月別: 2009年11月

2009/11/25

動きと静止

現代思想は動きの思想です。
近代思想が同一性、根源、不変なるものの存在が前提にあったとすれば、現代思想は動き、流転、変化の哲学です。
同一性概念を例にとって見ましょう。
同一性というのは同じもの、一つのものということです。
近代思想ではこれを変わらないものとして考えます。
一方現代思想では同一性に対して差延という概念が提出され、同一性概念との比較を行うことで近代的な意味での同一性という概念の性質をメタなレベルであぶり出し、不可分固定であり疑問を持つことも難しく健全な懐疑主義を向けることもできなかった同一性概念を解体や相対化してしまいました。
現代思想では人間の物事や対象に対する同一性生成の仕組みや構造を分析することができます。
この分析ツールの是非や可否や良否が問題なのではなく、このような形で疑問を持たれず、不分と考えられてきた概念が人間の中で生成の仕組みのモデルを提供したことが現代思想のすばらしさです。
このツールが正しいとか正しくないとかは別として(現代思想では正しいとかいう言葉を近代的な意味では使いません。そもそも日本語の正しいは多義語でそれゆえ議論の独立性が気づかず崩壊してしまうことが多い誤解の多い言葉です)、そのような見方考え方を導入したことが功績です。
モデルとしてはもっと別のモデルがいくつも考えられるかもしれませんが、つまり存在証明をしたこと、存在を示したことが大切です。
存在を示すことで世界が広がるからです。

それはともかくとして差延は流転変化を前提としています。
特殊な場合として静止している場合もあるかもしれませんが、より一般的には運動を前提としており、静止は運動の特殊な場合です。
違うものを反復と記憶によって(あと記号過程)によって、同一視する、同じであり一つのものであると先入観を持ち、固定してしまうこと、不変であると勘違いしてしまう点が、近代思想に対する現代思想の最大の批判点の一つです。

また別の点で動きを見ると、現代主義的複対立的対象把握では精神を動かし続けることが大切です。
メモリーの制約という見方もできますが制約ではなく制約という言い方は何か本当のものを前提としているようにも聞こえるので、むしろすばらしい点かもしれません。

また別の点で動きを考えると、力の観点の導入をし精神医学を動きの面から、あるいは動かす力、力動、エス、欲望、エネルギー水準、いろいろな言い方をしますが、こういうものが不足すると精神衰弱なる状態になるというようなジャネという人の考え方があります。
エネルギー水準の低下は静止を生みいろいろな精神症状が現れる原因となることがあります。
統合失調症では概念や観念の固定が、近代主義的同一性への固着が統合失調症の発症の誘引となったり、難治化や遷延の原因になったり、主観的苦しみのもとになることがあります。
また普通の人々でも精神を動かして生きるか静止や近代的同一性固着的に生きるかによって生き方のモードが変わります。
動かしたくても動かない方向性が人にはあることがあり、そのような制約を開放して生きていくベクトルがドゥルージズムともいえます。

2009/11/24

真理について

現代思想は人間が考えるということがどういう事なのかについて考えます。
そういう意味では現代思想のある方向の方向性というのは、認知科学や人間内部の情報処理機構、精神分析学などが扱うものと同じ対象を扱っている分野であるといえます。
現代思想はこれについてはあるモデル、仮説を提出するのに成功したといえます。
この仮説は広く共有されるべきものだと思います。
またこのモデルの提出により、近代思想の無意識の思い込みや、思考の癖、思考様式のもつ偏りを指摘しました。
近代主義は自明でないもの、確実でないもの、根拠がないことをあたかも客観的に自明であって、確実であって、根拠がありそうに主張している場合があることを指摘しました。
ただ我々は主観的に確実性や自明性を感じることができるのみです。
そういう意味で現代主義は近代のように真理という言葉を一般的に使うことはありません。
使う場合は主観的に、教条的に、宗教的に使うのみです。
たとえば現代においては科学というものは永遠に仮説のみがある世界であって真理はありえません。
これは現代科学というものの性質上そういうことになっているもので、たとえ全宇宙の全てを説明するような仮説が作れたところでそれは変わりません。
全宇宙の観測されることの全てを説明するような仮説はたとえば、複数あるかもしれません。
科学というものは永遠に仮説しかない世界です。
他のものも同様であり、ただモデルやら仮説やら体系やらを適宜作ることができるのみです。
どれか一つの仮説やモデルを真理であると主張することは、特殊な宗教のみの専売特許であって、現代思想をベースにしている分野ではそのようにはできないことになります。

2009/11/23

パラノイドの問題点

現代思想的に導入されるようになった視点、視座、視軸はいろいろあります。
物事を動きと静止で見る軸やパラノイドとシゾイドで見る軸があります。

パラノイドとシゾイドで分ける軸はいろいろなところで用いられます。
人間の人格傾向を言ったり精神医学での診断で使われたりします。
加えて大変大切な見方というのは大まかに思想のパラノイド性やシゾイド性をみて思想自体の質を評価する見方です。
この見方で言うと近代主義はパラノイド的、現代主義はシゾイド的です。
現代主義は近代主義に批判的です。
批判点を一言で集約すると近代主義のパラノイド性ということになります。

現代思想の根本的な考え方の一つに物事や対象といったものはどんな考え方でもできるというものがあります。
対象に独立性を持っている複数の考え方を適用して、それぞれで結論を出し、それらがたとえ有限のまとまった知識に集約しにくいとしても安易に統合したり何かを無視したりしないというスタンスは現代主義的といえます。
清濁併せ呑むということであり、次元の違うパラメータを安易に加減してはいけないということでもあり、無意識の欲動やルサンチマンに無自覚に支配されてしまわないということでもあります。
何かの観点から相矛盾した結論や都合の悪い結果が出たとしても無自覚なバイアスにより流された思考や判断をしないということでもあります。

いわゆるパラノイドの問題点というのはこれとは対極でたった一つの見方だけしてそれに固着してさらにその自覚も謙虚さもないという状態です。
パラノイドの人は分かった気になったり、自分が知らない可能性を想像することが困難であったり、自分の知っている図式の中だけで全てを解釈しようとする傾向が生じます。
また独立性という概念をもって物事を考えることが困難である場合があり、論理的に独立な事象をあたかもそれが当たり前のようにくっつけてしまいます。
それを批判されると、空気とか常識とか当たり前とか普通とかいう言葉を使って自分のによく理解できない、あるいは理解したくない他者を排除しようとしたりしますがそれについての自覚がないことも多くあります。

このような性向は誰にでもありえますし生じえます。
現代思想は古い形の仏教とある面では同質の思想なのでこのようなパラノイド的な状態を衆生、迷妄、無明、迷い、などと表現し、一方でその構造を理解しそこから自覚的に抜け出せている状態を仏陀、覚醒、悟り、解脱、エンライトメント、正覚などと表現します。

概して人間がパラノイド性から離れて自由になるためには、教養、自覚、謙虚さ、自分の知らないことを知っていること、修行、知性、強さ、エネルギー、訓練、現代思想や原始仏教の理解などが求められます。

人間の個体発生的にか、系統発生的にもかはよく分かりませんが、人間は発達していく過程でパラノイド性を育みそこを通り抜けるのが、正常(何を指しているのかは分かりませんが)に発達していく上で必須だと思われます。
普通の人間は(普通というのが何を指しているのかは明らかではありませんが)必ずどのような形にせよ発達の過程でパラノイド的な認知形成を経験すると思われます。
これが発達の過程で欠失や不足するとおそらく精神医学で発達障害と言われる状態の一部を形成する可能性があります。
また後天的にこれが失われると統合失調症という状態を発症する可能性もあると考えられます。
ただしある種の統合失調症や発達障害の人が発する基礎哲学の極限に通じるような疑問、はパラノイド性を離れているためにむしろ現代思想では正当なものと見なされ得ます。

現代思想はシゾイド性の獲得によりパラノイド性を管理する思想です。
その意味でシゾイド性はパラノイド性の発展、拡張形式です。
これは現代思想自体が近代思想の発展、拡張形式であることと軌を一にします。
シゾイドはパラノイド形成できないという意味ではなく、パラノイド構造に対してメタな立場を持ちその構造を知り必要に応じてパラノイド構造を解体したり生成できるベクトルです。
パラノイド形成がそもそも形成できない状態をシゾフレニーといってこれはシゾイドとはやや異なる概念です。
現代思想、特にドゥルーズ=ガタリなどはシゾイド的であることを称揚する面があります。
これはパラノイド的なものが全く一貫性や自覚を持たないまま多くの人を不幸にし得るししてきたと考えた近代思想への苦い反省であり現代思想のもつ近代思想へのアンチテーゼ性、さらにはシンテーゼ性です。

2009/11/23

流転の哲学

思想というものを静止と流転の相から眺めることでcontemporarityをより深く理解することができるようになります。
細かい議論を差し置いて言うと現代思想は近代思想と比較して動き、変化、流転という考え方と近縁性が強いです。
近代思想では静止し、固定した根源というものが出発点になりますが、現代思想で現前/言葉というものが出発点になりますが、これらについてはスタティスティックな解析だけではなくそのダイナミシティ(とダイバーシティも)を考えることが本質的になります。
スナップショットで切り取って共時的に考える視点もある場合には役に立ちますが、何かの都合上そのような見方をするときもあるというだけの話で、それだけでしかなくダイナミシティを考えなくなってしまうのは間違いに等しいといえます。

これは現前や言葉というものがどのように生成しているのかという現代思想の本質的な考え方と関係します。
現代思想では現前/言葉が生じた場合、その背後に根源があるとは考えません。
その背後に広い意味での構造、関係性、マトリックスがあると考えます。
マトリックスはダイバーシティとダイナミシティを持つと考えるのがより汎用性がある見方になります。
もちろんダイナミシティの共時型としてスタティスティシティを利用することはしばしばありますがこれは別の話です。
これに対して近代性は現前/言葉に対して単純に根源をおきます。

近代思想では氷山の一角を見て氷山の本体があるのだと考えますが、現代思想はそのような見方をしません。
現代思想では氷山の一角の海水の下にあるのは広い意味での構造で、この構造は事実上掌握しきれない数や複雑さをもっていたり(ダイバーシティ)、変転したりする(ダイバーシティ)と考えた方が一般性を持つ対象です。
氷山の一角は静止して固定しているようにしばしば見えますが、そう見えるのもその時の構造の何らかの働きの所以ですが、一方でたとえ氷山の一角がスタティスティックに見えても構造は流転している場合もありますし、また氷山の一角のスタティスティシティが構造の何らかの働きの故に、我々の意識の上でついには崩壊してしまうこともあると考えます。

少し別の点からこの問題を考えて見ます。
まず、現代思想では物事に対する見方というのはいくらでもありうるという考え方をします。
どんな物事でも数限りない多様な見方、考え方が可能であるというのは現代思想におけるもっとも重要で実用的な考え方の一つです。
定理や法則のようなものかもしれません。
見方のポイントや考え方のフレームによっていろいろな結論が導き出されますが、基本的にはそれぞれの結論は独立に扱うべきものです。
結果として多様な情報が導き出されます。
例えばある目的にそれらの情報を用いる場合、いわゆる意思決定学的に情報を用いる場合、雑多で時に合い矛盾した情報を処理し意志決定を導きます。

ここで問題なのは人間のメモリーには限界があるということです。
複数並列処理もある程度は可能かもしれませんが限界はあるでしょうし、タイムシェアリングもある程度可能かもしれませんが、オペレーティングの能力にもやはり限界があると考えられます。
大まかに言って人間は言葉と同じ線状性の思考の世界に生きており、しかも物事/対象にたいする考え方というのは、数え切れずあるので直列に次々の考えていかなければいけません。
しかも前の思考により全体の構造に変化が生じるので、考えているうちにいろいろな周辺の状況に変化が生じ思考に影響を与えます。
思考と思考対象は本質的に干渉しあいます。
多様なフレームワークによる複対立的対象把握、というのは現代主義のスタンスですが、そのような姿勢で日々精神活動を行う際には以上の様な、動き、流転、変化をもったダイナミックな営みになります。

大まかに言って、歴史上の思想を眺めていると、静止と流転の問題はいろんなところで現れているようにも見えますが、現代思想においてもっともはっきり問題の焦点が炙り出されているようでもあります。

2009/11/23

現代思想の意義

現代思想の最大に近いような意義として近代思想を相対化したことがあげられます。
相対化の方法として近代思想の前提にあるものとは違う認識や存在のモデルを提出しました。
これにより近代主義以外のやり方の認識や存在や実在についてのとらえ方があるとは創造すらできないでいた状態から、それとは別であり、さらに近代主義より包括的であり、さらにいろいろなことをよりうまく説明できるようなモデルを提出することで、世界に近代主義的に考える以外の考え方が存在するということを示しました。
もちろん現代思想で提示されたモデル以外のモデルもあってもおかしくありません。
大切なのはそれ以外にはないと思われていたものが、それ以外にも有り得るということを示したことです。
近代主義の認識や存在や実体についての考え方の前提も、現代主義の認識論的モデルや存在論のモデルにせよ、全てモデルレベル、仮説レベルの意味しかありません。
しかし近代思想の時代には近代主義以外の考え方しか存在しなかったため(宗教やオカルトやそういうものはとりあえず除く)、人々はそう考えるしかなく、どこかおかしいと思っていても、それに対抗する考え方、反論する言い方を持っていませんでした。
現代思想が、近代主義の時代にインプリンティングされていたデフォルトの前提以外の別のモデルを提供してくれたお陰で、人々はオプションとして現代思想のモデルを用いることができるようになりました。
可能なら、さらに別のモデルや仮説を自分で作ることも可能です。
近代思想の前提みたいなものは現代の目から見ればone of themのものに過ぎず、他にいくらでも考え方があり、しかもそっちの方が現実をよりよく説明する、そういうモデルを導入し近代主義を相対化したのが現代思想の役割です。