気分と感情について ―多角的な気分と感情の見方― (中編)

2026/06/02

気分と感情について ―多角的な気分と感情の見方― (中編)

心理学の地図——連続体としての感情

エクマンの「基本感情」説とその限界

精神医学の外側で、感情をもっとも強力にカテゴリー化してきたのは、ポール・エクマンであり、提唱していた理論は「基本感情理論」といいます。
エクマンは1970年代以降、文化を超えて普遍的に認識される表情(ここは「感情」ではなく「表情」で合っています)があることを示し、怒り、嫌悪、恐怖、喜び、悲しみ、驚きといった「基本感情」が、それぞれ独立した神経基盤と身体反応パターンを持つと主張しました。

この理論は直感的にわかりやすく、映画『インサイド・ヘッド』のように大衆文化にも広く浸透しました。
感情はいくつかの「基本的な種類」に分かれており、それぞれが脳の特定の回路によって生み出される——という図式です。

しかし、この「離散的な感情カテゴリー」という考え方には、次第に深刻な疑問が突きつけられるようになりました。
神経画像研究は、特定の感情に対応する単一の脳領域を同定できなかったのです。表情認識の普遍性についても、方法論的な批判が相次ぎました。
そして何より、私たちの実際の感情体験は、怒りと悲しみの境界が曖昧だったり、名前のつかない微妙な状態がほとんどだったりと、きれいなカテゴリーには収まらないものでした。

通常、このような研究室において行われ、世に出される理論の多く(あるいは一部)はリアルで起こっている事象の一部を切り取ったり、また条件を無風下(出現する乱数を統制あるいは無いもの)として扱うことがほとんどです。

ラッセルの円環モデル——二次元で感情を捉える

こうした背景のなかで影響力を持ってきたのが、心理学者ジェームズ・ラッセルの「円環モデル(circumplex model)」です。

1980年に発表されたこのモデルは、あらゆる感情体験を二つの次元の組み合わせとして捉えます。
一つは「快—不快(valence)の軸」ともう一つは「覚醒度(arousal)」の軸」です。
怒りは「不快・高覚醒」、悲しみは「不快・低覚醒」、興奮は「快・高覚醒」、穏やかさは「快・低覚醒」という具合に、あらゆる感情状態がこの二次元平面上の一点として位置づけるモデルです。

ここで重要なのが、ラッセルとリサ・フェルドマン・バレットが提唱した「コア・アフェクト(core affect)」という概念です。
コア・アフェクトとは、覚醒度と快—不快の二次元で表現される、もっとも基本的な感情状態のことを指します。
それは常に存在していて、私たちが目覚めてから眠りにつくまで、コア・アフェクトはホルモンの変化、体調、天候、周囲の出来事などに応じて絶えず変動し続けている、と仮定されます。

興味深いのは、コア・アフェクトが必ずしも特定の対象に向けられていないことです。
なんとなく気分がいい、なんとなく落ち着かない——こうした、対象のない漠然とした感情的色づけが、コア・アフェクトの典型的な現れ方になります。
一方、それが特定の出来事と結びついて意識化されるとき——たとえば「上司に叱られたので怒っている」というように——それはラッセルの言う「プロトタイプ的感情エピソード(prototypical emotion episode)」となりまs。

つまり、円環モデルにおいては、感情は離散的なカテゴリーではなく、連続的な二次元空間上の位置として理解される。「怒り」「悲しみ」「喜び」といったラベルは、この連続空間のなかの特定の領域に貼られた便宜的な名札にすぎないのではないか、ということです。

天気と気候のアナロジー

ここで、精神医学でよく(説明として)用いられる天気と気候のアナロジーを改めて導入すると、感情の階層構造がより明確になります。

「コア・アフェクト」は、大気そのものに相当する。常にそこにあり、常に何らかの状態にある。完全に「天候のない日」が存在しないように、コア・アフェクトが完全にゼロになる瞬間も存在しない

「ムード(気分)」は、気候のようなもの。ある一定期間における天候の傾向、いわば「背景的な色調」。数日から数週間にわたって持続し、私たちの認知や行動にじわじわと影響を与える

「エモーション(情動)」は、突然の雷雨や晴れ間のようなもの。特定のきっかけによって生じ、比較的短時間で推移する。気候(ムード)が温帯である人にも寒帯である人にも雷雨(急な怒り)は起こりうるが、その頻度や強度は気候の影響を受ける。

この階層構造において重要なのは、エモーションがもっとも目立つ現象であるにもかかわらず、実はもっとも「表層的」な出来事だということです。
本当に人の体験を形作っているのは、むしろコア・アフェクトやムードという、あまり意識されない基層のほうかもしれない、というです。

目の前にいる人のエモーションを読み取ることや、ラベルを貼るということは割合簡単だと思います。
ただ、そのエモーションが生み出されたムード、あるいはコア・アフェクトがどのような温度感や状態なのかを見ようとせずして気分や感情を語り得たと思ってはいけないということです。

コア・アフェクトというのは、その人の経験や知能といった背景の複合体である人格(パーソナリティ)とも関係が豊かであります。
人格については、これまた大変複雑な概念になりますので、機会があれば別稿にて。