月別: 2022年3月

2022/03/31

ニーチェとニーチェから学ぶ1番やさしい現代哲学入門

はじめに

現代哲学とは構造主義とポスト構造主義からできていますが、それだけでは見通しがわるいのでもう一つ素朴実在論という考え方を加えて3つの理論からできています。
この中で構造主義(厳密には構造主義による実在論や存在論)と素朴実在論は全く逆の考え方をします。

構造主義と言う考え方はないものの素朴実在論と全く逆の考え方があるということを初めて明らかにした哲学者がフリードリヒ・ニーチェです。
これは天才による革命的な考え方で、これによりニーチェを現代哲学の創始者と考えることもあります。

構造主義を理解しなくても現代哲学が何をなし得たのかをニーチェの思想を通して堪能しましょう。


第1章 現代哲学の構図

構造主義は一つの方法に過ぎません。

構造主義自体には内容がありません。
現代哲学の2大要素、あるいは3大要素に構造主義を上げたのは正確には構造主義自体ではなく構造主義による存在論と認識論です。
存在論と認識論が西洋哲学の主柱ですので併せて構造主義的哲学と呼びましょう。

近代以前の哲学は実在論が強い力を持っていました。
理由の一つは一神教です。
他のものはともかくとりあえず神は実在しないと困るからです。

理由の別のものはそれが大人の自然な感覚に合っているからです。
その他も色々な理由が考えられますが、「事物と言うのはどんな形であれ実際に存在する、事物にリアリティを感じるのは事物が実在しているからである」と考えられるのが素朴実在論で常識です。

意識的か無意識的かに関わらず暗黙の前提と考えて近代までの哲学に対する影響を保持し続けてきました。
この場合は事物の存在が一次的で、リアリティの感覚は実在から二次的に生じるものに過ぎません。

ここから事物が実在しなければリアリティもないと考えるのは論理学的には正しくありませんが、論理学的な健全性や妥当性はともかくこれも同じく常識のように考えられていました。

ちなみに論理学を正しく踏まえて推論すると「事物が実在すればリアリティがある」が真であるならば、「事物が実在しないならばリアリティがある」も「事物が実在しないならばリアリティがない」もどちらも真として結論でき両方とも正しい推論になります。

ニーチェはこの伝統的な見方と真逆の考え方を初めて示しました。
それは「リアリティ(と信じたいと思う感情)があるから事物が存在する」と人間は無意識に考えてしまっている、というものです。

因みにこのかっこの中の『信じたいと思う感情』がニーチェ哲学の別の点での革命的な独創性になります。

まず1点目を見るとニーチェにおいては「リアリティがある」ということから「事物が実在する」ということは論理的に妥当ではない、はっきり言えば間違いになります。
リアリティがあっても事物が実在しない可能性は常にありその可能性は排除できません。排除できるのであれば何か特別な理由や前提がある場合だけです。

なぜ人間はリアリティを感じると当然のように疑いもなく「事物の実在」を結論してしまうのか?
この様に問題提起したこと自体がニーチェの革新性であり最も重要な業績と言えます。

これに対するニーチェの答えの1つ目は人々には「リアリティがあるからにはそのもととなる事物の実在があるのは当然じゃないか」という素朴な実在やリアリティに対する通念がる、ということです。
これは素朴実在論そのものです。

これに加えてニーチェは哲学の存在論と認識論に革新的な創造を行いました。
それは構造主義を用いて現代哲学に導入されます。

このニーチェの哲学に果たしたもう一つの革命的業績は哲学に理性や知性だけでなく精神力動を導入したことです。
精神力動は精神の変化であり精神に変化をもたらす情意や無意識のようなものを含みます。

従来の哲学の存在論と認識論はカントの理性、感性、悟性のように知情意のうち知性に片重していました。これは「ルサンチマン」「力への意志」「権力への意志」などと呼ばれます。

人間は自分の信じたいものを信じる、自分に都合のいいものを信じるとニーチェは言いました。

なぜ人間は事物が実在すると思っているのか?

ニーチェの解答は「人間が事物の実在を信じたいから」です。
人間は自分が信じたいもの、信じると都合がいいものを実在すると認識するように意識を捏造するのです。

第2章 神とキリスト教とニヒリズム

実在するかどうかのテーマとして最たるものは神でしょう。

聖書を読むと神を見た人が少数、神の声を聞いた人が何人か登場します。
彼らは神を実在感、実体感、臨在感を持って感じています。
神の存在をリアルに感じたのですから彼らは「神は存在する」と信じる根拠を持っており彼らが神の存在を信じることは自然と言えるかもしれません。

しかし神の存在を感じたことがない多くの人にとって神の存在を信じる理由は何でしょう。
ニーチェによるとこれは「神の存在を信じたいから」「神が存在した方が都合がいいから」といった理由である場合があります。

これ以外にも色々な理由があるかもしれませんが上記の場合には主観的に信じている状態ですが、客観性がないので人に神の存在を信じる様にさせるのは簡単でない場合があるでしょう。
しかし神の存在をリアルに感じた本人には神の存在を信じる人に理解してもらえるだけの理由があります。

今度はキリスト教を考えてみましょう。

キリスト教というのは元々はラビユダヤ教と言うバビロン捕囚後にエズラ、ネヘミヤの宗教改革後に成立したいわゆるファリサイ派の分派と考えてよいですが実は教典の設立年代など考えると実は現代に連なるユダヤ教より古くに成立した宗教です。

ローマ帝国期にユダヤ教はローマ帝国に急速に広まりました。
なぜキリスト教が広まり西洋世界全体がキリスト教化するまでに至ったのか?

これに対するニーチェの答えが「多くの人がキリスト教を信じたかったから」「多くの人がキリスト教を信じたほうが都合がよかったから」であるとニーチェは解説します。
ユダヤ教の分派ですので初期キリスト教はユダヤ人の間で広まり、その後非ユダヤ人にも広まります。
非ユダヤ人のキリスト教徒になった人々は社会的弱者であったともいわれています。

キリスト教は社会的弱者に受けが良い宗教です。
社会的強者に対する社会的弱者の負の感情、恨み怒り、嫉妬などルサンチマンを正当化する教義があったことにより社会的弱者がキリスト教を真実であると信じたいと思い信じる様になったというのがニーチェの解釈です。

更に社会的弱者であったキリスト教徒ユダヤ人は政治・軍事・社会的強者であり勝ち目のなかったローマ人に対しキリスト教と言う宗教を使って物質的には負けても精神的に逆支配を行う様精神的に動かされたと考えるのがニーチェの仮説です。

この神とキリスト教に対するニーチェの考察をまとめると人は神が存在して欲しかったからいつの間にか神の実在を信じる様になっただけですし、人はキリスト教が正しい方が都合がよかったからキリスト教を信じる様になっただけです。
別に神が実在するという客観的証拠があったためでもなければ、聖書が正しいと言える根拠があったためでもありません。

人間の精神は客観的な根拠に基づかず主観的な精神力動により物事の実在を信じたり、時にはリアリティを感じたりする仕組みを持っているのです。

ニーチェは「神は死んだ」といいました。
また「自分はヨーロッパで初めてのニヒリストである」と言いました。
ワーグナーにはまったロマンティックな言い回しの好きなニーチェ独特の印象的な表現です。

ニーチェは神は実在しなかったとは言っていません。
敢えて「死んだ」と言ったのです。
逆に言うと死ぬまでは生きていたということです。

キリストの復活になぞらえての部分もあるでしょうが、ニーチェの思想の独創性を主張するためにこういう言い方をしたと思われます。

また「ニヒリズム」は虚無主義者などと訳されるのかもしれませんが、ヨーロッパで初めて神の実在に客観的根拠がないこと、神の実在やリアリティを感じたり信じ込むような精神力動が人間の中にあり、神に限らず何かの実在というものは存在しないかもしれないということを初めて自覚した人間が自分であることを主張しています。

これはニーチェの自分に対する過大評価や自我肥大ではなく客観的に見てもこの評価に値する、あるいはこの自己評価以上の業績を倫理思想史に残したと言って間違いないでしょう。

ニーチェはヨーロッパで初めて世界があらゆるものの実在がないかもしれない場所であるかもしれないことと、人間があらゆる事物の実在なき世界で生きなければいけない存在であるかもしれないということに気付いた人間です。
彼はその様な世界をさしてカオスと呼びます。

そして更にニーチェは哲学だけではなく道徳的にもやはり革命的な価値転換を行いました。
神が実在せず、キリスト教の正しさが根拠を失った世界はカオスでありその中で生きることは非常にネガティブなことに当時は見えていたかもしれません。

しかしだからこそ人間はルサンチマンと言う負の感情により作られた何かの実在や正しさの押し付けに縛られず、何かの実在により強制されることのないカオスでありながら換言すれば自由な世界の中で自己の純粋な欲求や意志、「力への意志」や「権力への意志」に従ってローマ人の様に現状をポジティブに受け取って自己肯定的に自分の力を発揮し生きることができるという「ポジティブなニヒリズム」と言う考え方を創造します。

実在や正しさのないカオスの世界に生きることはネガティブなことではなくニヒリズムであることはネガティブなことではない、神の実在やキリスト教の正しさがないことはネガティブなニヒリズムの様に思われるかもしれないがそうではなく、ポジティブなニヒリズムのメンタリティをもって生きることができるという生き方のヴィジョンを示します。


第3章 ニーチェと現代哲学の対比

ニーチェの思想は大枠は現代思想そのものだと言えます。
足りないものと言えば、実在という感覚が作られるに至るプロセスを現代哲学の方が構造主義と言う方法を使ってより精巧に示していることくらいです。

ですから現代哲学を学ぶ手順としてはまずは準備と予備知識としてニーチェを学ぶのは大変良い方法だと思われます。

現代哲学は色々な学び方があります。
現代哲学の中核の3本柱の1つは構造主義的存在論/認識論ですが、哲学を構造主義化する手法は時に難解です。

構造主義は簡単に理解できる人もいるかもしれませんが、普通習得に努力を要すると思われます。
何事も難解な部分から学ぶ必要はないかもしれませんし、見方によっては難解な部分は些事として後回しにできるような視点を探すのは何を学ぶ際にも試みて損はない方法かもしれません。


おわりに

過去の事を学ぶということはある意味その時代の文脈把握(コンテクスチュアルリーズニング)、言語、書誌文献、言葉、言説、考古学資料、その他の資料を読み解くということです。

それは複雑な線と点からできた無限のマトリックスとノッチ(結節)を称揚するようなもので、あたかも終わることのない旅、形が変わる迷宮を永久に彷徨い続ける事に似ているかもしれません。

何かの意味のまとまりや発見したと思ってもそれはすぐに形を変えてしまうかもしれませんが、そうした中でも何らかの構造的断層、不連続性を見出そうというのが現代思想家ミシェル・フーコーのエピステーメーという方法論でした。

ニーチェは実在が一次、リアリティや信心が二次という高硬度な鉱物の結晶に劈開を見出し割って見せた天才です。
ニーチェは西洋哲学の正当な文脈上にいますから哲学史から通史的に勉強して近代哲学から現代哲学の変化を理解するには最適です。

現代哲学において構造主義(形式主義)という方法論、論理や証明、統語論を整備したのが数学であれば、現代哲学の意味やモデルを作ったのはニーチェと言えます。
このニーチェ論では理数系の言葉を一切使っていないので文が読める通常の読解力が備わっていれば文系の人でも簡単に理解できます。

一歩進んで構造主語を勉強したい人でもニーチェのリアリティや信じたい気持ちから人間の精神は実在を作り上げる仕組みを持っているという考え方を発展させれば、すぐに存在論や認識論の構造主義化へ進めるでしょう。
時に学校の学習進度や教科選択の関係や教師の興味や能力の関係で哲学は学んでも例えばカントあたりで終わってしまい哲学を勘違いしいて理解してしまうことも多い様に思います。

社会科の全てを学ぶのは困難ですが、倫理思想は長く生きれば生きるほど、いろいろな経験をすればするほど学んだことが我々の中で輝きを増していきます。
我々も人類の一部ですから先人の思想や伝統を学ぶことはよりよく生きることにつながるでしょう。

2022/03/03

やさしい構造主義の形式主義入門
構造主義と形式主義の違いが一目で分かります。

はじめに

「形式主義」というといかにもつまらなさそうです。
形式主義の説明や解説をしても誰も読んでくれないのではないでしょうか。
それでも説明する事にします。

「形式主義」は現代哲学の要諦です。
形式主義が成立しえるからこそ現代哲学があり得ます。
現代哲学では構造主義という考え方が重要です。

現代的な構造主義のルーツは言語学のソシュールとか言われますが実際は数学です。

数学では構造主義という言葉は使わず、形式主義、論理主義、公理主義、直感主義などの言葉が使われました。
最後の直感主義は形式主義っぽくないと思われるかもしれませんが背理法や排中律をつかわないだけでやはり形式主義です。

上記の数学の考え方も構造主義そのものと言えますが、数学の場合は「構造主義」という言葉を数学内部では使わない傾向があります。

形式の逆の対義語を調べてみます。
内容、実質が形式の対義語になるようです。

「実」この言葉は倫理、思想、哲学などで頻用されます。
実在、実体、実存、実感、現実、確実、事実、真実、実証、実質、実像、実利、誠実、実直などです。

特に実在論(realism)や実体(entity)は哲学の最大の主題です。

「実」の対義語として「空」「無常無我」「シミュラークル」「シミュレーション」などをかつて挙げたことがあります。
しかし今思えば「実」の対義語として「構造」や「形式」は有力候補となるかもしれません。
特に形式の反対が実質や内容とすると「形式」は「実」を対照させるのに優れた概念となり得ます。

形式、実質、内容とくれば、ありアリストテレスの質料と形相、あるいは現実態と可能態なども思い浮かびますし、プラトンのイデア論も思い浮かびます。

形而上学や形而下学も形という字が使われます。

中世には実在論と唯名論の論争が行われました。
この場合「実」の対は「名」です。
名は名称、名目、名前と言っていいでしょう。

こうなると象徴や文字、記号と関係してきます。
「形式」は実は強力な概念であり「形式主義」抜きに現代哲学は存在しえません。
数学でいう形式主義は現代哲学でいう構造主義であり構造主義はポスト構造主義とならんで現代哲学を作る2大要素の1つです。

「形式」の考察を行いましょう。

 

第1章 形式と構造

「構造」という言葉は分かるようで分かりにくい言葉です。
一方「形式」という言葉は分かりやすく感じますが例えば「形式的」というと一般にはやや軽薄な感じを持たれることがあるようです。
この「形式」が軽んじられる理由は対義語である「実質」や「内容」こそ重要であると考えられる風潮があるためです。

我々は物事は「形式」と「実質」「内容」の2つから作られると考えることがあります。

数学を例にとりましょう。

古典幾何学で実質や内容と言えるものは点や線のようなものだったり、原理や定理だったりします。
「形式」は原理から定理に至る証明を作る要素の一部くらいの認識だったでしょう。
「実質」や「内容」を出発点にして脇役や黒子の様に形式が介在し定理と言う次なる「実質」や「内容」がうまれます。
「証明」自体も実質や内容の要素もあれば形式の要素もあるのかもしれませんが古い時代には形式というものは軽視されていましたので浅い探求しかされていたかったようです。

ところがガウスかボヤイ親子という人たちが古典幾何学を動揺させるような発見をしました。

幾何学の原理と言うのは点と線の要素の定義と「部分は全体より小さい」みたいな当たり前にも感じさせる公理と幾何学で許される手続きである「点を中心とした園を書くことができる」とかの公準から作られていました。

それらの幾何学の実質であり内容である原理を組み立てて証明を行い、定理と言う新たな実質や内容を導く学問を幾何学と呼び、全ての学問のお手本とされていました。

しかしガウスなどが公準の1つとされていた「平行線公準」と呼ばれるものが自明な公準でないことを発見します。

自明な公準でないということは別の公準に置き換えられるということで、例えばそれを別の公準に置き換えたものの1つをリーマン幾何学と言います。

誰もが認めた学問のお手本が間違えていたのが発見された上に数学の様々な領域が発展することで「実質」「内容」と「形式」の違いが良く分からなくなってきます。

古典力学では点は「面積のないもの」、線は「幅のないもの」と定義されていましたが、これは意味が分からないという主張が受け入れられるようになりました。

そこで意味が分からない定義しかできないのであれば古典的な「定義」の概念を用いて数学の要素を記述するのをやめてしまおうという考え方が生じます。

古典的な定義とは実質や内容を短い文や簡潔な言葉で表すことです。

あたかも辞書や事典のような考え方です。

昔の人はその様なことができると考えたので辞書や辞典を作ったのでしょうが、数学では要素を辞書や辞典のやり方で表現して実質や内容を理解できるという考え方を放棄しました。

では要素をどのように表現するかと言うと要素を他の全ての、あるいはいくつかの要素との関係を記述することで表現するというものです。

それに加えて要素を古典的な意味で「定義する」という考え方を捨てました。

こうして残るのは古典的な定義をなくした無定義概念、無定義語と言われるものであり、無定義概念、無定義語がその学問体系の中に存在し得るのは古典的が定義ではなく現代的な定義、やや言い方を代えると他の要素との関係性の記述を通してのみです。

そして要素というものはあまねく無定義語、無定義概念です。
現代的な数学の理論体系、あるいは要素や個というものは要素や体系全体が存在して初めて存在しえますし、それを意味論的に解釈すれば意味を持ち得ます。
関係性の記述は言葉、あるいは記号によります。

要素がその様なものとして公理や公準は実質や内容と言えるでしょうか。

要素とは多少の誤解を恐れずに言えば名詞です。

名詞同士の関係を記述するのが公理で、要素を使って行える手続きを記載したものが公準です。
要素という実質や内容のない世界では要素同士の関係も要素を使って行うことも全て現実的な意味はなくなります。

実質や内容がないものでいくら文章を作っても言葉遊びでしかありません。
言語ゲームです。

現実的な意味はなくなりますが形式的な記号列だけが生じます。
この記号列の形式的な操作で証明というものは行われます。
ここに至ると要素や原理と言ったものからなっていた内容や実質が消滅し、記号列の関係性と言う形式だけがのこります。

この世界には形式しかなく、内容や実質は存在しないのです。

内容や実質をもし欲するのであれば、形式的記号列からモデルを作ったり、意味付けしてより人間にとって分かりやすい様に解釈というものを行います。
形式から実質や内容を好むやり方で構成すればいいのです。

ここにおいて大きな考え方の転換、転倒が生じます。
内容や実質があるから形式があるのではなく、形式しかなく内容や実質というものは好みに応じて形式から作るもの、ということになります。
実質や内容に対する形式の優位です。

この考え方を「形式主義」と言います。

言語学ではソシュールと言う人が「シニフィエに対するシニフィアンの優位」という考え方を作りました。
その考え方の数学版です。

ここで「形式」という言葉を「構造」と言い換えてみましょう。
「内容」や「実質」は「実在」や「実体」と言い換えてみましょう。

すると「「実在」や「実体」の優位が「構造」の優位に変わった」と表現することができます。

つまり「構造」が最初(プライマリー、一次的)にあり、「実在」や「実体」は「構造」にともなって生まれる二次的なものである、ということになります。
この考え方を構造主義と言います。

「形式主義」と「構造主義」は同じものですが数学では「形式主義」、その他の分野では「構造主義」と呼ばれます。

なぜ数学でだけ構造主義が形式主義と呼ばれているのか、あるいはなぜ他の分野で構造主義が形式主義と呼ばれないのかは分かりません。

1つの考え方は数学者にとっては数学的要素が実際に存在しようがしまいがそもそも初めから問題ではなかったのではないかというものです。

実証が存在しない学問は数学だけです。
証明や証明の検証だけで学問が完結します。

他の分野は実験系あるいは観測系と理論系に分かれていますが数学は理論系だけです。
数学の王者ガウスが「数学は科学の女王」と言った所以でしょう。

 

第2章 形式主義の発展

文系の学問の人は構造主義という言葉を好むようです。
理数系、科学、工学では形式主義と言う言葉を使うことが多いでしょう。

構造主義は意外に発展性がありません。
理解してしまえばそれで終わりとも言えます。

あとは思考に構造主義を応用するくらいです。

一方数学の形式主義は同じところからすごいものを生み出します。
情報と通信の科学技術と産業です。
つまりコンピュータもインターネットも形式主義からできています。

構造主義はポスト構造主義を生み、これにより西洋哲学を終わらせました。
反対に形式主義はデジタル産業を創始しこの世界を日々劇的に変化させています。

「コンピュータは自我を生じるか」という設問がありますが、これは多分イエスです。

構造主義では自我の成立を説明する理論があります。
むしろ逆で自我の成立を説明するために構造主義が哲学に取り入れられたと言えます。
これを行ったのは精神医学者のジャック・ラカンでした。

つまりコンピュータに自我を持たせる理論は既にあります。
一方で「コンピュータは感情を持つか」という設問があるとします。
この答えは分かりません。

数学でも現代哲学でも感情は正面からは扱っていないからです。

これは意志も同じです。

古い精神科の精神の分類に知情意を言うものがありますが形式主義は特に、構造主義もエスという曖昧な形でしか情意を扱っていません。

そういう意味では人類のある時代は確かに知性や理性片重だったかもしれません。

 

おわりに

「形式主義」の説明を行いました。

「構造主義」と同じもの、あるいは異なるものでも構造主義を理解させてくれるものであることが分かったと思います。

現代思想のプロトタイプであり先駆者は現代数学です。

現代数学確立後、現代数学を哲学にそのまま導入すれば西洋哲学を有終の美とともに終わらせることができたと思いますが、それは実現しませんでした。

多分数学者にその興味がなかったが、それをやろうとした数学者に能力が足りなかったためでしょう。

数学の「形式主義」という言葉を「構造主義」に代えたり、他の分野の「構造主義」を「形式主義」に代えたりしてどちらかに統一すれば分かりやすいと思うのですが、なかなかそうはならないようです。

おそらく一般やアカデミズムの無理解も関係していると思います。

形式主義はフォルマリズム(formalism)ともいい、そういえば言語学から影響をうけたロシアン・フォルマリズムというものがあります。

これはレヴィストロースに影響を与え20世紀の構造主義ブームの火付け役となりました。

形式主義は構造主義と同じ構造(形式?)をしていて構造主義を理解する方法の1つであり構造主義を理解すれば現代哲学を理解したも同然なので理解すると得です。