医師 奥村 克行のブログ

2021/09/22

超簡単現代哲学の記号論、言語、コミュニケーション入門

はじめに

 
近代と現代を分ける決定的な違いがあります。

「記号」に対する考え方です。

 西洋哲学は「確実なもの」「正しいもの」を追求する学問です。

 現代哲学より前の西洋哲学では言葉、もっと広くいうと「記号」や「コミュニケーション」について特に深く考えていませんでした。

 しかし現代哲学ではそれ以前の哲学とは違い言葉を重視します。

 現代思想家であり構造主義的精神分析で知られる精神科医のジャック・ラカンは世界を3つの観点から見る考え方を提唱しました。

 現実界、想像界、そして象徴界です。

 象徴界というのは言葉、あるいはもっと一般化すると記号の世界です。

 現代哲学以前の西洋哲学では現実界、想像界のみが研究対象でした。

 これに象徴界を加えたのが現代思想です。

 なぜ現代思想が象徴界を導入したかと言うと、我々が確実に伝えらえるものは記号の配列しかないからです。

 現代哲学の記号論についてわかりやすく説明します。

第1章 記号とは何か

 私たちは言葉を使います。

言葉を表すのに文字を用います。

 文字は記号の一種です。

 ですから文字を研究するということは記号を研究することでもありますし、記号を勉強する場合文字の研究はよいサンプルになります。

 自然言語を研究する学問を言語学と言います。

 言語学の研究対象には文字や文字列、すなわち記号の研究が含まれます。

 自然言語の他に記号が用いられているものとして挙げられるのが例えば数学です。

 小学校では算数を習いますがこれもやはり記号です。

 中学では方程式や関数、幾何学の証明などより記号的な数学を習います。

高校の数学の諸分野は記号なしでは成り立たず、そしてもし大学で数学を学ぶ機会があれば数学が自然言語を排した数学独自の記号体系で構成できることを学ぶでしょう。

中世には言語学習として古典語、文法、修辞、論理などが重視されました。

この中で論理学が得意な進歩をたどり記号論理学として成就します。

 記号論理学は記号論理学独自の記号規則で成り立ちその中で完結します。

 記号論理学を習得せず自然言語しか習得していない人が論理的に誤謬をきたさないことは事実上不可能です。

 結果として記号論理学を学んでいない人の論説は見る人が見れば論理的に間違いだらけであるのにそれが巷間に気付かれず流通していることがあまりにも多く見られます。

 言葉を研究する学問に言語学があります。

 現代において最も成功し世界を激変させている記号はプログラミング言語でしょう。

 プログラミング言語は様々な言語がありますが、普通はキーボードに刻印されている記号で表現されます。

 しかしどんな記号を使ったどんなプログラミング言語であろうとコンピュータに入力される際には2つの記号に変換されます。

 2つの記号よりなる記号列はどんな高級言語によりかかれたどんなに膨大でどんなに複雑なプログラムも表現する力があるということです。

 記号論と同じではありませんが記号論と重なる部分のある自然言語を見ると記号にもいくつかの種類があることが分かります。

 ざっくりいうと一つはアルファベットの様な表音文字で、もう一つが漢字の様な表意文字です。

 記号の数を減らす方向性があり、最小は2つの記号、多くは数えきれないほどの記号が作られ使われることがあります。

 表音文字は比較的使用する記号の数が少なく、表意文字は使われる記号の数が多いという特徴があります。

 自然言語は話し言葉でも書き言葉でも直列に文字が配列されます。

 記号が直列に配置されることは記号の研究において本質的なことではありませんが、直列に配置される場合だけ考えれば十分でしょう。

第2章 確かなものとしての記号

 哲学は確かなもの、正しいものを追求します。

 伝統的な哲学では確かさや正しさの対象は存在や認識でした。

 存在論や認識論における確かさや正しさの議論においては現代哲学で決着がついています。

 哲学の基本的枠組みを知るにはカントの三部作を見ると良いでしょう。

 カントの三部作は「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」から成り立ちます。

 この中で純粋理性批判は存在論と認識論を扱います。

 現代哲学は純粋理性とは何かについての最終的な解答です。

 カントの三部作の残りの「実践理性批判」と「判断力批判」は人はどう生きるべきか、真善美とは何かについての研究です。

 現代哲学でこれに対応するのはイデオロギーです。

つまり人生をどう生きるか、真善美をどう判断するかは「選択するイデオロギーによる」というものです。

 カントの三部作で取り上げられずに現代思想で取り上げられる確実性の問題として言葉やコミュニケーションの確実性があります。

 カントが問題にしなかったのはこれを重要な問題とは考えていなかったからと考えられます。

 言葉を含めた記号の問題が噴出するのはカントの時代よりだいぶ後で言語学、論理学、数学、歴史学、文献学、書誌学、考古学など様々な領域で言葉と向き合わざると得なくなります。

 この時キーワードは「シニフィエに対するシニフィアンの優位」ということです。

 シニフィアンは表現するもの、シニフィエは表現されたものです。

 表現するものとは具体的には言葉など、表現されるものは言葉で表現される全てのものです。

英語でいうとsignify、significationなどと同じ語源で「sign」という言葉を基に作られています。

 ジャック・ラカンと言う構造主義者、精神分析家、精神科医が「ボロメオの環」という図式で世界を3つの見方から分類しました。

 世界は現実界、想像界、象徴界の3つの側面から考える事ができるという考え方です。

 簡単にいうと現実界は客観的に捉えられる世界、想像界は精神的に捉えられる内面世界です。

 ここに象徴界が加わるのが現代哲学の決定的な特徴でカントの三部作には含まれていないものです。

 象徴化(symbolize)できるものはざっくりいうと図像化や言語化できて、さらにざっくりいうと記号化が可能です。

 象徴(symbol)とは記号で表される世界と考えてください。

 現代哲学より前の哲学の対象は現実界と想像界だけです。

 つまり昔の哲学者は確かで正しいものがあるとすればそれは現実界と想像界にあると考えていたわけです。

 「シニフィエに対するシニフィアンの優位」という言葉で象徴される現代哲学の言葉を紹介しましたが、それになぞらえて言えば「シニフィエのみが対象でシニフィアンに気付かない」状態が従来型哲学です。

 なぜそういう状態が続いたかと言うと、現実界と想像界の事物は再現性があり、「正確な形で他者と共有可能」と無意識に思い込んでいたからです。

 しかし現代では常識であり容易に誰にでも分かることですが個人の想像や中で現実として表彰されているものを他者に正確に伝えることはできません。

 個人の中においてすら内面で想起される物事を時間に関係なく全く同じ形で再現することはできません。

 何かを正確に残し伝えられるとしたら実はsymbol(象徴)、もっと具体化すると記号列だけです。

 歴史学や文献学を考えてみましょう。

 過去の文字列が残され、その意味は失われたり、改竄されたり、捏造されたり、挿入されることもありますが、残った文字列を基に研究を行います。

 文字列はそれが表す意味の仮物、借物であって意味が本質であり、文字列は二次的なものである、というのが古い時代の歴史学や文献学でした。

 「正しい歴史認識」なるものを唱える人が現在でもいます。

 これは「正しい歴史」があるという認識に立っています。

 しかし現代哲学では「正しい歴史」があるかないか以前に「正しい歴史」という概念がありません。

 現代哲学で「正しい歴史」を使うとすれば「正しい」を定義して前提とした場合だけです。

現代の科学や学問としての歴史学はこの「正しい」の定義を研究します。

 それでも確実な定義を行うことは困難であり、実現できているとは言えません。

 ですから歴史学者にせよ、哲学者にせよ「正しい歴史」という言葉を使う人はいないはずで、いれば偽物の学者でしょう。

 そういう人はソフィストなどと呼ばれいつの時代にもいて、「正しい歴史」なるものをイデオロギーを広める手段や政治的プロパガンダとして僭称します。

 一応注意しておくとここでは「歴史」とは文字列を使って過去を研究する学問として使っており、文字列以外も含めて過去を探求する学問は考古学とします。

 哲学的に時間論を厳密に考えれば過去というものはそもそも存在するかも不明ですし、万人に、あるいは個人の中においてさえ時間的に同じ認識を持続できるという通俗的な考え方には何の根拠もありません。

 もう一つの注意点として改めて強調しておくと、記号列、例えば文字列が、例えば一次文献があったとしてそれに一対一に対応する意味や内容が保証されることはありません。

 つまり「解釈」というものは普通は一様ではありません。

 正確な記号列の意味が取り出せるとすればそれは条件が必要ということになります。

 かくして言葉、言語、記号、サイン(sign)が哲学において新たな研究分野に加わったのが現代哲学において新たな研究分野に加わりました。


第3章 他者とは

 現代哲学の基本的な構成要素に主体性がありますが他者の概念はありません。

現代哲学で「他者」を規定するのはイデオロギーです。

 現代哲学の中核の枠組み外の主体性が選択するイデオロギーの中でです。

 その意味で現代哲学は個人主義的と言えますし、独我的とも言えるかもしれません。

 例として現代哲学以前の西洋哲学の他者やイデオロギーの中の他者論とコミュニケーションを見てみましょう。

現代哲学にとってはイデオロギーの一種に過ぎない現代哲学より前の西洋哲学はイデオロギーの集合で古代哲学や近代哲学の個々の哲学はそれぞれ一つのイデオロギーです。

 他者の存在やコミュニケーションはざっくりいうと殆ど自明なことで問題にしません。

しかし現代哲学では他者の存在自体が自明ではありませんし、他者とコミュニケーションがとれるかどうかも自明ではありません。

他の例として実存主義哲学や現象学というイデオロギーの他者の基底について考えてみましょう

実存(existentia)とは本質存在(essentia)に対する現実存在の意味で、本質的な世界や自分があるかないか、あるとしたらどんなものかという存在の本質を追求しません。

本質存在なるものを問題から外して、現に我々が現に存在している意味も分からず生きている状態を考えます。

これを留保(epoche)ということもあります。

考えても意味のないことは無視するということです。

我々は気が付けば世界の中に意味も分からず投げ入れられ(投企、被投、project)存在しています。

我々が世界として認識されるものの個々の要素や総体を現象(phenomenon)ということがあります。

現に我々の前には色々なものが現れます。

それを現前(present)と言います。

現象学や実存主義哲学の中では現象する現前の1つが「他人」「他者」です。

ここでは他者の存在やコミュニケーションについて考えてこなかった従来型哲学にたいする反省を行っています。

 2つの例を挙げましたが、「他者」という時、自然と自分以外を念頭におきがちですがこれも疑ってかかる必要があります。

現代哲学は主体性を大切にしますが、人間は個人内部においてですら、時や場合や状況によって変わります。

自分の中に他者がいるようなものです。

ですから現代哲学では自己のイデオロギーを明確にする、すなわち選択すること、自分自身に対してメタ認知を持ち自覚を持つことを重視します。

重視してなお自分の中に他者が存在しないことは普通あり得ません。

他者の他者たるゆえんは他者はそれぞれ異なる精神、異なる内面性を持つことです。

違う人間同士がコミュニケーションできるのか、同じ表象を持つことができるのかが問題になります。

昔の人間観や言語観では人間は同じで人間同士は分かりあえてコミュニケーション可能であるというものでした。

現代哲学では人間は全て異なりますし、同じ表象を持つこともありませんし、確実なコミュニケーションを行えることもありません。

正確に同じ現実や同じ想像、そして象徴に対しても全く同じ意味形成をするわけではありません。

第4章 コミュニケーション論

 現代哲学には「確かさ」や「正しさ」という概念がないので、そういう概念を使いたければイデオロギーの内部で規定する必要があると書きました。

 何を「確か」で「正しい」と規定してもそれなりの思想体系、イデオロギーを作ることができるでしょう。

 実際に古代の哲学や近代哲学では「現実」や「創造」、つまりラカンの言う「現実界」や「想像界」の中に確かなものや正しいものを仮定しました。

 現代哲学ではそれに加えて「象徴」を重視するので「象徴界」の中に確かさや正しさを仮定したイデオロギーを構築しました。

 それは「記号」と「記号列」です。

 これは誤解されやすい事ですが、記号や記号列が表すものの確かさや正しさは仮定しません。

 仮定しないどころか、記号や記号列が表すものは確かではなく正しくもないと考えます。

 先に表すことをサイン(sign)=記号という言葉を用いてシニフィアン、表されるものをシニフィエと言うと説明しました。

 この言葉を使うと西洋て通学では古代でも近代でもシニフィエは確実で正しいと考えます。

あるいは現実界と想像界だけを考えて象徴界を考えなかったことからわかるようにシニフィアンとシニフィエの区別をしないのでシニフィアンもシニフィエも確かで正しいものを示し得ると考えます。

 現代哲学ではシニフィアンとシニフィエの区別を明確に行います。

 そして従来型哲学はシニフィエの確かさや正しさを追求していると分析します。

 これは「シニフィアンに対するシニフィエの優位」と言えるかもしれません。

 これに対し現代思想ではシニフィエでなくシニフィアンに確かさや正しさを規定するイデオロギーの可能性を重要視します。

 これを前記したように「シニフィエに対するシニフィアンの優位」と言います。

 我々が言葉を使う時のことを考えてみましょう。

 音声でも文字でも記号と記号列は正確に再現性をもって発することができますし、相手も同じものを受信することができます。

 しかしその言葉によって表される意味については全ての人が違う解釈を行う可能性があります。

 他人同士だけでなく同一人物内においても解釈を迷ったり多重の意味を感じ取ったり時間、場所、状況で違う意味に解釈したりします。

 記号列が正確に伝わるかどうかを問題にするのであればそれはどちらかというと科学や技術の問題になります。

 例えば情報工学や通信工学により記号列の正確性のコントロールができます。

 あるいは認知機能の問題、例えば記憶障害や注意欠陥障害、意識障害や読字障害があれば文字列を間違いなく認識できない可能性があります。

 「言葉の中身が大切であって、言葉自体は重要ではない」と言うような主張を否定するつもりはありません。

 そういう古い考え方に基づくイデオロギーも現在でも十分に役に立ちますし、現に生活で使用しています。

 しかし現代の特徴は記号とそれが表すものに対する価値観の転倒で、記号列を重視することにより現代社会が成り立っています。

 古い価値観を代表する記号感から成り立つ記号術は自然言語ですが、論理学、数学、自然科学、工学、情報や通信などの科学技術や産業は全て現代哲学をベースに成り立っています。

 端的に言えば記号論理学、数学、科学技術の基礎としての物理学、情報や通信の科学技術は全て厳密に定めらた記号列により記述されている上に、一対一対応の厳密は規約(プロトコール)により解釈される仕組みが作られています。

 記号列の優位を認めた上でその解釈方法を厳密な規約を設定し解釈に多様性が出ないように制限したのが現代社会の特徴です。

 理数系の領域のみならず、歴史学や文献学もやはり現代的記号論を基礎に成り立っています。

 ですからきちんとした学者は歴史にせよ、聖書にせよ、仏典にせよ、医学書にせよ何かを正しく確実として絶対化することはありません。

 ありませんと言うより出来ない場合が殆どです。

 あえて確かで正しいものと絶対化するのであればそれを絶対化する、というイデオロギーを作りそれを選択することです。

 この場合でも現代哲学の枠組みから抜けない限りは自分がそういう思考と選択と行動を行っているというメタ認知と自覚は維持する必要があります。

 我々にできる事は何かのイデオロギーが正しいとか確かであることを証明することではなく、根拠はなくてもそのイデオロギーを正しい、あるいは確かであると定義することだけです。

 現代哲学的な理数工学的方法との違いは、解釈の一意性は保証できない点です。

 人により解釈の違いが生じるので集団でまとまることができず組織の分裂が生じます。

 「学問的議論」も困難になりがちです。

ただしそのイデオロギーを正しい、あるいは確かとするのは確かさや正しさの根拠があって行うのではなく、ただその選択する人の嗜好や使命感レベルの問題です。

 そしてそのイデオロギーに従属して思考、行動すると選択すればそのイデオロギーの信者の様にはなれます。

おわりに

 現代の特徴は記号列のマトリックスで作られていることです。

 それ時代にお記号列のマトリックスの中で生きている人はいましたが主に学者でした。

 現代社会では記号のマトリックスが具現化し、ややおこがましい言葉を受肉しウェブサイト、インターネットはおろか、AI、バーチャルリアリティーと進化し、ゲームもテレビもデジタル化し自然言語やアナログを圧倒しています。

 昔の記号列と現代の記号列の違いは現代の記号列が正確に一対一対応するシニフィエを規定しているからです。

 記号列(シニフィアン)の意味(シニフィエ)にぶれがありません。

 ぶれがある場合をバクと言います。

 バクが発生しないように基礎から根本的に検証し土台から積み重ねてユーザーが利用可能なインターフェースを構築するのが現代社会です。

 ですから現代はロゴスと哲学の時代です。

 そのためにはある程度の論理や数理的訓練が必要ですので大学のリベラルアーツ課程ではこの訓練を学問の基礎として必修教科とする必要があるでしょう。

2021/09/13

現代哲学における「自己責任」論の研究

はじめに

 「自己責任」、この言葉はある事件を契機に日本で流行している。

 この言葉は本来もっと昔のもっと古い世代の人々なら同じことをこの言葉は使わなかったであろう。

 当時私は世捨て人で勉強が趣味だったがその対象は数学や自然科学、語学、倫理学、医学などで人文科学や社会科学などの勉強は避けていた。

 人文科学や社会科学などは経済学や心理学などの一部を除いては公理主義、形式主義、論理主義的でないと考えていたからだ。

 非公理的、非形式主義的、非論理的な対象の研究は非常に高度であるのと非常に応用的である。

 私は基礎学問を勉強するのが趣味だった。

 私は2年前にめまい症になるまで社会的な出来事を避け世俗出来な学問を勉強してこなかったが、それでも世間が騒いでいることはある程度耳に入ってくる。

 その一つが「自己責任」事件であり、「自己責任」という言葉が変遷していく過程である。

 自己責任について研究する。

第1章 「自己責任」事件の経緯

 中東の政治情勢が不安定で戦争やテロなどで治安が不安定な時に中東への渡航を避ける様外務省が喚起したときにそれに反して中東に渡航した日本人たちがいた。

中東は政治的、治安的に不安定であり国民を守るため政府がその様な喚起を行うことがあったと記憶している。

何事もなかった人たちもいたであろうが現地で捕まり拘束されたり殺されてしまった人もいる。

ある時に中東情勢が緊迫して危険な時期に政府の政府の渡航制限をするよう国民に勧告が行われたが、それを知りながら中東に渡航し捕まってしまった日本人がいた。

それに対し捕まった人たちの家族が貴社会計を開き「政府の責任である」と言ったことから「自己責任」問題が始まる。

中東に渡航されて捕まった人たちが生還したか殺害されたかは知らない。

この家族の発言に違和感を感じた人が多くいたようでこれは政府の勧告に反して本人たちが自分で危険地域に渡航した結果なので政府の責任ではなく本人たちの「自己責任」であるという意見が発生する。

事件の概要はこれでおしまいである。

これを外国のメディアが取り上げ、取り上げたメディアの国では人道的目的のためにボランティアで危険なところに行く人は称賛されるべき対象だと「政府の責任ではなく自己責任である」という意見を攻撃したということもあったがこれは議論の本筋ではないので後で軽く触れる。


第2章 現代哲学と責任の関係

 責任という言葉をWikipediaから引用してみよう。

「責任(せきにん、英: responsibility/liability)とは、元々は何かに対して応答すること、応答する状態を意味しており、ある人の行為が本人が自由に選べる状態であり、これから起きるであろうことあるいはすでに起きたことの原因が行為者にあると考えられる場合に、そのある人は、その行為自体や行為の結果に関して、法的な責任がある、または道徳的な責任がある、とされる。何かが起きた時、それに対して応答、対処する義務の事」

と見出しで説明されている。
 
 ウィキペディアでもあるしこの説明をうのみにする必要はないが誰が読んでもそれほど違和感のある説明ではなく常識的な見解と見てよさそうだ。

 多分漢字や日本語の「責任」よりは英語のresponsibilityやlaiabilityの説明を何かから翻訳した感じだ。

 「もう少し読み進めると日本における「責任」の様々な用法」という見出しがあり次のような説明がある。

「従来より、日本社会においては「責任」という概念・語がよく理解されておらず、本来のresponsibilityという意味とはかなり離れてしまって[要出典]、義務という語・概念と混同してしまったり、義務に違反した場合に罰を負う、という意味で誤用してしまう人も多い。あるいは、もっぱらリスクを負担することにのみ短絡させている場合もある(部分的には重なるが、同一ではない概念である)」

ここでは日本では「責任」という概念が混乱して使われているとある。

 おそらく捕まったと後者の家族が政府の責任であると政府を攻撃したときに多くの人が違和感を感じたのであろう。

 その違和感から「政府の責任」に反論するため「自己責任」という意見が出たわけだがこれにも多くの人々が違和感を感じたようだ。

 この説明ですっきり合点がいた人たちもいたかもしれないが多くの人は何か釈然としないまま現在に至っている。

 事件以来現在に至るまこの言葉が使われるのは日本社会を批判するためであるのが殆どである。

 「自己責任」を重視する社会はおかしい社会であるという考え方があることが分かる。

 逆に社会を肯定する場合に「自己責任」が使われることはないようだ。

 現状はある種の人々が「自己責任」の言葉を使って社会を攻撃するか、個人が起こした事件の結果を「自己責任」がぴったりくると感じた人たちが「自己責任」という言葉を使ってコメントするということが多いようである。

第3章 そもそも「責任」か?
 現代哲学ではそもそもその核心部分において「責任」という概念がそもそも存在しない。

 現代哲学では主体性、選択、世俗的なイデオロギーの優劣が存在しないこと、主体は世俗的イデオロギーを自由に選択しそれに従うことを前提に成立している。

 それに加えて主体の選択をメタ認知し、自覚することを重視する。

 この中には「責任」という概念はない。

また他者と言う要素も存在しない。

そもそも責任がないし、自分と他者と言う差異が存在しないので誰の、あるいは何の責任かという問い自体が発生しえないし、発生させても意味がない。

 そういう意味では現代哲学のコアな部分は超個人主義的であり独我的であると言える。

 他者や責任という概念を導入したければそれは世俗のイデオロギーを創造するかあるいは選択する段階においてである。

 自分が想像する世俗のイデオロギーで他者や責任という概念を定義するか、選択する世俗のイデオロギーに他者や責任と言う概念が定義されている段階でである。

 世俗のイデオロギーは「責任」という概念を持つ場合も持たない場合もあるが「責任」という概念を使いたいのであれば世俗のイデオロギーで責任を定義する必要がある。

以上からから「責任」という概念は現代哲学にとっては必須ではないことが分かる。

 必須ではないが自らの思考や行動を常に自覚しメタ認知し続けているという点で現代哲学は知的、あるいは意志的な面で意識が高い思想と言える。

 人間は感情の影響も受けるが感情により自覚やメタ認知を弱めたり失ったりしない精神的緊張感を要するからだ。

第4章 責任の定義

 現代哲学と責任の関係を考えると、まずは現代哲学では「責任」の意味を定義しなければならないことが分かる。

 責任についてはウィキペディアを参考に定義を行ってみよう。

「結果の原因が行為者にあると考えられる場合に、その人は、その行為自体や行為の結果に関して、法的な責任がある、または道徳的な責任がある、とされ、時に罪や罰を課せられたり責められる状態。あるいは何かが起きた時、それに対して応答、対処する義務の事」

この様に定義した上で渡航し捕まった人と政府が責任を持つかについて考えてみよう。

 まず渡航者が捕まったこと、あるいは殺されたことに家族は政府に責任があると言っている。

 この責任とは法的責任だろうか?道徳的責任であろうか?

 これは常識的に考えて政府は渡航の危険性を勧告し渡航しないように注意しているため政府に責任はないと考えられるであろう。

 したがって政府は罪も罰も課せられないし、責められる理由がない。

 また捕まった人を開放するために政府は努力しているのでこれに関しても政府に罪も罰も責められる岩絵もないであろう。

 それでは捕まった人に法的、あるいは道徳的に責任があるのであろうか?

 別に渡航してはいけないという法律を破ったわけでもなく、世のため人のために中東に渡航し役に立とうとする行為には法律的にも道徳的にも称賛されこそすれ罪や罰を課せられたり責められるいわれはないであろう。

 渡航についてそれを控えるべきだという政府の注意や勧告は禁止命令違反や違法行為ではなく従う義務はないのでこれも責任という視点でとらえるべき問題ではないであろう。

 彼らが捕まり殺されたことについては完全に彼らの意志が介入する余地はなく犯人が彼らの自由を奪い強制的に行われた、捕まった人にとっては完全に受動的な出来事であり捕まった人に何かの責任があったとは言えない。

 従って政府にも捕まった人にも責任があったとは言えない。

 そもそも責任という言葉で政府や捕まった人やその行為を表現したこと自体が見当違いと言える。

 この事件の場合責任という言葉で表岩されるのに最もふさわしいのは渡航者を拘束し、あるいは殺害した犯人である。
 
この犯人は我々の法律、道徳基準において責任があると言える。

 であるから「政府の責任」論を主張した家族も、「自己責任」論を主張した人たちも「犯人の責任」論を唱えれば特に問題にはならなかったと思われる。

 但しこれは当たり前過ぎて世論の注目をひきにくく、センセーショナリズムや利潤も追求せざるを得ないマスメディアも取り上げてくれなかったであろうと思われる。

 少し議論がそれるが日本語の「責任」の言葉には「責める」という言葉が含まれるため罪や罰を課すというニュアンスが含まれる。

 そもそも責任の語源であるresponsibilityやliabilityは「結果を受け入れる」ということで必ずしもネガティブな意味とは限らない。

 我々日本人や中東の現地政府には悪であっても反政府軍やイスラム原理主義者やテロリストにとっては捕まえて殺害した行為自体が法律的にも道徳的にも良い事だった可能性がある。

 この場合彼らにとっては「良い責任を果たせた」肯定的な行為を達成し満足している可能性もある。

 言葉は時や場所や使われる状況によって変化するというのも現代哲学の結論でもある。

第5章 自己責任論は何が問題か

 前章まででそもそも「責任」の問題でないことを「責任」の問題であると間違えたことが問題であると結論した。

  現代哲学という大げさな考え方を持ち出さなくても単に論理的に考えれば分かることなので、当初は誰かが「自己責任」論のおかしさを日本の言論空間に醸成された空気のおかしさを誰かが指摘してすんなり終わる問題であるべきはずのものがいまだに奇妙な言説がまかり通っている。

 人道のために渡航し犠牲になった人々を称賛すればそれで終わっていた話なのだ。

 当時の緊迫した状況、特にご家族の気持ちを考えれば仕方のない事なのかもしれないがそこには余裕や寛容さがなかった。

 また知的な問題もある。

 語彙や表現力、考え方が貧困であった。

 後で気が付いて訂正すればいいのであるがそれもなされず現在に至っている。

 これが以前からこうだったとか、以前より良くなってなおこれであれば救いがあるが、日本の言論界の知的な低下傾向を表すのであれば問題だ。

 そして主体性や集団主義の問題がある。

 そもそも何かが習字たとき誰かが責任を取らなければいけないのか。

 個人の主体的な自由な行動の結果に政府が責任を取らなければ政府も日本人も集団主義化し個人の自由と行動を制限する方向に進むだろう。

 あの事件は他者や世界のための利他的行為の結果としての人間の美徳を表す、美談として賛美され語り継がれていく可能性もあったはずだ。

 それが自分で自分のケツを持てない我儘勝手な子供っぽい行動の末のみんなにとっての迷惑な行動に零落してしまった。

 ここには美しいものがない。

 これでは後に続く利他的行動を志す人々がいなくなってしまう。


おわりに

 「責任」これは日本人には重たい言葉であった。
 
 責任を取るために辞職したり自決した時代もあった。

 責任の重さが点灯したためか「これは私の責任です」と言えば倫理的には許される風潮があった時代もあった。

 過去の経営者がやったことでも今の経営者が責任を取る、あるいは組織や部下の責任を個人がとることもあった。

「一億総無責任社会」という言葉があった。

責任の所在が分からない日本社会の組織のあり方に対する批判として使われた。

言葉は時代と共に意味が変わる。

であるから「自己責任」という言葉で何の問題もないのかもしれない。

他方でこの場合の「責任」に当たる言葉として「運命」「宿命」「実存」などが使われた時代もあった。

与えられた状況は受け入れるしかない場合もある。

しかたがない場合もある。

 昔の方がいまより社会に不条理、理不尽は満ちていたであろう。

 人間は弱い存在でもあって何もかも主体として受け入れることができない場合もあるのだ。

 京都で五山の送り火を「大文字焼き」と習字させる新聞社を見て古い京都人は文化や伝統が失われるとはこういうことなのだなと古い京都人は感じた。

我々は思い出さないといけないのだろう。

2021/09/07

現代哲学・現代思想と過去の思想界における差別論

はじめに

 2021年3月現在、「差別」という言葉を絶対化し批判できない空気があります。

 これは過去にもあった問題です。

 ソビエト連邦があった時代には日本の言論界は共産主義・社会主義者とそれ以外しかありませんでした。

 それ以外には様々なものが含まれますが、自由主義、市場経済、資本主義、民主主義の肯定派などが含まれ、それらは共産主義系の人々からは右翼、保守反動などと言われ攻撃されてきました。

 当時はマルクス主義が隆盛してそれを絶対化する強い空気がありましたのでそれを批判する人は総じて「右翼」でひっくるめられていたような状況がありました。

 55年体制と言われた政治体制では、共産党や社会主義政党がある一方自由民主党などは「共産党以外」が混在した政党でした。

 論壇は岩波の「世界」のような共産主義者の雑誌がある一方、産経新聞の「正論」や文春の「諸君」などがあり後者2つはアンチ共産主義の自由主義的な民主主義や市場経済、資本主義を肯定する立場が強くはありましたが特に結束力がなくあまりまとまりがない状況でした。

 ソ連崩壊後、多くの共産主義者、社会主義者が多くの人がアノミー状態に陥りました。

 別にソ連が崩壊しても自分の主義を替える必要はなかったのですが、ソ連を筆頭とした東側諸国の存在がその人々の主義と精神を支えていたものと推察できます。

 それらの時代にも現在のポリティカルコレクトの差別と社会改造の主張があったのですが、それに対応する左派系統ではない人々からの分析や批判がありある程度「差別」の絶対化は防がれていました。

 現代ではその時以来久しぶりに「差別」の絶対化とそれに反論できない空気が醸成されているようです。

 現在は過去の論壇と言われるものはほとんどなくなってしまったようですが過去の保守的論壇人と言われた会田雄二、山本七平、山本夏彦、渡部昇一、谷沢栄一、小林よしのり氏などの分析や現代哲学や思想の方法論を用いて差別の分析や相対化を行いたいと思います。


第1章 現在の差別の状況

 差別に限ったことではないですが現在の日本の言論の状況は過去の論壇のようなものがありません。

 例えば過去はそれがオピニオン雑誌というものが担っており、その雑誌を読むことで一般の人々でも言論界の流れを見て共有しつつ自分でも理解し共有することができました。

 1990年代以降、東側諸国の崩壊と左翼のアノミー化と潜在化による対立軸の崩壊、テレビや雑誌などの大手メディアの衰退とインターネットの普及などでそういった場がなくなっているようです。

 それと共に過去に左翼であった人、左翼的心情を持つ人々がポリコレという旗印により復活しているようです。

 ポリコレの理論的支柱と思われるものに「差別」は「悪」である、「差別を解消せよ」というものがあります。

 現代の世界ではこれに反論する言説がないようです。

 では「差別」の分析を行ってみましょう。

第2章 差別とは何か

 差別を考える場合、やはり大切なのは差別と言う言葉の意味になります。

 「差別と区別は違う」と言うような言い方がよくなされます。

 何が違うのかはあまり共通見解がないようです。

 現代哲学の構造主義を用いて言葉の意味を考えてみましょう。

 まず「差別」も「区別」も差異を認めて物事を2つに分けているようです。

 「区別」についてはこれで終わりで良いでしょう。

 つまり「差別」も「区別」も「区別」を行っている点について一致しています。

 「区別」は「差別」の必要条件です。

 区別までなら区別されたものへの価値判断はしていません。

 「差別」の特徴は「区別」した上で区別されたものを善悪の価値判断を行っていることです。

 この価値判断には色々なものが混じっているようです。

 まず正義と悪で分ける善悪の判断、強者と弱者で分ける判断、加害者と被害者で分ける判断です。

 善悪や正義と悪については日本語ではより詳細に分けるべきものが混同することが多いようです。

 これは日本語の「よい」「わるい」の言葉がある面から見ると多義的であることから生じます。

 「よい」「わるい」は倫理的、道徳的意味で使われることがあります。

 また「よい」「わるい」は法律を守っている、守っていないの意味で使われることもあります。

 また上手い、下手の意味で使われることがあります。

 また正しい、間違っているの意味で使われることがあります。

 また美しいや素晴らしい、美しくないや巣晴らしくないの意味で使われることがあります。

 つまり優れているものがよい、劣っているものが悪いという優劣の使い方です。

 他にもあると思われますがこれだけでも、正義と悪、遵法と違法、真・善・美の5通りの意味で使われます。

 正義とは本来正しい判断と言う意味です。

 この場合正しいと正しくないの判断基準がありその正しい方の判断をしたということです。

 これだけ見ると正義には「倫理・道徳的な善」とは必ずしも一致しません。

 どんな基準にせよ正しいとされる判断をしたという意味ですが、そもそも基準自体がそれに従えば倫理・道徳的な善に適うかどうかということは考慮されていません。

 ですから正義の反対は不正であって悪ではありませんが、正義と善を同一した場合には不正と悪が同じものになります。

 法律的な遵法と脱法ですが、法律が必ずしも倫理・道徳的に作られているとは限らないため遵法が善とは限りません。

 また「いじめられる側にも悪い所がある」という言説があります。

 これはいじめられる側は上手にいじめられないために上手にふるまっていなかったという意味であっても、いじめられる側が悪であったり、素晴らしくないという意味ではないですが、これも「いい」「わるい」という言葉をよく考えられずに使うと勘違いされることおがあります。

 価値判断でいうと日本では神道も仏教もあまりはっきりした価値判断を行いません。

 仏教の核心は空論と中観論でそもそも世俗的なイデオロギーではないので生活における行動規範を扱う道徳とは直接関係がありません。

 神道は清明、清く明けき心を重視し、清潔であることを貴びますが、それ以外は多様性の中の共通の教義と言えるものを定めるのが困難です。

 日本には上記のようによい・わるい、正義、善悪、優劣と言ったものが混乱する下地があります。

 混乱だけなら整理すればいいのですがもっと複雑なことによい・わるい、正義、善悪、優劣の定義は往々に恣意的に行われます。

 その他に過去の論壇を振り返ってみます。

 1970年代から2000年代を代表する非左翼論壇人に山本七平氏と小林よしのり氏がいます。

 この2名の「正義」に関する考察を考えてみます。

 両者の分析によると左翼の特徴は「絶対的な正義や悪がある」とすること、「弱者であり被害者であることは正義である」という論法を使うという点が挙げられるとしています。

 ここでは正義の一種に弱者であることや被害者であることがあるとしている点が注目です。

 ただでさえ混乱した正義の概念に新たな意味を付け加えています。

 確かに「弱きを助け、強きをくじく」と言う考え方が日本にはある時期ありました。

 また人間関係において理由もなく他者に害を加えられられ被害を被れば加害者は責められ、謝り償うべき義務があり、被害者は気の毒なもので同情され謝られ償いを受ける権利があると考える自然な人情があります。

 謝るという言葉は時に謝罪と言い換えられます。

 罪とは法律、あるいは倫理・道徳の言葉で、謝るという概念に法や倫理・道徳が混入してくる可能性があります。

 また気の毒、同情すべき、可哀そうなどと思われる人は特別扱いされるべきであるという考え方もあります。

 被害を受けなくても弱者は助けるべきであるという考え方もあります。

 正義やよい・わるいなどの考え方はただでさえ混同され混乱しているわけですが更にこれに利権や経済的な要素を絡めてくる人がいます。

 謝るや償うは謝罪や賠償に簡単に言い換えてしまう人がいますが、弱きものは守られるべきである、そして弱くないものに高められるべきである、あるいは強いものを弱いものと同等水準にすべきであるという考え方が絡まされることがあります。

 さらに平等という概念が持ち込まれる場合があります。

 平等でなければ誰かが良い立場にいたり得をしたりしている、あるいは誰かが悪い立場にいたり損をしたりしているような考え方です。

 区別と差別の違いは区別は唯分けるだけですが、差別は分けた後によい・わるいの区別を更につけるか、初めから優劣を決めてそれに基づいて区別することにあります。

 そして最大の問題点はよい・わるいは混乱しているうえに恣意的なのです。


第3章 弱者振りと被害者振りの問題

 「差別」は政治利用可能です。

 これは意識的にも無意識的にも行われていますし、行われてきました。

 また善意を持って行われる場合も、悪意を持って行われる場合もあります。

 悪意とこの場合は負の感情を持って誰かを貶める、害を与えるために行うとしましょう。

 「悪意を持って他者に害をなす」ということは他者に対する攻撃と見ることができます。

「悪意を持って害をなされる」人にとってはこれを行う者は敵とみなすことができます。

これは本来差別とは異なることですが、故意に攻撃や敵という概念を平等と絡めることを行う人がいます。

また精神の機能を知情意に分けると知でなく情意を刺激し興奮させ冷静でなくして知的機能を抑制させてしまうことがあります。

 そもそも自己防衛上「害をなさなくても悪意を持たれている」だけでも敵とみなしてもいい場合もあるでしょうし、「悪意がなくても害をなしてくる」だけでも敵とみなしてもいい場合もあるでしょう。

 「差別」の安易な使用は予想外の事態を起こすことも考えられます。

 同じく「平等」「よい・わるい」「優劣」の政治利用も難しい問題をはらんでいます。

 そもそも「差別」「平等」「よい」「わるい」「優劣」の全てが恣意的で意味に合意が得られた概念ではないでしょう。

 また時代の変化も考える必要があります。

 世の中は二項的でなくもっと多くの区分を付けることができるとするとある物事を区別するためには類(カテゴリー)を決める必要がありますし、差別するためには各類のよい、わるいの順序を決める必要があります。

 昔は集団主義が強い他優劣観念も強く上記の差別の構造を当てはめて違和感のない現実のモデルがありましたが、今は個人主義が強くなり物事を優劣のような単純な2項思考で見なくなったので上記のモデルが当てはまらなくなっています。

 個人主義では人間をその所属するグループではなくその人間自体を人物本位で見ます。

また価値判断がよい・わるいや優劣のように単純な順序で分けられません。

よいことにはその本質に基づいた悪い面があるし、悪いと思われることにも必然的にそれに付随するいい面があると考えたりします。

またトレードオフや機会費用で考えて何かに対してある判断を行うことは別の判断をする可能性を失うリスクがあると考える、つまり経済学的かつ統計学的に考えることもあります。

 類が定められるのは集合が定められる方で、一人一人がバラバラに主体性を持って生きている社会では個人がある集団に分類されることに納得しない場合も出てきます。

 個人主義ではマジョリティーとかマイノリティーとか分けても行き着くところは集団、集合ではなく主体性を持った個人がバラバラに生きているのが現代です。


 おわりに

 現代の差別の問題として挙げられるのはかつて差別されておりマイノリティーであるとみなされていた存在の差別の解消を超えた逆差別、他の社会グループに対して悪意を持つ、あるいは攻撃する、あるいはその両方が生じている事でしょう。

 差別を解消すると言いながらその方法としてやはり従来型の差別の考え方を使うと差別関係が逆転するだけで差別自体の解消にはなりません。

 そもそも差別と平等は論理学的にはまず独立に考えるべきですが現在は妙な形の連合を形成していて時と場合によってご都合主義の様に形を変えます。

 平等も扱いを慎重にしないとすぐ差別を生じるので慎重に考えるべきものです。

 経済的格差があるから平等ではないという人は価値判断を金銭で行うという差別をしているという逆説が生じたりします。

 もはやマジョリティーがあるマイノリティーに対して感情的にも態度、待遇、処遇的にも差別を行っていないのに自らをマイノリティーと名乗りマジョリティーを悪意を持って攻撃する場合にはそのマイノリティーはマジョリティーにとっては差別対象ではなく敵になります。
 
 「差別はしていないが敵である」という状態が生じてしまいます。

 この様な論考は先人が既に行い通念にもなっていたのですが、今では忘れてしまった人が多いか知らない世代が増えてきたと思われるのでここでまとめました。

2021/08/26

超簡単な現代哲学の道徳入門

はじめに
 現代哲学の構造主義とポスト構造主義では道徳を与えてくれません。

 現代哲学をマスターするとどう考え、どう行動するべきかは個人にゆだねられます。

 言い換えると世俗の世界でどう生きるか、人生、生活、社会、自然、他者とどう関わるかを自分で決めます。

 例えば「人を殺していいか」「盗んでいいか」について現代哲学から答えを導くことはできません。

「自分の欲しいものは人を殺してでも手に入れる」という生き方と現代哲学は矛盾しません。

 この驚くべき結論を説明した上で現代哲学が与える道徳のモデルを示していきましょう。


第1章 現代哲学と道徳は関係ない

 現代哲学の核心であるポスト構造主義について説明します。

 ポスト構造主義より前の哲学の主題は確かさと正しさです。

 正しいもの、確かなものがあるというのが意識的、無意識的な前提となっています。

 ポスト構造主義はただの形式でありシステムです。

 ポスト構造主義の構成要素に「正しい」とか「確かである」という要素がありません。

 ポスト構造主義ははそもそも「正しい」とか「確かだ」とか言う考え方を哲学にとって必須であるとみなさず「正しさ」や「確かさ」と関係ないところで哲学を構成します。

 現代哲学で「正しさや確かさとは何か」と問えば「正しさや確かさの定義による」という答えが返ってきます。

 言い換えれば現代哲学では「正しさ」や「確かさ」は定義するものです。

別の言い方をすると主体が作るもの、決めるものです。

 世の中には色々な哲学や思想があります。

 イデオロギーおいつ言葉はイデアとロゴスの合成語でイデアのロゴスですが色々な哲学や思想をひっくるめてイデオロギーとここではまとめてしまいます。

 ポスト構造主義も自体もイデオロギーです。

 ポスト構造主義の特徴は上記の形式でありシステムであること、正しさや確かさという概念がないことです。

イデオロギーを分類してみましょう。

イデオロギーの中には「人間の人生ではどのように考え、どのように行動すべきか」「人間の人生ではすべきでない考え方や行動がある」とし、人間がどう考え行動すべきか、あるいはある種の考え方や行動の仕方を禁止するものがあります。

これは生活に影響を与えるので世俗のイデオロギーと呼びましょう。

またイデオロギーの中にはイデオロギー自体を思考対象とするものがあります。

例えば世の中にある色々なイデオロギーについて分析したり分類するイデオロギーです。

これをメタイデオロギーと呼びましょう。

 ぷスト構造主義は人間の日常生活や社会生活での考え方や行動に影響を与えません。

 またポスト構造主義はイデオロギーを思考の対象としています。

 ですからポスト構造主義は世俗のイデオロギーではないメタイデオロギーである、という事になります。

 ポスト構造主義の特徴はイデオロギーというものはどれが正しいとか確かであるかという「優劣」関係をつけず、全ての世俗的イデオロギーは特別なものは一つもなく平等であると考えます。

 道徳とは世俗の生き方、人生、日常や社会生活での考え方や行動のことです。

 ポスト構造主義のこの様な性質から現代哲学をマスターしても個人の道徳には直接影響を与えません。


第2章 現代哲学における道徳の在り方

 重要な事ですのでもう一度書きます。

“現代哲学と道徳は関係がない”

他の表現をすると「現代哲学と道徳は独立である」「現代哲学は特定の道徳を決めない」などとも表現できるでしょう。

 道徳なしに生きていくことも可能かもしれません。

 また無意識に何かの道徳に従っているがそれに無自覚であることもあるでしょう。

 では現代哲学と道徳を結びつけようとするのであればどうしたらいいでしょう。

 現代哲学と道徳は直接関係ないので関係付けるためには手続きが必要です。

 現代哲学と道徳は元々全く関係のないものなので関係の付け方は色々なつけ方があります。

 ですから以下は現代哲学と道徳を結びつける一例となります。

 現代哲学では人間は自由に世俗的イデオロギーを選択できると考えます。

 ですから人間とその人が従う世俗的イデオロギーの関係はその人が恣意的にその世俗的イデオロギーを選択して従うことを決めたという関係になります。

 この場合世俗的イデオロギーが道徳に相当します。 

 念のため道徳をの意味をはっきりさせておくと行動規範と言い換えられます。

 ちなみに倫理学は人間の思いなし、思想を研究する学問で哲学や道徳はその研究対象となりますが、倫理と道徳を同一視する考え方もありその方が一般的かもしれません。

 世俗的イデオロギーは人が生活の中でどう考えどう行動するべきかを示すためここでは道徳と同一視します。

 現代哲学と道徳を結びつける一例を示しました。

 ここからいくつかの興味深いことが分かります。
 
 客観的に正しい道徳というものがあるのか分からないし、どんな道徳に従ったからと言って自分が正しいとみなされることもない、また主観的に自分が正しい道徳を選び実践していると思いたければ「正しい」ということを定義しなければいけない、ということが挙げられます。

 ここから「現代哲学は相対主義的だ」と言われることがあります。

 また現代哲学では人間は自由です。

 この自由の意味は通常自由主義と言われるものとは異なります。

 特別な世俗的イデオロギーは存在しないことを思いだしてみましょう。

 これは世俗的イデオロギーを選ぶ際に選ぶ理由を見出しにくい状態をもたらします。

 その世俗的イデオロギーを選ぶ理由が自分自身の主体性にしかよらないのです。

 この様な自由をサルトルは「人間は自由の刑に処せられている」といいました。

 自由はいい面もありますが反面奴隷の安逸をむさぼれなくなる短所があります。

 またニーチェはこのような主体性を超人という概念で表現しました。

 神は死んで(いないとは言っていない)自分自身を自分の主としないといけないになったと思ったからです。

 自由、主体、特別な世俗的イデオロギーが存在しないこと、自分自身で選択しなければいけないことは相互に関係し現代哲学による道徳を形作っています。

 現代哲学では上記の他に2つ、メタ認知と自覚という要素があります。

 これは人間が道徳的に生きる場合には現代哲学に限らず必ずしも必要ないものかもしれません。

 しかし現代哲学はこの2つを重視します。

 すなわち特別なイデオロギーがない状態で自由に自分の主体性で世俗的なイデオロギーを選択しそれに従う、そしてその状態を客観的に認識し自覚し続ける、という事になります。

 多分この道徳における自覚とメタ認知を日本人はこころといったのでしょう。

 これは古代、中世の清明心、正直から儒教の陽明学などとも相まって心学、誠実の思想として日本の倫理思想史に結実し東アジアにおける日本の特徴ともなったようです。
 
 現代思想ではメタ認知と自覚が低い、あるいはない世俗的イデオロギーの選択と従属をパラノイド的(妄想気質的)といい、メタ認知と自覚が高度、あるいは過剰な状態をシゾイド的(分裂気質的)といいます。


第3章 他の道徳との比較

 ポスト構造主義はメタイデオロギーです。

 それ自体が生き方の規範などを示すものではありません。

 「人を殺してはいけない」「盗んではいけない」などの世俗的イデオロギーはメタイデオロギーを前提として選択される恣意的なサブのイデオロギーでありそれを選択しなければその人にとっては殺人も窃盗も禁忌にはなりません。

 「人を殺してでも自分の欲しいものは手に入れる」「自分の思い通りにするためなら世界が滅びてもよい」という世俗のイデオロギーを選択することも現代哲学の下では問題ありません。

 現代哲学から導かれる道徳は事実上勝手気ままを許します。

 何でも本人の好きなようにしていいのです。

 ただしそれを自覚し続けること、記憶し考え続けるなどの形で認知し続けることを要請します。

 これは現代哲学的に道徳を実践する際に自分や他者、外部に大きな不幸や困難を起こす抑止力になるかもしれません。

 また意識的か無意識的か悲観論や性悪説に基いている伝統的道徳が多い中で現代哲学的な道徳論は性善説に立っています。

 現代哲学をマスターするくらいの高度な知能を持った人間は精神的な貴族性や利他心、心理学のマズロー理論の様に自分も他社も幸せにするような想いを持つのではないかというものです。

 実際に現代哲学の習得のためには知頭の良さだけでは難しく、地道な知的訓練が必要になります。

 逆に現代では地道な勉強を重ねれば現代哲学は習得できます。

 地道な勉強というのは本人の向学心がなければ環境要因が大きくなります。

 そういう意味では哲学者は余裕があり恵まれた環境で育ってコンプレックスが少なく自己肯定感が高いのかもしれません。

 そういう意味では昔ほど上層階層と言えども生産力も低く身体と精神の衛生、公衆衛生的基盤が貧弱ですので性悪説になったのかもしれません。

 現代哲学は性善説的な道徳観と親和性が高いですが、従来型の道徳は個人の主体も自由も選択能力も認めず自分以外の主への従属を強いる構成になっています。

 また別の見解では現代哲学的な道徳は特に世の中におもねる形にできていません。

 多くの人間が現代哲学をマスターし現代哲学的道徳に従って生きた結果世界が滅びたとしても人類が絶滅したとしてもそれすら是認する思想です。

 ただしだから従来型の道徳がいいのかと言えば、従来型の道徳は理念はあるかもしれませんが実際に理念を実現するように作られているかと言えば疑問符が付きますで公平に考えれば従来型の道徳がいいか現代哲学を基盤にした道徳がいいかと言えば分からないというのが現実でしょう。

 非常にシンプルな現代哲学による道徳を一例としてあげましたが別のモデルも構成可能です。
 
 例えば頻繁に世俗的イデオロギーを入れ替えるドゥルーズ=ガタリのモデルです。

 他者や外部からの承認欲求や他者や外部への配慮など特に問題ない場合は個人主義に徹して一貫性や生合成に配慮することなく精神の赴くところに従いイデオロギーを変化させます。

 その際に自覚やメタ認知も必要ないかもしれません。

 「随処に主となれ」とは現代哲学と全く同じ思想である仏教の言葉ですが現代哲学では主体は自分であることが基礎であり他者や外部について考えるのは応用的な問題でしかありません。

おわりに

 現代哲学は理論です。

 理論というものは現実と関係なく存在しえます。

 仏教のお釈迦様は現代哲学でいう構造主義を発案することで悟りを得ました。

 この時お釈迦様は自分の抱えている問題が解決したので生きても死んでもどちらでもよくなってしまい一度は死のうとなさいました。

 つまりお釈迦様が悟った内容は生きるべきだとか死ぬべきだとかの思考や行動を規定する世俗的イデオロギー=道徳ではなかったわけです。

 その後お釈迦様は現代哲学のポスト構造主義と同じ内容である中道(おそらく=中観論)をお悟りになったと思われますがそれもやはり世俗的イデオロギー=道徳とは関係ありません。

 仏教にも戒律があるではないかという反論もあるかもしれませんが、仏教の戒律は空論や中観論は論理的に独立ですしどちらかからどちらかを導くことはできないので全く関係がありません。

 主体であることはいいことばかりではありません。

 何かに隷属していた方が楽で幸せな場合も多いでしょう。

 しかし幸か不幸か我々は現代、現代哲学の統べる時代に生きていますので、道徳も自分で選択しなければなりません。

 現代哲学自体は理論でしかありませんが、応用することで世俗、世間、社会、現実を生きるために利用できます。

 もちろん本書は従来型の道徳を否定するものではありません。

 主体性を捨て従属する世俗的倫理を決めて生きれば従来型の道徳で生きれますし、自由や自覚やメタ認知の感覚も失くしてしまえば更に完璧です。

 ただどちらの道徳も選べるようにするためには現代哲学をマスターする必要があるでしょう。

2021/08/18

現代数学と古典数学のちがいと数学と哲学の関係と論理学

はじめに
 現代数学は現代思想のプロトタイプです。

 現代数学と古典数学の関係は現代哲学と古典哲学の関係と同じです。

 現代数学と古典数学の関係を理解することは現代哲学と古典哲学の違いを理解するのに役に立ちますし、現代哲学と古典哲学の関係を示す具体的な実例です。

 私はそのことを現代数学を作った人々、その後に続く数学者が自覚していると思っていました。

 ところがそうではないらしいということが分かってきました。

 考えてみれば現代哲学が作られたときその哲学的な意味を理解していれば現代哲学はすぐに完成していたはずです。

 実際には現代数学が成立してから現代哲学が成立するまでに何十年物時間を要しています。

 現代社会は多くの面を数学から作られています。

 これをちょっと違う見方をすれば我々の周りには現代哲学を理解するための実例がふんだんに転がっています。

 これは現代の我々が昔の人と比べて現代哲学を勉強するのに決定的に有利な点です。

 現代哲学自体は仏教のお釈迦様やナーガールジュナ(龍樹)や天台智顗が確立していましたが、それを説明するのに難渋してきました。

 我々は仏教的理想が現代哲学により実現した世界に住んでいます。

 現代哲学を説明しようとすれば身の回りに豊富な例があるのです。

 そのようなわけで現代哲学の理解につなげるために古典数学と現代哲学の違いを説明します。


第1章 古典数学と現代数学のちがい

 まず古典数学と現代数学の違いの結論を示します。

 古典数学においては数学的な対象は自然界に実在すると考えます。

 一方現代数学は数学的な対象が自然界に存在するという仮定を放棄します。

 「否定」ではなく「仮定を放棄する」という複雑ともいえる書き方をしました。

 これをより詳しく説明します。

 現代数学は古典数学の「数学的対象が自然界に実在する」という前提を否定も肯定もしません。

 否定も肯定もせず否定しても肯定してもどちらでも構わないように新たに数学を作ります。

 誤解を恐れずに言うと古典数学は自然界を説明するために数学が存在すると考えます。
 
 これを「数学は自然界に実在する」と表現する人もいます。

 数学を哲学的に扱おうとした初期の試みがピタゴラス教団によってなされました。

 「万物は数で作られている」という言葉で知られています。

 これは「万物は自然数あるいは整数であるかその比で表現できるというものです。

 しかしこれに当てはまらない、自然数の比で表現できない「無理数」が発見されました。

 この時にピタゴラス教団は無理数の発見者を殺してしまったと伝えられています。

 このような古典数学的考え方の背景にある考え方は「自然界がまず存在し、数学は自然に従属し自然界の恵みとして存在する」ような考え方でしょう。

 現代数学は極端に言えば自然界や自然界における数学の実在性という前提を無視します。

 もっと言えば自然界自体の実在も無視します。

 古典数学は確かに自然界を探求するツールとして発生した側面があります。人間が自然を感じ、人間が具体的に感じたものを抽象し、数や量、点や線と言った数学的対象を抽出した、と考えていたわけです。

 このスタンスの数学を研究する現代数学の分野があって、数学的意味論やモデル理論、理論物理学や物理学の理論系等と呼ばれます。

 これらは我々が高校までで習った一般的に数学と思われているものとは全く異なる分野であり、数学基礎論や物理学に属するとも言えます。

 古典数学では近代に至っても数学的世界が自然的世界から生まれてきたという見方から離れられず、数学と物理学の違いが不明瞭でしたし、そもそも数学の基礎というものが探求されていませんでした。

 現代数学の特徴はこの逆であり、数学を物理学から切り離し、数学の基礎を探求し始めたことにあります。

 ここでは自然界と数学の世界が同じである必要はなくもはや別々のものと考えています。

 論理学では2つの事象があった場合、まず独立なものとして考えますのでこれは論理的に当たり前の考え方なのですが、古典数学は自然界と数学的世界は独立していないという命題を無条件に真として受け入れているためそもそも論理学的には偏った考え方を前提として成り立っていると考えることになります。

 この結果、古典数学が数学を自然界から抽出したものと考えるのに対して、現代数学では数学を自分自身で作り出します。

 あるいは古典数学を数学基礎論に合うように作り直します。

 作り出した数学が自然界の現象と合っているかいないかは問題としたければ問題としてもいいですが、問題としたくなければ問題とする必要はありません。

 作り出した数学が自然界を上手く説明するか、または自然界を上手く説明するように数学の理論を作るかどうかは現代数学のテーマとしては面白いかもしれませんが、それがどうでもいい数学者も沢山いますし自分の関心のあるテーマとしたい人はテーマとすればいいですが、それに関心がない数学者にとってはどうでもいいことです。

第2章 数学と哲学の関係

 古典数学と古典哲学、現代数学と現代哲学はそれぞれ対応しています。

 ある面からいうと数学も哲学も最初は自然界を理解するために作られました。

 この2つには方法の違いがあります。

 数学は自然を観測し数量化し数値データを取りデータ間の関係を整合的に説明する理論を作ります。

 ここでは数学は物理学と不可分な関係にあります。

 この様に数学が自然界に従属する見方では数学は自然科学と見なせるでしょう。

 一方で哲学は数値化を行わず思考により定性的に自然を理解しようと試みます。

 この際に哲学では自然についてのより基礎的な思考を行います。

 具体的に例を挙げると「存在とは何か」「認識とは何か」という自然界の現象の観測の前提にあるものの確かさや正しさについて考えます。

 これは古典数学では発展しませんでしたが、現代数学では数学の基礎固めのために数学基礎論として一分野をなしています。

「自然科学の応用が技術である」という定義がありますが、この定義に従えば現代数学は自然科学ではなく技術になります。

古典数学と古典哲学をまとめると「古典数学と古典哲学は自然界を理解するためのものとしてあるという考えから離れられず、数学の対象と哲学の対象が実在するという考え方から離れられない」という考え方になります。

他方で現代数学と現代哲学をまとめると「現代数学と現代哲学は自然界を理解するためではなくそれ自体で存在する。自然界を理解するために数学や哲学を利用する事もできるが、自然界と関係なく数学や哲学を行うことができる」ということになります。

現代数学や現代哲学が古典数学や古典哲学より発展している面として現代数学や現代哲学は自然界とは関係ないものを創造することができます。

古典数学や古典哲学は「発見」するものなのですが現代数学や現代哲学は「発明」するものです。

現代数学や現代哲学の創造と自然界との関係は3通りあります。

「自然界とは関係なく理論を創造する」「自然界とは関係なく理論を創造したがたまたま自然界の説明に利用可能であった」「自然界を整合的に説明するために理論を創造した」の3通りです。

一方で古典数学や古典哲学と自然の関係は一通りしかありません。

「自然界の法則を発見した」のみになります。

第3章 現代から古典への見方

 前の章までをまとめると興味深い特徴を見つけることができます。

 まずこれで言い尽くせてしまうのかもしれませんが古典数学も古典哲学も合理的ではありません。

 その理由は様々ですが一つは論理学の未発達が挙げられます。

 これは不思議な事です。

 論理学は学問の基礎です。

 しかしまともな現代的ですらなく近代的な論理学が成立したのは19世紀後半からでゴッドロープ・フレーゲやバートランド・ラッセルを待たなくてはいけません。

 それまであったのは古代のアリストテレスの論理学や中世の三段論法の論理学です。

 それらは応用が限られ過ぎているのでそれまでは哲学者も数学者も科学者も論理的な思考を出来ておらず自頭の良さだけで学問をしていた可能性があります。

 そもそも論理学を使えないと中学や高校で習う場合分けが使えません。

 すると思考が未分化になり、全ての場合を網羅し尽せません。

古典はあらゆる可能性を考えていないということになります。

 また「独立」という考え方がありません。

 多くの場合は「独立」と「背反」を混用して混乱している例が見られます。

 知らない間に関係ないものを関係づける観念連合が発生します。

結果として例えば上の例のように数学と物理学の未分化や数学から数学基礎論が生まれないような自体が生じます。

また「自然界と数学の世界は独立である」というと「自然界の存在や数学的概念の実在を否定している」という攻撃を受ける事があります。

数学者は特別な主義を持っているのでない限り自然界や数学的対象の実在を否定することはありません。

否定する様がないからです。

議論する必要もありませんし、そうした議論は無視できるように現代では数学基礎論により数学的基盤が整えられています。

これは現代哲学も同じです。

 現代哲学や仏教で構造主義やポスト構造主義、空論や中観論の話をすると「神の存在を否定している」とか「無神論である」とかいう批判を受ける事があります。

現代哲学や仏教では神の存在を否定も肯定もしていません。

どっちでもいいのです。

神が存在しようがしまいがどっちでもいい様に学問の形を整えて議論しているだけです。

否定ではなく「無関係である」「無視する」「独立である」というのが正しい見方です。

 古典数学も古典哲学も前提や仮定を真とか偽とかしか考えず議論します。

 前章までの例では古典は自然の実在を当然のこととしていることが良い例になります。

 現代哲学では前提や仮定が真である場合も偽である場合も考えます。

 真偽について考えていないだけでなく、論証の妥当性や健全性についても良く分かっていないことが多いようです。

 この様な世界では形式主義も記号論も生まれません。

 形式主義や記号論やデジタルもコンピュータも情報・通信の科学技術も存在しえません。

 我々は既に現代数学と現代数学の世界に住んでいるのです。

第4章 論理がないとどうなるか

 古典の時代にまともな論理学がないのは仕方がないとして現代社会でも多くの人が論理学をマスターしていません。

 教育水準と学習・教育の意欲が低いことが理由の一つです。

 また論理学が必要でと思われていない社会通念もあるようです。

 論理学を知らなくても論理的に考えることができると考えている人間が社会の支配層も含めて大部分を構成しているようです。

 論理学を知らない人が何によって考えるのかと言うと感情や意志、嗜好、レトリック、自分で論理と考えているものなどによって考えています。

 コンピュータでいうとCPUとメインメモリー、ハードディスクが優れているハイスペックな人でも論理学をしらないとソフトウェアが問題を起こします。

 ハードに対応したソフトウェアでないとプログラムがバグを起こします。

 それ以前にプログラムを作れませんし読むことも出来ません。

 コンピュータが成立するためには論理学と形式主義が必要です。

 これはコンピュータが電子計算機ではなく天文や保険のための三角関数や指数や対数関数を計算する多数の計算する従業員からなる組織であった時代から変わりません。


おわりに
 古典数学と現代数学、古典哲学と現代哲学の違いと数学と哲学の関係について説明しました。

 数学は哲学のモデルであり実例です。

 現代哲学を学ぶために現代数学を例として使うと理解が容易になります。

 また逆に現代数学を理解するために現代哲学を理解していると役に立ちます。

 帰納も演繹もどちらかができれば他方もやりやすいのと同じです。

 仏教の中核である空論と中観論は現代哲学の構造主義とポスト構造主義と同じものですが、現代数学のような具体的な実例となるものがなかったので修学するのが困難でした。

 古典から現代へ数学も哲学も進歩するのが困難であった理由の一つに論理学があります。

 論理学がないとどんなに頭のいい人でも考えに誤りや漏れが生じます。

 古典数学や古典哲学を論理学からみるともれや勘違いだらけです。

 逆に論理学を学ぶことは現代数学や現代哲学の習得に早道です。

 現代日本社会の欠陥として論理学を習得しやすい仕組みになっていないことが上げられます。

 問題は論理学を知らず論理的でないのに自分を論理的な思考ができていると思っている人が多くいて世の中に様々なバグを起こしていることです。

 どんなに頭の回転が速くてもどんなに記憶力が良くても入っているソフトが低品質であれば有為な人材が逆に有害な人材になってしまうことがあります。

 社会全体に非論理的で有害な言説で満ちているのであればとても賢い状態とは言えません。

 社会のコミュニケーションを円滑するために論理学を現代哲学と共に必修科目にするのが望ましいでしょう。