医師 奥村 克行のブログ

2022/08/16

一番簡単な数学の空間と位相と哲学について

はじめに

数学は哲学を知ると理解が容易になります。
現代数学は数学の中で用いる概念を全て手作りします。
これが他の学問と数学を分かつ特徴になります。

そうした数学の最初にあるものは元(element)と集合(set)です。
元と集合をセットしていくことで元と集合に構造を与えるのが現代数学の第一歩になります。

元と集合のセッティングにより我々になじみのユークリッド空間を作る手始めとして位相について解説します。

位相と空間

空間とは何でしょう?
勉強の世界では高校までに数学や物理学で空間の勉強をします。
これは無限の点の連続な集合でデカルトの座標系で位置を表現できると考えるユークリッド空間と言われるものです。

ユークリッド空間はわれわれが一番親近感を持つ空間で、空間と言えばユークリッド空間と同じ意味と思っている人も多いと思います。

中学や高校では空間は勉強の出発点になります。
しかし大学の物理や数学の専門課程では空間は作るものです。
ユークリッド空間は物理学者や数学者がつくるたくさんの空間の1つに過ぎません。

ユークリッド空間が当たり前過ぎるとこれこそが世界を形づくる唯一の正しい空間と思うかもしれません。
しかし哲学では知りませんが数学ではユークリッド空間が世界を作る特別な空間とは考えません。

そうである可能性もありませんがそうでない可能性も同様にあります。

物理学や数学ではこのそうでない可能性を考えたくさんの空間を作ります。
この「見つける」とは言わず「つくる」という表現を使うのが、また別の意味での中高の勉強と大学の勉強の違いになります。

空間の作り方

物理学や数学の専門課程で空間を作る第一歩として集合論や位相論を使います。
集合論や位相論は数学や物理の初歩になります。
ここを出発点に応用的な宇宙論や素粒子論、幾何学、代数学、解析学などへ進む方向が1つの道になります。

一方でこれらの道の反対方向には数学を哲学的に理解する方向性があって数学基礎論などと呼ばれます。

これらの道に進む前に学ぶのが集合論と位相論です。
丁度全ての道の最初にあるために集合位相論は自然科学の自然的な意味もあれば本格的な哲学的な意味もあります。

位相は集合論の応用の1つです。
位相論は数学の教科書では抽象的で洗練された形で表現され説明されます。

ここでは位相を分かりやすく説明したいと思います。

元とエレメント

元の集まりを集合と言います。
元(エレメント)が集まることで集合となります。

集合とは“set”でエレメントをセットして集合を作ります。
違う見方をするとエレメントに集合をセットするという言い方も出来ます。

どちらの見方もできる様にしておくと便利でしょう。

集合論から作られるものに点や数があります。
元と言うのはまさに「もと」であり「素(エレメント)」です。
元をもととして点や数がつくられます。

点や線のエレメントが元です。
元はエレメントですので一様にみな同じ元で元自体にはそれぞれの個性や違いはありません。

それぞれ区別がつかないエレメントを区別するのが数学の第一歩になります。
エレメントを個別化し個性を与えます。
元に他の元とは違う個性を与え他の元と違うものにしていく作業が数学の第一歩になります。
位相はそのための1つの方法です。 

この「位相」は物理学で周期的なものに使うphaseではなく、topologyという別の概念ですが日本語では同じ言葉で表します。

元と集合、エレメントとセットのセッティング

元(エレメント)が複数あるとその全体は一つの集合です。
また元の全体ではなく元のなかのいくつかを選んで集合を作ることができます。
それぞれ区別がつかないエレメントを区別するために色々な方法があります。

エレメントを個別化し個性を与えます。
そのために集合(set)を使います。

集合(set)を使ってセッティングを行います。
あるエレメントがどの集合に属しているかによってエレメントを区別します。
そのためには色々な集合を決めていく必要があります。

集合(set)をセッティングします。

集合の種類、つまりどのエレメントを含む集合かは元の数が多ければ多い程、作れる集合の数も増えていきます。つまりセッティングの仕方も増えていきます。セットを予め決めておいてエレメントがどのセットに登場するか、どのセットに属するかを決めることでエレメントに個性が生まれます。

エレメントは複数の集合に属すると考えます。
すると属する集合がそのエレメントの個性になります。

エレメントとセットの関係はこの逆も成り立ちます。
どのエレメントを含むかが集合に個性を与えます。
つまりエレメントとセットの関係はどちらを中心に考えることも出来ます。

これが位相を考える際の大切な特徴になります。
エレメントがたくさんの集合のどれに属するのかによりエレメントに個性が生まれます。

エレメントに個性が生まれると同時に集合にも個性が生まれます。
どのエレメントを含む集合かにより他の集合との違いが生まれます。

数学と哲学

数とは何か?

点とは何か?

空間とは何か?

これは数学の問題だけではなく哲学の問題でもあります。
現代数学と古典数学の違いは哲学です。
特に現代数学です。

古典数学にも哲学があると反論されるかもしれません。
しかし古典数学の哲学は実在論をベースにしています。
実在論であることに気が付いていないか、実在論を信仰しているかのどちらかです。つまり無知か宗教でした。

これは仕方がないことではありますが近代における科学は現代の目から見ると学問と言うより宗教に近い面があります。
実在論止まりであれば、古典数学に哲学があるとしても古典哲学です。
これは行き詰まりか思考停止をもたらしました。

現代の数学では「数とは何か?」「点とは何か?」「空間とは何か?」を妥協せず考え続け解答を与えました。
考えることを止めないのは学問であり哲学です。

コンパートメント

現代の数学では「数とは何か?」「点とは何か?」「空間とは何か?」という問題は「数をどのように作るか?」「点をどのように作るか?」「空間をどのように作るか?」と言う問題に変わります。
この考え方は「創造できるのは神だけで人間は作ることができない」という考え方に差し障ります。

中世神学の普遍論争で分かるように実在論は神の実在とセットです。
現代科学と現代哲学の特徴は「作ることができるのは神だけ」という考え方をスルーするようになったことです。

位相の話に戻ります。

エレメントを集合に属させるためにはエレメントに名前を与えて集合にエレメントの名前のタグやらタブやらをたくさんつけていく方法があります。
あるいは逆に集合に名前と付けてエレメントにそのエレメントが属する集合の名前が書いたタブやらタグやらをつけていくことも可能です。

このどちらか、あるいは両方によりエレメントが属している集合や集合が含んでいるエレメントを特定することができます。
これは記号を用いた方法です。

別の方法を考えましょう。
集合に元を与えること、あるいは元に集合をあたえることは元や集合の隣接のさせ方と理解します。

集合は弁図や袋のように図形的、もしくは立体的にイメージされることがあります。エレメント同士、集合同士、あるいはエレメントと集合の隣接関係をイメージしやすい様にエレメントと集合をセッティングしてみましょう。

位相はコンパートメント(区画化)でイメージすることができます。
二つのエレメントが同じか違うかはエレメントの間に仕切りがあるかどうかで区別されます。

あるエレメントが仕切りを超えて別のエレメントがある集合に到達する経路があれば二つのエレメントを区別することはできず、そのような経路がなければ仕切りが2つのエレメントを完全に分かつために仕切りを全て確認していけば閉じた穴のない区画として見ることができます。

この場合区画の形は問題ではありません。2つの経路をつなぐ開いた穴のある区画かどうかのみが問題になります。

この見方で行くとエレメントを分かつ仕切りをどのようにつくって区画(コンパートメント)を完成させるかがまずテーマになります。
あるいは結果的に同じ事ですが仕切り作りで区画を完成させてそのどれにいくつのエレメントを入れていくかが別の形の同じテーマになります。

この立体的にコンパートメントを作っていく立体幾何学的なイメージが位相理解の最初の一歩です。
コンパートメントやエレメントをどんどん加えてもいいですし既にあるコンパートメントを細かく区切って細密なコンパートメントにしていきます。

この作業を規則的に行いたければ何らかの法則性、蜂が巣をつくるやり方でも高層ビルのように立方体や直方体を積んでいくやり方でも構いません。

コンパートメントの融合と共通部分

コンパートメントはいくつか組み合わせて大きなコンパートメントと見なすこともできます。
その場合大きなコンパートメントの中には仕切りで区切られた小さなコンパートメントで埋まっているでしょう。

コンパートメントはエレメントの集合なので小さな集合は大きな集合に含まれる場合があります。
コンパートメントをたくさん含んだ大きなコンパートメント、小さな集合で埋め尽くされている大きな集合を考えましょう。

その様な大きな集合(コンパートメント)がある場合、小さなコンパートメントを共有している場合があります。

有限と無限、離散と非連続

位相は有限な元で考えることができます。
位相を考えるのに無限や連続は必ずしも必要ありません。
ただユークリッド空間のような空間を考える際には無限や連続を導入する必要があります。

数学は無限を扱う学問です。
無限のプロがいるとすれば数学者です。
数や点や空間と同じように無限も作るものです。

特に集合論や位相論は無限研究の発祥地になります。
位相ではエレメントやコンパートメントが無限にある場合を考えます。
さらには唯の無限ではなく整数に対する実数のような連続した無限を考えます。

コンパートメントで位相をイメージするのは一つの捉え方です。
そもそもコンパートメントで位相をイメージする前に挙げた例、タブやタグでエレメントやセットに名前を与えてそれぞれを関連付ける記号的な方法もあります。
それだけでも位相の有用性はありますが、空間を考えるには立体の像や図形を考える様な幾何学的なイメージを持ち、他人とも共有するのが便利です。

一方中学や高校で習う空間、ユークリッド空間は元(点)で埋め尽くされて点のない点、隙間がない集合がイメージです。

連続な点の集合と配置が空間が空間です。
無限、さらには連続というものを考えることは数や点や空間を考えることと同じような哲学的意味合いを含みます。
哲学的な理解と共に実務的、操作的方法で空間、無限、連続を扱うのが現代数学です。

古典的な哲学や数学ではそれら全ては実在していると考えられていました。
集合論や位相論は現代数学ですので現代哲学が適用されます。
すなわち無限も連続も実在の可否は無視して作ることを考えます。

古典的な表現でいうとユークリッド空間は位相構造を持ちます。
位相構造のある空間を位相空間と言います。
現代的に表現すると位相構造を持つように作られた位相空間の1つがユークリッド空間です。

ユークリッド空間以外にも位相空間はたくさんあります。
位相空間を作るにはまず元と集合を作りそれらをセッティングします。
元と集合が無限でもそれを作れるのが現代数学です。
作るという表現がぴんと来なければ、決める、あるいは判定できるようにしておきます。

空間とは元と集合の集まりです。
そのセッティング(配置)を決めれば空間になります。
無限のものを作る場合には作るというより決めておくという表現がいいかもしれません。
元や集合やそのセッティングを決めることで空間を作ります。

境界

位相を区画(コンパートメント)で例えたときに仕切りの話をしました。
この仕切りを元で作ります。

区画の中はエレメントがあるかないか複数あって他はスカスカのイメージではなく、隙間なくエレメントで埋め尽くし、スカスカな隙間が全くない状態をイメージします。

そしてエレメントのイメージを点とします。
そして点を有限でなく無限であり、非連続でなく連続と考えます。

連続性は位相の特徴ではありませんが、ユークリッド空間を構成するために現代数学の他のところから連続性を借りてきます。
最後の部分は話の流れからはイメージできない部分でしょう。

これにイメージ、というより有限を無限に、非連続を連続に帰る操作法を考えることが集合・位相論の肝になります。

境界を点で作る時、境界の点は区画に属するのでしょうか?
区画外に属するのでしょうか?
現代数学ではこれを最初に決めておきます。

仕切りの点が区画に属する時これを閉集合と言います。
仕切りの点が区画に属さない場合、この境界の点に囲まれた集合を開集合と言います。
そうすると集合は3種類考えられます。

閉集合と開集合と閉集合でも開集合でもない集合です。

全ての閉集合か開集合を予め決めておくことで位相空間を作ることができます。
ある閉集合に含まれない全ての元は開集合をなし、ある開集合に属さない全ての元は閉集合をなすと決めておきます。
すると全ての開集合を決めれば全ての閉集合がきまり、全ての閉集合を決めれば全ての開集合もきまります。

どっちか決まれば残りは決まるのでどちらか一方だけを決めておけばいいということになります。
これは集合からの位相の理解のアプローチです。

集合ではなく元を中心に位相をイメージする方法もあります。
点を中心に位相をイメージするのはある点を含む集合全てをそれぞれの点について考えます。
ある点を含む開集合全体、あるいは閉集合全体を全ての点について決めます。
そうすると位相構造は自動的に定まります。

空集合、閉集合、元のどれから位相を決めていっても構いません。
どの方法でも同じものを作れます。

ただし空集合でも閉集合でもない集合から位相を決めていくのは事実上困難です。
無限の点と構造を作る場合には有限ならば許されるかもしれない行き当たりばったりな方法ではなく決め方のルールを明確にして具体的な方法を示す必要があります。

計算機のプログラムのアルゴリズムを作ることと一緒です。
アルゴリズムはシンプルで具体的で操作的なものです。
計算機科学は数学の一分野ですが行き当たりばったりとなじまない学問分野です。

開集合か閉集合か点の近傍(点を含む全ての開集合か閉集合)を全ての点で決めることが最もシンプルな位相空間の決め方になります。
この様に決めた位相空間にルールを導入します。
開集合と開集合を合わせた集合は無限個の開集合を合わせても開集合になります。

一方で開集合と開集合が共有する元は閉集合が有限であればやはり開集合ですが、無限であれば閉集合になることがあります。

閉集合の場合は閉集合をいくつ併せて閉集合になります。
他方で閉集合同士が共有する元は集合が無限であれば閉集合になりますが、無限であれば開集合になる場合もあります。

この2つに全体集合と空集合は開集合かつ閉集合というルールを満たすようにすると位相空間を作ることができます。

立体や図形と位相

位相はtopologyと言います。
古典ギリシア語のtoposとlogosを組み合わせたものです。
Toposとは位置とか形とかいう意味です。

先のルールに従い位相空間を作ってもそれが立体や図形としてイメージする必要は必ずしもありません。
コンパートメントモデルの前で示した記号と対応関係で非幾何学的に示しても構いません。
ですが位相は幾何学的なモデルを使うのに非常に便利なものでもあります。

位相を使っても幾何学的なモデルやイメージを作るのが困難な場合もあります。
また全ての位相空間をイメージ出来る必要もありません。

しかし位相を規則的に決めると構成される位相構造や位相空間を幾何学的にモデル化やイメージしやすい場合があります。
ユークリッド幾何学がその代表的な例になります。

こう書くとユークリッド空間は簡単につくれそうですが、ユークリッド空間を作るには位相意外にも色々な構造を作ってその構造を組み入れておかなければなりません。例えば先ほどの連続性や距離です。

例えば位相と連続性だけで空間を作ると点の間の距離が定まりませんので我々のイメージにはぐにゃぐにゃした物体を思い浮かべることになります。
ただ位相の他に連続性や距離や点や集合の分離性などの規則を単純に決め、それを素直にイメージすればユークリッド空間になります。
ですから位相はユークリッド空間をつくるさいに与える構造の1つでしかないとも言えます。

空間の中の点の全ての集合について開集合、閉集合、その他の集合が決まり判定できることで空間に位相を導入します。
この判定が容易にいくような操作的な方法を予め定めておきます。

そのために≧や>、⊃や⊇や∋の記号を作って機能を決めておきます。
同じようなことを繰り返しますが≧や>、⊃や⊇や∋などの記号や機能も最初から作っておいて導入、適応する概念であり、概念の積み重ねでモデルやイメージを作っていきます。

≧や>、⊃や⊇や∋などの記号や機能はユークリッド空間ありきでユークリッド空間の後にできたものではなく、ユークリッド空間に先立っており、それを空間に適用するかしないかを考えるのが現代数学です。

数学の哲学

数学の哲学は特別なものではなくやはり普通の哲学を数学に適用したものに過ぎません。
古典数学では古典哲学の実在論が数学の哲学になります。
ここでは我々が実在すると感じるものは神や自然が実在を保証してくれます。

現代数学の哲学は現代哲学です。
現代哲学では実在論的見方もしますが、同時に非実在論的な様々な考え方を許容します。

非実在論的な考え方でもっとも重要なものは構造主義です。
現代数学は構造主義により数学を作ります。
ユークリッド空間も作ります。
ユークリッド空間を作るための材料の一つが位相です。

位相と言う材料を使ってユークリッド空間以外にも色々なものが造れます。
ユークリッド空間のような空間はもちろん、空間が何を指すかはともかく、空間以外のものも作れます。

要は何かをつくるのは哲学、もっと広く言うと思想になります。
実在論者は実在論に基づいた数学を作るでしょうし、構造主義者は構造主義に基づいた数学をつくるでしょう。

そしてポスト構造主義者はどちらの数学も受け入れるわけです。

おわりに

位相の理解と位相からユークリッド空間を作る話をしました。

高等学校は高等という言葉はつきますが高等教育を行いません。
それでは大学では高等教育を行うかと言うとこれも行わないことが多いようです。
初等教育と高等教育の違いは学ぶ学問に哲学があるかどうかでしょう。

初等教育は暗記と反復して反応と応用速度を速めることを教育と呼びます。
高等教育では学問の中核の哲学を勉強します。
初等教育のような大学の講義があまりにも多すぎるため多くの大学生が高等教育を理解できないまま大学生活を行います。

数学の基礎論や集合位相論、物理学の量子力学などは学問の哲学を知っておけば理解が容易ですし、集合位相論や量子理気学を理解すればその先の数学や物理学の先の分野にも躓かず進めます。

学習や教育の効率の悪さは深刻な問題です。
哲学は学問の学問ですので勉強の効率を上げるために活用するとよいでしょう。

2022/08/02

一番やさしい数学とはなにか

はじめに

「数学とはなにか」ということを改めて考える必要がある人はあまりいないかもしれません。しかし数学とは何かについての基本的な哲学を持てるようになると数学がとてつもなく面白くなります。
それはネットで流れているような数学の雑学とは別のものです。

“数理哲学”というと色々な意味が含まれてしまうかもしれませんが、ここで説明するのは数学を基礎づける哲学の簡単な説明です。
「数学を基礎づける哲学」を勉強すると数学に対する見方が全く変わります。

物心つかない頃から数の数え方を皮切りに教えられてきた数学に対する見方がひっくり返るようなエキサイティングな体験ができるでしょう。

多くの方々が改めて数学を勉強してみようというきっかけになることを祈っております!

数学という言葉

“数の学”と書いて数学と書きます。
この名称を見れば誰でも「数学は数についての学問だ」と思うでしょう。

では数とは何でしょうか?

“数学を基礎づける”哲学を考えるならばこういう問いが必要です。

そもそも日本では“数の学”と書いて“数学”という言葉を使いますが、英語では”mathematics”、他のヨーロッパでも”mathematics”の語源である古代ギリシア語の“μανθάνω”という言葉から派生した類似の言葉を使います。
“μανθάνω”は「学ぶ」と言う意味で、mathematicsはそこから派生した「学ぶべきもの」という意味です。

近現代数学は欧米諸国によって作られましたが、それらの国々では日本語の「数学」を「学ぶべきもの」という別の意味で翻訳するわけです。
ですから筋から言えば“mathematics”を「数学」と訳したのは誤訳と言えます。

欧米人は数学を「学ぶべきもの」というとても重要なものと考えているのに対して、日本人はmathematicsを「数に関する学問」という学んでも学ばなくてもどっちでもいい様な学問としてとらえているわけです。

日本ではよく学問に“学”や“科”を付けます。
典型的なのは「科学」という言葉でしょう。
日本語の科学は英語のscienceに相当し、scienceの語源はギリシア語の“知識”です。

数学と同じく近現代の科学は欧米諸国で作られたので、欧米諸国が漢字文化圏の「科学」という言葉をscienceの翻訳に充てたのではなく、欧米諸国の“science”という言葉に漢字文化圏が「科学」という言葉を当てたのでしょう。
Phisics、chemistry、biorogyを「物理学」「化学」「生物学」を語尾に学をつけて訳したのも同じ事情でしょう。

我々は物心つくかつかないかのうちから数を覚えます。
お風呂で親と一緒に数を数えた記憶がある人は少なくないでしょう。
日本では昔から読み書きそろばんは庶民にまで広く浸透していました。

最近は小学校でも算数をmathematicsと訳しているようですが、昔は小学校の算数はarithmeticと訳されました。
Arithmeticは「算数」「算術」を表します。

数を覚えた後には加減乗除の数値演算を教えます。
Mathematicsを数学と訳した人はこの印象が強すぎたのかもしれません。
この数とは演算するものであると教えられた印象が強いためarithmeticを科とする学問、mathematicsを数学と訳したのかもしれません。

今でこそ学問と言えば理系が優位ですが昔は学問と言えば文系を指しました。
外国の文物を翻訳するような偉い学者の先生が数学音痴であったとしてもしかたがないでしょう。

かくして学問のプリンケプスであり女王と冠されるmathematicsは、万人の学ぶべきものではなくただの「数の学問」に誤訳され格下げされてしまいました。

数について

数学という言葉はmathematicsの誤訳である云々はおいておいて「数学」という言葉をスタート地点に考えてみましょう。

数を自明な前提として数学を進めるのは初等数学や古典数学です。
しかしもし数学を基礎づける哲学を考えるのであれば「数とはなにか」を考えることが出発点になります。

これは小・中・高と学んできた算数や数学の学習方法とは逆に進む道になります。
それらは複雑に見えますが「数」を応用する方向性での複雑さです。

その道を逆に進むことが「数とは何か」を探す道になります。
その道の第一歩で行き当たるのは「数」ではなく「元」です。

「元」という言葉は集合論で登場します。
「現代の数学は集合論の上に作られている」というような表現を聞いた事があるかもしれません。
元よりなるものを集合、または集合は元より成り立ちます。

元に様々な性質を与えることにより数を作り出すことが数学の哲学の初めの一歩でした。
他方で数より奥深くにあるものが分かるとそこから別のものが作れます。

元から作れるのは数だけではないのです。
数は元の1つの例に過ぎません。
まさに“数学のもと”です。

元から作った数以外のものを数学の範疇に入れるかどうかは好き好きです。
理論物理学などは元を使って色々なものを作り出しています。

元から数を作る

まず具体的なところからはじめます。
数がどのように造られていくか?我々の幼児期の体験を思い出しましょう。

両親は我々に数の名前を教えます。
まずは呼び名です。
そしてもう少し大きくなると数の書き方を教えます。

数の名前とは呼び名と記法からなるわけです。
数え方を覚えると演算、つまり算術を習います。
これは現代では塾や学校が代行することも多いでしょう。

小学校に入れば分数や少数も習います。
中学生になれば自然数や分数、少数を拡張した整数、有理数、実数を習うでしょう。

大体中学校までが義務教育で文理の違いもないのでここまでは成人の共通認識となります。

数に与える性質-1

もう少し別の観点からどの様に元から数を造るのか眺めてみましょう。
実はお風呂で数を数える時に我々は数の持つ隠れた性質を教わっています。

まずは単位元の存在です。
これを“1”といいます。
自然数は1に1から一つずつ1を加えていくことで等間隔で作られていきます。

これは呼び名も数字もそうです。

また順序や最小値の存在の整列の概念を実は習っています。
更に自然数が不連続性(非完備性)や無限(濃度)、位相、点列や距離空間の概念などがすでにここに含まれています。

これらは分数、少数、負の数などを習うことにより反復しかつ洗練されて我々の頭に刷り込まれていきます。
意識して学ぶというよりインプリンティング、つまり刷り込まれ条件反射化して記憶されます。
しかし意識していないため数の性質を覚えてゆく自覚はありません。

自覚なく元に性質を与えられていく、言い換えると構造を与えられているところがポイントになります。

数に与える性質-2

初等教育、幼児期と学童期において学習の1つのクライマックスになるのが読み書きそろばんのそろばん、すなわち加減乗除の習得でしょう。

足し算を学び、そして引き算を学びます。
これは集合の元の間の加法の習得であり、言葉を変えれば数を群として扱うことを刷り込まれます。
ここで無意識に単元と逆元、そして零元の存在、結合法則や交換法則を学んでいます。

これが数値演算、言い換えれば算術の計算の初体験であり一つ目のものになります。

その後に2つ目の演算である乗法、すなわち掛け算と割り算を学び元の間の相互作用と数の体系、すなわち体を学びます。
中学生になると幾何学に座標を与える代数幾何学や関数という写像を学びますが基礎は小学校までで学ぶ算数に含まれています。

元から数へ

集合をgroupとすると元はグループのmemberですが同時にelementと訳します。
エレメント、あるいはメンバー同士の関係のルールを作ることにより数(number)を作ります。
その際に与える構造は集合論と位相論における性質と元同士の演算を規定する代数系の構造になります。

こどもは教えられることによってこれらの性質や構造を無意識に獲得し無意識に使用します。

これらは原始人は無意識にも知っていたのかは分かりません。
もしかしたら猿の時から持っていたのかもしれませんし、実は気が付いたのはごく最近かもしれません。

個体発生は系統発生に準ずるがのごとくに我々は赤ちゃんから大人への過程では刷り込まれることで、原始人から人間になるまでの間には進化の過程で経験的に獲得し文化として集団で維持されてきたのかもしれません。

転換点は無意識の状態から意識されるようになった時、あるいは数が根源であったと思っていた時から数は元から作れると認識した時になります。

数の起源

公理的集合論から初めて数を構築することは高等数学の入り口になります。

元からはいわゆる我々が数として認識している自然数、整数、有理数、あるいは無理数や実数、そして場合によっては複素数以外にも様々な数学的、あるいは理論科学的要素を作ることができます。
公理的集合論を更に掘り下げると圏論などの数学的構造の更にシンプルな定式化が可能です。

我々は偉大な先人が創造した数学的構築物を好きなだけ学ぶことができますし、つまらなくても興味深さがなくても良いのであれば自由に自分で数学的構造を創造ることも出来ます。

19世紀末にある天才数学者が「自然数だけは神が造った」といいました。
我々は高々100年前には天才数学者さえ知らなかった数の作り方を知っているのです。
それは天国、楽園、浄土、涅槃とさえも入れえる幸福な時代に生きています。

もちろん数を起源として元を数から抽象して創造したものと考えても構いません。
しかしそれと同時に元から数を想像できるという考え方を同時に持つ必要があります。

これは20世紀初頭に論争した論理・形式・直感主義者たちや数学を人間の手で一から構築しようとしたブルバキなどの努力があってもなお理解されないことがある考え方です。

しかし数学を基礎づける哲学、―単に数理哲学と呼んでもいいかもしれませんが―、の根源には、現代哲学や大乗仏教の中道が相対主義の考え方と並んでこの様な考え方があります。

2022/07/28

やさしい哲学の象徴と記号論入門 存在から創造の時代へ

はじめに

我々は変わらないものを想定する傾向があるのかもしれません。
変わらないものとして想定するものの候補の1つが実在論における実体です。

もう1つが名前やことばなどの広い意味での記号です。
これは文字でも記録あるいは記憶された音声言語でも構いません。
自分の中で変わらないし、人にとっても変わらなければ不変であり普遍的とも言えるでしょう。

正しいとか確かだとか言う言葉は何をもって正しいとするか確かだとするかの定義によって違いますが不変で普遍なものはその候補になるかもしれません。

象徴化や記号化についてまとめました。

第1章 こころの想像と創造

私たちの頭の中はもやもやしている時もありますがはっきりしてくることもあります。
はっきりと意識してとらえられた何かに対して我々は創造を働かせます。

1つ目の創造は実体の想定です。
はっきり意識してとらえた何かが実体として存在すると考えます。
これを実在論と言います。

2つ目の想像は象徴化です。
はっきり意識してとらえた何かを象徴として固定化させようとします。
象徴を表現する際に名前や言葉などの記号、図象などを用いる場合があります。

実体と象徴は我々の想像が造るものですが方向性は違います。
それぞれ独立したものと一旦は見てもいいのですが、現実には混交してとらえられる場合が多いようです。

人間は人に教えてもらうのでなく自分自身で思いついた時により強いインパクトを受ける傾向があります。
そのため往々として人に聞いていたことを忘れてしまっていて自分で思いついたつもりになってしまったり、人の話を聞いている途中で話そうとしている内容を理解してしまい「んだ、んだ」と言って最初から知っていたような態度ばかり取るのが癖になってしまったりしてトラブルになることさえあります。

閃くとかインスピレーションとか思いつくとか思い出すとか能動的に自分の中からアイデアが湧き出た時にはその考えに強く惹きつけられてしまいがちです。

実体の想像についてはこれが典型的に当てはまって実体感、すなわち強くリアリティを感じることになります。

象徴は象徴性や象徴表現、記号や図象については人為的に自分で作ったという自覚があることが多いですが、象徴自体についてはカテゴライズや抽象化やその他のインスピレーションによって生起されることがあるため、やはり強い思い入れが入り実体感、リアリティさえ持つことがあるようです。

第2章 実体について

おそらくキリスト教の影響だと思われますが昔の西洋哲学では実体はあるものと考えられる傾向にありました。

その場合、実体と個物を分けて考える傾向がありました。
例えば人間で言えば個性を持った個々の人間が個物で、特別な個性のない完璧かつ理想的に典型的な人間像を持つ人間が実体と分けて考えます。

その上に、イデアのような完全なものとしての実体が上流にあって下流に不完全で個性のある個物があるという考え方とその逆に個物のように見えるものが実体であって実体と見えるものは人間がカテゴリー分け、類別することにより作られた二次的なものである2通りの考え方がありました。

現代の我々から見るとなぜそういう考え方をしなければいけないのか分かりませんが、心理学や脳科学、認知科学などが発展していない時代においては、神的、異界や異世界、現代的に言うと特殊な精神状態、あるいはオカルト的な考え方が普通に日常的な思惟であり学問的対象だったのでしょう。

例えば前者の考え方では人間には完全な人間像があって、現実の色々な個々の人間は個性のような特殊性があってどこか人間として完全ではない面を持っていると考えます。

後者の考え方では色々な違いを持った人間こそが実在していて、完全に典型的な人間像を持つ人間というものが色々な違いを持った人間と接する中で経験的に作られていくと考えます。

おそらく何かのインスピレーションに基づいた理想的な人間像が実体として存在して個々人の人間はその唯一の典型的な人間の何らかの繁栄に過ぎないのか、はたまた個物としての個々人の人間が実体であって、理想の人間像と言うのはそこから類推されるのか。
どちらにしても実体という考え方がどちらにもありますし、個々の人間や理想の人間と言う区別があってそれを結びつけるメカニズムについての仮説があるのが特徴です。

実体があると考えることを実在論と呼びましょう。
観念論は実在論ではないのではないか、という意見もありそうです。

そうかもしれません。
しかし多分観念論は実体を物質世界ではなく観念の中においたと考えた方がいいでしょう。
あるいは観念こそ実体、と考えたと思われます。

おそらく世界を物質の世界と観念の世界に分けて考える様になった時代の産物でしょう。

心理主義、とも言われますが形而上、形而下と分ける考え方は昔からありましたが、近代になって物質界以外を神的、異界や異世界、現代的に言うと特殊な精神状態、あるいはオカルト的なものから心、精神、脳などより生物学的なものに組み替えた結果かもしれません。

現代哲学では実体があるという考え方や実在論も特に否定しませんが、実体が存在しないという非実在論も理論やその両方を含んだ理論体系が造られています。
実体というものが実は実在しないものであったとしても人間は何かが実体であると感じたり、実体があるような感じを持っています。

実体でないけども実体のようなもの、実体であると思い込んでしまうようなもの、実体であって欲しいと願う心情が往々として生じます。
しかし実体ではないので実体と呼ぶわけにはいきません。

この本当は実体ではないけれども実体のように思えるものを表現する言葉を我々は日常語ではおそらく持っていません。

学問や思想の非日常的なタームではあるのかもしれませんが、それでもなかなか共通認識とされるような衆目が一致して賛同する言葉はないのではないでしょうか。

第3章 象徴について

象徴も記号も心理学的、あるいは精神的にははっきり意識してとらえられる想像であり表象であり認識です。
象徴を実体と見なす場合もあるかもしれませんが、基本的に別のものと捉えて下さい。

同じような意識的に認識される対象でも象徴は実体や実在とは違います。

まず象徴も何かを象徴化する場合も象徴自体を実体であるとは見なしません。
多くの場合に象徴により表されるものの代理や標識や名札のラベルのようなものと考えられています。

象徴により表そうとしているものが実体の場合も実体と思っているものの場合もそのどちらでもない場合もありますが、いずれにせよ象徴自体は実体とか事実とか真実とか本当の姿などとは違うというのが象徴です。

ですから何かを象徴する場合に様々な象徴化の方法があります。
名前を付ける、記号化、図象化、ジェスチャー、何でも構いません。
ここでは名前をつけること、あるいは記号化に絞って話を進めます。

記号化、名前を付けるということは実は大変重要な意味を持ちます。
名前や記号は不変なものの候補になるのです。
実体と記号は不変なものの候補になります。
実体から実在論が生まれ記号から記号論が生まれました。

中世神学の普遍論争では実在論と唯名論と言う学派が論争を行いました。
この場合実在論は実体を不変なものとして名(名前、記号)はそうではなく実体を象徴化してそれに名(名前、記号)をつけただけ立場であり、唯名論はただ名(名前、記号)だけが不変なものであり、実在論で実体と呼ぶものは不変ではなく名(名前、記号)から作られているという立場です。

記号は変わらず保存可能でそれが表すものもまた変化しないというのが唯名論の主張です。
これは現代哲学では重要な考え方です。

現代哲学の誕生や現代数学や言語学、文献学、書誌学、歴史学、テキスト論、文芸評論、文化人類学などの人文科学や時に社会科学の発想転換、発想の逆転によっているからです。
現代哲学や現代において、前の哲学、前の時代より頻繁に使われるようになった言葉は象徴や記号でしょう。

ソシュールという言語学者は言語を際の体系と呼び、レヴィ=ストロースは象徴の王国と言う本を出し、ジャックラカンは世界を象徴界、想像界、現実界に分けました。

デリダと言う哲学者は記号論ならぬ記号学という学問の創設を訴え、ウンベルト=エーコという記号学者は『薔薇の名前』というショーン・コネリー主演で映画化されたベストセラー小説を書いています。

実在論では実体の特徴からそれを表現するために象徴化が行われ、言語化、記号化されると考えます。
不変で確実なものから代理、代表、特徴、性質として言葉で表現されるようになります。

我々が何かに名前を付ける場合のことを考えてみましょう。

1つ目の方法はランダムにつけることです。
この場合a,b,cなどの記号でもいいですし1番、2番、3番などそっけない名前でいいでしょう。

2つ目は対象の特徴にちなんだ名前をつけること。
対象に本質というものがあるのならその本質にちなんだ名前でもいいですし、複数ある特徴のうちどれかだけを取り出してそれにちなんだ名前でもいいでしょう。

3つ目は連想でつけることです。
これは結果的に1つ目と2つ目の方法と重なることになるかもしれませんが、対象とは関係なく名付ける人の思い出や偶然の出来事を名前に結び付けたりなど、命名者側の事情だけで名付けられ、対象の本質や特徴を全く反映していない場合もあるかもしれません。

この様な名づけの場面を考えるとやはり言葉は本質でないと思いがちでしょう。
既に名前が付けられているものの意味や語源を考える場合も同じです。

ことばや記号は本質ではない、本質自体は直接表現できないので仕方なしに代理に象徴や言葉や記号を用いているのだ、という考え方を持ちがちになります。
しかし逆に考えると我々は実体や本質というものには直接接触できないという風にも考えることができるかもしれません。

直接我々がコンタクトできるのは何か直接コンタクトは出来ないが実在論者が実体や本質と呼ぶ何か良く分からないものではなく、実在論者が実体と考える何かから発せられていると思われる特徴や性質であり、もっと直接的にはそれを象徴化し、言葉にしたものです。

我々はそれが代理品で実体や本質を模る紛い物と見るかもしれません。
しかしこれも逆に見ればすべてが紛い物で紛い物である方が本質であって、むしろ真実や本質や実体と言われているものの方が本当は存在しない紛い物なのかもしれないという発想をここではしてみてください。

そもそも本当とか嘘とかいう発想自体が二項対立的な差異から作られているのかもしれません。
つまり人間が恣意的に作った産物に過ぎないかもしれません。

一旦この様に常識を壊しておきつつ、寧ろ不変で正しいのは文字や記号と考えてみましょう。

我々の頭の中はそもそももやもやしています。
たまに冴える時があると何かを思いついてそれを真実だと思い込む修正があります。

謙虚な人や知能が高い人であればそれは唯の思い付きに過ぎずそういう可能性もあるがそうでない可能性もあると冷静客観的に考えられるかもしれません。
しかしいわゆる今はやりの「行動力のあるバカ」な精神状態になってしまうと自分が思いついたことを真実と思い込みます。
その他状況や政治的事情もあり真実でないと思っていても真実と見なさなければいけない空気を受け入れる、あるいは受け入れてしまっている場合もあるでしょう。

そもそも象徴、何かの性質や特徴を表す記号の方が表されるものに先立つと考えてみましょう。
そうすると実体や本質と思われているものはその性質や特徴を示す、象徴や名前のラベル、説明や解説、注釈文などから作られているという風に考えることができます。
それはことば、文かもしれないし象徴的な図象やあるいは感覚的に、あるいは記憶によって想起されるものかもしれません。

象徴はことばや図象、あるいは感覚や記憶の断片、いろいろなものの連想を含めて沢山の形がありますが、記号や図象化されているものはごく一部です。
実体と思われているものは普通色々な特徴や性質を持っています。
色々な特徴や性質を持たないあるいは単一の特徴や性質だけを持つ、あるいは特徴や性質を全く持たない実体と見なされているものもあるかもしれません。

ただ我々の象徴や記号を用いたアプローチでは意識されるにせよ無意識的なものであるにせよ、実体のようなものの顕現は、沢山の性質や特徴に支えられていると考えることにします。
逆に言えばバラバラな性質や特徴を集めて単一の何かを作り上げたものを実体と見なします。

シニフィエ(サイン、記号化されたもの)に対するシニフィアン(サイン、記号化すること、記号自体)の優位という考え方を提示しましたがまさに「はじめに言葉があった」「言葉が受肉(インカネーション)した」ものが実体と呼ばれるものなわけです。

丹精込めて細部の積み重ねていったら魂が宿ったような感じでしょうか。

おわりに

まとめると人間の頭はもやもやしていますが、時にピーンときて何かを確かに分かった、納得したと思うことがあります。
その最右翼が実体概念でその最左翼が記号でしょう。

昔は実在論が強かったのですが人類の知識の進歩と核心によって記号論が支配的な世の中になってきました。
現代哲学があまり学ばれていないように見えても世の中は着々と現代哲学的になっている様に見えます。

現代哲学自体を色々なやり方で学問的に学ぶのもいいですが、世の中の雰囲気が現代哲学的になってきて、自然にそれが人々の頭の中に浸透したり、通念になったり、空気になっていくのは良いことと言えると思います。

一方勉強して身につけたのでなければ中途半端な理解になるので、ジレンマが生じたり葛藤や軋轢が生じることもあるかもしれません。

また世代や年代によって実在論と記号論の度合いが違ってギャップを生む面もあるでしょう。

どちらの考え方も理解して使いこなすのが一番いいですので、教育システムを整えて10代のうちに理解せずとも触れらるようにして生涯学習に移すのがいいのかもしれません。

現代哲学的な考え方を知らないとある場合に極端に効率が悪くなります。
特に大学などで数学を学ばなければいけない人も沢山いると思いますが、初等数学から高等数学の考え方が実在論と記号論のように真逆なので現代哲学を知っていればすんなり頭が切り替えられるかもしれませんが、切り替えられない場合には十分、あるいは納得して、あるいは充実感を持って数学を学べないはずです。

現代数学を広める会というのをやっていますので数の作り方を書こうと思って集合論や位相論を復習していますが改めて色々な教科書を読むと著者自体が現代数学基礎論の基本的な考え方、というより数理哲学を理解していない場合があるように感じられる時があります。

存在から創造へ、逆転の発想の時代に馴染んでいきましょう。

2022/07/21

やさしい哲学・仏教・数学を使った創造性の発揮のしかた

題名はややあとづけ

はじめに

現代哲学が誕生した背景を過去の歴史からみる背景には実在論の批判と存在論と認識論を完成させたことが見て取れます。
そうした現代哲学をマスターしたら過去の歴史ではなく未来を見て応用していきましょう。

ざっと現代哲学のマスターのメリットは3つあります。

  • 倫理道徳として確固とした個人主義が身につくこと。
  • 創造性が高まること。
  • 学習能力が高まること。

です。

大は小を兼ねるとは限らないかもしれませんが、現代哲学をマスターした方がしていないより良いと言えます。
現代哲学の活用法を解説します。

第1章 個人主義と集団主義

現代哲学の結論は世俗的な考え方や行動の仕方については何でもありというものです。
過激に言うと、自分のやりたいことをするためなら犯罪を犯してもいい、ということになります。

他の哲学や宗教であってもそういう結論になってもいいはずなのですが、古典的な倫理、思想、哲学、宗教は向社会的、集団主義的につくられています。
つまり集団の秩序を乱さないように作られています。

現代哲学ははっきりいうと集団と言う概念がありません。

一応現代哲学を操る自分と言う概念はありますが、それ以外のものについては特別視しないので他者がいるかどうかも前提にしていません。
また全ての世俗的な考え方について絶対化を否定しますので、「犯罪を犯すべき」も「犯罪を犯さないべき」もどちらの考え方も肯定も否定もしません。
世俗的な生活に対する強制も制限もないので自由にしたらいいのです。

しかし他者はいないと言っても実際にはいますし外部は環境として実際には感じます。
事物は現代哲学的に言えば理由は不明ながらも現前しますし、仏教的に言えば因縁は生起します。

我々は現象する世界に生きているわけです。
幸せに生きるにはある程度世界との折り合いをつける必要があります。

そこで必要なのはメタ認知と記憶と自覚と覚悟です。
これらがなければ自己同一性や役割同一性を持てませんし主観的にも客観的にもなれません。

我々は常に選択できますので時と場合によって個人主義的であったり集団主義的であったりスタンスを柔軟に変えるのが良いかもしれません。
ただ現代哲学を身につけたのであれば究極、あるいは極端な個人主義を持てるようになると良いでしょう。

集団主義は集団、他者に忖度や配慮する考え方です。
個人主義を究めると他者と無関係になります。
他者や集団がどうであるかを配慮せず、自分の思考や行動を決定します。

自分と他者や集団を完全に切り離します。
これが極端な個人主義です。

現代哲学をせっかくマスターしたのであれば必要に応じてこの極端な個人主義のモードになれるようにするといいでしょう。

人間が完全に個人主義で自由ならば集団がまとまらないという意見が昔からありました。そうかもしれませんがそれならそれで仕方がないのでしょう。
歴史的にいえばどちらかというと全体主義や共産主義などの集団主義の方が戦争や粛清で人を殺す数が多いようです。

そもそも現代哲学をマスター出来るのは大体思春期をとおに過ぎてある程度人間が固まってからなので、極端な個人主義の発動も自覚や覚悟や結果の予見をもって行えますし、そもそも集団に対する配慮をにじませた極端な個人主義にはならないことが多いでしょう。

大数の法則や中心極限定理というものがありましてそれが現代社会の理論的な基盤になっていますが、そもそも全員が極端な個人主義であったとしてもおそらくそこそこの状態に落ち着くでしょう。

またメタ認知と記憶と覚悟と自覚がある場合には極端な個人主義者になる機会もあまりありません。
極端な個人主義を貫いて生きていけるのはよっぽどの大物だと思いますが、人間はちっぽけで脆弱な面がありますのでどこかで転ぶことが多いでしょう。

第2章 創造性の向上

実体、現前、差延、存在者、空、仮、戯、因縁、縁起、無常、無我、無定義概念、無定義語

その他、我々が事物を表す言葉には色々なものがあります。

構造主義的哲学や現代数学の形式主義や公理主義、仏教の因縁生起論では事物に実体があるという考え方は必要ないので無視します。
事物の同一性や恒常性が成立するのは差異の体系、関係性、相依性、因縁生起、構造、形式などによるわけです。

物質と反物質が接触すると対消滅します。
逆に何もない所から、といってもエネルギーはあると思いますが、物質と反物質が対で生成します。

これは2つの物の関係ですが、例えば赤というものを世の中から消してしまいたければ世の中の赤いものを全て無くしてしまえばいいのです。
と言っても赤というものは生物学的に言えば電磁場と人間の脳が造る視覚のモダリティに過ぎません。
物理的にはある波長あるいはいくつかの派長の電磁場の和になります。

そういうことはおいておいて世の中に赤いものがりんごと血液とハイビスカスしかないのであればりんごとハイビスカスと血液をなくしてしまう、あるいは見たことがない人には赤というものは存在しません。赤というものを成り立たせるためには成り立たせるための何かが必要になります。

りんごをなくしてしまいたければ木の実と赤と丸と味と匂いなどをなくしてしまえばいいのです。
ハイビスカスをなくしたければ花や名前や南国のイメージをなくしてしまえばいいのです。
血液をなくしたければ液体や体液や赤血球や白血球や血小板や血漿をなくしてしまえばいいのです。

何でもいいですが何かをなくそうと思えばその因縁をなくしてしまえばいいのです。
逆に何かを造ろうと思えば因縁をつけていけばいいのです。

考えている集合に赤いものが血液とハイビスカスとりんごしかなければ血液とハイビスカスとリンゴが消滅すれば赤も対消滅ではないですが消滅します。
共消滅とでも言いましょうか。

あるいは世界に赤いものが血液しかなくて、赤の色が血液にのみ依って成立しているのであれば血液が無くなれば赤色という概念が消滅します。
この場合は対消滅と呼べるでしょう。

逆に赤色が考えている世界から消滅すれば血液の概念は変化します。
血液のアイデンティティから赤色が無くなるからです。

別の例を出しましょう。

初等数学を勉強すると我々はユークリッド空間があると思っていてそこではイプシロンデルタ論法やコーシーの収束点列が成り立つと考える様になります。
逆に高等数学で数学の基礎を学ぶとイプシロンデルタ論法やコーシーの収束点列からユークリッド空間が成り立つことが分かります。

すなわち集合論や位相論にによって、元の集合に順序や整列や集合の濃度、位相、連結性、コンパクト性、分離公理、距離などの構造を集合に取り入れることによってユークリッド空間が構成されることが分かります。
つまり初等数学と高等数学は真逆なことをしているわけです。

元と元を色々な形で関係づけるということは、集合に構造を入れ込むということです。
構造が取り入れられていない集合は元と元の関係がないので数学的にはあまり関心をひかない、という表現をします。

これが構造主義ですが、仏教では元と元を何らかの形で関係つけるという代わりに、元と元を何らかの形で因縁をつけるという表現になります。

この因縁という言葉は仏教の言葉ですが現代哲学の重要な概念を簡潔に表す言葉であるにもかかわらず、現代哲学にはこれに代わる適当な言葉がありません。
現代数学や現代哲学に比べると仏教は2000年以上昔の思想なのでやはり年季が入っているという所でしょうか。

現代哲学による新しいものの創造はこの仏教の因縁や縁起(因縁生起)の手法や現代数学の学問の対象を一から組み立てる方法を使います。

よく数学に秀でた人をほめる言葉に「彼or彼女は一つの分野の数学を作ってしまうほど天才だ」みたいな言い方をする人がいますが、「彼or彼女」が天才であるかどうかはともかくその様に誉めた人は初等数学までしかやったことがない人なのでしょう。

高等数学を勉強していれば数学の分野を作ることはできるでしょう。
しかしその造った数学の分野が多くの数学者の関心をひくか、流行るか、数学や数学以外の分野に大きな影響を及ぼせるかはまた別の問題です。

既存の理論の公理を一つ取り換えるだけで、あるいは仏教流にいうと因縁を一つ取り換えるだけで全体の体系は別のものになります。

数学の話にすると整合性や無矛盾性が問題になりますが、アートやクリエーションの世界であれば整合性や矛盾などを考える必要はない訳です。

造ったものに数学風にいうと数学者にとってあまり興味のない対象ではないもの、アートで言えば人に感動や感銘を与えたり新鮮さや衝撃を与えたり面白みや関心を抱かせるものでなければ廃れるだけです。
廃れても別の場面や別の時に意味を発揮するかもしれないことにも注意が必要です。

時代に先駆け過ぎた、早過ぎた天才の業績といわれるものはありますし、別の場所で評価されることもあります。
しかしやはり学術でも芸術でもしょうもない仕事の方が多くなるのは一般的に障害ないでしょう。

おわりに

『違う』ということは多分いいことでしょう。
これは面白さやおかしさや変な感じ、個性につながる可能性があります。

人をひきつけますし人に好かれる、あるいはつながるきっかけになるでしょう。
つまらない、退屈、飽きることは多分あまりいいことではありません。

よほど好奇心や物事に関心が広く深い人でなければ人をひきつけませんし特にすかれる機会も場面もなく終わりそうですし、出会いの機会も付き合いが続くきっかけにもならないでしょう。

面白さやおかしさ、個性は時に創造性、刷新性、新規性などによって生み出されます。

何か新しいものを作り出すこと、これは経済にとっても重要です。
超長期の経済成長やGDPなどの生産性の指標では表せない見えない部分の幸福度は往々にして技術革新などによってなされます。

運や信仰、運命や宿命は大切です。
しかし現代は人が地道に何かを創造しないといけない時代になってしまっています。
何にせよ自分で作ることができると何事も便利ですしそれ自体が面白いでしょう。

現代哲学でも現代数学でも仏教でも核心を理解してしまえば創造力がつきます。
それぞれの転換点は近代哲学から現代哲学、古典数学から現代数学、因縁生起の理解によって新たな段階へ古い段階を超克して新たな段階へ至ることができるでしょう。

2022/07/15

やさしい仏教の創造性を活かす方法

はじめに

仏教は実在論が持たない創造性を持っています。
物事には実体があると考えればそれは最初からあるのであって、作ったものではなく見つけたものでしょう。
実体を作ったと言えば実体論者から疑問や批判や説明を求められるかもしれません。

仏教で実体と相当する概念を因縁や中と考えてみましょう。
「因縁を作った」「中を作った」と言っても特に疑義は出ないでしょう。
ただ「因縁を作った」は日本語の言説として通用しても「中を作った」は一般的な日本語として受け入れられないかもしれません。
「中」という概念自体が日常語ではないからです。

「因縁を作った」よりは「因縁をつける」はより慣用句かもしれません。
因縁よりは十二因縁生起、あるいは因縁生起が因縁よりも以前から元来あった仏教語だと思われます。
すると因縁というものは元々「生起」する性質を持っているということになります。

仏教では因縁は生起するのが当たり前です。
「実体を生起する」と言わないのと対照的です。

役に立たなくても大切なことはたくさんありますが、功利主義やプラグマティズムではないですが役に立たないより役に立った方がいいでしょう。
仏教から想像力をつける方法を解説します。

第1章 非実在論の目から実在論を見る

もし仏教で一番大切なのは何かと聞かれれば「因縁」や「縁起」はその候補に挙がるでしょう。

仏教では三宝帰依と言う考え方があります。三宝とは仏、法、僧を指します。
仏は悟った人、法は教義、僧は教団や教団員を指します。

仏教と言うのは僧が悟って仏になるための教えです。
僧が悟って仏になるのは因縁生起を理解した時です。
ですから法、教えの中で一番大切なことの候補として因縁生起、略して縁起は最有力候補となります。

ここで大切なのは因縁が生起するという性質です。
決まった因縁しか生起しない、因縁の種類は決まっている、ある種の因縁は生起しても生起しえない因縁もあるのであれば因縁は実体と同じように見なせますので実在論と事実上変わらないことになるでしょう。

実在論では実体というものが初めからあり、人間はそれを発見したり認識するものであるという論法や思考法になりやすい考え方です。
これはやや固い考え方と言えて、教条主義的(ドグマティック)になりがちです。
実体を創造できるのは神や特殊な能力を持ったものだけであるようなヒエラルキーが造られることもあります。

宗教の1つの意味は世界に対する説明体系です。
世界ができた理由でも、人間が存在する理由でも、自然現象を説明する理由でもいいですが何かを説明する機能があります。
仏教のお釈迦様の特殊性はその様な世界の説明体系を逆になくしてしまったことにあります。

輪廻転生や人間の実体の存在を否定できる考え方を考案しました。
それが因縁生起です。
更に実在論も因縁生起説も含めたあらゆる世俗的な思想を相対化する中道の理論を作りました。
これらは大乗仏教では空論や中観論と言われます。

中道や中観の中の理論は全ての自然、世界、社会などに何らかの形で関連する世俗に諦関係する論説を相対化するもので要するに例えば思考や行為に関する教条主義や世界や自然や人間に対する説明体系を絶対的な正しい、絶対的に確かであるとする主張を認めません。

これらの理論は実在論に対するアンチテーゼとして使われたり、物事の分析や理解に使われると思いがちです。
ただこれは歴史的経緯からそうなりがちですが実在論を意識し過ぎです。

一旦因縁や中の概念をマスターしたならばそれを批判や理解や分析だけに使うのは消極的、受動的、後ろ向きで、それよりは何かを創造するために積極的、能動的、前向きに使うようにするべきです。

仏教と言うのは仏、法、僧ですので仏になるための方法を僧に教えるという体系になっていますが、一旦仏になったのであれば、法を使って建設的、創造的なことを行うべきです。

仏教の因縁や空、中道や中観や中の考え方は現代数学や現代哲学と同じものです。
西洋文明が仏教に2000年後に追いついたわけですが、追い越した後の現代数学や現代哲学の発展は西洋文明が圧倒的でした。

現代哲学が生産的であったかはよく分かりませんが現代数学は抜群に生産的でデジタルに関することは科学、技術、産業含めて現代数学のたまものです。

第2章 因縁をつける

仏教では実在論は否定しません。
しかし実在論にも創造性はあるかもしれませんが仏教的に創造的であるためには因縁生起論を用います。

実体を作る、あるいは実体が変化するという実在論の要素を持つ哲学もあると思いますがそれだと仏教に特徴的なわけではありませんので因縁を用いた想像について考えてみましょう。

人間にはリアリティや実体という考え方や感じ方が身に沁みついています。
ですからこれを利用します。
因縁の考え方を使ってリアリティや実体っぽさを出せればよい訳です。

実在論における実体と対照的な言葉として因縁生起論における因縁を名詞化して実体と対照させて使って見ましょう。

因縁を作る方法はずばり「因縁をつける」ことです。
いろんな因縁を引っ付けて新しい因縁を作るわけです。

芸術や創作活動ではリアリズムと言う考えがあって作品にリアリティを持たせるために色々な工夫をします。
例えば妖怪を作ってみましょう。

19世紀のヨーロッパなどではこの世に存在しない生き物のミイラのような物を作って売るビジネスがありました。

人魚を作るために猿や人間の死体の上半身と魚のしっぽ側をくっつけます。
これが造り物と分からないように見せるのが職人の技術になります。

この合成した死体は干からびています。
ミイラのように加工してエキゾチック感を出したり由緒をつけたりします。
その生き物が捕まったのがより古い時代のことであるとすれば今は絶滅したかもしれない未知の生き物が大昔にはいたのかと思うかもしれません。

その地方の伝説を借用あるいは捜索してみると未知の世界へのロマン感が広がるでしょう。
お寺や旧家に大切に祭られていれば信憑性が高まる感じもあるでしょう。
グロテスクな感じに仕上げてみると非日常の感じを掻き立てられます。

この色々な工夫は因縁生起の考え方に基づいてみればリアリティを持たせるために因縁をつけているようなものです。

因縁をつけることで人魚を作ってみましょう。
世界中の人魚の伝承や伝説と関係付けて説明を受けると懐疑心も溶けていくかもしれません。

かくして人魚の実体感を作っていくわけですが、こういった工程の一つ一つが因縁をつけていることになります。
因縁をつけることで人魚と言う実体感を持つ実体に似たものを新しい因縁として造るわけです。

これを因縁生起、縁起と言います。

日本には古いものがたくさん残っているので古いお寺や古い物品などにその縁起がたくさん伝えられ残されています。

第3章 理解までか理解からか

仏教の特徴として悟るのが目標で悟ってからどうするかについては言及がない点があります。
因縁生起を理解した後、それで何かを納得して終わりか、それを使って何かしていくかに着眼してみましょう。

それを使って何かをする場合には未だ一般的に知られていない因縁生起の考え方を普及啓発していくお釈迦様の様な行動が考えられます。
それ以外には色々な因縁を作ったり改造したり消したり積極的に活用していくことが考えられます。

因縁を作ることはいわゆる人との縁を作ることではありません。
要素と体系を構築したり改造したり消したりするということです。
それは部分的であることも全体的であることもあります。

部分的な場合はあると便利な新しい概念を作ってみたり、既存の物事の意味付けを変えてみたり、反対したい言説を解体したり無意味化したりするのに使います。

全体的な場合はある一つの学問分野の理論を構築したり、既にある学問分野の前提を変えてみたり、学問や社会常識の意味を反転させてしまうような価値観を流布して流行させたりします。

これは既に現代社会で自覚的に行っている人々がたくさんいます。
これを知っているか知らないかで人生はまるごと変わってしまいます。
大は小を含むと考えると多分知らない人が損をして知っている人が得をします。

おわりに

仏教的に言うと我々は普通、仮や戯の世界に生きています。

実在論や実体は心理発達の過程で身につけられていくものですので実在論的な認識や実体の感覚を持たないまま空や中の概念を身につけられるのかどうか分かりませんがおそらくそういうはっきりした実例はないのではないかと思います。

実在論は実体意識は仮や戯です。
実在、実体、仮、戯は最初から事物が、あるいはその総体としての世界が存在することを想定しています。
それに対して空や中、現代哲学の構造主義とポスト構造主義と同じものです。

空や中、現代哲学の構造主義とポスト構造主義は事物も世界も我々が創造する世界です。
自由に創造とまではいかないかもしれませんが、能力を高めれば高めるほど色々なものを創造できるでしょう。

例えば幾何学は古典幾何学はユークリッド空間という自明、すなわち説明の必要のない空間を前提にしていますが、現代の幾何学ではユークリッド空間は集合論や位相論から作り出した上でその上で幾何学を行います。

空間ごと人間がまず作り出すのです。
我々は限りなく自由に創造が許された世界に住んでいます。

実体と思われるものも部分的に因縁構成をかえてしまう「ずらし」という手法もありますし、解体してしまう「脱構築」と言う方法もあります。
実体と違って因縁は柔軟に生起消滅変形なにもかも自由自在です。

それを不遜と見る立場の人もいるかもしれませんが、これが随所に主となれ、と言われる仏教の主体性であり自由であり解脱であり涅槃であり極楽浄土です。