月別: 2022年7月

2022/07/28

やさしい哲学の象徴と記号論入門 存在から創造の時代へ

はじめに

我々は変わらないものを想定する傾向があるのかもしれません。
変わらないものとして想定するものの候補の1つが実在論における実体です。

もう1つが名前やことばなどの広い意味での記号です。
これは文字でも記録あるいは記憶された音声言語でも構いません。
自分の中で変わらないし、人にとっても変わらなければ不変であり普遍的とも言えるでしょう。

正しいとか確かだとか言う言葉は何をもって正しいとするか確かだとするかの定義によって違いますが不変で普遍なものはその候補になるかもしれません。

象徴化や記号化についてまとめました。

第1章 こころの想像と創造

私たちの頭の中はもやもやしている時もありますがはっきりしてくることもあります。
はっきりと意識してとらえられた何かに対して我々は創造を働かせます。

1つ目の創造は実体の想定です。
はっきり意識してとらえた何かが実体として存在すると考えます。
これを実在論と言います。

2つ目の想像は象徴化です。
はっきり意識してとらえた何かを象徴として固定化させようとします。
象徴を表現する際に名前や言葉などの記号、図象などを用いる場合があります。

実体と象徴は我々の想像が造るものですが方向性は違います。
それぞれ独立したものと一旦は見てもいいのですが、現実には混交してとらえられる場合が多いようです。

人間は人に教えてもらうのでなく自分自身で思いついた時により強いインパクトを受ける傾向があります。
そのため往々として人に聞いていたことを忘れてしまっていて自分で思いついたつもりになってしまったり、人の話を聞いている途中で話そうとしている内容を理解してしまい「んだ、んだ」と言って最初から知っていたような態度ばかり取るのが癖になってしまったりしてトラブルになることさえあります。

閃くとかインスピレーションとか思いつくとか思い出すとか能動的に自分の中からアイデアが湧き出た時にはその考えに強く惹きつけられてしまいがちです。

実体の想像についてはこれが典型的に当てはまって実体感、すなわち強くリアリティを感じることになります。

象徴は象徴性や象徴表現、記号や図象については人為的に自分で作ったという自覚があることが多いですが、象徴自体についてはカテゴライズや抽象化やその他のインスピレーションによって生起されることがあるため、やはり強い思い入れが入り実体感、リアリティさえ持つことがあるようです。

第2章 実体について

おそらくキリスト教の影響だと思われますが昔の西洋哲学では実体はあるものと考えられる傾向にありました。

その場合、実体と個物を分けて考える傾向がありました。
例えば人間で言えば個性を持った個々の人間が個物で、特別な個性のない完璧かつ理想的に典型的な人間像を持つ人間が実体と分けて考えます。

その上に、イデアのような完全なものとしての実体が上流にあって下流に不完全で個性のある個物があるという考え方とその逆に個物のように見えるものが実体であって実体と見えるものは人間がカテゴリー分け、類別することにより作られた二次的なものである2通りの考え方がありました。

現代の我々から見るとなぜそういう考え方をしなければいけないのか分かりませんが、心理学や脳科学、認知科学などが発展していない時代においては、神的、異界や異世界、現代的に言うと特殊な精神状態、あるいはオカルト的な考え方が普通に日常的な思惟であり学問的対象だったのでしょう。

例えば前者の考え方では人間には完全な人間像があって、現実の色々な個々の人間は個性のような特殊性があってどこか人間として完全ではない面を持っていると考えます。

後者の考え方では色々な違いを持った人間こそが実在していて、完全に典型的な人間像を持つ人間というものが色々な違いを持った人間と接する中で経験的に作られていくと考えます。

おそらく何かのインスピレーションに基づいた理想的な人間像が実体として存在して個々人の人間はその唯一の典型的な人間の何らかの繁栄に過ぎないのか、はたまた個物としての個々人の人間が実体であって、理想の人間像と言うのはそこから類推されるのか。
どちらにしても実体という考え方がどちらにもありますし、個々の人間や理想の人間と言う区別があってそれを結びつけるメカニズムについての仮説があるのが特徴です。

実体があると考えることを実在論と呼びましょう。
観念論は実在論ではないのではないか、という意見もありそうです。

そうかもしれません。
しかし多分観念論は実体を物質世界ではなく観念の中においたと考えた方がいいでしょう。
あるいは観念こそ実体、と考えたと思われます。

おそらく世界を物質の世界と観念の世界に分けて考える様になった時代の産物でしょう。

心理主義、とも言われますが形而上、形而下と分ける考え方は昔からありましたが、近代になって物質界以外を神的、異界や異世界、現代的に言うと特殊な精神状態、あるいはオカルト的なものから心、精神、脳などより生物学的なものに組み替えた結果かもしれません。

現代哲学では実体があるという考え方や実在論も特に否定しませんが、実体が存在しないという非実在論も理論やその両方を含んだ理論体系が造られています。
実体というものが実は実在しないものであったとしても人間は何かが実体であると感じたり、実体があるような感じを持っています。

実体でないけども実体のようなもの、実体であると思い込んでしまうようなもの、実体であって欲しいと願う心情が往々として生じます。
しかし実体ではないので実体と呼ぶわけにはいきません。

この本当は実体ではないけれども実体のように思えるものを表現する言葉を我々は日常語ではおそらく持っていません。

学問や思想の非日常的なタームではあるのかもしれませんが、それでもなかなか共通認識とされるような衆目が一致して賛同する言葉はないのではないでしょうか。

第3章 象徴について

象徴も記号も心理学的、あるいは精神的にははっきり意識してとらえられる想像であり表象であり認識です。
象徴を実体と見なす場合もあるかもしれませんが、基本的に別のものと捉えて下さい。

同じような意識的に認識される対象でも象徴は実体や実在とは違います。

まず象徴も何かを象徴化する場合も象徴自体を実体であるとは見なしません。
多くの場合に象徴により表されるものの代理や標識や名札のラベルのようなものと考えられています。

象徴により表そうとしているものが実体の場合も実体と思っているものの場合もそのどちらでもない場合もありますが、いずれにせよ象徴自体は実体とか事実とか真実とか本当の姿などとは違うというのが象徴です。

ですから何かを象徴する場合に様々な象徴化の方法があります。
名前を付ける、記号化、図象化、ジェスチャー、何でも構いません。
ここでは名前をつけること、あるいは記号化に絞って話を進めます。

記号化、名前を付けるということは実は大変重要な意味を持ちます。
名前や記号は不変なものの候補になるのです。
実体と記号は不変なものの候補になります。
実体から実在論が生まれ記号から記号論が生まれました。

中世神学の普遍論争では実在論と唯名論と言う学派が論争を行いました。
この場合実在論は実体を不変なものとして名(名前、記号)はそうではなく実体を象徴化してそれに名(名前、記号)をつけただけ立場であり、唯名論はただ名(名前、記号)だけが不変なものであり、実在論で実体と呼ぶものは不変ではなく名(名前、記号)から作られているという立場です。

記号は変わらず保存可能でそれが表すものもまた変化しないというのが唯名論の主張です。
これは現代哲学では重要な考え方です。

現代哲学の誕生や現代数学や言語学、文献学、書誌学、歴史学、テキスト論、文芸評論、文化人類学などの人文科学や時に社会科学の発想転換、発想の逆転によっているからです。
現代哲学や現代において、前の哲学、前の時代より頻繁に使われるようになった言葉は象徴や記号でしょう。

ソシュールという言語学者は言語を際の体系と呼び、レヴィ=ストロースは象徴の王国と言う本を出し、ジャックラカンは世界を象徴界、想像界、現実界に分けました。

デリダと言う哲学者は記号論ならぬ記号学という学問の創設を訴え、ウンベルト=エーコという記号学者は『薔薇の名前』というショーン・コネリー主演で映画化されたベストセラー小説を書いています。

実在論では実体の特徴からそれを表現するために象徴化が行われ、言語化、記号化されると考えます。
不変で確実なものから代理、代表、特徴、性質として言葉で表現されるようになります。

我々が何かに名前を付ける場合のことを考えてみましょう。

1つ目の方法はランダムにつけることです。
この場合a,b,cなどの記号でもいいですし1番、2番、3番などそっけない名前でいいでしょう。

2つ目は対象の特徴にちなんだ名前をつけること。
対象に本質というものがあるのならその本質にちなんだ名前でもいいですし、複数ある特徴のうちどれかだけを取り出してそれにちなんだ名前でもいいでしょう。

3つ目は連想でつけることです。
これは結果的に1つ目と2つ目の方法と重なることになるかもしれませんが、対象とは関係なく名付ける人の思い出や偶然の出来事を名前に結び付けたりなど、命名者側の事情だけで名付けられ、対象の本質や特徴を全く反映していない場合もあるかもしれません。

この様な名づけの場面を考えるとやはり言葉は本質でないと思いがちでしょう。
既に名前が付けられているものの意味や語源を考える場合も同じです。

ことばや記号は本質ではない、本質自体は直接表現できないので仕方なしに代理に象徴や言葉や記号を用いているのだ、という考え方を持ちがちになります。
しかし逆に考えると我々は実体や本質というものには直接接触できないという風にも考えることができるかもしれません。

直接我々がコンタクトできるのは何か直接コンタクトは出来ないが実在論者が実体や本質と呼ぶ何か良く分からないものではなく、実在論者が実体と考える何かから発せられていると思われる特徴や性質であり、もっと直接的にはそれを象徴化し、言葉にしたものです。

我々はそれが代理品で実体や本質を模る紛い物と見るかもしれません。
しかしこれも逆に見ればすべてが紛い物で紛い物である方が本質であって、むしろ真実や本質や実体と言われているものの方が本当は存在しない紛い物なのかもしれないという発想をここではしてみてください。

そもそも本当とか嘘とかいう発想自体が二項対立的な差異から作られているのかもしれません。
つまり人間が恣意的に作った産物に過ぎないかもしれません。

一旦この様に常識を壊しておきつつ、寧ろ不変で正しいのは文字や記号と考えてみましょう。

我々の頭の中はそもそももやもやしています。
たまに冴える時があると何かを思いついてそれを真実だと思い込む修正があります。

謙虚な人や知能が高い人であればそれは唯の思い付きに過ぎずそういう可能性もあるがそうでない可能性もあると冷静客観的に考えられるかもしれません。
しかしいわゆる今はやりの「行動力のあるバカ」な精神状態になってしまうと自分が思いついたことを真実と思い込みます。
その他状況や政治的事情もあり真実でないと思っていても真実と見なさなければいけない空気を受け入れる、あるいは受け入れてしまっている場合もあるでしょう。

そもそも象徴、何かの性質や特徴を表す記号の方が表されるものに先立つと考えてみましょう。
そうすると実体や本質と思われているものはその性質や特徴を示す、象徴や名前のラベル、説明や解説、注釈文などから作られているという風に考えることができます。
それはことば、文かもしれないし象徴的な図象やあるいは感覚的に、あるいは記憶によって想起されるものかもしれません。

象徴はことばや図象、あるいは感覚や記憶の断片、いろいろなものの連想を含めて沢山の形がありますが、記号や図象化されているものはごく一部です。
実体と思われているものは普通色々な特徴や性質を持っています。
色々な特徴や性質を持たないあるいは単一の特徴や性質だけを持つ、あるいは特徴や性質を全く持たない実体と見なされているものもあるかもしれません。

ただ我々の象徴や記号を用いたアプローチでは意識されるにせよ無意識的なものであるにせよ、実体のようなものの顕現は、沢山の性質や特徴に支えられていると考えることにします。
逆に言えばバラバラな性質や特徴を集めて単一の何かを作り上げたものを実体と見なします。

シニフィエ(サイン、記号化されたもの)に対するシニフィアン(サイン、記号化すること、記号自体)の優位という考え方を提示しましたがまさに「はじめに言葉があった」「言葉が受肉(インカネーション)した」ものが実体と呼ばれるものなわけです。

丹精込めて細部の積み重ねていったら魂が宿ったような感じでしょうか。

おわりに

まとめると人間の頭はもやもやしていますが、時にピーンときて何かを確かに分かった、納得したと思うことがあります。
その最右翼が実体概念でその最左翼が記号でしょう。

昔は実在論が強かったのですが人類の知識の進歩と核心によって記号論が支配的な世の中になってきました。
現代哲学があまり学ばれていないように見えても世の中は着々と現代哲学的になっている様に見えます。

現代哲学自体を色々なやり方で学問的に学ぶのもいいですが、世の中の雰囲気が現代哲学的になってきて、自然にそれが人々の頭の中に浸透したり、通念になったり、空気になっていくのは良いことと言えると思います。

一方勉強して身につけたのでなければ中途半端な理解になるので、ジレンマが生じたり葛藤や軋轢が生じることもあるかもしれません。

また世代や年代によって実在論と記号論の度合いが違ってギャップを生む面もあるでしょう。

どちらの考え方も理解して使いこなすのが一番いいですので、教育システムを整えて10代のうちに理解せずとも触れらるようにして生涯学習に移すのがいいのかもしれません。

現代哲学的な考え方を知らないとある場合に極端に効率が悪くなります。
特に大学などで数学を学ばなければいけない人も沢山いると思いますが、初等数学から高等数学の考え方が実在論と記号論のように真逆なので現代哲学を知っていればすんなり頭が切り替えられるかもしれませんが、切り替えられない場合には十分、あるいは納得して、あるいは充実感を持って数学を学べないはずです。

現代数学を広める会というのをやっていますので数の作り方を書こうと思って集合論や位相論を復習していますが改めて色々な教科書を読むと著者自体が現代数学基礎論の基本的な考え方、というより数理哲学を理解していない場合があるように感じられる時があります。

存在から創造へ、逆転の発想の時代に馴染んでいきましょう。

2022/07/21

やさしい哲学・仏教・数学を使った創造性の発揮のしかた

題名はややあとづけ

はじめに

現代哲学が誕生した背景を過去の歴史からみる背景には実在論の批判と存在論と認識論を完成させたことが見て取れます。
そうした現代哲学をマスターしたら過去の歴史ではなく未来を見て応用していきましょう。

ざっと現代哲学のマスターのメリットは3つあります。

  • 倫理道徳として確固とした個人主義が身につくこと。
  • 創造性が高まること。
  • 学習能力が高まること。

です。

大は小を兼ねるとは限らないかもしれませんが、現代哲学をマスターした方がしていないより良いと言えます。
現代哲学の活用法を解説します。

第1章 個人主義と集団主義

現代哲学の結論は世俗的な考え方や行動の仕方については何でもありというものです。
過激に言うと、自分のやりたいことをするためなら犯罪を犯してもいい、ということになります。

他の哲学や宗教であってもそういう結論になってもいいはずなのですが、古典的な倫理、思想、哲学、宗教は向社会的、集団主義的につくられています。
つまり集団の秩序を乱さないように作られています。

現代哲学ははっきりいうと集団と言う概念がありません。

一応現代哲学を操る自分と言う概念はありますが、それ以外のものについては特別視しないので他者がいるかどうかも前提にしていません。
また全ての世俗的な考え方について絶対化を否定しますので、「犯罪を犯すべき」も「犯罪を犯さないべき」もどちらの考え方も肯定も否定もしません。
世俗的な生活に対する強制も制限もないので自由にしたらいいのです。

しかし他者はいないと言っても実際にはいますし外部は環境として実際には感じます。
事物は現代哲学的に言えば理由は不明ながらも現前しますし、仏教的に言えば因縁は生起します。

我々は現象する世界に生きているわけです。
幸せに生きるにはある程度世界との折り合いをつける必要があります。

そこで必要なのはメタ認知と記憶と自覚と覚悟です。
これらがなければ自己同一性や役割同一性を持てませんし主観的にも客観的にもなれません。

我々は常に選択できますので時と場合によって個人主義的であったり集団主義的であったりスタンスを柔軟に変えるのが良いかもしれません。
ただ現代哲学を身につけたのであれば究極、あるいは極端な個人主義を持てるようになると良いでしょう。

集団主義は集団、他者に忖度や配慮する考え方です。
個人主義を究めると他者と無関係になります。
他者や集団がどうであるかを配慮せず、自分の思考や行動を決定します。

自分と他者や集団を完全に切り離します。
これが極端な個人主義です。

現代哲学をせっかくマスターしたのであれば必要に応じてこの極端な個人主義のモードになれるようにするといいでしょう。

人間が完全に個人主義で自由ならば集団がまとまらないという意見が昔からありました。そうかもしれませんがそれならそれで仕方がないのでしょう。
歴史的にいえばどちらかというと全体主義や共産主義などの集団主義の方が戦争や粛清で人を殺す数が多いようです。

そもそも現代哲学をマスター出来るのは大体思春期をとおに過ぎてある程度人間が固まってからなので、極端な個人主義の発動も自覚や覚悟や結果の予見をもって行えますし、そもそも集団に対する配慮をにじませた極端な個人主義にはならないことが多いでしょう。

大数の法則や中心極限定理というものがありましてそれが現代社会の理論的な基盤になっていますが、そもそも全員が極端な個人主義であったとしてもおそらくそこそこの状態に落ち着くでしょう。

またメタ認知と記憶と覚悟と自覚がある場合には極端な個人主義者になる機会もあまりありません。
極端な個人主義を貫いて生きていけるのはよっぽどの大物だと思いますが、人間はちっぽけで脆弱な面がありますのでどこかで転ぶことが多いでしょう。

第2章 創造性の向上

実体、現前、差延、存在者、空、仮、戯、因縁、縁起、無常、無我、無定義概念、無定義語

その他、我々が事物を表す言葉には色々なものがあります。

構造主義的哲学や現代数学の形式主義や公理主義、仏教の因縁生起論では事物に実体があるという考え方は必要ないので無視します。
事物の同一性や恒常性が成立するのは差異の体系、関係性、相依性、因縁生起、構造、形式などによるわけです。

物質と反物質が接触すると対消滅します。
逆に何もない所から、といってもエネルギーはあると思いますが、物質と反物質が対で生成します。

これは2つの物の関係ですが、例えば赤というものを世の中から消してしまいたければ世の中の赤いものを全て無くしてしまえばいいのです。
と言っても赤というものは生物学的に言えば電磁場と人間の脳が造る視覚のモダリティに過ぎません。
物理的にはある波長あるいはいくつかの派長の電磁場の和になります。

そういうことはおいておいて世の中に赤いものがりんごと血液とハイビスカスしかないのであればりんごとハイビスカスと血液をなくしてしまう、あるいは見たことがない人には赤というものは存在しません。赤というものを成り立たせるためには成り立たせるための何かが必要になります。

りんごをなくしてしまいたければ木の実と赤と丸と味と匂いなどをなくしてしまえばいいのです。
ハイビスカスをなくしたければ花や名前や南国のイメージをなくしてしまえばいいのです。
血液をなくしたければ液体や体液や赤血球や白血球や血小板や血漿をなくしてしまえばいいのです。

何でもいいですが何かをなくそうと思えばその因縁をなくしてしまえばいいのです。
逆に何かを造ろうと思えば因縁をつけていけばいいのです。

考えている集合に赤いものが血液とハイビスカスとりんごしかなければ血液とハイビスカスとリンゴが消滅すれば赤も対消滅ではないですが消滅します。
共消滅とでも言いましょうか。

あるいは世界に赤いものが血液しかなくて、赤の色が血液にのみ依って成立しているのであれば血液が無くなれば赤色という概念が消滅します。
この場合は対消滅と呼べるでしょう。

逆に赤色が考えている世界から消滅すれば血液の概念は変化します。
血液のアイデンティティから赤色が無くなるからです。

別の例を出しましょう。

初等数学を勉強すると我々はユークリッド空間があると思っていてそこではイプシロンデルタ論法やコーシーの収束点列が成り立つと考える様になります。
逆に高等数学で数学の基礎を学ぶとイプシロンデルタ論法やコーシーの収束点列からユークリッド空間が成り立つことが分かります。

すなわち集合論や位相論にによって、元の集合に順序や整列や集合の濃度、位相、連結性、コンパクト性、分離公理、距離などの構造を集合に取り入れることによってユークリッド空間が構成されることが分かります。
つまり初等数学と高等数学は真逆なことをしているわけです。

元と元を色々な形で関係づけるということは、集合に構造を入れ込むということです。
構造が取り入れられていない集合は元と元の関係がないので数学的にはあまり関心をひかない、という表現をします。

これが構造主義ですが、仏教では元と元を何らかの形で関係つけるという代わりに、元と元を何らかの形で因縁をつけるという表現になります。

この因縁という言葉は仏教の言葉ですが現代哲学の重要な概念を簡潔に表す言葉であるにもかかわらず、現代哲学にはこれに代わる適当な言葉がありません。
現代数学や現代哲学に比べると仏教は2000年以上昔の思想なのでやはり年季が入っているという所でしょうか。

現代哲学による新しいものの創造はこの仏教の因縁や縁起(因縁生起)の手法や現代数学の学問の対象を一から組み立てる方法を使います。

よく数学に秀でた人をほめる言葉に「彼or彼女は一つの分野の数学を作ってしまうほど天才だ」みたいな言い方をする人がいますが、「彼or彼女」が天才であるかどうかはともかくその様に誉めた人は初等数学までしかやったことがない人なのでしょう。

高等数学を勉強していれば数学の分野を作ることはできるでしょう。
しかしその造った数学の分野が多くの数学者の関心をひくか、流行るか、数学や数学以外の分野に大きな影響を及ぼせるかはまた別の問題です。

既存の理論の公理を一つ取り換えるだけで、あるいは仏教流にいうと因縁を一つ取り換えるだけで全体の体系は別のものになります。

数学の話にすると整合性や無矛盾性が問題になりますが、アートやクリエーションの世界であれば整合性や矛盾などを考える必要はない訳です。

造ったものに数学風にいうと数学者にとってあまり興味のない対象ではないもの、アートで言えば人に感動や感銘を与えたり新鮮さや衝撃を与えたり面白みや関心を抱かせるものでなければ廃れるだけです。
廃れても別の場面や別の時に意味を発揮するかもしれないことにも注意が必要です。

時代に先駆け過ぎた、早過ぎた天才の業績といわれるものはありますし、別の場所で評価されることもあります。
しかしやはり学術でも芸術でもしょうもない仕事の方が多くなるのは一般的に障害ないでしょう。

おわりに

『違う』ということは多分いいことでしょう。
これは面白さやおかしさや変な感じ、個性につながる可能性があります。

人をひきつけますし人に好かれる、あるいはつながるきっかけになるでしょう。
つまらない、退屈、飽きることは多分あまりいいことではありません。

よほど好奇心や物事に関心が広く深い人でなければ人をひきつけませんし特にすかれる機会も場面もなく終わりそうですし、出会いの機会も付き合いが続くきっかけにもならないでしょう。

面白さやおかしさ、個性は時に創造性、刷新性、新規性などによって生み出されます。

何か新しいものを作り出すこと、これは経済にとっても重要です。
超長期の経済成長やGDPなどの生産性の指標では表せない見えない部分の幸福度は往々にして技術革新などによってなされます。

運や信仰、運命や宿命は大切です。
しかし現代は人が地道に何かを創造しないといけない時代になってしまっています。
何にせよ自分で作ることができると何事も便利ですしそれ自体が面白いでしょう。

現代哲学でも現代数学でも仏教でも核心を理解してしまえば創造力がつきます。
それぞれの転換点は近代哲学から現代哲学、古典数学から現代数学、因縁生起の理解によって新たな段階へ古い段階を超克して新たな段階へ至ることができるでしょう。

2022/07/15

やさしい仏教の創造性を活かす方法

はじめに

仏教は実在論が持たない創造性を持っています。
物事には実体があると考えればそれは最初からあるのであって、作ったものではなく見つけたものでしょう。
実体を作ったと言えば実体論者から疑問や批判や説明を求められるかもしれません。

仏教で実体と相当する概念を因縁や中と考えてみましょう。
「因縁を作った」「中を作った」と言っても特に疑義は出ないでしょう。
ただ「因縁を作った」は日本語の言説として通用しても「中を作った」は一般的な日本語として受け入れられないかもしれません。
「中」という概念自体が日常語ではないからです。

「因縁を作った」よりは「因縁をつける」はより慣用句かもしれません。
因縁よりは十二因縁生起、あるいは因縁生起が因縁よりも以前から元来あった仏教語だと思われます。
すると因縁というものは元々「生起」する性質を持っているということになります。

仏教では因縁は生起するのが当たり前です。
「実体を生起する」と言わないのと対照的です。

役に立たなくても大切なことはたくさんありますが、功利主義やプラグマティズムではないですが役に立たないより役に立った方がいいでしょう。
仏教から想像力をつける方法を解説します。

第1章 非実在論の目から実在論を見る

もし仏教で一番大切なのは何かと聞かれれば「因縁」や「縁起」はその候補に挙がるでしょう。

仏教では三宝帰依と言う考え方があります。三宝とは仏、法、僧を指します。
仏は悟った人、法は教義、僧は教団や教団員を指します。

仏教と言うのは僧が悟って仏になるための教えです。
僧が悟って仏になるのは因縁生起を理解した時です。
ですから法、教えの中で一番大切なことの候補として因縁生起、略して縁起は最有力候補となります。

ここで大切なのは因縁が生起するという性質です。
決まった因縁しか生起しない、因縁の種類は決まっている、ある種の因縁は生起しても生起しえない因縁もあるのであれば因縁は実体と同じように見なせますので実在論と事実上変わらないことになるでしょう。

実在論では実体というものが初めからあり、人間はそれを発見したり認識するものであるという論法や思考法になりやすい考え方です。
これはやや固い考え方と言えて、教条主義的(ドグマティック)になりがちです。
実体を創造できるのは神や特殊な能力を持ったものだけであるようなヒエラルキーが造られることもあります。

宗教の1つの意味は世界に対する説明体系です。
世界ができた理由でも、人間が存在する理由でも、自然現象を説明する理由でもいいですが何かを説明する機能があります。
仏教のお釈迦様の特殊性はその様な世界の説明体系を逆になくしてしまったことにあります。

輪廻転生や人間の実体の存在を否定できる考え方を考案しました。
それが因縁生起です。
更に実在論も因縁生起説も含めたあらゆる世俗的な思想を相対化する中道の理論を作りました。
これらは大乗仏教では空論や中観論と言われます。

中道や中観の中の理論は全ての自然、世界、社会などに何らかの形で関連する世俗に諦関係する論説を相対化するもので要するに例えば思考や行為に関する教条主義や世界や自然や人間に対する説明体系を絶対的な正しい、絶対的に確かであるとする主張を認めません。

これらの理論は実在論に対するアンチテーゼとして使われたり、物事の分析や理解に使われると思いがちです。
ただこれは歴史的経緯からそうなりがちですが実在論を意識し過ぎです。

一旦因縁や中の概念をマスターしたならばそれを批判や理解や分析だけに使うのは消極的、受動的、後ろ向きで、それよりは何かを創造するために積極的、能動的、前向きに使うようにするべきです。

仏教と言うのは仏、法、僧ですので仏になるための方法を僧に教えるという体系になっていますが、一旦仏になったのであれば、法を使って建設的、創造的なことを行うべきです。

仏教の因縁や空、中道や中観や中の考え方は現代数学や現代哲学と同じものです。
西洋文明が仏教に2000年後に追いついたわけですが、追い越した後の現代数学や現代哲学の発展は西洋文明が圧倒的でした。

現代哲学が生産的であったかはよく分かりませんが現代数学は抜群に生産的でデジタルに関することは科学、技術、産業含めて現代数学のたまものです。

第2章 因縁をつける

仏教では実在論は否定しません。
しかし実在論にも創造性はあるかもしれませんが仏教的に創造的であるためには因縁生起論を用います。

実体を作る、あるいは実体が変化するという実在論の要素を持つ哲学もあると思いますがそれだと仏教に特徴的なわけではありませんので因縁を用いた想像について考えてみましょう。

人間にはリアリティや実体という考え方や感じ方が身に沁みついています。
ですからこれを利用します。
因縁の考え方を使ってリアリティや実体っぽさを出せればよい訳です。

実在論における実体と対照的な言葉として因縁生起論における因縁を名詞化して実体と対照させて使って見ましょう。

因縁を作る方法はずばり「因縁をつける」ことです。
いろんな因縁を引っ付けて新しい因縁を作るわけです。

芸術や創作活動ではリアリズムと言う考えがあって作品にリアリティを持たせるために色々な工夫をします。
例えば妖怪を作ってみましょう。

19世紀のヨーロッパなどではこの世に存在しない生き物のミイラのような物を作って売るビジネスがありました。

人魚を作るために猿や人間の死体の上半身と魚のしっぽ側をくっつけます。
これが造り物と分からないように見せるのが職人の技術になります。

この合成した死体は干からびています。
ミイラのように加工してエキゾチック感を出したり由緒をつけたりします。
その生き物が捕まったのがより古い時代のことであるとすれば今は絶滅したかもしれない未知の生き物が大昔にはいたのかと思うかもしれません。

その地方の伝説を借用あるいは捜索してみると未知の世界へのロマン感が広がるでしょう。
お寺や旧家に大切に祭られていれば信憑性が高まる感じもあるでしょう。
グロテスクな感じに仕上げてみると非日常の感じを掻き立てられます。

この色々な工夫は因縁生起の考え方に基づいてみればリアリティを持たせるために因縁をつけているようなものです。

因縁をつけることで人魚を作ってみましょう。
世界中の人魚の伝承や伝説と関係付けて説明を受けると懐疑心も溶けていくかもしれません。

かくして人魚の実体感を作っていくわけですが、こういった工程の一つ一つが因縁をつけていることになります。
因縁をつけることで人魚と言う実体感を持つ実体に似たものを新しい因縁として造るわけです。

これを因縁生起、縁起と言います。

日本には古いものがたくさん残っているので古いお寺や古い物品などにその縁起がたくさん伝えられ残されています。

第3章 理解までか理解からか

仏教の特徴として悟るのが目標で悟ってからどうするかについては言及がない点があります。
因縁生起を理解した後、それで何かを納得して終わりか、それを使って何かしていくかに着眼してみましょう。

それを使って何かをする場合には未だ一般的に知られていない因縁生起の考え方を普及啓発していくお釈迦様の様な行動が考えられます。
それ以外には色々な因縁を作ったり改造したり消したり積極的に活用していくことが考えられます。

因縁を作ることはいわゆる人との縁を作ることではありません。
要素と体系を構築したり改造したり消したりするということです。
それは部分的であることも全体的であることもあります。

部分的な場合はあると便利な新しい概念を作ってみたり、既存の物事の意味付けを変えてみたり、反対したい言説を解体したり無意味化したりするのに使います。

全体的な場合はある一つの学問分野の理論を構築したり、既にある学問分野の前提を変えてみたり、学問や社会常識の意味を反転させてしまうような価値観を流布して流行させたりします。

これは既に現代社会で自覚的に行っている人々がたくさんいます。
これを知っているか知らないかで人生はまるごと変わってしまいます。
大は小を含むと考えると多分知らない人が損をして知っている人が得をします。

おわりに

仏教的に言うと我々は普通、仮や戯の世界に生きています。

実在論や実体は心理発達の過程で身につけられていくものですので実在論的な認識や実体の感覚を持たないまま空や中の概念を身につけられるのかどうか分かりませんがおそらくそういうはっきりした実例はないのではないかと思います。

実在論は実体意識は仮や戯です。
実在、実体、仮、戯は最初から事物が、あるいはその総体としての世界が存在することを想定しています。
それに対して空や中、現代哲学の構造主義とポスト構造主義と同じものです。

空や中、現代哲学の構造主義とポスト構造主義は事物も世界も我々が創造する世界です。
自由に創造とまではいかないかもしれませんが、能力を高めれば高めるほど色々なものを創造できるでしょう。

例えば幾何学は古典幾何学はユークリッド空間という自明、すなわち説明の必要のない空間を前提にしていますが、現代の幾何学ではユークリッド空間は集合論や位相論から作り出した上でその上で幾何学を行います。

空間ごと人間がまず作り出すのです。
我々は限りなく自由に創造が許された世界に住んでいます。

実体と思われるものも部分的に因縁構成をかえてしまう「ずらし」という手法もありますし、解体してしまう「脱構築」と言う方法もあります。
実体と違って因縁は柔軟に生起消滅変形なにもかも自由自在です。

それを不遜と見る立場の人もいるかもしれませんが、これが随所に主となれ、と言われる仏教の主体性であり自由であり解脱であり涅槃であり極楽浄土です。

2022/07/07

究極にやさしい仏教の「空」の解説

はじめに

「空」は大乗仏教の神髄です。
大乗仏教の神髄であるとともに原始仏教への回帰でもあります。

お釈迦様は因縁や縁起をお説きになりました。
これは実体(entity)や実在(real)を無視、ないしは否定するための説明体系です。
ちなみに世の中の理論なるものはたいていは説明体系です。

お釈迦様の死後部派仏教というのが出てきて実体や実在を部分的に肯定する理論が優勢になりました。
因縁や縁起が優れていたのはその気になれば実態や実在論を完全否定できる理論だからです。

お釈迦様自体は中道を説きましたので実在論や実態を否定しているわけでもありません。
どっちの見方もできるようにせよ、といったのですがその後の仏教宗派や学派は実在論と非実在論をまぜこぜにしてしまいました。

そこで原点に戻ったのが「空」を発明したナーガールジュナです。
空を理解できればお釈迦様を理解できます。
さらには西洋の科学や哲学の基盤になっている構造主義や形式主義を理解できるでしょう。

「空」の分かりやすい解説を行います。

第1章 空とは

仏教で同じような意味を表す因縁や縁起、無常や無我などはかろうじて日常語として使われます。
しかし空は仏教の意味では日常語としては全く使われません。
日常語とは言えないかもしれませんが「色即是空 空即是色」くらいでしょうか。

この言葉も意味が分かるとは言えないでしょう。
空は無や虚の意味と混乱することも多いようです。

無や虚を使わずなぜ空という言葉を使うかというと空は入れ物の中身に対する表現だからです。
入れ物と言ってもいいですし殻、皮、外殻、外縁、包み、外包、その他なんといってもいいですが、中身が想定される言葉や概念があります。
この時中身があれば実、なければ空です。

実と言っても中身が外見と関係がないものが入っていれば実とは言いません。
リアリティに一致したリアルなものが入っているというのが我々の基本的なスタンスです。

実在の反対は実際も現実にも存在していないのにリアリティをもって存在するように感じられる虚構、実体は事実や実物と呼ばれますが、実際にも現実にも存在していないのに存在している様に感じられる事物です。
外殻だけで作られて、リアリティがあり、実体があるように思わせるが実は実体はなく外殻だけでできているもの、そして外殻は一様ではなく多様な要素で成り立っているものを適切で簡潔に言い表さなければいけません。

お釈迦様の仏教ではそれを因縁と縁起(因縁生起)と言い表しました。

因と縁はともに「よる」と言う意味で、依存する、寄り集まる、よりかかる、よって、より、よればなど様々な言葉に使われます。
事物は因縁である、つまりよって成り立つものであるという風に使えます。

因縁生起は色々なものがより集まることでリアリティができることを現せます。
縁という言葉は外縁を表すので縁が集まって外殻をなします。
因縁はまた全ては「因」と「縁」でしかなりたっておらず、それ以外に実体というものはないことも表現します。

さらには世界全体が実体なき因縁という名の事物で形成されており、全ての事物は因縁であり、他の因縁によって、生起するやはり因縁でしかなく実体は必要ないことも表します。
因縁の考え方では個物は単独では存在しません。

全ての因縁=事物は全体として始ま殻存在する全体性があり、実体のように他になにもなくてもそれ自体で存在することはありません。
因縁の持つ外縁の表層は仏教の言葉では名色や六処(6つの感覚)からなります。

我々が見て感じられるのは内因としての記憶や感情、意欲などの精神要素です。
精神の内と外からの色々な要素によって因縁が成り立ちます。
ここには実体と言う実在はありません。

しかし実体があると感じさせるリアリティがあります。
実体のリアリティがあることは論理的には実体があることを意味しないのですがそこから実体の存在を導いてくるのが人間の性質です。

殻としての外縁は感じられるが、中には実体が入っていないボールのような中身が空のイメージを空と言います。
シミュレーション、シミュラークルと言って悪い意味では紛い物と訳されますが、別にだますつもりがあるわけではなく、我々が勝手に勘違いしているだけです。

リアリティ=リアルの存在の保障、これが間違いの元です。
しかしリアリティはなくてはならないものですし、そのリアリティに対する実体の感覚もなくてはならないものです。

多分これは睡眠や排せつのように人間に必要な能力ですので発達の過程で自然に、あるいは教育を通じてリアリティや実体について学びます。
仏教や現代哲学や数学を勉強しなければ学ぶことはありません。
多分人間の、特に知性に必須ではないのでしょう。

第2章 空の具体的な例:人間の作られ方

実体がなくても物事が成り立ちえる例として人間について考えてみましょう。
自分の作られ方、自己同一性の成り立ち、肉体的な部分については人体錬成とも言えるでしょうか。

自分の作り方が分かればいいのですが、自分の因縁、自分のよって立つもの全てが分かっているわけではないので、作り方でなく作られ方の分析で具体的で直感的に理解できるものから自分の成り立ちを解き明かしていきましょう。

まず分かりやすい所は名前です。そして容姿です。

大人の場合はある程度自己同一性が確立しています。
ですから名前や容姿が変わっても「自分は自分だ」という意識は保たれます。
特に普通の成長に伴う容姿の変化は緩徐なので変化自体に気が付きません。

しかし容姿は大きく変わると自己意識に影響を与えます。
メイクや整形などで顔が変わると自分に対する考え方や感情、周囲の反応などが変化します。

大事故による大怪我や耳鼻咽喉科領域の悪性腫瘍などでは顔面が大きく欠損することがあり、これは感情や実存意識などの自己同一性の混乱につながります。

自分の顔は自分では見えないので鏡を使って見ます。
鏡に映った自分の顔を自分だと認識して記憶する発達段階を鏡像段階と言い乳児期か幼児期になされる自己同一性形成の1つです。

自分の身体も自己同一性を形成している要素です。
仏教では人間は五蘊から成り立ち、五蘊は色受想行識に分けます。
色が人間を形成している物質的部分、受は感覚、想は表象、行は意志、識は認識などを指すと言われます。
容姿と一緒で身体も自分を形成している要素です。

自分の容姿や身体は当たり前過ぎて自己同一性形成の要素とは感じにくい場合もあるでしょう。
疾病による欠損や演技、創作作品の中でのイメージの移入、身体の延長としての装飾品や服装、そして赤ちゃんの手や脚の発見を取り込んでいきます。

記憶はそもそも記銘するたび、想起するたびに変化していくものですが同一性によって同じものとして同一化されます。
そして自分の体と思っているものを自分の意志通りに動かせるという感覚が身体を自己に同一化するのに働きます。

また何か運動を行ったときにおこることを感覚することも同様です。
予想通りにいってもいかなくてもそれが体験の形で学習になっていきます。
自分である程度操れるように感じる因子として記憶が重要です。

思い出せるという自信と確認できることが自分を形作ります。
自分の経験として様々なものを取り込みますが思い出せることとその自信が自分をまとめています。

その他人間は色々なものを取り込み自他の区別をしていきます。
性別、年齢、国籍、言語、住所、出生、出身地、学歴、職歴、病歴、特技、資格、趣味、親族や友達関係などを取り込み自分のよりどころにします。
逆に何が自分でないかも区別します。

こういった様々なものに覆われて人は自己意識を持ちます。
同時にこれらによって他人から自分の認証してもらいます。
ここには実体と言う要素が入る余地は特にありません。
実体がなくても成立します。

身体も記憶もプロフィールもそれ自体が実体ではないかという反論があるかもしれません。
しかし身体にせよ記憶にせよプロフィールの項目にせよ実体である必要はやはりありません。
全ては実体ではない何かに依存して成り立ちえるし、依存する何かもやはり実体では何かに依存して成り立ち得ます。

例えば性別であれば、生殖器のあるなしなど生物学的な特徴の違い、心理社会的なジェンダー的特徴による違いなどから性差が形成されます。

古典的なせい概念に当てはまらないLGBTあるいはLGBTTQQIAAPあるいはLGBTTQQIAAP+(+はその他)と多様な性概念が提唱されており、性別を男女だけに分けることに批判する意見が年々市民権を得てきているようです。

何かに依存して成り立っている部分を注目すると因縁と言う言葉が使われ、実体がない(必要ない)というということに注目すると空性、または空という言葉が使われます。

第3章 空と創造と構築

因縁、縁起、無常、無我、空、これらの言葉は仏教が同じことを別の側面から言い表そうとしたことを物語っています。

数学では直感的、自明、明らかという言葉が使われます。
直感は過去の記憶や経験から直接類推できることを表しますが、空を理解するためには何段階かの経験や直感を組み立てていかなければいけません。

基礎的な学問にはありがちですが大学の数学科で位相論からユークリッド空間を理解していくようなものです。
そこに行き着くまでには一個一個直感的に理解していかなければなりませんが、一個一個の直感は教養までの数学を勉強していればアナロジーの材料は見つかります。
そして位相からユークリッド空間を構築すれば数学とは創造する学問であることが分かるでしょう。

空も同じです。
理解するためには何段階かの直感が必要かもしれませんが、理解してしまえば空を創造できる要因なります。何かの空を成り立たせる因縁を理解するだけではなく、因縁を生起することで空を造ることができる様になります。

仏教は理解してしまえば実践応用は分析だけでなく、構築や創造ができる様になります。
空理空論と言いますが悪い意味ではなくて空理空論を使いこなせます。

現代の科学や学問は空論と同じ思想である構造主義からできていますのでいかに無矛盾な空理空論を作るかを行っているわけです。

おわりに

空であるのにリアリティがあって実体のように見えるのが空のポイントです。

無とか虚とかと間違えられてクリスチャンの人を怒らせてしまったことがありました。
現代哲学について聞かれた時にイエスとかノーとか答えて、難しいので簡単には理解できないと答えただけだったのですが何か空気が読めなかったのかもしれません。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの唯一神教では神だけは実ではなければならないはずですので、空論とは相性が悪いかもしれません。

ただ仏教全体からみれば中道や中観論、中論という空論より上位の思想があって実在論を否定しません。
天台智顗はそこのところを上手くまとめて、仏教の体系は仮論(戯論)、空論、中論であるという三諦論を唱えました。
実体があるとする仮論(戯論)も空論もどちらが正しいということはなく相対的に見なさいというのが中論です。

そういう意味では仏教の究極の理論は中なのですが、空がないと実を相対化できないので、空が仏教理解の鍵であり、創造性を発揮することで仏教を現実応用するのに不可欠です。

2022/07/04

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