月別: 2009年10月

2009/10/26

ベルクソン的問題

現代思想を理解する上でポイントとなるのは、物理的な物質として認識されるものについてと観念的な生成物である抽象的概念や意味などについては、認識について考える際に分けて考えた方がいいと思われる点です。
前者は認識生成の際に知覚による面が強く、後者は必ずしもそうではないというか知覚できないようなものだからです。
また物と事の違いでもあります。
この2つをグラディエントに考えた哲学者がベルクソンで彼の見方は非常に有効に思えます。
彼はこの二つを弛緩と緊張、純粋近くと純粋持続の2つの極からなるスペクトラムとしてとらえました。
物質の極は知覚と反復に重点をおいているため、再現性が高いとみなされ、近代思想では客観的対象認識といわれ、確実性の有力な源泉とみなされていました。
精神、観念や概念などの抽象的認識物についてはもちろんその生成は知覚性の記憶によっている部分もありますが、むしろ想像による生成物です。
これらを明確に分けるのではなく、スペクトラムとみなします。
物については事よりも知覚可能と反復が容易で一致性と再現性が高いと思われたため、同一性形成を非常に行いやすいものであるため、認識生成物全体の中ではアンカーみたいにみなされる傾向があります。

彼の見方自体は後にポスト構造主義に引き継がれます。
フランスの知的エリートや日本の知的エリートにも影響を与えていると考えられるため、小林秀雄などの日本思想史における独自性などはベルクソンの影響などもあるのかもしれません。

ベルクソンのイマージュは結局認識生成機構についての論であって、それは後期の現代思想と同じ考え方でしょうが、ベルクソンと現代思想ではそれについての捉え方が逆のようです。
ベルクソンはそのように認識生成する機構を肯定的に生かそうとしているように感じられますが、現代思想ではネガティブというかそのように生成されたものに支配されたりだまされたりしなようにしようという観点から同じ問題を語っているようです。
おそらくこれは両者の間を隔たる歴史があったからだと考えられます。
第2次世界大戦や民族大虐殺や共産主義、その他大小の近代主義のサブディヴィジョンのイデオロギーから生まれた悲劇を経験した後にその反省に基いて生まれたのが現代主義だからと考えられます。

現代主義は前時代の近代主義の反省に立ってできたという後ろ向きの面もありますが、逆の面もあります。
現代主義は生産性の上昇による豊かさに親和性があり、テクノロジーの進歩によるグローバル化にも親近性があり(ITと現代思想はなぜか親和性が高い)、人類の知的水準の向上にも相性がよいように見えます。
現代社会自体が総じて現代主義と親和性が高いと思われます。

2009/10/26

山本七平とポストモダン

日本で現代思想を体現する人物として山本七平氏があげられます。
氏は日本にフランス現代思想が知られる前から当時の日本で自力で現代思想を切り開いていたように見えます。
彼は当時の日本で空気や常識、当たり前と言われるものについて考え、批判し、それと対抗する方法を提案しました。
空気というのはフランス現代思想ではボードリヤールがシュミラークルやシミュレーションといったものと大体一緒です。
昭和の日本はフィロソファーではなくソフィスト的であり、シゾイディックではなくパロノイディックでした。
言葉に支配される傾向が強く、右脳的に構造的に思考することができない傾向があったようです。

氏は空気に対抗して醸成された空気に水を差す具体的な方法を提案しました。
これは非常に有効な方法です。
一つは複対立的対象把握という方法です。
何か物事を考える際、いろいろな方向や面から考えるということです。
次に何かを考える際に必ず対立項を立てるということです。
近代的思考ではとかくよいとかわるいとか善悪とか対照に価値付けを行いがちですが、何かがよいと思われるときでも同時にそれの悪い面も考えたり、逆に何かが悪く思われても必ずそれの悪い面も考えるという方法です。
物事には必ずよい面悪い面がありコインの裏表のようにそれらは切り離せないという風に考えます。
(ちなみに現代思想ではこのような価値付け自体を超越、解体することができ、さらに必要に応じて価値感をラベル付けします。価値観に支配されずにコントロールし必要に応じて使いこなします。それを行うために氏の提案したこの方法は大変有効です)
これらは複眼的思考や相対主義に通じる方法です。

上記の二つを組み合わせると、いろんなベクトルをもって次元を多くして物事を捉え、かつあるパラメーターが大きいとか小さいとかマイナスであってもそれに対して単純な価値付けを行わずいい面も悪い面も見るという見方になります。

現代思想は認識とか意味とかまた山本七平氏が空気と呼んだものに支配されることを批判します。
しかし認識とか意味とか空気とかシュミラークルでさえも我々が統合失調症のようにならずに生きていくのに必要なものです。
ラカン的に言うと想像的関係を形成できないのは意味の喪失をもたらし、それはいろいろ問題がある状態です。
そこで現代思想ではデリダのデコンストラクション(脱構築)とか戯れとか、ドゥルーズ=ガタリのエンコード、デコードなどの考え方でそれに対応しますが、氏が挙げた以上の方法は具体的な方法として実用できます。
というかデリダもドゥルーズもおそらく氏と同じ方法を使って対象から支配されないようにしていたことがあるはずだと思います。

氏が挙げたまた別の方法は個人主義と自由主義でした。
これは結局現代思想の結論であり現代主義のテーゼともいうべきもので、現代主義者の行き着く地点です。
現代思想は結局これに到達し現代主義に至ります。
デリダは民主制の擁護と集団主義(民族主義、共産、社会主義、ファシズムなどを含む)に対しては肯定しませんでした。
ドゥルーズ=ガタリはノマド、脱領域化、ミュルテプリシテなどやはり、多様性と他者性、差異の肯定と自由の思想に到達します。
これらは現代思想の結論であり現代主義の原理です。
現代主義は、自由、個人主義、多様性、他者性、差異、オープンネス、物事を価値付けしないこと、何かを支配せず支配されないこと、自覚的であること、謙虚であることを原理とします。
それが現代思想の到達点から見える地平であり、自然な結論となります。

2009/10/24

内部構造のモデル

現代思想では、認識がどのように生成されるのかの仕組みが重要です。
近代思想でもそれを問題にします。
もっとも典型的な見方はカントのものです。
近代的な見方では理性や悟性、感性などを用いて認識生成の内部モデルを説明するようなカントのようなやり方になる傾向があります。
内部構造のモデルは精神分析などがいろいろ提供しており、フロイトの局在論モデル、構造論モデル、ジャネの解離モデル、ユングのような鋳型モデルなどが典型的です。
現代思想の内部モデルはラカンに代表され、デリダにもドゥルーズ=ガタリも同じ見方です。
それは記号論や構造主義の見方が導入されたモデルです。
ラカンモデルでフロイトやジャネのモデルを含みつつ、記号論や構造主義の考え方を導入している統一理論であり、それぞれの理論が拡張されたものです。
拡張である意味は、たとえばラカンモデルでフロイトのモデルは議論できますが、フロイトのモデルではラカンのモデルは手に届かない部分が出てくるということです。

2009/10/15

近代思想と現代思想の対蹠性

現代思想ではマトリックスのように物事を見ます。
マトリックスの網の目の結節点が実体や実在のように見えるというようなイメージです。
近代思想では実在性や実体性のある事物がまず存在してそれが関係性、つながりを作るという見方で関係性や構造は二次的なものであるという風にイメージされます。

近代思想では、イデア、意味や概念、実体や実在などの抽象度、純度が高いものがまず最初にあって、現実の事情や現実的な関係付けなどによって雑味をもって不純、不完全なものに見えてしまい本来性が覆い隠されてしまっているような見方をします。

現代思想では、まず関係性、差異、ディスクールのマトリックスやエピステーメ、などがあり、これらは非常に具象的で雑然としてみえるものですが、そこから抽象が行われ、本来的にあるはずの具象性、関係性、構造やマトリックスが切り捨てられ、また覆い隠され、あたかも純粋なイデアや意味や概念のみが原初にあったかのように見えるという捕らえ方をします。

これは全く真逆の見方です。
差異の反復が差延を生み現前して見える、というのが現代思想の基本的、中心的なものの見方です。
現前という同一性形成が行われた後、差異があるのは当たり前、反復できるのも当たり前というのが近代思想の基本的な固定観念です。

2009/10/15

現代思想の実用性

現代思想の一番分かりやすい実用性は、精神医学の応用と人間の心理の理解に役立つことだと思います。
人の心や行動を考える際に、現代思想的な精神分析の考え方などを知っておくととても役に立ちます。
ラカンやドゥルーズなどが好んで使ったと思われるシゾイド-パラノイド軸で考える考え方、スキゾやパラノといって日本の80年代のニューアカデミズムの時代に流行ったようなものの見方です。