月別: 2021年10月

2021/10/26

超簡単なメタ認知入門

はじめに

「メタ認知」という言葉は一般的に使われている言葉ではないかもしれません。

「メタ認知」という言葉を考証したいわけではないのでどこかの領域では昔に、あるいは昔からあった言葉かもしれませんがそれもよく知りません。
2010年代の10年くらいで徐々に一般化してきたのはおそらく精神科医療の領域ではないでしょうか。

精神科医療では「メタ認知」という言葉を使うと表現しやすいことによく出くわします。
ただ10年以上前は精神科医療の現場や文献でも当たり前のように「メタ認知」という言葉を使う雰囲気はなかったと思います。

しかし最近は意志のみならず精神医療従事者で「メタ認知」という言葉を説明なく使う場面を見かける様に感じます。
他方で現代哲学でもどこまで認知されるかはともかく「メタ認知」という言葉と概念が非常に有用です。

現代哲学のみならず、西洋の歴史においては「メタ認知」という言葉がぴったりくる概念がしばし見られます。
ソクラテスしかり、ウィットゲンシュタインしかりです。

本書にて「メタ認知」についてわかりやすく知ってもらおうと思います。

第1章 精神医学におけるメタ認知

医学の基礎過程では必ず生理学と病理学を学びます。
生理学と病理学は必修単位であり落とせば専門に進めません。

また例え単位を通せても生理学と病理学の勉強が貧弱であれば医者としてハンディキャップを負うでしょう。
臨床医や研究者として専門馬鹿にはなれても人体に対する奥深い理解には達することができない医師になります。

医学部の基礎科目は生理学、病理学、解剖学、薬理学、衛生学(微生物学や感染症学などを含む)、公衆衛生学などでしょうか。
これらを標準以上の水準でマスターしていないとコロナ騒ぎで見られたようなおかしな医療関係者が続出します。

これらの医学基礎科目を理解するには数学、物理、化学、生物学などの諸分野のある程度以上の理解も必要になり、高校時点でこれらの教科にある程度の習得度に達していないと「いいお医者さん」にはなれても「優秀な医学者」にはなれないかもしれません。

まあそういった医学、医療業界の内幕はさておき、精神科医療従事者は精神の生理学と精神病理学にある程度精通している必要があります。

生理とは簡単に言うと生きること、生きることの正常の理で病理とは生きること、生き物の異常の理であり後者は傷病などに罹患している状態のメカニズムを研究します。

精神医学で最も重要な障害の一つに統合失調症がありますが統合失調症の主要な症状が「メタ認知障害」です。
これは古くから「病識」や「病感」の欠如と言われていたものです。

統合失調症とは幻覚や妄想のような感覚や思考の異常、解体した、別の言い方をすると支離滅裂であったりまとまりのなかったりする思考や言動や行動、知情意の低下、つまり知性や感情、意欲の低下が見られたり興奮や攻撃性の亢進、そう状態やうつ状態をきたしたりします。

何であれそれらが日常生活や社会生活に破綻をきたすような状態になるのですが、統合失調症の患者さんは多かれ少なかれ自分を客観的に見ることができずに他人に奇異に見られているかもしれないと認識することができません。
これを「メタ認知障害」と言います。

逆にいうと統合失調症でない人は自分の思考や言動や行動を客観的に認識し、自分が人におかしく見えているかおかしく見えていないかを判断できる能力があるということになり、これをメタ認知の能力と言います。
「自分がおかしなことを言ったりやったりしていることを自分自身が知っている」ということです。

自分が聞いているものは幻聴である、自分の思考は人からおかしく思われている、自分はおかしいかもしれないと思えることを病識、認識は出来ないが感じ取れる病識の弱いものを病感と言いますが、言い換えるとこれはメタ認知の程度と言えます。

第2章 現代哲学におけるメタ認知

西洋哲学は古代と近代は無前提で自由な思弁を目指していました。
中世哲学はキリスト教の力が強くキリスト教を前提とさせられていたので古代と近代とは異なります。

古代と近代の哲学は何も前提にしない思弁による理論を目指したのですが、構造主義の発見/発明により激震がはしります。
西洋哲学というものが素朴実在論を前提にしていたことが明らかになったからです。

つまり哲学の理論と言うのは大きく分けて2つの系統に分けられます。
1つは近代以前の素朴実在論を無意識の前提と成り立っている哲学理論です。
もう1つは構造主義を前提とした構造主義的哲学です。

これにより哲学理論というものは系統分類して整理する対象になりました。

前提ですのでその哲学理論が正しいかどうかはその前提を含めた他の前提が全て真である場合結論が恒常的に真であるように作られていれば、妥当、あるいは健全な理論と言えるかもしれません。
または前提と言う言葉を使いましたが仮説を仮定として使っているとも言えます。

あくまで仮なので真偽を論ずるような話ではありません。
素朴実在論も構造主知的哲学も真偽の分からない前提であり仮説に過ぎません。

結局それが正しい根拠も確かな証拠もありません。
と言う見方に基づいているのがポスト構造主義です。

ポスト構造主義によればある哲学理論は4通りの可能性があります。

素朴実在論と構造主義を同時に前提としている場合、素朴実在論を前提として構造主義を前提としない場合、素朴実在論を前提とせず構造主義を前提とする場合、素朴実在論も構造主義もどちらも前提としない場合です。

哲学理論というものを考える場合、この様な俯瞰的な見方をする必要があるのでメタ認知が必要になります。

現代哲学のポスト構造主義の要素は、前提がないこと、これは言い換えるとイデオロギーが複数作成可能であってどのイデオロギーも特別ではないこと、主体、自由、選択、自覚、メタ認知です。

この要素間の関係は主体が自由にイデオロギーを選択できてそれをメタ認知し自覚し続けるということです。
メタ認知と自覚はもしかしたら分ける必要はないのかもしれませんがここでは分けておきます。

もしこの要素と関係性にメタ認知と自覚が無くなると、「主体が自由に自分が好きなイデオロギーを選択しその事を忘れてしまいまたその時に好きなイデオロギーを選択する」の繰り返しになります。
全くそれでもかまわないのですがその場合に失われるのは首尾一貫性と選択とそれに基づく行動同士の整合性が失われ矛盾に満ちて見える事です。

この様な姿勢で生きること、というか行動のパターンも必ずしも悪い事ではなく、日本で1980年代にニューアカデミズムとして現代思想がはやった時代にはそのような生き方が称揚されていたようです。

メタ認知や自覚を重視したところで必ずしも一貫性や不整合や無矛盾性を保証するものではないので自覚やメタ認知の扱いは現代哲学の議論の争点になります。

第3章 仏教のメタ認知

仏教でもっとも大切なもの、少なくともお釈迦様が存命中に説いた内容と言われる原始仏教でもっとも大切なのは十二因縁生起説です。

お釈迦様はこれを発明することで悟ることができましたし、誰であれ十二因縁生起を理解すれば悟ることができます。

十二因縁生起は12個の要素で成り立っていますが一番初めは「無明」とされています。
これは何も明らかではない、あるいは明らかなものは無いということです。

我々は何も前提と出来ないし、前提としてもそれが真である根拠も証拠もないということを意味しています。
何も根拠と出来ないため、我々は自分で何か前提を作ってそこから理論を構築していくわけです。

ここにあるのは主体によるある仮説を前提とするという選択であって、仮説が仮説でなく親切であって真なる前提として根拠として良いと何かが保証してくれたということではありません。
あくまで個人の恣意的な選択であって、そこには時にリスクを取る必要や感情的な覚悟や後悔が伴うこともあるでしょう。

ただここで解るのは仏教の根源は「無前提」であるということでありこれを「無明」と呼んでいます。
何も真なる前提とすることなく考えるということです。

論理学ではassumption ruleというのがあり理論の過程で仮定を想定することがありますが結論では消します。
何ものにも無前提である命題を恒真式(tautology)と言います。

何も前提にしない場合に論証がどのように進むのか?
仮定を行うことになります。

仮定が最終的に消去されれば結論は何をも前提としていない結論として使用できますが、哲学理論の多くは仮定が消去せず残っていますので、その哲学理論は仮定の説、仮説に依存しています。
仮説が適用できる条件であればその哲学理論も適用できますし、仮説が成り立たない条件下であればその哲学理論を適用できる理由がありません。

仏教の第一原理は因縁、縁起、十二因縁生起ですがその中でもさらに第一番目の原理は「無明」つまり明がない、明らかなものは無い、自明なものは無いということです。

これは伝統的な西洋哲学でいうと全ての前提が成り立たないところから出発せよ、と言っているのと同じです。

ですから仏教は明らかなものから出発せず全てを無明とみなして明らかに感じられるものを自分で作り上げるということでまず無明、つまり中、中観、ポスト構造主義を前提した上で次に空論、構造主義論に入る形をとっています。

言い換えると仏教は全てのイデオロギーに対して中立であり、それを自覚することから始まっています。
これが仏教のメタ認知です。

これは精神医学のメタ認知と同じもので自分の思考、言動、行動を客観的に中立的に観る、すなわち中観するということです。
ですから仏教は全ての世俗のイデオロギーに対しては相対主義であり、主体と自由、イデオロギーの優位を認めないこと、メタ認知とその自覚を基礎に成り立っています。

第4章 現代哲学のメタ認知

現代哲学の要素も主体と自由、イデオロギーの優位を認めないこと、メタ認知と自覚です。
これらの要素の中には重複があり各要素は完全には独立ではないかもしれませんが、これらを同時に連言、つまりかつ∩の関係で同時に満たすとポスト構造主義の必要十分条件になります。

ポス後構造主義の観点から見れば近代までの哲学理論や構造主義による哲学理論もただの1つの世俗的なイデオロギーに過ぎません。
そういう意味でポスト構造主義を他の哲学理論を含めたイデオロギーと区別してメタイデオロギーと呼びましょう。

メタイデオロギーは世俗と全く関係がなく理論の理論のようなものです。
理論自体を扱うために理論に対するメタ認知が必要になります。

もしあるイデオロギーを妄信してその事を客観的に観ることができなくなってしまえばそれはメタ認知が障害された状態です。

ポスト構造主義から見れば近代哲学以前の西洋哲学は無前提でなく無意識に素朴実在論を前提とした理論群ということになり、初期の構造主義的哲学は素朴実在論を否定し構造主義を絶対化した、つまり構造主義を前提とした無前提ではない哲学理論ということになります。

第5章 メタ認知障害

メタ認知がなくなるか減弱するか混乱することをメタ認知障害と言います。
これは精神医学の言葉です。
統合失調症などの病識や病感の傷害を認知科学的にまとめて表現した言葉と言えます。

障害と言うと保健や福祉や医療の話になってしまうかもしれませんが、メタ認知が失調した状態は精神科領域のみならず日常生活や社会現象、思想や哲学、宗教の領域でもよく見られます。

妄想という言葉はおかしなことを考えているが修正できない状態を表します。
この修正できないのは「自分がおかしなことを考えているかもしれない」と考えるメタ認知が失われているからです。

障害や病的な状態でなくても日常の交友やメディアなどでメタ認知が失調している状態が良く見られます。
「絶対に間違えを認めない人」、これは自覚なく行っているのであればメタ認知障害です。
「矛盾した発言をする報道キャスター」、これも故意にしているのでなければメタ認知能力に問題を抱えています。

近代までの西洋哲学、これは中世哲学は意識的にキリスト教を前提にしているのでキリスト教についてはメタ認知を持っていると言えるかもしれません。

しかし素朴実在論を無意識に前提としている点では近代哲学は一貫しておりしかもそれを認知できていませんのでメタ認知障害です。

構造主義が発見されたばかりの時はそれまでのあらゆる思想が素朴実在論を無意識に前提していたことも同時に発見されたので、素朴実在論を否定して構造主義により哲学を創るのが正しいと考える構造主義の絶対主義者や急進派、過激派がいてこれはこれで行き過ぎが生じました。

メタ認知を失って世俗的イデオロギーを単なる一つのイデオロギーと見れなくなりそれを妄信して他のイデオロギーを否定、攻撃し出すのは歴史上しばしば見られます。

これが宗教で見られると狂信と呼ばれたり、精神医学ではこの状態をパラノイア類、パラノイドと総称することがあります。

第6章 終わりに

現代哲学は数えられる数の要素でできています。
主体(自己)、自由、選択、無前提、特定の世俗イデオロギーを特別視しないこと、自覚、メタ認知などです。

メタ認知という言葉は世間では言葉として一般的に使われるものではないと考えられるため本書ではメタ認知の説明を行いました。
メタ認知を持つ、あるいはメタ認知を理解できなければ現代哲学は習得できません。

しかしメタ認知は実際には簡単な概念ですので誰にでも理解できます。
現代哲学の習得を目指す、目指さないにかかわらず、メタ認知を知っておくと生きていくうえで役に立ちます。

メタ認知を理解しそれを使って志向できるようになれば知能が上がり、頭がよくなります。

逆に特に障害がない人でもメタ認知能力がない人は知能を低く見積もられる可能性があります。
愛玩動物や玩具の如く低く見られながらもかわいがられて生きたければそれでよいのかもしれませんが、知能の高さを売りに生きていかないといけない場合にはひどいハンディキャップを負うことになります。

もし本書で書かれたような「メタ認知」を今まで知らなかったのであれば是非ここで覚えてしまってください。

2021/10/07

超簡単十二因縁生起入門

はじめに

十二因縁生起というものを理解すれば悟って、解脱して、仏陀になることができます。

十二因縁生起は、略して因縁、または縁起などともいわれます。
ある程度仏教を勉強した方なら分かると思いますが、お釈迦様が悟るのは十二因縁生起を理解したからでそれは仏典のクライマックスでもあります。

はっきり言うと十二因縁生起を理解できれば誰でも悟って解脱して仏になることができます。
ですから仏教を本当に理解したいと考えれば十二因縁生起を理解すれば良いと断言できます。

仏教でもう一つ大切な理論は中道や中観論と呼ばれるものですがこれは簡単なので実質仏教の会得は十二因縁生起の理解につきます。

十二因縁生起をわかりやすく説明します。

第1章 十二因縁生起の意味

十二因縁生起は大乗仏教の中論(中観論)と空論、現代哲学のポスト構造主義と構造主義を同時に含むお釈迦様の作った理論です。
ですから十二因縁生起を理解すると仏教の悟りの内容は何か、つまり中や中観、空とは何か、また現代哲学とは何か、つまりポスト構造主義と構造主義とは何かを同時に理解できるようになります。

この様に現代社会では文明の進歩のおかげで同じものを理解するのに複数の方法があるから便利です。

十二因縁生起は2500年前の理論です。
十二因縁生起を理解するとお釈迦様やインド人やネパール人(お釈迦様はネパール人という説もある)がどれだけ論理的な人々であるか驚くことになるでしょう。

十二因縁生起は「苦しみ」がどのようにを生じるか説明する理論です。
「苦しみ」と書きましたが「」かっこの中は何でも構いません。
つまり世の中や人間の内面の存在や認識がどのように生まれるかを説明する理論です。

仏教や現代哲学の基本の2つの理論である空論と構造主義、中論、中観論とポスト構造主義に含まれていないのですが、仏教や現代哲学をきちんと理解しようとする場合には「素朴実在論」というものを理解する必要があります。

素朴実在論は中論、中観論やポスト構造主義と同様に簡単な理論なので簡単に理解できますが、なぜ仏教や現代哲学の2つの理論が大切なのか、2つの理論の意味は何かを理解し自覚するのに必要な理論です。

結論としては十二因縁生起はなぜ仏教や現代哲学が大切なのか、仏教や現代哲学が何のために存在しているかの解答でもあります。

第2章 十二因縁生起の説明

十二因縁生起を具体的に説明しましょう。

苦しみはなぜ生じるのか?
十二因縁生起では12の段階で説明します。

まずは①無明があり、次に②行があり、以下③識、④名色、⑤六処、⑥触、⑦受、⑧愛(渇愛)、⑨取、⑩有、⑪生、⑫老病死(苦しみ)の12個の要素で説明します。

お釈迦様は苦から逃れる方法を探しましたが、お釈迦様の場合の苦とは病気、老い、死です。

お釈迦様は老病死から永遠に逃れる方法を研究しようとしたので十二因縁生起によって老病死からどの様に永遠に逃れることができるかと、老病死がいかにして生成し、存在しているのかを説明します。
しかしお釈迦様以外の人々や我々にとっては必ずしも苦や老病死だけでなく別の問題を解明するために十二因縁生起を使っても構いません。

なぜ「何か」が存在し、どのように「何か」を滅ぼすことができるのかを説明するために十二因縁生起はあらゆる「何か」について使うことができます。

十二因縁生起を具体的に説明します。

①無明とは「明らかではない」ということです。

「明らかなものは無い」と言い換えても構いません。
これは全てのことには根拠がないということです。
我々は本質的に何かの原因や根拠について何も知らないし何も知り得ないということです。

この①無明は中や中観の考え方の元であり、ポスト構造主義の根幹と一緒です。
この無明を原理としているだけでいかにお釈迦様がいかに天才であるかを知ることができます。特に理系的な意味で天才です。
お釈迦様であれば現代にタイムスリップしても難なく適応して現代の自然科学を容易に理解した可能性があります。
 
①無明は仮定ですがこれを前提として十二因縁生起の理論は構成されています。 
これは同時に当時のインド社会の様々な通念や無意識の前提を捨象して何も前提にしない境地に立つことができているのです。

現代社会で頭がいいと自分で思っていたり人から思われている人、あるいは高い教育を受けたとされている人でもこれができずにどれだけ世の中のコミュニケーションに混乱をもたらしているかを見ればこれが現代人にとってすら極めて困難なことが分かるでしょう。
いわんや2500年前のインド人のことですからなおさらのことです。

①無明を少し哲学的に表現してみましょう。
「何かが確かに存在している」「何かを正しく認識できる」という考えを持つ人がいてもその人はその根拠を示すことが原理的にできない、ということを最初に宣言しています。
これはいわゆる隠れたイデオロギーとして存在している「素朴実在論」の前提をいったん外すことを意味します。

何も根拠や前提がないのになぜ「何か」が存在したり認識できるように感じられるのでしょうか。
それは作るからです。

②~⑫が全て大乗仏教の空論、あるいは現代哲学のポスト構造主義の説明そのものになります。
⑪行は作る、構成する、構築するという意味と考えてください。

十二因縁生起については変な先入観を持ちやすいのでここからは現代的と言うか、工学的な、システムでも作るような観点で見てください。
できれば心理学や精神分析学、精神医学や認知科学、神経心理学の知識があると理解があるとぴんと着やすくなります。
つまり精神の構築であり、精神の科学、技術、工学だからです。

②行、構築としてまずは③識を作ります。
③識は意識とか認識と同じと理解して頂いて結構です。

③識を構築したところで、より具体的に意識、認識されるものとして⑨名色を設定します。

④名色とは名と色です。
名と色とは言い換えれば象徴と想像や現実などのイメージです。
更に象徴(シンボル)と現実や想像のイメージを具現化して⑧六処=感覚を設定します。

⑤六処とは6種類の感覚と理解してください。
普通現代では感覚を5つに分け、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の五感に分けますが、仏教ではこれらに「意」という感覚を加えて六感という6つの感覚のモダリティに分けていました。

感覚の種類を何個に分けようがここでは特に問題ではないので無視してください。
⑤六処まで構築され用意されたところで⑨触を設定します。

⑥触というものを考える際には、何かを感じるということは感じることと感じさせるものの2つから成り立つことに注意して下さい。
感覚器に刺激を与える「何か」をここでは設定したと考えてください。

つまり主観に対する客体の様なものをここで設定します。
⑦受とは感覚器が刺激を受けることです。
⑧触と⑨受は似ているかもしれません。

簡単に理解したければ細かく区別しなくても結構です。
他方で細かく理解したければ、我々は自分以外の何かの中、世界や社会というものの中にいつの間にか投げ入れられ存在し、常に自分以外のものから刺激を受けている存在であることに心を向けてみてください。

まとめていうと我々にはいつも何かが現象し、何かが現前して他者や外部の存在を実感しながら生きています。
我々が常に何らかの刺激を感じていることに関係して⑧愛(渇愛)を設定します。
 
⑧愛(渇愛)とは意志、欲望(併せて意欲という)、嗜好、好み、好き嫌い、志向性です。
これは我々に現象するもの、現前してくるものに対して志向性、あるいは意欲や好悪などが作られる過程です。

お釈迦様の十二因縁生起は精神の生理学(正常の研究)ですが、知的や精神などの章が保健福祉医療などに従事していると12の要素のどれか一つが失われる、あるいは亢進したり減弱する過程を観察できるので理解に役に立ちます。

精神医療では緊張病と呼ばれる状態はその典型です。
その他の外傷性障害や認知機能障害などの症候性・器質性の傷害でも⑧愛(渇愛)以外も含めて色々な12個の要素の欠失を観察できます。

保健医療福祉関係でなくても富豪などの物欲のコントロールが意味をなさない状態になったりすると一部⑧愛だけ失調したような状態を体験することもあります。
一番簡単な表現として他者や物事に対する好き嫌いを作ることで人間の精神をより具現化します。

⑧渇愛を設定することで⑨取を設定できます。
⑧の欲望を満たせたり、自分の好きなものを手に入れる状態です。

あるいは逆に嫌いなものを遠ざけたり破壊する場合もあるでしょうし、望んだことが上手くいかない場合もあるでしょう。
⑨取により生成するもの、それが④有です。

⑩有は単純に有無の感覚と捉えてもらって構いません。
何かがある、あるいは何かがないという感覚は⑤渇愛(愛)と結びついてここで初めて生成させます。
実感や充実感、空虚感や喪失感などもこれに関係した感情です。

①無明で何かが実在する根拠も証拠もないと前提しています。
しかし⑩有では何かがあるという感じが知性や感情、意志を超えて臨在しています。

当たり前ですが、⑩有で何かが実在するという感覚が確信をもって生々しく感じられるからと言う理由で①無明の前提、あるいは仮定は否定されるべきである、とするのは論理的に間違いです。
ただこの間違いこそが「素朴実在論」であり人類を長く、あるいは現在も多くの人にはびこっている思想です。

同じようにこの十二因縁生起の論法が素朴実在論を否定している、と結論すればそれも論理的に間違いです。
しかしこの間違いも多くの人間が過去から現在までしてしまう誤りです。

⑩有、があるので⑪生、を設定します。
これは簡単には自分が生きている感覚、と考えて頂いて結構です。
同時に自分の生が他者と切り離されて感じられるということでもあります。

この⑪生は自己同一性、自分探し、心、魂、精神などの概念と関係します。
⑪生きるとはただ呼吸をして心臓が動いて食べて寝て生活しているということではなく、自分が「生きている」と実感することと関係があります。
あるいは乳幼児が自分の手や鏡に映った顔を自分と認識したり、母や父兄妹を自分ではない存在と認識したりすることにも関係しています。

⑪生を設定すると、そこから健康や加齢、死の問題、すなわち⑫老病死を設定することができます。

ここでお釈迦様の解決しようとした問題について考えてみましょう。
お釈迦様が問題にしたのは苦の問題ですがそれは単に人間が老いや病や死によって苦しまなければいけないことではありません。

お釈迦様が嫌がっておられたのは輪廻転生というものがある限り、苦しみに終わりがない、未来永劫無限に苦しむ可能性が無くならないことでした。

輪廻転生がなければ⑫老病死から逃れたければ一度⑪生を失って死んでしまえばいいのです。
しかし輪廻転生があると一度死んでもまた生まれるのでその生で苦しむ可能性があります。
それに永遠に終わりがありません。

お釈迦様はインド文化圏の原理である「輪廻転生」という前提を捨て去ってしまいました。
捨て去ってしまえば輪廻転生の有無はどちらにせよ仮説に過ぎません。

理性と抽象化をここまで深められる2500年前のインド人、あるいはお釈迦様と言う一個人は偉大と言う他はなく人類史上、ちょっと比較できる人がいない突出した天才だったのかもしれません。

十二因縁生起を悟ったところでそれ以上生きる必要がなくなり、死ぬことで苦しみを終わらせようとしたお釈迦さまでしたが梵天様(アートマン、知恵)に説得されて自分が悟ったことを世の中に広め伝えようと仏教を創出したのが仏教の始まりです。

おわりに

仏教は十二因縁生起を理解する事が全てです。
十二因縁生起を理解すれば悟りであり解脱でありお釈迦様と同じ仏陀です。

上座部仏教と言われる南伝仏教の中にはこれと違う考え方をする派があります。
これは悟り段階説であり、悟りの程度で仏教徒を区別します。
悟りの程度が少ない依流果から、一来果、不還果、阿羅漢果とより上級の存在になっていきます。

過去、現在、未来に宇宙がいくつもあってその中で一人だけ特別な阿羅漢が出て仏教を広めます。
その意味でその阿羅漢だけを特別視します。
今の宇宙ではそれはお釈迦様を指すと考えます。

この考え方は悟りにもレベルがあり、そのレベルと瞑想時の特殊な精神状態を結びつけて考えるのでいい意味でも悪い意味でも時にカルト的な新興宗教に利用されてしまう場合があります。
欧米の神智学が仏教の影響を受けましたし、日本のオーム真理教なども影響を受けているようです。

大乗仏教でも禅宗の様な宗教では時にこの要素を持つ場合があり、日本に現在伝わっているのは南宗禅と言って頓悟、すなわち突然一回で悟ってしまうことがあるという考え方ですが、現代には伝わっていない北宗善では漸悟、すなわち修行するにつれて段階的に悟っていくという考え方が取り入れられています。
その様な観点でいうと大乗仏教や現代哲学は頓悟で空や中(中観)、構造主義やポスト構造主義を知的に理解するかどうかの区別しかなく、瞑想などによる特殊な精神状態などの要素が一切ありません。

そういった観点を踏まえつつ、共通して言えるのは仏教においてはお釈迦様は十二因縁生起を理解することで悟って仏陀になったのであり、誰でも十二因縁生起を理解すれば悟って仏陀になれるという点は仏典というものが大乗仏教であれ上座部仏教であれ共通に記載されていることですから揺るぎようがありません。

悟りに段階があるかどうか、頓悟か漸悟か、特殊な精神状態になれるかなれないかは全て後付けであり仏教の文化や歴史に大切なものではありますが、あえてこういう言い方をすれば仏教の本質とは関係ありません。

本書が多くの人が十二因縁生起の理解につながるように祈ります。