月別: 2022年4月

2022/04/27

うつ病の時代

うつ病を巡るいろいろ

ここ数十年のうつ病の問題点はそれが内因性だか心因性だかはっきりしないことでした。
最近はそういった議論も沈静化し現状を受け入れる方向にシフトしているようです。

ドイツ医学の伝統を受け継ぐ日本の精神医学ではそもそもうつ病は明らかな精神病でした。
うつ病を気分障害や感情障害という大分類が与えられたのは比較的最近のことです。
うつ病でなくても人間やうつや抑うつの症状や状態を呈します。

心因的、心理的なその様な気分、感情の障害を昔は抑うつ神経症、あるいは神経症性抑うつと言っていました。
これが1980年ごろから区別されなくなります。
これによって内因性精神病であったうつ病が心因性精神病である神経症と混同されるようになります。

更には了解可能で説明可能な抑うつ症状や抑うつ状態までもうつ病に組み入れられる場合が出てきました。
こうなるとうつ病は精神病でない、言い換えれば精神障害でなく普通の人の普通の心理反応と区別できなくなる場合が出てきます。

うつ病概念の拡大です。
これはいい面もあれば悪い面もあります。

そもそも今の時代は予防医学が大切ですが精神障害も例外ではありません。
色々な精神障害で後遺障害が次々と見つかっています。
また精神障害はそれ自体が重度のストレスを伴うため身体疾患の発症や増悪、人生や生活の質の低下をもたらします。
また個人や家族の障害年収やキャリア、社会や組織の生産性ともに悪影響を及ぼすことが分かっています。

ですからまず精神障害を発症させない一次予防、早期発見早期治療を行う二次予防、再燃再発を防ぐ三次予防が大切です。
その様な場合にうつ病概念が広がった方が全ての予防がしやすくなります。

うつ病であろうがなかろうが抑うつ症状は苦しいものですので、予防や治療やアフターケアを充実させることで精神科の公衆衛生を高めることになります。

実際過去には現在からみればよほどの精神障害があり本人が苦しんでいる場合でも精神科医にこれは精神障害ではないと言って治療を拒否されることが多々ありました。
うつ病の診断基準を満たそうと満たすまいと苦しいものは苦しいにも関わらずです。

ここには衛生、公衆衛生、予防、患者さんの心理社会側面や家族、経済、仕事など人生全体をみようとする全人的な観点がありません。
ストレスケアの観点もありません。

先進国の考え方ではなく経済力やリソースや人的成熟のない途上国の考え方と言えるでしょう。
より福利厚生の発達した社会ではこちらの方がよいですし、経済的にも生産性も最終的には高める可能性もあります。

本来医療にかかれるのはいいことです。
特に精神科は1990年前後にマイスリー、アモバン、プロザック、リスパダールなどをはじめとした画期的な薬が開発されて臨床現場に登場したことで精神科医療は激変しました。

アメリカは日本の様に薬に対する偏見や服薬抵抗が少ない国です。
日本から見れば国民皆保険ではなく、民間の健康保険に入れる経済力がある人しか医療にかかりづらいので医療や薬のありがたみが分かるのが理由の一つでしょう。

日本においては 国民皆保険が1970年代に始まったときにそれまで経済的理由で医療にかかれなかった人がありがたいことだという気持ちで一斉に医療にかかり服薬するようになりました。
戦前生まれの人などにとっては安価に医療にかかれて薬も飲めるような状況は夢のような状況だったのでしょう。

その後薬のためこみや過剰処方と服薬、病院のサロン化などが問題になり、過剰な医療と過剰な服薬を叩く空気が形成されました。
この呪縛は現在は解けてきていますが、地方や年配の方、不安が高い方では服薬治療やワクチン接種に抵抗を示す傾向が依然見られます。
特に精神科はその先入観が強いと考えられます。

そのため治療やストレスケアが遅れて症状が治りにくくなったり再発しやすくなったり性格や認知機能に爪痕を残すことがよく見られます。

大都市の仕事が高ストレスなところではアメリカでは1980~1990年位からエリートたちは薬の助けでパフォーマンスを維持しているようなところがあります。
他方で問題もあります。

格差の問題

格差の問題です。
医療経済のトリレンマとは医療費と医療のアクセスと医療の質は鼎立しないというものです。
しかしお金持ちであれば医療費をかけることで医療のアクセスと質を追求することができます。

医療費をたくさん払える人と医療費をあまり払えない人では格差が生じます。
これは都心部と周辺部や地方で格差が生じることを意味します。
医療費だけでなく都市部の方が良質な情報が集まっており、過去の古い知識や偏見もすぐに洗い流されます。

知識が古い人は精神医学を忌避して受療行動に消極的です。
かかるのが遅れたりかからなかったりするとそれだけ病状は悪化します。

テレンバッハという学者のエンドン学説によるとうつ病はある一線を越えると発症します。
できれば一線を変えないちょっと調子が悪いくらいのところで治療して治してしまえばそれに勝るものはありません。
これが郊外や地方では遅れる傾向があります。

統合失調症では未治療期間(durationuntreatedperiod(DUP))といってこの期間が長い程予後、転機、経過が悪化します。
知識やお金がある人は都心部に多くさっさと受診してさっさと治療します。

知識といいましたがネットの時代に知識差はそれほどないかもしれないので、どちらかというとその地域、共同体の雰囲気なのでしょう。
精神疾患を忌避する偏見や先入観を精神科ではスティグマと言います。

現在は医学が圧倒的に発展し過ぎて病気を治すだけでなく、病気でない人が飲んでも恩恵を受けられるような薬がたくさんあります。

医療とはマイナスを0にするためのものというイメージがありますが、現在は0をプラスに、あるいはマイナスをプラスに、プラスをさらなるプラスにするような薬剤も沢山あります。

病気にならない、病気を治すだけではなく元気を上げる、気力を漲らせる、生気を亢進するなどの健康の増進ヘルスプロモーションがなければこの厳しい競争社会、管理社会で生き延びる、生き残ることは困難があります。

現代はストレス社会、寝不足社会、運動不足社会、デスクワーク社会、コンピュータ端末くぎ付け社会、目の使い過ぎ社会、過重労・過緊張・過覚醒・過敏社会です。

各国の都市部はその傾向がありますが特に大都市部に顕著でアメリカのNYやシリコンバレーなどでは若いうちに稼いで早期退職を目指す燃え尽き症候群が心配そうなビジネスマンが東京よりも目立つようです。
アメリカのこういう人々を支えているのが向精神薬で、東京もやはり無理な生活による疲労やストレスを向精神薬で支えざるを得ないような方がたくさんいます。

それでも通院して服薬することで仕事や生活が支えられていればいいのですが、通院や服薬を嫌って無理をしてうつ病になってしまう方がたくさんいらっしゃいます。

早期であればストレス関連障害、適応障害、自律神経失調症などで早期治療できますが、それが進むとうつ病の診断になってしまい治りが悪くなってしまいますし、職場や私生活で何らかの問題や軋轢がすでに生じてしまっていることが多いので、問題が複雑になります。

本人の心の中でも自信喪失や挫折体験、トラウマのようなものが記憶されてしまってこれを癒すのに難渋する場合が出てきます。

総じていうと心療内科や精神科に早期にかかる人とかからない人の格差が生じます。

日本は国民皆保険ですし、生活保護と言えども医療費はかかりませんので誰でも保険診療内の医療は書かれるはずなのですが、昭和の中ごろまでのように経済的に医療にかかれないのではなく、意識の高さというか持ち方のせいで医療にかからず後で不利益をこうむることになってしまっている方が増えているのは痛ましいことです。

アメリカのように保険料が高くて民間の医療保険に入れない人が精神科の医療を受けられず、民間の医療保険に入れる経済力のある人だけがストレスケアを受けられる状態はまさに典型的な格差問題です。

日本は国民皆保険で誰でも医療にかかれるのにかからない人がいるのは経済力よりは意識の格差の問題ですがどちらの格差でも格差は格差が広がるように働いてしまうので、現在のように精神疾患への偏見が減少してきて、疾患や治療の啓発や知識の普及活動が行われているのはいい傾向と言えると思います。

調子が悪い時にうつ病かな、と思えたり、医者にかかろうかなと抵抗なく思えるのは良い状態であり、社会の成熟だと思います。

それに即してうつ病の診断基準が拡大したのも公衆衛生的に考えればいいことでしょう。



2022/04/27

やさしい現代哲学の「差異」と「同一性神話の解体」入門

はじめに

以前に「差異」と「差延」についてまとめて説明しようとしたことがありました。
その時に「差異」のやさしい説明に失敗した気がします。

その時は差延を時間連続性や時間同一性の観点から説明しました。
差異の説明は別のアプローチから行ったのですが、差異も差延と同じ方法で説明した方が類推が使えて分かりやすいのではないかと思いました。
そこで空間の面から差異を説明したいと思います。

この場合の空間は数学的な抽象化された一般的な空間ではありません。
それは前回も行いました。
もっと素朴なデカルト座標系です。

第1章 近代の身体、物質の実在

モダニズムの祖、デカルトは近代哲学に心身二元論の問題を提起しました。
考える精神と空間を占める物質的肉体の2つから人間を説明したわけです。

自己認証、自己同一性の確認は色々な面から行われます。
色々な面を属性と表現し属性の特徴の総体であるプロフィールから自己認識を行う、現代社会のID認証とアカウント作成のようなイメージで自己同一性の生成を説明しました。
属性の数が多いほど、次元の数が増えるわけで次元の数が多ければその次元が高いということになります。

属性は性別のような男女2つ(LGBTQなどは一旦除く)や国籍のような離散的パラメータから身長や体重のような連続的パラメータもあります。
いずれにせよ次元が上がるほど個体認証のための情報量が増えます。

次元(属性)が完全に同じ2個体は区別できません。
別個の個体が偶々差異を持たなかったのか、同一であると判断されます。

今回は次元を上げるのではなく次元を下げてみましょう。
物質的、感覚的要素だけを考えてみます。

物質的要素の実在性についてはプラトンのイデアの影、アリストテレスの質料形相やデュナミス・エネルゲイア、デカルトの延長、カントの物自体、フィヒテの障害その他いろいろな形で表現されてきました。

同じものを現代哲学の差異の扱い方で表現してみましょう。

第2章 同じと違い

現代哲学は構造主義を1つの要素としていますが、構造主義の起源は数学の形式主義です。

数学の基礎の1つに集合論があります。
集合論は要素(元)の集合を扱います。

集合論以外でも使いますが元が同一であるとはどういうことか数学的に表現してみましょう。

a,bを元とします。
Rを関係とします。

元が同一であるということを示すための関係概念を示してみましょう。
この関係の概念を使って同一とは何か、異なるとは何かを考えてみます。

例えばRを接点を持つという関係として見ましょう。
要素が26個あるとしてそれぞれにアルファベットで名前をつけましょう。
それらのあつまりは{a,b,c,d,…,x,y,z}とアルファベットで名付けられた集合となります。
集合論の言葉を使うとこの場合の要素の事を元といいますが今回はあまり細かいことに拘る必要はないでしょう。
R(〇 ,□ )を〇と□の関係を示すものとします。

例えばR(〇 , □)は「〇と□は接点を持つ」と言う意味と考えてみましょう。
そして、集合の中からどれでも3つの元取り出して、

(1) R(a , a)⇒ R(a , a)
(2) R(a , b)⇒ R(b , a)
(3) R(a , b), R(b ,c)⇒ R(a, c)

という3つが成り立てばを満たす場合、集合の元は全て同一であると判断します。

たとえば点aと点bを考えてみます。

(1)点aと点aは接点を持つ。
(2)点aと点bが接点を持つならば、点bと点aは接点を持つ。
(3)点aと点bが接点を持ち、点bと点cが接点を持つならば点aと点cは接点を持つ。

これが成り立てば{a,b,c,d,…,x,y,z}の26個の元は全て同一の点です。
もしこの3つがどの3つの元でも成り立てば全ての元は同一とします。

同一は数学的に言えば同値と言ってもいいですがこの場合細かいことに拘る必要はないでしょう。
つまり26個の元はあっても実質上1つしかないのと一緒です。

次にこの26個の要素を直線と考えてみましょう。
そして、集合の中からどれでも3つの元取り出して、

(1) R(a , a)⇒ R(a , a)
(2) R(a , b)⇒ R(b , a)
(3) R(a , b), R(b ,c)⇒ R(a, c)

が成り立つとします。
この場合はこの3つが成り立つことで全ての直線が同一と言えればいいのですがそうはなりません。
26本の異なる直線が全て同じ1点で接点を持つ場合にもこの3つが成立してしまうからです。

直線の同一性を定めたければR(〇, □)を「〇と□は異なる2点で接点を持つ」などの別の方法で規定すると直線の同一性を表現できることがあります。

Rがなんであれ(1)(2)(3)を同一線の公理と呼びましょう。
(1)~(3)をすべて満たせば同一と言えますし、一つでも満たさなければ集合の中に同一でないものが混じってします。

デカルトはデカルト座標と代数幾何学の創始者です。
人間を考える部分と物質的な部分に分けました。

物質的な部分を延長といいます。
これは座標上自分の体が占めている部分と言うような意味でしょうか。
逆に精神的な部分は座標では表現できないところを特徴としました。

いわゆるデカルトの座標空間は3次元の一般に想像されるx, y, z軸で表される空間です。

我々は座標上のどこを自分の身体が占めているかをデカルトは重要視したと思われます。
座標で表される連続的な点の集合が身体をなしていると見るのは自然なことでしょう。

第3章 身体の発見

我々は自分を作る、あるいは見つける存在です。

人生には2つの特徴的な時期があります。
乳幼児期と思春期です。
この2つの時期は特に自分の発見と発明がライフイベントにおいて目立ちます。

後者は自己同一性や役割同一性の確立の時期と言われます。
この時期の自己の確立は色々な材料から作られます。

自己を生成していくモデルは構造主義的哲学では特に違いはありません。
しかし思春期の方は組み込んでいく要素がより複雑で多様になるでしょう。

一方乳幼児期の自己認識は主に体の認識です。
「鏡に映った顔を自分と認識する時期」という意味で「鏡像段階」と言ったりします。
これを考えてみましょう。

胎児や赤ちゃんの物事の認識がどのようなものであるかはよく分かりません。
そもそも新生児や乳児早期は目もよく見えません。
何となくおなかがすいたとかうんちが漏れたとかの不快感のようなものがあるかもしれません。
機嫌が悪いのか泣いているようなときもあります。
何となくうまく寝れなかったり、体調が悪いのを漠然と感じる時もあるかもしれません。

柔らかく良い匂いのするぬくもりのある毛布に包んであげてだっこしたり揺らしてあげると泣き止んで寝ていく時があります。
変なタイミングで目を覚まされるとやはり泣きます。
おしっこやうんちをした時には変えてもらうと泣き止むことがあります。

おなかがすいたか喉が渇いた時に母親が抱いてあげて乳房でおっぱいをあげたり哺乳瓶でミルクをあげるとちゅうちゅう吸って泣き止みます。

赤ちゃんが比較的早く認識するのは温かい毛布だったり、乳房ではないかと言う説があります。
しかし毛布や乳房が自分なのか自分以外なのかの区別はついていないとされます。
さらに人か物かの認識もありません。
何となく雰囲気的なもの、印象的なものを感じていくのでしょう。

発達が進むと空腹や渇きを回復してくれるものとしての乳房、温かく包んで満たしてくれるものとしての毛布を感覚していくようになります。
乳房、毛布、抱いてくれる腕、あやしてくれる声や子守歌、ゆすってくれる法要、感覚器の発達により母の顔を認識できるようになると母のようなものを認識できるようになるのかもしれませんが、自分と母親の区別はついていないかもしれません。

母子一体の胎児からの状態を一者関係ということがあります。
不快感から心地よさを与えてくれる母のパーツから母親を実体として認識するとともに、自分のパーツも徐々に体感していきます。

体を動かしてみたり、手を動かしてみたり、両手の指を触ってみたり、手を顔のところにやったり、その他赤ちゃんでは色々な運動が見られます。
他人の顔も見れるようになり人見知りのようなものも出てきます。

そしてある程度の発達段階において鏡に映った顔を自分の顔と認識するようになると言われます。
これを鏡像段階と言います。

このどこで人を人と認識するのか自分を自分と認識するのか、あるいは自分と自分以外の区別が生じるのかはよく分かりませんが、対象との関係により色々なパーツの実在感を感じたり、パーツをパーツとして全体という実体があると感じるようになるという考え方があります。

これを対象関係論と言います。

実体認識も自他認識も出来ていない状態を一者関係とすると、母と自分を感じられるようになる段階を2者関係、自分と母以外の第3社的人間が存在することを認識する段階を3者関係と言います。

第4章 身体の認識

ある発達段階になると自己の身体と身体以外を認識できるようになります。
そこに境界があることも認識する様になります。
身体とは我々が自分と認識するものですが、何を自分と認識するかは実は自明ではないところです。

例えば自分の髪や手足を自分要素と認識しますが、切断するとそれは自分の要素ではなくなるのか。
手足が切断されたあとの自分は何かの要素を欠いた不完全な自分なのか。

事故や悪性腫瘍などで顔面部の欠損が起こった場合などは重篤な精神障害が生じることがありました。
顔というのはおそらく自己認識や自己同一性に深く関わっているのでしょう。

先ほどの対象関係論はフロイトの弟子クライン派のメラニー・クラインの理論です。
これ自体が構造主義的ですがこれをより厳密に構造主義化したのがジャック・ラカンの理論かもしれません。
どちらにせよ自己形成はいくつもの要素を取り込んでなされます。

ここでは単純化のため要素を3つに絞ります。
xyz座標系において身体が空間のどこを占めるかを考えます。

形、あるいは立体、あるいは空間における身体が占める位置の集合の形態を自分自便と見なすというのは自己認識の1つのあり方でしょう。
集合における部分集合が自己であるわけです。
この様にみなすと全体集合の部分集合の補集合が非自己となります。

このような「身体が空間の部分を占める」と言う観点からデカルトは物質的自己、身体を延長と言ったのかもしれません。
ガリレオの時空における空間と時間の独立性から位相論や解析学の連続写像的に捉えれば空間を占める集合は連続的に変化していくイメージになります。

これは我々の直感によく合っているので採用しやすい考え方ですが、もっと本質的に考えると時間も空間も連続的である必要はありません。

時間と空間を独立でないとして絡めると相対性理論のようなミンコフスキー空間になりますが、逆に徹底的に独立性を追求したり連続性を前提としない考え方もあります。
特に時間の連続性の仮定を捨てれば一瞬ごとに集合の濃度が変わり極端な場合は存在が消えたり現れたりすることもあれば形態が全く変わってしまう場合もあります。

量子力学でさえ位置の存在確立は時間ごとに代わっても存在自体は保存されますからよりこれはより現実に縛られないラディカルな考え方になるかもしれません。

差延とはそのような時間における集合の元の変化が不連続であることを前提としてなお差異が連続であるイメージを表します。
では差異とは何かというとある座標において身体を形成する元が存在するかしないかです。

有か無、1か0、すなわち差異です。
差延とは現代哲学者、ジャック・デリダの概念です。

形態がまとまりを持つ場合差異、特に境界域の差異に大きな変化がないため同一と見なしてしまうことです。

一方形態がまとまらず元が連続しない離散的なバラバラな座標に元が散らばっている場合もあるでしょう。
この場合は形と言うより、粒子の集まりに見えるかもしれません。
濃度や粒子という言葉を好んで使った現代思想家がドゥルーズやガタリです。

ドストエフスキーの小説は何重にも読み解ける複重層性が魅力ですが、ドゥルーズ=ガタリのビジョンも複重層性があり色々な学問の元ネタがあるので読み解いてみるのも面白いかもしれません。

おわりに

事物か同一かどうかを決めるには差異が完全に一致するかどうかを知る必要があります。
身体の形態でいえばあるXYZ座標系のある点において身体の要素が存在しているかしていないかです。

存在している要素の座標の集合が同じであれば同じ形態をしています。
これは身体の空間に占める位置だけの話です。

2人の人間がいたとして人間というものは多くの側面をもっており、その側面ごとに同じか違うかを知らなければ同一か同一でないかを知ることはできません。

結論からいうと2人の人間を全ての側面から見て全く同じ事はないので、人間同士と言うのは殆どが他者であり、同一であることはまずありません。
全く同一であっても時間と言う側面からみると一瞬後にはある側面で同じではなくなっており差異が生じてしまう可能性があります。

そうすると一瞬前の人間は今の人間と同一ではなく一瞬後の人間は今の人間と同一ではありません。
これを同一性神話の終焉や同一性の解体と呼びましょう。

これをかみ砕いた言葉でいうと「世の中に同じものはない」ということになります。
ないというと厳密には誤りかもしれませんが統計学的の大数の法則のような現実的な考え方をする場合にはないと言ってしまっても良いでしょう。

世の中は細かく見れば違って当然、違わないとおかしいくらいのものです。
同じと見る場合には何らかの形で大局的に、巨視的な目で類別(カテゴライズ)している場合が殆どでしょう。
何の禅的にも立たなければ違う確率が圧倒的に大きいのです。

にも拘わらず同一性は大切です。
われわれの認識能力は有限だからです。
限られた知能や記憶の中で情報処理せざるを得ません。

大まかにはそれが社会の形を作っており、まがりなりにも何らか法則性や秩序が社会にあるように見せています。
にもかかわらず我々は正確性や厳密性という概念を捨て去る必要はありません。
それはある場合には保証できます。

ある場合とは我々が正確さや厳密さを担保できるように系を作り出す場合です。
その理論的根拠は数学などの基礎的理論科学で保証され、その実践は技術の進歩と技術を実現させるための豊かさの基盤である経済産業の発展により実現されています。

2022/04/22

GW期間中の診療について

令和4年ゴールデンウィーク期間中は5月2日(月)~5月5日(木)まで休診となります。

休診期間前後は混み合うことが予想されますので、ネットまたはお電話にてお早めのご予約にご協力をお願い申し上げます。

2022/04/20

一番やさしい現代哲学のポストモダン、近代とモダニズム批判入門

はじめに

現代哲学は恐ろしく寛容な思想です。
そもそも世俗の事には基本的に口を出しません。

ポスト構造主義は理論についての理論です。
現実についての理論ではありません。
現実についての理論も扱う理論と言う意味では現実と関係しますが直接的な関係ではありません。

構造主義は方法論です。
数学では同じものを形式主義と言って理論を作ったり分析するための方法に過ぎません。
構造主義も同じです。
哲学や倫理や思想において理論を作るったり分析したりするための方法論に過ぎません。

構造主義によって作られた哲学を構造主義的哲学と呼びましょう。
この場合哲学とは存在論と認識論を意味するものとします。
構造主義的哲学は最終的にはデリダなどによってまとめられた哲学の理論です。

哲学の理論と言うのは存在と認識を合理的に説明する理論です。
構造主義的哲学に対してもう一つ、素朴実在論系の哲学があります。
これは西洋哲学の哲学者たちの思想を理解すると近代哲学までの思想は全て素朴実在論の要素を含んでいます。

西洋哲学の歴史と言うのは素朴実在論をいかに乗り越えるかであったと言っても構いません。
構造主義的哲学で完全に素朴実在論のくびきを断ち切ることができたので西洋哲学というのは分類すると構造主義的哲学とそれ以外の素朴実在論系の哲学の2つに大きく分類されます。

この哲学の歴史を踏まえつつ近代思想批判(ポストモダン、モダニズム批判などともいう)を行います。

第1章 近代哲学の排他性

現代哲学はポスト構造主義、構造主義、そしてあえて言うならば素朴実在論の3つからできています。
この3つの思想とその関係を理解すると現代哲学はマスターできます。

他方で近代哲学には構造主義や構造主義的哲学という考えがありませんでした。
ですから近代哲学は素朴実在論と、場合によってはポスト構造主義の2つから成り立っています。

ポスト構造主義は「全ての思想を相対化してとらえよう」と言う考え方です。
これに従って現代哲学の構図を表すと現代哲学は構造主義的哲学の理論と数ある近代哲学の個々の理論全てを相対的に見ます(ポスト構造主義の理論自体も相対化して見るのかという疑問は一旦おいておいてください。自己言及命題問題と言うものでこれを解消するのに別の専門的な議論と理論が必要になります)。

一方近代哲学は構造主義的哲学の考え方を持っていないので近代哲学の個々の理論のどれかを絶対化して見るか、現代哲学のいろいろな理論を相対化して見るかのどちらかです。
基本的に人はこの3つの立場のどれかに立っています。

別の言い方をしましょう。

現代哲学の考え方をする人と言うのはポスト構造主義の考え方をもっている、かつ構造主義的哲学の考え方を持っている人です。
近代主義者(モダニスト)はこの否定で現代哲学の考え方を完全持っていない人になります。
すなわちポスト構造主義の考え方を持っていない、または構造主義的哲学の考え方を持っていない人になります。

この中で一番少ないのは現代哲学の立場に立つ人です。
多いのは近代哲学の個々の理論のどれかを絶対化して見るか、現代哲学のいろいろな理論を相対化して見るかのどちらかの人です。

これをまとめてモダニズムと呼びましょう。

まず現代哲学がモダニズムを批判するのはモダニズムが構造主義的哲学を理解して思考と思想体系に導入していない点です。
つまり近代哲学は構造主義的哲学がなく素朴実在論系の理論だけからなる特殊な思想群と見ることができて現代哲学に比べて一般性がありません。
どのように一般性がないかと言うと現代哲学を知らない人は何かが実在するという考え方から離れられません。

これは現代哲学の考え方をする人から見ると考え方が偏っているため話がうまくかみ合わない場合があります。
かみ合わないだけならいいのですがそこから相互に感情的問題が発展することがあり人間関係がうまくいかなくなることがあります。
これは不幸なことです。

もう一つの問題はポスト構造主義の考え方を持っていない人とポスト構造主義の考え方をしている人との間で生じる問題です。

ポスト構造主義の考え方を持っていない人はあらゆる人とこじれます。
ポスト構造主義の考え方をしている人もそういう人は許してくれないでしょう。

ポスト構造主義はあらゆる思想に寛容ですがあらゆる思想をメタ認知するので、マウントされていると考える人がいるかもしれません。
寛容な性格や自己肯定感が強ければいいのですが、健全な自己愛を持ってないタイプの人はポスト構造主義的タイプの人にルサンチマンを持ちがちです。

あるいは自分が絶対的に奉ずる思想を相対されてしまうことに対しては誰でも反射的に反発してしまうものなのかもしれません。
そういう人々は他人とこじれるだけならいいのですが自分自身の中でもこじれているケースが多いです。

自己同一性と言うのは固定したものではなく人間は自分の中にたくさんの他者を持っています。
特定の考えだけしか認めず、他の特定の考え方を排斥する人は自分自身の中で混乱が起こることが多く思考や情動が安定しなくなることがあります。
仏教では貪瞋痴という感情からなる三毒と言う考え方がありますがこれにちょうど当てはまる状態になることがあるでしょう。

第2章 ポスト構造主義を持たない問題

現在までのところ学問では正しさや確かさを立証された理論が簡単に言えばありません。
そこで学問的に誠実にあろうとするなら寛容さと謙虚さと言う2つの態度が必要になります。

何かを正しいとか確かだとか信じるのは個人の自由です。
個人が何かを正しいとか確かだとか信じればその個人の中では主観的にその考え方は正しいか確かだと言っても構いません。

ただ客観的にはその考えが正しいとも確かであるとも立証できませんので、その考えの正しさや確かさはその人の中だけにとどまります。

これが現代社会の基盤をなす考え方です。

正しいとか確かだという表現を使いましたが、それを個人的に使うのではなく集団が正しさや確かさを共有するための必要条件のようなものであるとみると、言い方を代えれば合意可能性、意思伝達の可能性、コミュニケーションの可能性と見ることができます。
客観的な正しさや確かさの定義をきちんと行えば多くの人たち、場合によっては全ての人たちが合意する考えや考え方を作ることができる可能性はあります。

人間には認知とメタ認知というものがあります。
ポスト構造主義は認知だけでなくメタ認知も持ちましょうという考え方です。

メタ認知とは自分が認知している状態や認知の内容を認知するということです。
自分が何を知っているか、何を知っていないかを認知することです。
これは知的誠実さであり先ほどの寛容さや謙虚さにもつながります。

自分が何かを信じていた場合、それが正しくも確かでもないという可能性を常に念頭に置く必要があります。

あるいは自分が何かの正しさや確かさを信じていた場合に他人にそれを立証できればいいのですが、できないのであれば他人には自分の信じていることが正しいか確かなことであることを立証できないということを自覚できる能力です。

メタ認知能力は大切です。

メタ認知機能障害で有名なものは統合失調症です。

幻聴などの感覚異常、妄想などの思考異常、行動や発言が解体し支離滅裂になり、他者から見るとおかしく見えたり、本人も時間が経つとおかしかったと感じたりしますが、その渦中にある時に自分がおかしな状態にあるということを自覚出来ません。
いわゆる「客観的に自分を見られない」状態になります。

認知機能を高度に働かせるとメタ認知機能に至るとみる考え方もできるので生物学的には「メタ認知能力」という特別な能力があるとは言えないのかもしれませんが、「メタ認知」という概念を持って使うことができると精神医学、精神分析学、心理学、認知科学、脳科学、そして哲学などには便利です。

現代では自分が信じていることの正しくない可能性や確実でない可能性を考えられないことには問題があります。
それが知的能力の問題であれば知能障害かもしれませんし、感情的な問題であれば狂信やパラノイド的パーソナリティ、情操の問題があるかもしれません。

大体人間は自分の思い通りにならないと不快になったり怒ったり他者に敵意を持ったり攻撃したり侮辱されたような被害念慮を持ったり自信を失ったり劣等感を持ったり複雑でネガティブな感情反応が生じてしまうことがあります。

別にそれでもかまわないのかもしれませんが現代社会において、精神的に高尚で大人であるためにはそういった痴劣さはモニタリング出来たり、コントロールしたり、元から持たないようにするのが望ましいでしょう。

そのための方法はメタ認知能力を獲得すること、自覚する訓練をある程度継続的に行うこと、自分を高める理想を持つこと、経験を積むこと、メタ認知機能の使い方を洗練させることです。

人間は現実的な社会的な状況に関わらず精神的な貴族であるべきです。
ポスト構造主義がないということはメタ認知がないということとほぼ同じです。

自分の信じていることを批判された場合に感情的な反応を起こします。
自分の否定していることを肯定された場合に感情的な反応を起こします。

ポジティブな感情的反応ならいいのですがネガティブな感情的な反応を示すことが多くあります。

自分の信じていることを人に押し付けてくることもあります。
メタ認知能力がないと人に思考を操作されやすくもあります。
時に信じていることの内容によっては歴史的な大惨事を起こします。
個人のみならず社会的な問題を起こします。

惨事や問題は必ずしも人類や社会がよりよくなるのに長く広い目で見て悪いものでないことである場合もあるかもしれませんが、幼稚で下品なのでがっかりしたりスポイルされたり人間や世の中が嫌になったり元気や心意気や良心を奪われるようなしょうもないものであることが多くあります。

メタ認知を維持してもよくないことを起こすことがある場合もあるでしょうが、真にポスト構造主義をマスターしている人であればおかしな良い訳や自己欺瞞を行うことは少ないと思います。

第3章 構造主義的哲学を持っていない場合

構造主義的哲学を持っていない場合には何らかの実在観念を持っています。
何かの実在の考え方から意識的、無意識的に離れることができません。
素朴実在論の影響を離れることができません。

構造主義的哲学を持っているならば素朴実在論の影響を離れることができます。
つまり、選択肢、オプションが増えます。
人間は選択肢が少ないより選択肢が多い方がいい、これは寄与のものとして前提としましょう。

たくさんの選択肢を持っているから幸せになれるとは限らず、逆に不幸になる場合もあるかもしれませんが、主体性を持ち自由を希求しメタ認知や自覚を大切にするポジティブな精神性にとっては選択肢が多い、より多様な考え方が出来る方が良い、というのが現代の理念です。

何かの実在を信じてしまう状態はその実在を真実、真理、事実、その他正しく確かなものとみなしやすい精神状態を招きやすくなります。
つまり何かを絶対化する傾向を生じます。何かに執着してしまいます。

心がある考えに固着してしまうと考えの幅が狭まります。
ポスト構造主義のような思考の相対化ができるにせよ、何を実在として見なすかの実在論の中での狭い選択になります。
神を信じたり、イデオロギーを信じたり、物質を信じたり、自分の主感を信じたりします。

人間はリアリティを感じたり自分が信じたいものを実在すると信じたがると言うのが現代哲学の基本的な人間観です。
おかしな、あるいは壮絶な人生体験、特に幼少時に、または持続的にそれを体験するとコンプレックス(精神複合体)を形成しやすくなります。

コンプレックスは実在感を生じやすくする傾向があります。
実在感は時に精神疾患を生じやすくしたり精神疾患の回復の阻害要因になります。
その人の問題が解決したり幸せになるのに必要な変化を実在感の存在が邪魔をするのです。

2000年のノーベル経済学賞は幼少期の育ち方が障害年収に影響を与えるというものでした。
精神医学はACE(adversed childhood experience)という概念があります。
ACEがあると精神疾患を罹患しやすくなりますし回復しにくくなります。

こういうことを含めて現代の教育では幼少期に子供に愛情を十分に与えてほめて育てる、おかしなストレスを与えたりトラウマを作らないことが重視されています。

第4章 近現代の歴史

とにかく近現代の歴史は人が良く死にました。
戦争は別としても宗教を理由に殺された人もいればイデオロギーを理由に殺された人もいます。

人を殺す口実はだいたいは近代思想の何かの理論でした。
何か素朴実在論による思想を理由に人を不幸にすることはやめなければいけません。
それが学問的な理由以外に現代哲学が作られた理由です。

現代哲学は近代哲学より上位互換な思想なので現代哲学を論破できる近代思想はありません。
近代思想は社会的に大量に人を殺すこともありますが、個人の近代思想の信奉者もめんどくさい人が多いです。

しつこいしうざいしうっとおしい所があります。
何かに拘っているからです。

こだわりは時に大切ですが時に多様性を否定します。
お釈迦様は執着はよくない旨のことを仰いましたがやはり大したものと言わざるを得ません。

お釈迦様とナーガールジュナが創始したとされる大乗仏教は現代哲学と同じものです。
そういう意味では素朴実在論しかなかった近代までの間に現代哲学である原始仏教と大乗仏教がどのような歴史を辿ったかを見るのは興味深いことです。

おわりに

今も昔も近代思想(モダニズム)はマジョリティーで現代哲学はマイノリティな思想です。
理由はやはり現代哲学は習得するのに勉強と言う努力かセンスが必要ですが、近代思想は発達の過程で勝手に身についてしまうものだからです。

難解なのが構造主義です。
勉強もある程度幅広い勉強が必要で、文系的な哲学の勉強ではニーチェやフッサール(ハイデガーやサルトルはその応用のようなもの)どまりでしょう。
このレベルだとファシズムにいってしまったり共産主義にいってしまったり現実的選択に失敗します。

現代数学の形式主義をマスターすれば構造主義はすんなりと分かると思いますが、理系は人気がなく特に現代哲学の基礎論となるとマニアの領域です。

数学好きは俗世に距離を取る影響があります。
勉強好きでない人が現代数学を学ぶのは根気が続かないかもしれません。

IT産業は隆盛しているのでそこから構造主義を理解する人がいるかもしれませんが、現代哲学にまで結びつける人は少ないでしょう。

大乗仏教は現代哲学と同じ内容ですがやはり構造主義の説明が甘いと思います。
色々な学問が構造主義化されているのでそこから構造主義を理解できるかもしれませんが、中途半端な理解に終わってしまいそうです。

そもそも現代哲学を理解する事にメリットを感じないという考え方が強いのではないでしょうか。
現代哲学ももっと自己アピールしないといけません。
天国へ至る道(門か?)は狭いといいますがひとたび到達してしまえば仏教でいう悟りで解脱ですし、勉強好きの人、知的好奇心が強い人にはあらゆる分野の学問の習得が容易になります。

逆に近代思想はある種の学問を勉強する邪魔になります。
例えば古典力学は誰でも習得できますが、相対性理論や量子力学以降の物理学や大学以上の数学を学ぶ際には現代哲学を知っていると近代思想の先入観に邪魔されないので習得が簡単になります。

現代哲学をデフォルトにして近代主義的不幸を世の中からなくすことが当面の人類の目標でしょう。

2022/04/07

一番やさしい、現象学、現前、フッサール入門

はじめに

「現」という言葉を哲学ではよく使います。
この言葉を使うと時間についての考察をより厳密に行うことができます。

我々は連続的に時間が流れているように感じています。
しかし実は時間と言うのは連続していないかもしれません。
今現在の一瞬があるのはとりあえず認め受け入れるとしましょう。

では過去があるのは確かかというと確かではありません。
記憶が記録があるので過去がない訳がないという反論があるかもしれませんが、記憶は実はその瞬間、瞬間に作られるものであるという考え方が認知科学、脳科学では強くなっています。

また未来は想像でしかありません。
次の瞬間何が起こるのかは本当はありません。

未来は予想の創造です。
過去も記憶の創造です。
記録はどうかと言えばそこから「過去」と言われるものを構成するための材料でしかありません。

「現」という言葉一つとってみても複雑なのですが哲学を厳密さの上に構築し直そうと企図した哲学者がいます。

フッサールと言います。

フッサールの創造した現象学の解説を行います。
基本的に現代哲学は現象学レベルの厳密性は前提としているので現代哲学の理解に役に立つでしょう。


第1章 厳密さとは何か

我々は何に厳密さを求めるべきでしょうか。
哲学は厳密さを基盤に成り立たなければならない、と考えたのがフッサールです。
厳密さを追求するのは文系の学問よりは理系の学問です。

どちらの学問も厳密であることを理念としますが、文系の学問は理念だけはもっていても実際に厳密さを追求する具体的な方法を自前で開発できない傾向があります。
悪い意味で観念論的であると言えます。
自然言語や思弁だけを方法としていた時代が長かったので仕方がなかったのかもしれません。

その点、理系の学問は具体的です。
厳密でなければそれが一目瞭然に分かります。
ごまかしがきかないので絶えず厳密さを追求し続ける必要があります。

ですから現代の厳密さの元は科学の女王ともいわれる数学を起源としています。
古代から近代もユークリッド幾何学が学問の模範とされていたため現代ではなく知の初めから数学が厳密さを追求する学問として認知されてきたのかもしれません。

ちなみに日本語の数学はmathematicsと訳されますがこの言葉のギリシア語語源の意味は「学ぶべきもの」であって数の学問と言う意味ではありません。
言い換えてこれらをまとめると人が学ぶべきことは「厳密さの追求」であるということになります。

なぜ厳密さを追求するかと言えば人間同士が意見を一致させることができる様にするためでしょう。
厳密であれば双方が同じ事に同意ができます。

自然科学の対象、数学が自然科学と言えるのかどうか細かいことはおいておいて自然科学に含めて考えると、自然科学は厳密さを保証するための方法論の開発が他の科学に比べて時代を問わず進んでいます。


第2章 現象と現前

数学の厳密性を追求する研究をした数学者にフッサールがいます。
フッサールは後に研究対象を哲学に移します。

フッサールは哲学を厳密な学問にするための研究を行います。
フッサールは哲学の研究対象について考察しました。

我々の精神には様々な表象が現象します。
精神に現象するものの中で哲学の対象は「現前」というものであるとフッサールは考えました。

現前は物質的で感覚的に捉えられるものの場合もありますし、具体性を持たない抽象的概念である場合もあります。
現前は必ず意識で明確に捉えられるものである点が表象や現象と異なる点です。

つまり表象や現象は意識しなくても明確にイメージできなくても精神の中にあると感じられる様々なものを含みます。
表象も現象も現前の様に意識すると明確に認知できるものである場合もありますが曖昧模糊として漠然と感じているだけのような定かでない感じや思いも含みます。

ここでは「意識」という概念が重要になります。
意識を向けて現前が生まれる場合、意識を向けることをノエシス(指向性)、意識を向けられるものをノエマということがあります。

仏教では感覚には六感あり、五感以外にもう一感「意」という感覚を含みます。
漠然として現前とは言えないような何かであっても注意を向けることにより現前となる場合があります。

フッサールは哲学を厳密な学問にするための方法論として現象と現前を研究することが大切であると考えました。
フッサールが作った現象と現前を研究する学問や理論を現象学と言います。

フッサールは哲学に現象学と言う方法論を用いることによって哲学を厳密性を持った学問とする事ができると考えました。
現前はぼんやりと意識されるものではなく、目の前、頭の中に今現在、生々しく存在感をもって感じられます。

どこまでが曖昧ない認識でどこまでが覚醒度や注意力、集中力を高めて行った認識かの線引きをはっきりすることは難しいですが、とりあえず厳密な現前の定義はあとまわしにして現前というものがあると考えてみましょう。
これは我々の自然な感覚に合致しますのであまり異論は持たれないと思います。

 

 
第3章 哲学の厳密性

現前というものは哲学の存在論や認識論に深くかかわってきます。
哲学の研究と言うのはつまるところ現前をどう考えるのかと言い換える事も出来るからです。

フッサールは現前をどう認識するかについて重要な考え方の転換を行いました。
普通客観的に存在すると考えられ我々の感覚で認識できる物質を認識する際には、我々の自然な発想はものが存在し、我々がそれを意識することで我々の中にその意識した物の現前が生成するのだというものです。

しかしこれは論理的に考えると正しい、すなわち健全で妥当な推論であるということは実はできないのです。

まずは実は「物が実際に存在する」が真か偽かは我々には本当は分からないことなのです。
実証も検証も証明もしようがありません。

もちろん「物が実際に存在するので我々の中にその物の現前が存在する」という命題が真である可能性はあります。
しかしそれが偽である可能性も等しくあります。
ですから「物が実際に存在する」という命題は仮定に過ぎず真なる前提と他の可能性を排除して決めつけるのは誤りです。

「物が実際に存在する」が真であろうと偽であろうと一つの確実なことがあるとフッサールは前提します。
それは「現前が存在する」ということです。

どんな現前であれ我々は現前を意識しながら思考しています。
一生に一度の現前も感じることなく生活してきた人はいわゆる知能障害などの神経発達の障害や外傷や疾患による認知機能障害などを除けば普通はあり得ないでしょう。

我々にとって確実に言えることは唯一つ、「現前は存在する」ということです。
この命題はどのような前提、前件、条件の元でも変わりません。
やや自然の感覚に反する論理になる場合があるので「質料含意のパラドクス」と言われることもあります。

「物が実際に存在する」ならば「現前が存在(生成)する」ことは我々の感覚には自然であると先ほど説明しました。
しかし論理的にいうと「物が実際に存在しなくても現前が存在(生成)する」も真なのです。

やや議論がわき道に逸れました。

現象学では次のことを妥当でありかつ真としそれを前提に哲学を構築する事こそが哲学を厳密な学問として成り立たせるために必要な事であるとかんがえました。
それは「現前が存在するから我々は事物が実在すると思い込んでいる」ということです。

「現前が存在する」と「事物が実在する」は実は独立な命題であり、それを何らかの形で関係づけようとするのは人間の恣意的で作為的な行いに過ぎません。
近代哲学までは直感や自然な感覚をもとになんとなくそれっぽい曖昧は言説で修辞や詭弁を用いて論理的でないことを正しいことと思わせようとしてそれが社会的に優勢だったのですが、数学や論理学の発展と共にそれが通用しなくなりました。

いずれにせよ厳密に考えれば我々に言えることは「現前が存在する」ということだけです。
これは主観的に正しいと言えます。

しかしそこから「客観的に事物が実在する」とは言えません。

現前は事物から演繹されるものではありませんが従来の哲学ではこの考え方に強い影響を受けてきました。
事物の客観的な実在を立証することはフッサールの頃にはできていませんでした。
今でもできていないと言えるでしょう。

ですから事物の客観的な実在性について何かの結論を出すのはナンセンスです。
控えめに言って「~の実在が証明できたならば~と言える可能性がある」くらいの結論を出せるのが現代でも精いっぱいのところでしょう。
同じく「現前が存在するから事物は存在する」も結論できません。

高々「現前が存在するから事物が実在する可能性は否定できない」というのがぎりぎりの許容ラインでしょう。

そもそも「事物の実在」なるものに哲学は拘る必要がないのです。
それは無視すればいいもので拘るのは偏執的、パラノイド的ですし、唯名論者ウイリアムのオッカムの剃刀論法を使えば、あってもなくてもいいものは問題にしない、というのが正解です。

問題と言うのは問題とするから問題になるのであって、問題としなければ問題にならないのです。
問題にするには問題にする理由が必要ですが「事物が実在するかどうか」を問題にしなければいけない理由が何もありません。

ですから我々は厳密に考えるなら確実に実在すると言える現前についてだけを研究すればいいのです。
これを「現象学的還元」といいます。

つまりおかしな議論を巻き戻して「事物の実在」なる問題にする必要のないことを問題にしないことで問題を消してしまい、哲学を厳密化、簡素化したのです。


第4章 フッサール批判

フッサールの現象学と現象学的還元は素晴らしい理論です。
「事物の実在」に関する考え方を転倒させたので、同じ哲学者ニーチェと同じことを成し遂げたと言えます。

ただ後のポスト構造主義者のジャック・デリダなどに「現前」という概念の定義について批判されました。
現代哲学の構造主義では基本、「実在」という概念を使いません。
事物の実在はもちろんですが、現前だって実在しないのです。

後の構造主義では実在概念なしに現前が生成する仕組みが理論的に構成できることを示してしまいましたので「現前」と言う概念もまた「事物」と言う概念と同様に特別視する必要がなくなりました。
デリダはこの考え方に立って、現象学を「現前の形而上学」と呼んで批判します。

その様な経緯はあったにせよ「現前」という言葉は非常に便利なので現代哲学を語る際には聞き手や読み手に理解しやすくするのに有用です。


おわりに

現代哲学を哲学を通して理解するために最も重要な2人の哲学者がニーチェとフッサールだと思います。
しかしこの2人だけでは何が偉大だったのかが良く分からないので近代哲学までの大まかな西洋哲学の文脈も知っておくと分かりやすいでしょう。

この2人が近代哲学と現代哲学の過渡期の哲学者でこの2人までは文系的な読解力で理解した方が分かりやすいという人もいるかもしれません。
この2人のあとで重要そうな哲学者は多分ハイデガーですがフッサールの応用みたいなものなので勉強しても勉強しなくてもどっちでもいいかもしれません。

この2人の後の哲学で重要になるのは哲学にとって異質であり異形なものである構造主義の導入です。
これはソシュールの構造主義的言語学やロリアン・フォルマリズムなどの影響も語られますが、やはり最も早く現代化した学問分野である数学の影響が決定的に大きいでしょう。

数学で形式主義と呼ばれているものが構造主義であり、構造主義が異形であるゆえんの1つは理系的であるからです。

もう一つ文系の学者の間で言語学由来の構造主義が構造主義の由来として取り上げられるのは文系的な構造主義は非理性的なものも取り上げるからです。
数学の構造主義はひたすら理性的なもの、すなわち、無矛盾性、完全性、健全性、妥当性、整合性、論理性、合理性など完結した破綻しない、バグを起こさない理論の完成を志向します。

これが現代の情報通信科学技術産業に発展していく理由でもありますが、芸術や文学など人間の感情や意欲を表現する能力がない、といってもいいかもしれません。
非理性的な人間の精神を表現するためには数学的構造主義だけでは不可能でしょう。

一方で数学的な構造主義が完成したからこそ「理」とは何かが理解できるようになったわけで、「理」を明確にすることができなければ「非理性的」もまた明確にすることができなかったでしょう。

いずれにせよ自然言語や修辞や慣習による言語使用だけでは人間はバイアスにとらわれるので全ての人々がリベラルアーツとして数学(高校までで習う暗記による算数ではない)を勉強する必要があるのでしょう。