継続したコミュニケーションが維持できることもありますが、自分も他人もそれ以外の物事も無常ですので瞬間毎に変化します。

 確立した規約、ルールやプロトコールを維持し続ける事ができる場合もありますが、しばしば修正しないといけない場合もあるでしょう。

 他者と関われば関わるほど情報量が増大しますので処理能力を超えることも普通に出てくるでしょう。

 またもっと俗な問題としてはコミュニケーションの内容が快い時もあれば不快な場合もあるでしょうし、そもそもコミュニケーションしたい相手とコミュニケーションできない時もあれば、コミュニケーションしたくない相手とコミュニケーションしないといけない場合もあるでしょう。

 コミュニケーションをできていることで戦いになることもあるでしょうし、コミュニケーションできない事で平和な関係でいられる場合もあるかもしれません。


おわりに

 現代哲学は直接倫理や道徳を語ることはありません。

 現代哲学を使って倫理道徳を語る場合は現代思想と呼ぶのが適当でしょう。

 思想であれば批判したり推奨したり何でも自由です。

 現代哲学は唯の形式的理論に過ぎませんので我々の現実生活には直接関わりません。

 ですが我々は生きて生活している時には現実と関わります。

 普通は心理的発達や教育により素朴実在論を身につけますので物事の実態が存在すると考えています。

 これは現代哲学をマスターしても失うべきではない考え方です。

 保守的な考え方かもしれませんが我々は伝統的な思想や理論、倫理や道徳から学ぶことがたくさんあります。

 自分史的な蓄積も歴史的な蓄積も全てのものを活かして我々は幸福に生きていくべきです。

 逆に素朴実在論的な知恵しかないのであれば流石に現代社会では時代遅れです。

 現代は現代哲学(現代数学なども含めた)的な知の基盤の上に気付かれており自然科学やIT産業など全て現代哲学の上に築かれているのでそれを捨てて生きることはできません。

 倫理や道徳も同じで現代哲学なしのオールドファッションな思想でつくられた倫理道徳則しかないのでは人間同士の間に軋轢が生じてしまいます。

 人間はホモサピエンスであり知性こそ人間なのですから常に知性をアップデートしていくのが良いに違いありません。