月別: 2021年8月

2021/08/26

超簡単な現代哲学の道徳入門

はじめに
 現代哲学の構造主義とポスト構造主義では道徳を与えてくれません。

 現代哲学をマスターするとどう考え、どう行動するべきかは個人にゆだねられます。

 言い換えると世俗の世界でどう生きるか、人生、生活、社会、自然、他者とどう関わるかを自分で決めます。

 例えば「人を殺していいか」「盗んでいいか」について現代哲学から答えを導くことはできません。

「自分の欲しいものは人を殺してでも手に入れる」という生き方と現代哲学は矛盾しません。

 この驚くべき結論を説明した上で現代哲学が与える道徳のモデルを示していきましょう。


第1章 現代哲学と道徳は関係ない

 現代哲学の核心であるポスト構造主義について説明します。

 ポスト構造主義より前の哲学の主題は確かさと正しさです。

 正しいもの、確かなものがあるというのが意識的、無意識的な前提となっています。

 ポスト構造主義はただの形式でありシステムです。

 ポスト構造主義の構成要素に「正しい」とか「確かである」という要素がありません。

 ポスト構造主義ははそもそも「正しい」とか「確かだ」とか言う考え方を哲学にとって必須であるとみなさず「正しさ」や「確かさ」と関係ないところで哲学を構成します。

 現代哲学で「正しさや確かさとは何か」と問えば「正しさや確かさの定義による」という答えが返ってきます。

 言い換えれば現代哲学では「正しさ」や「確かさ」は定義するものです。

別の言い方をすると主体が作るもの、決めるものです。

 世の中には色々な哲学や思想があります。

 イデオロギーおいつ言葉はイデアとロゴスの合成語でイデアのロゴスですが色々な哲学や思想をひっくるめてイデオロギーとここではまとめてしまいます。

 ポスト構造主義も自体もイデオロギーです。

 ポスト構造主義の特徴は上記の形式でありシステムであること、正しさや確かさという概念がないことです。

イデオロギーを分類してみましょう。

イデオロギーの中には「人間の人生ではどのように考え、どのように行動すべきか」「人間の人生ではすべきでない考え方や行動がある」とし、人間がどう考え行動すべきか、あるいはある種の考え方や行動の仕方を禁止するものがあります。

これは生活に影響を与えるので世俗のイデオロギーと呼びましょう。

またイデオロギーの中にはイデオロギー自体を思考対象とするものがあります。

例えば世の中にある色々なイデオロギーについて分析したり分類するイデオロギーです。

これをメタイデオロギーと呼びましょう。

 ぷスト構造主義は人間の日常生活や社会生活での考え方や行動に影響を与えません。

 またポスト構造主義はイデオロギーを思考の対象としています。

 ですからポスト構造主義は世俗のイデオロギーではないメタイデオロギーである、という事になります。

 ポスト構造主義の特徴はイデオロギーというものはどれが正しいとか確かであるかという「優劣」関係をつけず、全ての世俗的イデオロギーは特別なものは一つもなく平等であると考えます。

 道徳とは世俗の生き方、人生、日常や社会生活での考え方や行動のことです。

 ポスト構造主義のこの様な性質から現代哲学をマスターしても個人の道徳には直接影響を与えません。


第2章 現代哲学における道徳の在り方

 重要な事ですのでもう一度書きます。

“現代哲学と道徳は関係がない”

他の表現をすると「現代哲学と道徳は独立である」「現代哲学は特定の道徳を決めない」などとも表現できるでしょう。

 道徳なしに生きていくことも可能かもしれません。

 また無意識に何かの道徳に従っているがそれに無自覚であることもあるでしょう。

 では現代哲学と道徳を結びつけようとするのであればどうしたらいいでしょう。

 現代哲学と道徳は直接関係ないので関係付けるためには手続きが必要です。

 現代哲学と道徳は元々全く関係のないものなので関係の付け方は色々なつけ方があります。

 ですから以下は現代哲学と道徳を結びつける一例となります。

 現代哲学では人間は自由に世俗的イデオロギーを選択できると考えます。

 ですから人間とその人が従う世俗的イデオロギーの関係はその人が恣意的にその世俗的イデオロギーを選択して従うことを決めたという関係になります。

 この場合世俗的イデオロギーが道徳に相当します。 

 念のため道徳をの意味をはっきりさせておくと行動規範と言い換えられます。

 ちなみに倫理学は人間の思いなし、思想を研究する学問で哲学や道徳はその研究対象となりますが、倫理と道徳を同一視する考え方もありその方が一般的かもしれません。

 世俗的イデオロギーは人が生活の中でどう考えどう行動するべきかを示すためここでは道徳と同一視します。

 現代哲学と道徳を結びつける一例を示しました。

 ここからいくつかの興味深いことが分かります。
 
 客観的に正しい道徳というものがあるのか分からないし、どんな道徳に従ったからと言って自分が正しいとみなされることもない、また主観的に自分が正しい道徳を選び実践していると思いたければ「正しい」ということを定義しなければいけない、ということが挙げられます。

 ここから「現代哲学は相対主義的だ」と言われることがあります。

 また現代哲学では人間は自由です。

 この自由の意味は通常自由主義と言われるものとは異なります。

 特別な世俗的イデオロギーは存在しないことを思いだしてみましょう。

 これは世俗的イデオロギーを選ぶ際に選ぶ理由を見出しにくい状態をもたらします。

 その世俗的イデオロギーを選ぶ理由が自分自身の主体性にしかよらないのです。

 この様な自由をサルトルは「人間は自由の刑に処せられている」といいました。

 自由はいい面もありますが反面奴隷の安逸をむさぼれなくなる短所があります。

 またニーチェはこのような主体性を超人という概念で表現しました。

 神は死んで(いないとは言っていない)自分自身を自分の主としないといけないになったと思ったからです。

 自由、主体、特別な世俗的イデオロギーが存在しないこと、自分自身で選択しなければいけないことは相互に関係し現代哲学による道徳を形作っています。

 現代哲学では上記の他に2つ、メタ認知と自覚という要素があります。

 これは人間が道徳的に生きる場合には現代哲学に限らず必ずしも必要ないものかもしれません。

 しかし現代哲学はこの2つを重視します。

 すなわち特別なイデオロギーがない状態で自由に自分の主体性で世俗的なイデオロギーを選択しそれに従う、そしてその状態を客観的に認識し自覚し続ける、という事になります。

 多分この道徳における自覚とメタ認知を日本人はこころといったのでしょう。

 これは古代、中世の清明心、正直から儒教の陽明学などとも相まって心学、誠実の思想として日本の倫理思想史に結実し東アジアにおける日本の特徴ともなったようです。
 
 現代思想ではメタ認知と自覚が低い、あるいはない世俗的イデオロギーの選択と従属をパラノイド的(妄想気質的)といい、メタ認知と自覚が高度、あるいは過剰な状態をシゾイド的(分裂気質的)といいます。


第3章 他の道徳との比較

 ポスト構造主義はメタイデオロギーです。

 それ自体が生き方の規範などを示すものではありません。

 「人を殺してはいけない」「盗んではいけない」などの世俗的イデオロギーはメタイデオロギーを前提として選択される恣意的なサブのイデオロギーでありそれを選択しなければその人にとっては殺人も窃盗も禁忌にはなりません。

 「人を殺してでも自分の欲しいものは手に入れる」「自分の思い通りにするためなら世界が滅びてもよい」という世俗のイデオロギーを選択することも現代哲学の下では問題ありません。

 現代哲学から導かれる道徳は事実上勝手気ままを許します。

 何でも本人の好きなようにしていいのです。

 ただしそれを自覚し続けること、記憶し考え続けるなどの形で認知し続けることを要請します。

 これは現代哲学的に道徳を実践する際に自分や他者、外部に大きな不幸や困難を起こす抑止力になるかもしれません。

 また意識的か無意識的か悲観論や性悪説に基いている伝統的道徳が多い中で現代哲学的な道徳論は性善説に立っています。

 現代哲学をマスターするくらいの高度な知能を持った人間は精神的な貴族性や利他心、心理学のマズロー理論の様に自分も他社も幸せにするような想いを持つのではないかというものです。

 実際に現代哲学の習得のためには知頭の良さだけでは難しく、地道な知的訓練が必要になります。

 逆に現代では地道な勉強を重ねれば現代哲学は習得できます。

 地道な勉強というのは本人の向学心がなければ環境要因が大きくなります。

 そういう意味では哲学者は余裕があり恵まれた環境で育ってコンプレックスが少なく自己肯定感が高いのかもしれません。

 そういう意味では昔ほど上層階層と言えども生産力も低く身体と精神の衛生、公衆衛生的基盤が貧弱ですので性悪説になったのかもしれません。

 現代哲学は性善説的な道徳観と親和性が高いですが、従来型の道徳は個人の主体も自由も選択能力も認めず自分以外の主への従属を強いる構成になっています。

 また別の見解では現代哲学的な道徳は特に世の中におもねる形にできていません。

 多くの人間が現代哲学をマスターし現代哲学的道徳に従って生きた結果世界が滅びたとしても人類が絶滅したとしてもそれすら是認する思想です。

 ただしだから従来型の道徳がいいのかと言えば、従来型の道徳は理念はあるかもしれませんが実際に理念を実現するように作られているかと言えば疑問符が付きますで公平に考えれば従来型の道徳がいいか現代哲学を基盤にした道徳がいいかと言えば分からないというのが現実でしょう。

 非常にシンプルな現代哲学による道徳を一例としてあげましたが別のモデルも構成可能です。
 
 例えば頻繁に世俗的イデオロギーを入れ替えるドゥルーズ=ガタリのモデルです。

 他者や外部からの承認欲求や他者や外部への配慮など特に問題ない場合は個人主義に徹して一貫性や生合成に配慮することなく精神の赴くところに従いイデオロギーを変化させます。

 その際に自覚やメタ認知も必要ないかもしれません。

 「随処に主となれ」とは現代哲学と全く同じ思想である仏教の言葉ですが現代哲学では主体は自分であることが基礎であり他者や外部について考えるのは応用的な問題でしかありません。

おわりに

 現代哲学は理論です。

 理論というものは現実と関係なく存在しえます。

 仏教のお釈迦様は現代哲学でいう構造主義を発案することで悟りを得ました。

 この時お釈迦様は自分の抱えている問題が解決したので生きても死んでもどちらでもよくなってしまい一度は死のうとなさいました。

 つまりお釈迦様が悟った内容は生きるべきだとか死ぬべきだとかの思考や行動を規定する世俗的イデオロギー=道徳ではなかったわけです。

 その後お釈迦様は現代哲学のポスト構造主義と同じ内容である中道(おそらく=中観論)をお悟りになったと思われますがそれもやはり世俗的イデオロギー=道徳とは関係ありません。

 仏教にも戒律があるではないかという反論もあるかもしれませんが、仏教の戒律は空論や中観論は論理的に独立ですしどちらかからどちらかを導くことはできないので全く関係がありません。

 主体であることはいいことばかりではありません。

 何かに隷属していた方が楽で幸せな場合も多いでしょう。

 しかし幸か不幸か我々は現代、現代哲学の統べる時代に生きていますので、道徳も自分で選択しなければなりません。

 現代哲学自体は理論でしかありませんが、応用することで世俗、世間、社会、現実を生きるために利用できます。

 もちろん本書は従来型の道徳を否定するものではありません。

 主体性を捨て従属する世俗的倫理を決めて生きれば従来型の道徳で生きれますし、自由や自覚やメタ認知の感覚も失くしてしまえば更に完璧です。

 ただどちらの道徳も選べるようにするためには現代哲学をマスターする必要があるでしょう。

2021/08/18

現代数学と古典数学のちがいと数学と哲学の関係と論理学

はじめに
 現代数学は現代思想のプロトタイプです。

 現代数学と古典数学の関係は現代哲学と古典哲学の関係と同じです。

 現代数学と古典数学の関係を理解することは現代哲学と古典哲学の違いを理解するのに役に立ちますし、現代哲学と古典哲学の関係を示す具体的な実例です。

 私はそのことを現代数学を作った人々、その後に続く数学者が自覚していると思っていました。

 ところがそうではないらしいということが分かってきました。

 考えてみれば現代哲学が作られたときその哲学的な意味を理解していれば現代哲学はすぐに完成していたはずです。

 実際には現代数学が成立してから現代哲学が成立するまでに何十年物時間を要しています。

 現代社会は多くの面を数学から作られています。

 これをちょっと違う見方をすれば我々の周りには現代哲学を理解するための実例がふんだんに転がっています。

 これは現代の我々が昔の人と比べて現代哲学を勉強するのに決定的に有利な点です。

 現代哲学自体は仏教のお釈迦様やナーガールジュナ(龍樹)や天台智顗が確立していましたが、それを説明するのに難渋してきました。

 我々は仏教的理想が現代哲学により実現した世界に住んでいます。

 現代哲学を説明しようとすれば身の回りに豊富な例があるのです。

 そのようなわけで現代哲学の理解につなげるために古典数学と現代哲学の違いを説明します。


第1章 古典数学と現代数学のちがい

 まず古典数学と現代数学の違いの結論を示します。

 古典数学においては数学的な対象は自然界に実在すると考えます。

 一方現代数学は数学的な対象が自然界に存在するという仮定を放棄します。

 「否定」ではなく「仮定を放棄する」という複雑ともいえる書き方をしました。

 これをより詳しく説明します。

 現代数学は古典数学の「数学的対象が自然界に実在する」という前提を否定も肯定もしません。

 否定も肯定もせず否定しても肯定してもどちらでも構わないように新たに数学を作ります。

 誤解を恐れずに言うと古典数学は自然界を説明するために数学が存在すると考えます。
 
 これを「数学は自然界に実在する」と表現する人もいます。

 数学を哲学的に扱おうとした初期の試みがピタゴラス教団によってなされました。

 「万物は数で作られている」という言葉で知られています。

 これは「万物は自然数あるいは整数であるかその比で表現できるというものです。

 しかしこれに当てはまらない、自然数の比で表現できない「無理数」が発見されました。

 この時にピタゴラス教団は無理数の発見者を殺してしまったと伝えられています。

 このような古典数学的考え方の背景にある考え方は「自然界がまず存在し、数学は自然に従属し自然界の恵みとして存在する」ような考え方でしょう。

 現代数学は極端に言えば自然界や自然界における数学の実在性という前提を無視します。

 もっと言えば自然界自体の実在も無視します。

 古典数学は確かに自然界を探求するツールとして発生した側面があります。人間が自然を感じ、人間が具体的に感じたものを抽象し、数や量、点や線と言った数学的対象を抽出した、と考えていたわけです。

 このスタンスの数学を研究する現代数学の分野があって、数学的意味論やモデル理論、理論物理学や物理学の理論系等と呼ばれます。

 これらは我々が高校までで習った一般的に数学と思われているものとは全く異なる分野であり、数学基礎論や物理学に属するとも言えます。

 古典数学では近代に至っても数学的世界が自然的世界から生まれてきたという見方から離れられず、数学と物理学の違いが不明瞭でしたし、そもそも数学の基礎というものが探求されていませんでした。

 現代数学の特徴はこの逆であり、数学を物理学から切り離し、数学の基礎を探求し始めたことにあります。

 ここでは自然界と数学の世界が同じである必要はなくもはや別々のものと考えています。

 論理学では2つの事象があった場合、まず独立なものとして考えますのでこれは論理的に当たり前の考え方なのですが、古典数学は自然界と数学的世界は独立していないという命題を無条件に真として受け入れているためそもそも論理学的には偏った考え方を前提として成り立っていると考えることになります。

 この結果、古典数学が数学を自然界から抽出したものと考えるのに対して、現代数学では数学を自分自身で作り出します。

 あるいは古典数学を数学基礎論に合うように作り直します。

 作り出した数学が自然界の現象と合っているかいないかは問題としたければ問題としてもいいですが、問題としたくなければ問題とする必要はありません。

 作り出した数学が自然界を上手く説明するか、または自然界を上手く説明するように数学の理論を作るかどうかは現代数学のテーマとしては面白いかもしれませんが、それがどうでもいい数学者も沢山いますし自分の関心のあるテーマとしたい人はテーマとすればいいですが、それに関心がない数学者にとってはどうでもいいことです。

第2章 数学と哲学の関係

 古典数学と古典哲学、現代数学と現代哲学はそれぞれ対応しています。

 ある面からいうと数学も哲学も最初は自然界を理解するために作られました。

 この2つには方法の違いがあります。

 数学は自然を観測し数量化し数値データを取りデータ間の関係を整合的に説明する理論を作ります。

 ここでは数学は物理学と不可分な関係にあります。

 この様に数学が自然界に従属する見方では数学は自然科学と見なせるでしょう。

 一方で哲学は数値化を行わず思考により定性的に自然を理解しようと試みます。

 この際に哲学では自然についてのより基礎的な思考を行います。

 具体的に例を挙げると「存在とは何か」「認識とは何か」という自然界の現象の観測の前提にあるものの確かさや正しさについて考えます。

 これは古典数学では発展しませんでしたが、現代数学では数学の基礎固めのために数学基礎論として一分野をなしています。

「自然科学の応用が技術である」という定義がありますが、この定義に従えば現代数学は自然科学ではなく技術になります。

古典数学と古典哲学をまとめると「古典数学と古典哲学は自然界を理解するためのものとしてあるという考えから離れられず、数学の対象と哲学の対象が実在するという考え方から離れられない」という考え方になります。

他方で現代数学と現代哲学をまとめると「現代数学と現代哲学は自然界を理解するためではなくそれ自体で存在する。自然界を理解するために数学や哲学を利用する事もできるが、自然界と関係なく数学や哲学を行うことができる」ということになります。

現代数学や現代哲学が古典数学や古典哲学より発展している面として現代数学や現代哲学は自然界とは関係ないものを創造することができます。

古典数学や古典哲学は「発見」するものなのですが現代数学や現代哲学は「発明」するものです。

現代数学や現代哲学の創造と自然界との関係は3通りあります。

「自然界とは関係なく理論を創造する」「自然界とは関係なく理論を創造したがたまたま自然界の説明に利用可能であった」「自然界を整合的に説明するために理論を創造した」の3通りです。

一方で古典数学や古典哲学と自然の関係は一通りしかありません。

「自然界の法則を発見した」のみになります。

第3章 現代から古典への見方

 前の章までをまとめると興味深い特徴を見つけることができます。

 まずこれで言い尽くせてしまうのかもしれませんが古典数学も古典哲学も合理的ではありません。

 その理由は様々ですが一つは論理学の未発達が挙げられます。

 これは不思議な事です。

 論理学は学問の基礎です。

 しかしまともな現代的ですらなく近代的な論理学が成立したのは19世紀後半からでゴッドロープ・フレーゲやバートランド・ラッセルを待たなくてはいけません。

 それまであったのは古代のアリストテレスの論理学や中世の三段論法の論理学です。

 それらは応用が限られ過ぎているのでそれまでは哲学者も数学者も科学者も論理的な思考を出来ておらず自頭の良さだけで学問をしていた可能性があります。

 そもそも論理学を使えないと中学や高校で習う場合分けが使えません。

 すると思考が未分化になり、全ての場合を網羅し尽せません。

古典はあらゆる可能性を考えていないということになります。

 また「独立」という考え方がありません。

 多くの場合は「独立」と「背反」を混用して混乱している例が見られます。

 知らない間に関係ないものを関係づける観念連合が発生します。

結果として例えば上の例のように数学と物理学の未分化や数学から数学基礎論が生まれないような自体が生じます。

また「自然界と数学の世界は独立である」というと「自然界の存在や数学的概念の実在を否定している」という攻撃を受ける事があります。

数学者は特別な主義を持っているのでない限り自然界や数学的対象の実在を否定することはありません。

否定する様がないからです。

議論する必要もありませんし、そうした議論は無視できるように現代では数学基礎論により数学的基盤が整えられています。

これは現代哲学も同じです。

 現代哲学や仏教で構造主義やポスト構造主義、空論や中観論の話をすると「神の存在を否定している」とか「無神論である」とかいう批判を受ける事があります。

現代哲学や仏教では神の存在を否定も肯定もしていません。

どっちでもいいのです。

神が存在しようがしまいがどっちでもいい様に学問の形を整えて議論しているだけです。

否定ではなく「無関係である」「無視する」「独立である」というのが正しい見方です。

 古典数学も古典哲学も前提や仮定を真とか偽とかしか考えず議論します。

 前章までの例では古典は自然の実在を当然のこととしていることが良い例になります。

 現代哲学では前提や仮定が真である場合も偽である場合も考えます。

 真偽について考えていないだけでなく、論証の妥当性や健全性についても良く分かっていないことが多いようです。

 この様な世界では形式主義も記号論も生まれません。

 形式主義や記号論やデジタルもコンピュータも情報・通信の科学技術も存在しえません。

 我々は既に現代数学と現代数学の世界に住んでいるのです。

第4章 論理がないとどうなるか

 古典の時代にまともな論理学がないのは仕方がないとして現代社会でも多くの人が論理学をマスターしていません。

 教育水準と学習・教育の意欲が低いことが理由の一つです。

 また論理学が必要でと思われていない社会通念もあるようです。

 論理学を知らなくても論理的に考えることができると考えている人間が社会の支配層も含めて大部分を構成しているようです。

 論理学を知らない人が何によって考えるのかと言うと感情や意志、嗜好、レトリック、自分で論理と考えているものなどによって考えています。

 コンピュータでいうとCPUとメインメモリー、ハードディスクが優れているハイスペックな人でも論理学をしらないとソフトウェアが問題を起こします。

 ハードに対応したソフトウェアでないとプログラムがバグを起こします。

 それ以前にプログラムを作れませんし読むことも出来ません。

 コンピュータが成立するためには論理学と形式主義が必要です。

 これはコンピュータが電子計算機ではなく天文や保険のための三角関数や指数や対数関数を計算する多数の計算する従業員からなる組織であった時代から変わりません。


おわりに
 古典数学と現代数学、古典哲学と現代哲学の違いと数学と哲学の関係について説明しました。

 数学は哲学のモデルであり実例です。

 現代哲学を学ぶために現代数学を例として使うと理解が容易になります。

 また逆に現代数学を理解するために現代哲学を理解していると役に立ちます。

 帰納も演繹もどちらかができれば他方もやりやすいのと同じです。

 仏教の中核である空論と中観論は現代哲学の構造主義とポスト構造主義と同じものですが、現代数学のような具体的な実例となるものがなかったので修学するのが困難でした。

 古典から現代へ数学も哲学も進歩するのが困難であった理由の一つに論理学があります。

 論理学がないとどんなに頭のいい人でも考えに誤りや漏れが生じます。

 古典数学や古典哲学を論理学からみるともれや勘違いだらけです。

 逆に論理学を学ぶことは現代数学や現代哲学の習得に早道です。

 現代日本社会の欠陥として論理学を習得しやすい仕組みになっていないことが上げられます。

 問題は論理学を知らず論理的でないのに自分を論理的な思考ができていると思っている人が多くいて世の中に様々なバグを起こしていることです。

 どんなに頭の回転が速くてもどんなに記憶力が良くても入っているソフトが低品質であれば有為な人材が逆に有害な人材になってしまうことがあります。

 社会全体に非論理的で有害な言説で満ちているのであればとても賢い状態とは言えません。

 社会のコミュニケーションを円滑するために論理学を現代哲学と共に必修科目にするのが望ましいでしょう。

2021/08/10

超簡単な主体性とは何か

はじめに
 現代哲学は日常生活や社会生活での我々の生き方を教えてくれるものではありません。

 ただ現代哲学の中核であるポスト構造主義を理解し生き方に取り入れようとすると「主体性を持ち的に生きよう」というようになるでしょう。

 理由はおそらく現代社会では主体性を持つということが主体性を持たないことよりよいことだと漠然と思われているからだと思います。

 ポスト構造主義は主体性を理解するのに役に立ちますが、主体性を持てと強制する思想ではありません。

 主体的に考えす、与えられた考え方に特に自覚なく生きていくことを否定するものではありません。

 そもそも現代鉄が雨滴に考えても我々は完全に主体的に生きることは現実にはできません。

 我々は人生の色々な場面で主体的でない生き方をしておりそれでよいのです。

 全てにおいて完全に主体的であろう歳我々の中にある主体的でない部分を主体的にする作業を延々と繰り返すのはちょっと変です。

 我々は主体的でない部分を持って生きており、それをなくすのは事実上不可能です。

 寧ろ主体的でないから有益なことはたくさんあります。

 現代哲学は世俗のイデオロギーではなくイデオロギーのイデオロギーであるメタイデオロギーですので現代哲学をマスターしたからと言って人が何かの特定のイデオロギーに従属することを否定するものではありません。

 しかし現代哲学は人に主体性、自覚、自由、メタ認知、選択、個人などの考え方を整理して示すことでおそらく人の考え方や生き方の姿勢について影響を与えます。

 現代の個人は何かに隷従的な奴隷になることではなく、自覚を持った自由な主体であることを選好するでしょう。

 “主体性”について解説します。


第一章 ポスト構造主義の概観

 「ポスト構造主義」と言うのは構造主義の後の思想と言う意味です。

 ポスト構造主義と言う言葉自体で思想の内容を示すものではありません。

 また構造主義という言葉が使われていますがポスト構造主義と構造主義は全く違う内容の思想ですのでポスト構造主義を理解するのに構造主義を理解する必要もありません。

 ポスト構造主義は色々な説明の仕方があります。

 どのように理解しても最終的には自由に応用が効くようになるでしょう。

 ここでの説明は一つの説明の仕方ですが、ここからポスト構造主義を色々な面から解釈してみてください。

 現代哲学を構成する要素を主体、自覚、イデオロギー、自由、メタ認知、選択の5つとしてみます。

 これらの5つの要素の関係を記述します。

 主体は自由です。

 主体はたくさんあるイデオロギーの中で選択したいものを選択することができますし、選択しないことも出来ます。

 つまり主体は自由にイデオロギーを選択できます。

 主体は自分が自由であると自覚する必要があります。

 言い換えると主体は自分がイデオロギーを自由に選択しているということを自覚するということです。

 また主体がイデオロギーの中から選択したいイデオロギーを選択し、選択したくないイデオロギーを選択しない様子を客観的に認識することをメタ認知と言います。

 メタ認知は自覚的に行います。

 つまり主体は漫然とイデオロギーを選択するのではなく、自覚してイデオロギーを選択します。

 上記のような関係全体を客観的かつ自覚して認識することがメタ認知です。

 上記がポスト構造主義の構造です。

 あるいは上記の5つのキーワードでポスト構造主義を構築あるいは構成してみました。


第2章 ポスト構造主義の応用

 ポスト構造主義をかみ砕いて説明します。

 ポスト構造主義はある特定のイデオロギーを特別視しません。

 ここからポスト構造主義は相対主義であると言われます。

 逆にあるイデオロギーを特別視することを絶対主義といいます。

 あるイデオロギーを絶対視しそれに思考も行動も従う場合がわかりやすい例となります。

 あるイデオロギーと主体がこの様な関係を取る場合、そのイデオロギーを「正しい」とか「確かである」という規定を行う場合があります。

 あるいはあるイデオロギーこそが「確か」で「正しい」からそのイデオロギーに従うという人もいます。

 これをあるイデオロギーは「真理」であると言い換えましょう。

 ポスト構造主義では特定のイデオロギーを特別視しません。

 ですからそもそも「正しい」「確か」「真理」という言葉を使いません。

 そういう言葉や外見を使いたければそういう言葉を定義することから始めます。

 こういったポスト構造主義の特徴からポスト構造主義は「真理は存在しない」「正しいものはない」「確かなものはない」とポスト構造主義は主張すると言われます。

 これはある意味では適切な見方ですが、「真理」「正しさ」「確かさ」などの定義によって適切と言えるかどうかは様々です。

 仮にある特定のイデオロギーを選択し思考も行動もそのイデオロギーに従うと選択した場合、ポスト構造主義ではそれを自覚しメタ認知する必要があります。

 これは先ほどのあるイデオロギーを正しく確かで真理であるとみなし思考も行動も隷従するというあり方と同じに見えるかもしれませんが、ポスト構造異主義では主体のその様なあり方に対して自覚とメタ認知を持っている点が異なります。

 イデオロギーの選択に自覚とメタ認知がある場合にはあるイデオロギーが真理で正しく確かで絶対であるからそれに従うという見方はしません。

ポスト構造主義者があるイデオロギーを強い意志を持って選択する場合には、イデオロギーを自由に選択できる主体が恣意的にあるイデオロギーに従っているが、そのイデオロギーが他のイデオロギーに対して特別な優位を持つものではないことを自覚しメタ認知を保っているというあり方になります。


第3章 主体性について

 ポスト構造主義と言う思想を説明した上で主体性の説明に移りましょう。

 主体性とは主体が特に特別なものが含まれないたくさんあるイデオロギーの中から自由にイデオロギーを選択しそれをメタ認知して自覚することです。

 ポスト構造主義自体は現実の生き方に直接の影響を与えず、選択したイデオロギーの性質により世俗の世界に関わり影響を与えることになります。

 ここから派生して生じるものを見ていきます。

・個人主義
 自由に選択できてそれを自覚しているのですから何かのイデオロギーに従って後で後悔することになったとしても全て自分が招いたことであることを自覚することになります。他人や集団の影響を受けたとしても最終的に選択するのは自分ですからここから個人主義と言う考え方が発生します。

・プライド
 主体性を持つということは自立・独立し、自律的に生きるということです。他者や集団に従うのではなく自分が文字通り主となり他の何者も自分の主としません。自分が王のような神のようなものであって家来や信徒ではありません。この感覚は時に自信や自尊心、誇りや矜持の感情を生起します。

・謙虚さ
 ポスト構造主義では全ての世俗的イデオロギーに優劣関係を認めません。そして主体がどのイデオロギーを選択したところでやはり優劣はありません。同様に他者が何の家おろぎーを選択しても自分より優れているとも劣っているともみなしません。ここから自らや他者に対する謙虚の感情が生起します。

・平等
 優劣を認めないのはイデオロギー同士の関係だけではなく、主体と他者、他者と他者との関係も同じです。ここから平等の概念が発生します。

・信仰
 メタ認知を持つにはまず他にもイデオロギーがあること自体を知らなければいけません。そもそも一つのイデオロギーしか知らなければ選択するのではなく自覚なしにそのイデオロギーを選択してしまっている場合があります。これはこれで信仰の1つの形です。
 他方で色々なイデオロギーが存在する中であるイデオロギーを選択しそれに従う場合にもスタンスの一様ではないスタンスの取り方があります。
 ポスト構造主義の主体性では自分があるイデオロギーを選択しそれに思考と行動を従属させる場合にも自分が行っている事とその状態の自覚とメタ認知を維持します。これは現代哲学的な信仰と言えます。
 あるイデオロギーを選択した時点でイデオロギー同士の優劣を付けたりイデオロギーを否定し排除するならばそれはポスト構造主義における主体性とは言えません。
 また他のイデオロギーを認識しないようにしたり認識できなくなっている状態も主体性とは言いません。
 時に何らかの考え方に従ってイデオロギーを真理かどうか、正しいかどうか、確かかどうかと区別する時があると考えてみます(何かを真理、正しい、確かと判断するためには定義が必要でその定義はやはり何らかのイデオロギーによります)。
 その場合にもポスト構造主義的主体性においては自らの進行するイデオロギーが真理である可能性と真理でない可能性、正しい可能性と正しくない可能性、確かである可能性と確かでない可能性を常に意識し続けます。
 これも自覚とメタ認知の一形態です。

・責任
 我々はよく分からない中で誰かに強制されるわけでもなく自分自身で何かのイデオロギーを選択します。あとで顧みてそのイデオロギーを選択してよかったと思う場合もあるでしょうし、失敗したと後悔する場合もあるでしょう。どういう結果になったところで必要な心構えは関西弁では「けつをもつ」、共通語では「結果を受け入れる」ことが主体性になります。けつとはお尻の事で頭からお尻まで、つまり最後を引き受けるということでしょう。現代哲学における主体は文字通り「主」であり「従」でも「客」でもありません。ポスト構造主義は徹底した独我論に立っているとも言え、個人主義と並ぶポスト構造主義の特徴です。
 主体は自分で選択したイデオロギーの結果がどうなったかに関わらずそれを受け入れます。そもそも「他者」や「外部」はポスト構造主義の1つのテーマではありますが主体性の問題を考えるのには必要ないので今回はキーワードから省いています。ですから自分があるイデオロギーを選んだ結果と他者や外部を結びつけることは主体性とは関係ありませんし主体性ではありません。
 「けつをもつ」「結果を受け入れる」と似た言葉に「せい」「責任」という言葉があります。日本語が変質したためか劣化したためか政治的意図やプロパガンダで詭弁やレトリカルに使われるためか知性の変質や低下のためか人が変わったせいかあさましくなったせいか分かりませんが時々ディスファンクションを起こす言葉です。そういう場合は概して「~のせいにする」「責任を押し付けあう」「自己責任論」などと言う風に使われます。
 「せい」とか「責任」という言葉は責めるというニュアンスが入っています。「任せる」というニュアンスはいいのですが「責める」は邪魔です。そもそもあるイデオロギーを選択した結果は唯の結果であって良い結果であろうと悪い結果であろうと自分にせよ他者にせよ責める必要はありません。受け入れるだけです。主体性とは言い換えると「自分で考え、判断し、決断し、行動し、けつをとる(結果を受け入れる)」一連の過程をいいます。


第4章 主体性のまとめ

 近代社会は主体性を持った人間を念頭に作られました。近代的人間、人権という言葉の人と言うのは主体性を持った人間を念頭に作られた概念です。王侯貴族が主体性を持つのは前提として平民以下の人々も主体性を持たないといけない社会です。

 古代ギリシアでは社会は自由市民と奴隷によって成り立っていました。自由市民は精神的、社会的に主体性を持った人間、奴隷は精神的、社会的に主体性を持たない人間です。
 
 人間に主体性が必要である理由は主体性がない人間では民主制や選挙制度が成り立たないからです。誰かの言いなりになる人間では民主制も選挙制度も成り立たないのは自明でしょう。

 現代哲学では人間や主体性についてより深く研究されています。
 現代哲学によって人間はどうあるべきかについては何も分かりません。
 ニーチェやドゥルーズ=ガタリが提唱したような主体性を持った人間は各あらんと言う理念を示すことは出来ます。
 主体性を持った人間は自立しています。自分で考え、判断し、決断し、行動し、その結果を受け入れます。主体性を持った人間は矜持を持っています。しかし自尊心は高くても自己愛的ではなく他者にも自分にも謙虚で平等に接します。他者のイデオロギーを尊重します。自分の考えが必ずしも正しくない可能性を常に考えています。アイデアが豊富でいろんな考え方が出来ます。自分の考え方を豊かにするために勤勉です。自分の意志を持っていて他人や外部要因に流されにくいです。常に自分を客観的な目で見ています。基本的に人の生にしません。思考や行動にメリハリがあり、覚悟や自覚をもって決断や行動を行います。結果に対する潔さがあります。色々な考え方を整理したり系統分類する能力があります。学ぶだけでなく創造することも大切にします。自分を豊かにするためです。詭弁やプロパガンダやレトリックを探知して虚飾を剥いだり政治的意図を見抜きます。論理的、合理的に思考する能力があります。感情や意志をコントロールする能力があります。色々な面から物事を見ることができて柔軟です。反省や逆襲力が高いです。自分を切り替えることができます。
 
おわりに
 ポスト構造主義から導かれる人間の主体性についてまとめました。