カテゴリー: 医師 奥村 克行のブログ

2022/07/07

究極にやさしい仏教の「空」の解説

はじめに

「空」は大乗仏教の神髄です。
大乗仏教の神髄であるとともに原始仏教への回帰でもあります。

お釈迦様は因縁や縁起をお説きになりました。
これは実体(entity)や実在(real)を無視、ないしは否定するための説明体系です。
ちなみに世の中の理論なるものはたいていは説明体系です。

お釈迦様の死後部派仏教というのが出てきて実体や実在を部分的に肯定する理論が優勢になりました。
因縁や縁起が優れていたのはその気になれば実態や実在論を完全否定できる理論だからです。

お釈迦様自体は中道を説きましたので実在論や実態を否定しているわけでもありません。
どっちの見方もできるようにせよ、といったのですがその後の仏教宗派や学派は実在論と非実在論をまぜこぜにしてしまいました。

そこで原点に戻ったのが「空」を発明したナーガールジュナです。
空を理解できればお釈迦様を理解できます。
さらには西洋の科学や哲学の基盤になっている構造主義や形式主義を理解できるでしょう。

「空」の分かりやすい解説を行います。

第1章 空とは

仏教で同じような意味を表す因縁や縁起、無常や無我などはかろうじて日常語として使われます。
しかし空は仏教の意味では日常語としては全く使われません。
日常語とは言えないかもしれませんが「色即是空 空即是色」くらいでしょうか。

この言葉も意味が分かるとは言えないでしょう。
空は無や虚の意味と混乱することも多いようです。

無や虚を使わずなぜ空という言葉を使うかというと空は入れ物の中身に対する表現だからです。
入れ物と言ってもいいですし殻、皮、外殻、外縁、包み、外包、その他なんといってもいいですが、中身が想定される言葉や概念があります。
この時中身があれば実、なければ空です。

実と言っても中身が外見と関係がないものが入っていれば実とは言いません。
リアリティに一致したリアルなものが入っているというのが我々の基本的なスタンスです。

実在の反対は実際も現実にも存在していないのにリアリティをもって存在するように感じられる虚構、実体は事実や実物と呼ばれますが、実際にも現実にも存在していないのに存在している様に感じられる事物です。
外殻だけで作られて、リアリティがあり、実体があるように思わせるが実は実体はなく外殻だけでできているもの、そして外殻は一様ではなく多様な要素で成り立っているものを適切で簡潔に言い表さなければいけません。

お釈迦様の仏教ではそれを因縁と縁起(因縁生起)と言い表しました。

因と縁はともに「よる」と言う意味で、依存する、寄り集まる、よりかかる、よって、より、よればなど様々な言葉に使われます。
事物は因縁である、つまりよって成り立つものであるという風に使えます。

因縁生起は色々なものがより集まることでリアリティができることを現せます。
縁という言葉は外縁を表すので縁が集まって外殻をなします。
因縁はまた全ては「因」と「縁」でしかなりたっておらず、それ以外に実体というものはないことも表現します。

さらには世界全体が実体なき因縁という名の事物で形成されており、全ての事物は因縁であり、他の因縁によって、生起するやはり因縁でしかなく実体は必要ないことも表します。
因縁の考え方では個物は単独では存在しません。

全ての因縁=事物は全体として始ま殻存在する全体性があり、実体のように他になにもなくてもそれ自体で存在することはありません。
因縁の持つ外縁の表層は仏教の言葉では名色や六処(6つの感覚)からなります。

我々が見て感じられるのは内因としての記憶や感情、意欲などの精神要素です。
精神の内と外からの色々な要素によって因縁が成り立ちます。
ここには実体と言う実在はありません。

しかし実体があると感じさせるリアリティがあります。
実体のリアリティがあることは論理的には実体があることを意味しないのですがそこから実体の存在を導いてくるのが人間の性質です。

殻としての外縁は感じられるが、中には実体が入っていないボールのような中身が空のイメージを空と言います。
シミュレーション、シミュラークルと言って悪い意味では紛い物と訳されますが、別にだますつもりがあるわけではなく、我々が勝手に勘違いしているだけです。

リアリティ=リアルの存在の保障、これが間違いの元です。
しかしリアリティはなくてはならないものですし、そのリアリティに対する実体の感覚もなくてはならないものです。

多分これは睡眠や排せつのように人間に必要な能力ですので発達の過程で自然に、あるいは教育を通じてリアリティや実体について学びます。
仏教や現代哲学や数学を勉強しなければ学ぶことはありません。
多分人間の、特に知性に必須ではないのでしょう。

第2章 空の具体的な例:人間の作られ方

実体がなくても物事が成り立ちえる例として人間について考えてみましょう。
自分の作られ方、自己同一性の成り立ち、肉体的な部分については人体錬成とも言えるでしょうか。

自分の作り方が分かればいいのですが、自分の因縁、自分のよって立つもの全てが分かっているわけではないので、作り方でなく作られ方の分析で具体的で直感的に理解できるものから自分の成り立ちを解き明かしていきましょう。

まず分かりやすい所は名前です。そして容姿です。

大人の場合はある程度自己同一性が確立しています。
ですから名前や容姿が変わっても「自分は自分だ」という意識は保たれます。
特に普通の成長に伴う容姿の変化は緩徐なので変化自体に気が付きません。

しかし容姿は大きく変わると自己意識に影響を与えます。
メイクや整形などで顔が変わると自分に対する考え方や感情、周囲の反応などが変化します。

大事故による大怪我や耳鼻咽喉科領域の悪性腫瘍などでは顔面が大きく欠損することがあり、これは感情や実存意識などの自己同一性の混乱につながります。

自分の顔は自分では見えないので鏡を使って見ます。
鏡に映った自分の顔を自分だと認識して記憶する発達段階を鏡像段階と言い乳児期か幼児期になされる自己同一性形成の1つです。

自分の身体も自己同一性を形成している要素です。
仏教では人間は五蘊から成り立ち、五蘊は色受想行識に分けます。
色が人間を形成している物質的部分、受は感覚、想は表象、行は意志、識は認識などを指すと言われます。
容姿と一緒で身体も自分を形成している要素です。

自分の容姿や身体は当たり前過ぎて自己同一性形成の要素とは感じにくい場合もあるでしょう。
疾病による欠損や演技、創作作品の中でのイメージの移入、身体の延長としての装飾品や服装、そして赤ちゃんの手や脚の発見を取り込んでいきます。

記憶はそもそも記銘するたび、想起するたびに変化していくものですが同一性によって同じものとして同一化されます。
そして自分の体と思っているものを自分の意志通りに動かせるという感覚が身体を自己に同一化するのに働きます。

また何か運動を行ったときにおこることを感覚することも同様です。
予想通りにいってもいかなくてもそれが体験の形で学習になっていきます。
自分である程度操れるように感じる因子として記憶が重要です。

思い出せるという自信と確認できることが自分を形作ります。
自分の経験として様々なものを取り込みますが思い出せることとその自信が自分をまとめています。

その他人間は色々なものを取り込み自他の区別をしていきます。
性別、年齢、国籍、言語、住所、出生、出身地、学歴、職歴、病歴、特技、資格、趣味、親族や友達関係などを取り込み自分のよりどころにします。
逆に何が自分でないかも区別します。

こういった様々なものに覆われて人は自己意識を持ちます。
同時にこれらによって他人から自分の認証してもらいます。
ここには実体と言う要素が入る余地は特にありません。
実体がなくても成立します。

身体も記憶もプロフィールもそれ自体が実体ではないかという反論があるかもしれません。
しかし身体にせよ記憶にせよプロフィールの項目にせよ実体である必要はやはりありません。
全ては実体ではない何かに依存して成り立ちえるし、依存する何かもやはり実体では何かに依存して成り立ち得ます。

例えば性別であれば、生殖器のあるなしなど生物学的な特徴の違い、心理社会的なジェンダー的特徴による違いなどから性差が形成されます。

古典的なせい概念に当てはまらないLGBTあるいはLGBTTQQIAAPあるいはLGBTTQQIAAP+(+はその他)と多様な性概念が提唱されており、性別を男女だけに分けることに批判する意見が年々市民権を得てきているようです。

何かに依存して成り立っている部分を注目すると因縁と言う言葉が使われ、実体がない(必要ない)というということに注目すると空性、または空という言葉が使われます。

第3章 空と創造と構築

因縁、縁起、無常、無我、空、これらの言葉は仏教が同じことを別の側面から言い表そうとしたことを物語っています。

数学では直感的、自明、明らかという言葉が使われます。
直感は過去の記憶や経験から直接類推できることを表しますが、空を理解するためには何段階かの経験や直感を組み立てていかなければいけません。

基礎的な学問にはありがちですが大学の数学科で位相論からユークリッド空間を理解していくようなものです。
そこに行き着くまでには一個一個直感的に理解していかなければなりませんが、一個一個の直感は教養までの数学を勉強していればアナロジーの材料は見つかります。
そして位相からユークリッド空間を構築すれば数学とは創造する学問であることが分かるでしょう。

空も同じです。
理解するためには何段階かの直感が必要かもしれませんが、理解してしまえば空を創造できる要因なります。何かの空を成り立たせる因縁を理解するだけではなく、因縁を生起することで空を造ることができる様になります。

仏教は理解してしまえば実践応用は分析だけでなく、構築や創造ができる様になります。
空理空論と言いますが悪い意味ではなくて空理空論を使いこなせます。

現代の科学や学問は空論と同じ思想である構造主義からできていますのでいかに無矛盾な空理空論を作るかを行っているわけです。

おわりに

空であるのにリアリティがあって実体のように見えるのが空のポイントです。

無とか虚とかと間違えられてクリスチャンの人を怒らせてしまったことがありました。
現代哲学について聞かれた時にイエスとかノーとか答えて、難しいので簡単には理解できないと答えただけだったのですが何か空気が読めなかったのかもしれません。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの唯一神教では神だけは実ではなければならないはずですので、空論とは相性が悪いかもしれません。

ただ仏教全体からみれば中道や中観論、中論という空論より上位の思想があって実在論を否定しません。
天台智顗はそこのところを上手くまとめて、仏教の体系は仮論(戯論)、空論、中論であるという三諦論を唱えました。
実体があるとする仮論(戯論)も空論もどちらが正しいということはなく相対的に見なさいというのが中論です。

そういう意味では仏教の究極の理論は中なのですが、空がないと実を相対化できないので、空が仏教理解の鍵であり、創造性を発揮することで仏教を現実応用するのに不可欠です。

2022/07/01

究極にやさしい仏教の「因縁」の解説

はじめに

お釈迦様が仏教を悟ったのは因縁を発見したからです。因縁は人類初の実在論否定の思想でしょう。

因縁は後に空の思想や現代数学、構造主義と現代数学の形で整理されていきます。
因縁のイメージつくりと実体や実在との関係を解説します。

第1章 よってしか成り立たない

因縁は因も縁も「よる」と言う意味です。

よるという言葉は、よらない、よって、より、よれば、よりかかる、おる、~よる(西日本の方言)などの言葉と同根の言葉です。

これらの言葉を使えないと日本語が大変不便な言葉になるのが予想できます。
特に表論文などは大変でしょう。

仏教の因縁という言葉は全ての事物は「よって成り立つ」という意味に使われます。
お釈迦様の悟った因縁は十二因縁生起と呼ばれます。
因縁、縁、因縁生起を略した縁起などは日常語として使われるでしょう。

因と縁という言葉はどちらもよるという意味がありますが、因は原因や因果や内因のように使われ、縁は外因、依存や寄与、何かと関係する、繋がる、何かを要素とするという風なニュアンスの違いがあるかもしれません。

よるというと原因や因果関係のように使われますが、寄るや依るの漢字からどこかに行く、近くにくる、集まる、依存する、寄与するなどの意味を持ちます。
因縁を考える際には原因や因果の意味のよるだけでなく依存する、寄与するの意味も考えて下さい。

「よって成り立つ」「よるから存在する」の意味をはっきりさせるためによらないで存在してる場合を考えてみましょう。

  • 何にもよっていないので自身以外は無でも存在できます。
  • 世界や宇宙は無であってそれ自体が単独で存在しています。

これが分かりやすい実在論の考え方になります。
無の中になにものにもよらず存在している、存在し得るイメージで実体というものを考えてください。

世界というのは単独で存在できる実体の寄せ集めと言うのが実在論です。

因縁の考え方は事物と言うのはあらゆる面で何かに依存しています。
何かによって成り立っているものでも、何かによっていない部分がある、依存して成り立っていない部分がある場合とない場合が考えられます。

その場合は物事は実体の部分と何かによって成り立っている部分の混合と言う風にして見ることができます。

因縁の考え方は何かによっていない部分がないという考え方です。
つまり実体の存在を否定します。
実体の存在を否定しているのにリアリティがあるのはなぜか、を説明するのが因縁の考え方です。

言い換えると因縁の考え方は、実体の存在を積極的に否定するために発案されました。

存在証明は難しい、非存在証明は難しいと言われます。
この言葉は本当は現代では正しくなくて証明ではなく実証が難しいというのが正しい表現です。

証明は数学の言葉で数学においてはある種の存在や非存在証明は可能である場合がありますが、事物の存在や非存在ではなく命題の真偽、肯定か否定か、あるいは独立かを証明することになります。

現代数学では公理体系を作ってからその内部で証明を作業として行うことになります。
これは論理を土台として公理を導入することで体系、正解を造ったうえでの作業になります。

実際に難しいのは存在するかしないかの実証です。
存在するにしてもしないにしてもそれを示す必要があり、そのためには必要な全ての場所を探索しつくして、さらにその探索方法まで添えて、見つかるか見つからないかを言わないと行けません。
全ての場所を探索しつくすのは現実的にも原理的にも不可能な場合があります。

現実的な不可能とは時間や労力や資金が足りない場合などで原理的に不可能なのは探索範囲が無限に及ぶような場合です。
これは古典物理学の空間も時間も実体も存在しているという考え方を前提にしています。

因縁の考え方は事物は他の事物が初めから存在するから存在し得るという考え方です。
複数ある事物のどれもが他の事物を必要としています。
ですから因縁の世界観は始めからたくさんの事物が存在する世界観です。

事物には実体の部分が全くありません。
事物は他の事物の存在によって存在しているので他の事物が無くなるとよって立つものが完全になくなります。

よるものが無くなっても実体はもともとないので実体だけ残るということはありません。
ですから単独で存在している事物というものはありません。

  • 実在論は他の実在する事物が存在しなくても単独で存在し得る。
  • 因縁の考え方では他の事物が必ず存在する。

これが全体像から見る実在論と因縁の考え方の大きな違いになります。

第2章 全体と個物

真空の時空間の中に単一の何かが存在し得ると考えるのが実在論でした。

因縁の考え方はたくさんの事物によって事物は存在し得るので沢山の事物がないのに実体だけ存在するということはなく事物自体も存在しなくなる、ですので一つの事物が存在するためには初めからたくさんの事物が存在すると考えます。

世界の中に事物があるのではなく事物の総体が世界であると言えますし、世界があるのが前提、事物が満ちているのが前提と言う考え方になります。

この全体性が因縁の考え方の特徴になります。

ただ全体、というと無限に事物があるかもしれず、何をもって全体とするか良く分かりません。
ですから体系や構造、関係性、連関、連想、連合という言葉に言い換えてみましょう。

事物が互いに寄って成り立つさまを相依性といいます。

因縁の世界では個別の事物、個体、個はどうやって成り立っているのでしょう。 因縁の考え方では事物のリアリティは何かによって生じます。

リアリティがあるのでリアルな実体がある、あるいはリアルな実体があるのでリアリティがある、という反対の考え方がありますが、とにかくリアリティと実体はペアのような物です。
リアリティがどうやって作られるのか、の説明が因縁の理論です。

実在論は実体があるからリアリティがあるという考え方をします。
因縁はリアリティがあるから実体があると思い込むという考え方をします。

第3章 リアリティ生成の実例1:りんごの実の場合

りんごの実のリアリティを感じる方法を考えます。

一つの方法はりんごを頭の中で想像してみることです。
りんごをよく知っている人は簡単に頭の中に林檎をイメージ出来てそれにリアリティを感じるでしょう。

別の方法は工作でりんごを作ってみることです。
出来が良ければそれをりんごの実と間違う出来栄えとなるでしょう。
絵でもCGでも構いません。
創作した作品の出来次第でりんごのリアリティを感じます。

創作物で言えばリアリティにもピンからキリまであります。
本物以上のリアリティを感じる場合もあればりんごとどうにかわかる程度のリアリティもあるでしょう。

我々の認識は何をもってリアリティがあると感じるのでしょうか。
何か渡された時に何をもってそれからりんごのリアリティを感じるでしょうか。まず五感の感覚が考えられます。

  • 視覚では形と色、陰影や質感などにリアリティを感じるかどうかです。
  • 聴覚では林檎を触ったり叩いたりかじったり切ったりしたりつぶした時の音などにリアリティを感じるかどうかです。
  • 触覚では手で感じる質感の他触感などにリアリティを感じるかでしょう。
  • 嗅覚では嗅いだり切ったり食べる時の匂いです。
  • 味覚はりんごの味がするかどうかです。

感覚の他に精神の中にある様々な要素が影響を与えます。精神要素を分類して色々挙げていってもしょうがない気がしますのでざっくりいいますと記憶です。

人間は自分の中に蓄えている林檎に関連する記憶を目の前にとって手に取っている林檎を認識する際にも利用しています。
りんご自体を五感で感じた思い出の時もあれば、文章の中に林檎の記載があってそれに影響を受けた場合もあるでしょう。

我々がりんごの実を与えられた時にそれをりんごの実として認識するのはこういった感覚や例えば記憶を代表とする精神的要素の寄与を受けて、あるいは依存してりんごのリアリティを感じ、認識を行います。

ではりんごの実をはじめて与えられた場合はどうでしょう?
りんごの実に対する過去の経験がありません。

実物に接したことはなくても何らかのりんごの実に関する知識はあるかもしれませんがないかもしれません。
りんごの実に関する知識がなければ何らかの精神的要素は働くかもしれませんがりんごの実の知識や記憶はありません。

すると感覚でりんごの実を何らかの物としてリアリティを感じたり認識することになるでしょう。

それをりんごの実と聞いて「ふーん、そうなんだ」と思ったり「こんな果物はじめてみた!」と強く感銘を受けるかもしれません。
これを皮切りに色々なりんごの実を見れば自分の中でりんごについてのイメージを持つようになるかもしれません。

このりんごのイメージで想像するだけでりんごにリアリティを感じられるかもしれませんし、何かの機会にりんごの実に接する機会があった時にそれをりんごの実と認識しリアリティを感じるのに役に立つかもしれません。

りんごのリアリティ形成と認識はこのように五感や記憶などいろいろなリアリティを感じ認識される事物によりなされます。
この場合、「事物」の「事」とは精神的な要素からなり「物」とは感覚的な要素からなります。

物事は物性と事性のスペクトラムからなっているとイメージしましょう。

りんごの実のリアリティを感じたり認識するのに先立って視覚で色や形を認識しました。では色や形は実体では?という疑問がわきます。
それを実体や実在論抜きで説明する方法を常に探し続けるのが因縁の思考法になります。

例えば赤という色について考えてみましょう。
「赤」に対してリアリティを感じられるか、認識できるかが問題です。

たとえばりんごの実、夕焼け、血液、ハイビスカスの花の記憶から赤色と言うリアリティと認識が生じてくるのかもしれません。
りんごの実のリアリティと認識は赤色によっており、赤色のリアリティと認識がりんごの実によっているならお互いに寄りかかっているわけです。
この場合は双方向の矢印と考えられるでしょう。

もしかしたらハイビスカスの花のリアリティと認識は赤色によっているけれども、赤色のリアリティと認識はハイビスカスの花には寄っていないかもしれません。
これは片一方が片一方に一方的に寄りかかっているだけですから一方向の矢印で示せるでしょう。

または初めて赤や色を認識したのは青や白や黄色や黒や緑と違う何かを感じた瞬間かもしれませんし、色と言うものがあると感じたとき、また色には色々な色があると感じた時かもしれません。

りんごの形が球と言えるか分かりませんが、単純化して仮に球であるとして球の何によってリアリティを感じたり認識したりしているのでしょうか。
やはりりんごの実からの連想かもしれませんし、ボールや月、二次元の円や陰影からかもしれません。

りんごの実から球のリアリティと認識が生じて球からりんごの実のリアリティと認識が生じるなら人と言う字のように支え合って成り立っているのかもしれません。相思相愛です。

相依性ということもあります。

原因や結果、材料と完成品のイメージで語ることもあってその場合は一方向矢印なのでしょう。
これも2つの事物の一方は他方にリアリティと認識の生成を依存しているが、逆は成り立たず、他方の方は一方からはリアリティも認識の生成も関与を受けていないような場合です。

数学で相関関係と因果関係は違うなどと言われますし、必要条件と十分条件を混乱してしまう場合がありますが、「よる」という言葉はこういう部分にも関係してきます。

またテキスト論や文芸評論では一文は全体の文章の中に置かれた上で意味を考える、別の言い方でいうと文脈を読むことについての分析を行います。
更にもっと広くテキスト全体を超えて著者の背景や時代背景や書かれた理由を考える「行間を読む」ことを考える場合もあります。

逆にメディアなどの情報操作の手法に文章全体から一文だけ切り抜いてそれだけを公開し、文章全体の中のその一文の意味を隠ぺいして、一文のみの意味を本来の意図と変えて報道する手法が使われることもあります。

文章に限らず何かを隠して一部だけを報道することは嘘をつくために使うことができますのでこれも意図的に行われれば改竄や捏造の一種でしょう。

第4章 因縁な生活

前章で改竄や捏造などと物騒な言葉を使いましたが、因縁の世界には実体と言う概念と共に事実や真実と言う概念もありません。

条件や前提を与えた前置きを詳しく老いた上での、つまり真実や事実の定義をはっきり行った上ならば使ってもいいのでしょうが、使う場合にはそのような厳密な前振りが必要で軽く使える言葉ではなく重たく仰々しい言い方でしか使えません。

因縁の世界では実在論の世界のように個物が単独で存在できません。
何か複雑なことを言いたければ、いろいろな前提を明示した上でよく考えながら話さなければいけません。

実生活では日常生活でも社会生活でもこの様なことはあまり行われないでしょう。行われるのは数学者が数学をする時くらいでしょう。

ことばを安易に前提を明示せずに使うので特に意図がなくても、嘘や捏造や改竄に大方はなってしまいます。

ことばの世界によらずとも我々の世界認識も同じです。
無限とも思われる全体の事物とその「より成り立つ」関係全てを知ることはできません。
また何か簡単なことを簡単に認識するにも表現するにも何かが大概は切り捨てられます。

ですから仏教では本質的に世の中を仮や戯としてみます。
言い換えれば世界は改竄と捏造であるのが本質です。

ラプラスの悪魔のような全てのデータをインプットして計算できる悪魔と計算機があれば別ですが残念ながら難しいでしょう。

現代哲学ではこの意味で世界をシミュレーション、シミュラークルと呼んでいます。これは模擬や模造品と言う意味で悪く言うと紛い物と言う意味です。

これは悪いことのように考えられがちですが、我々のキャパシティの限界を意識した謙虚な見方と見るのが良いでしょう。

我々はラプラスの悪魔ではないですし、数学者の態度で全ての生活を送るわけにはいきませんし、ある種の発達障害である自閉症スペクトラム的な傾向のある人のように厳密にこだわるわけにはいきません。

発達障害の対義語を定型発達といい、揶揄して定型発達症候群と言われますが、世の中を空気を読みながら簡略化し渡っていくしか仕方がありません。

おわりに

実在論の実体(entity)に対応する、非実在論の言葉がないかと探しているのですが、あまり日常で使われない言葉しか思いつきません。
実体はなくても(あるいはあってもいいが)、しっかりと殻や外見やのれんだけは持っていることを示すような言葉がいいのですがしっくりきません。

そこでその様な言葉として「因縁」や「縁起」が使えないかと考えました。

大乗仏教では実体に対照する言葉として空が使われます。
しかし空は一般的ではありませんし数学の空と誤解されそうです。

とある人によると南伝仏教ではその様な言葉として無常、無我が使われるそうです。
数学では無定義語や無定義概念と言ったりしますがやや長そうです。

現代哲学では差延、現象学では現前、現代思想ではシミュラークルなどが候補に挙がりそうです。
構造主義のレヴィ=ストロースがプリコーラージュということを言っていますがそれもいいかもしれません。

普遍論争では実在論と唯名論(nominalism)があって名のnominalやnomenというのはありかもしれません。
名から連想して顔の哲学者、レヴィナスにちなんで、factとfaceと並べて実体をfactとして対照するものとしてfaceとするのもありかもしれません。MOD(modification)、mod(各種mod-系の言葉の語根)、modeなども現代的ですし上記の連想からいいかもしれません。

今回、全体性の観点と個体の生成の観点から因縁を解説しました。

そういう意味では因縁という言葉は全体性の面からも全体の存在を意味的に内包していますし、個体の生成の面では外殻、外延としての他の何かと「よる」ことのできる縁という言葉をもっていますので非常に良い言葉ではないかと考えます。

2022/06/21

やさしい哲学のリアリティの解説

はじめに

哲学は完成した学問ですのであとはいかに分かりやすく表現して誰にでも理解し易くするかを目指すのがいいでしょう。

内容は同じでも言葉が古臭かったり頭にすんなり入ってこないような表現をされていたらみんな哲学を避けますし、哲学はどんどん廃れていくでしょう。

言葉や表現はどんどん分かりやすくしないといけません。

医学では昔は病名は発見者の名前を取って名付けられていました。
例えば筋萎縮性側索硬化症(ALS)は昔はシャルコー病と言われていました。
しかしシャルコー病では名前を着ただけでは何の病気か分かりません。

しかし筋萎縮性側索硬化症なら名前から具体的に何が起こっている病気かを直接名前で表現しており病気のイメージをより得やすくなります。

哲学も出来るだけ今時に分かりやすくした方がいいでしょう。
伝統を守って古い言葉と表現を使っていると他の変化している領域とずれが生じてしまいます。
特殊な術語と特殊な表現を使う特殊な分野になってしまうでしょう。

これはだいぶ昔から起きていて俗に「岩波語」などと言われ難解な文章を昔の岩波書店の文章に例えて表現されました。
福沢諭吉は「俺は猿でもわかる文章を書くんだ」と言ったそうでそれを司馬遼太郎が称賛しています。

我々もそれに倣って哲学を分かりやすい言葉に置き換えましょう。

哲学はいろんな観点で見ることができます。
一つは存在や認識について考える学問と言う視点です。

また確かなもの正しいものについて考えるという視点もあります。
ここではもう一つ「哲学とはリアリティを研究する学問である」と言う視点から考えていきましょう。


第1章 哲学はリアリティを研究する

哲学は歴史的に見ると存在論と認識論からなっています。
また別の観点では確かさや正しさとは何かを追求する学問と言えたでしょう。

しかし現在の哲学は完成しているのでそれらに対する答えが出ています。
答えが出ている哲学の完成形を見ると哲学について別の見方をした方が現代ではしっくりくるかもしれません。

その別の見方とは「哲学はリアリティを研究する、あるいは研究してきた学問である」というものです。
リアリティという言葉を辞書で見ると色々書いてありますが、「現実感」のように訳します。

同じ語根からの派性はリアルやリアリズムでやはり日本語でも使われます。
リアリティとリアルは違うのがポイントです。

リアルは「現実」と訳してしまってもいいでしょう。
現実は「現」と「実」からできています。

「現」の対義語は夢だそうです。「実」の対義語は「虚」や「名」だそうです。
「現実」の対義語は「理想」「空想」「仮想」「虚構」だそうです。

面白いことに「理」も「空」も「仮」も「想」も「虚」も「構」も哲学において重要な感じです。ひっくるめて非現実とでも呼びましょう。哲学のみならず学問全般に使われます。

何でもそうですが「現実」にも接尾語がつくと意味とニュアンスが変わります。
「現実感」、「現実的」、「現実性」などになると後に解説するように意味が変わってきます。

哲学のテーマは「現実」のように思うかもしれませんが、哲学が完成した現在の見方からすると最終的には「現実」ではなく「現実感」の方がテーマとして重要です。

 「「(real)現実」が存在するから「(reality)現実感」があり、我々が現実感を感じる」

これが古典的な哲学の主流かつ常識的な考え方でもあります。

これと共に現在ではもう一つの考え方がこの考え方と並行する形で成立しています。

それは「リアリティ(現実感)があるから我々はリアル(現実)が存在すると思っている」と言う考え方です。
前者は現実がリアリティに先行し、後者はリアリティが現実に先行します。

前者の考え方は研究されつくされたのですが、後者の考え方が成立したのは比較的最近のことです。
ですからまだ常識や通念と言えるようになるまで十分に世の中に広まっていません。

現代のリベラルアーツ、教養ではどちらの考え方もできる様になるべきでしょう。

第2章 リアリティとは何か

そもそも現実(リアル)が存在するという考え方は、リアリティ(現実感)の存在が少なくとも一つの根拠となっています。
一つの根拠どころかそれが唯一の根拠である可能性もあります。

リアルなもの、現実、実在、実体、とリアリティ(現実感、実在感、臨在感)はセットです。
リアリティ(現実感)があるから我々は現実が存在すると思います。

また現実(real)がないとリアリティ(現実感)の感覚も生じないのではないか、と言う風に我々は考えます。
人間の精神は多様なのでそうではなさそうな例や考え方もいくらでもありますが、これが哲学の原点になります。

生まれたときから一度も何かのリアリティ(現実感)を感じたことがない人間がリアル(現実)が存在すると考えるのかを考えてみるといいでしょう。

もしかしたら生まれてから一度も何におリアリティを感じたことのない人間にも現実(リアル)が存在するという概念は持ちえるのかもしれません。
しかしもしかしたら何に対しても一度もリアリティを感じたことのない人間は現実(リアル)が存在するという概念を持ちえない可能性があります。

後者の考え方は理解し難い、または理解できない、ぴんと来ないという方がいるかもしれません。

人間の自然な感覚では、もしかして文化圏によって異なるかもしれませんが、前者の考え方は精神発達において獲得する必要があると考えられます。
他方で後者の考え方は知らずに一生を終えても特に問題がないのは現在でも特殊な場合を除けばそうでしょう。

現実(リアル)を認識しつつリアリティを感じられない状態が精神医療ではしばしば見られます。
そのものずばりのネーミングで現実感喪失症候群というものもありますし、自分自身の存在にリアリティを感じない離人症という診断名があります。

神経症(ノイローゼ、昔でいうヒステリーを含む)の解離性障害のサブカテゴリーですが、精神病である統合失調症でもしばしばみられます。

また逆にリアリティを感じるのに実体が存在しない場合もあります。
いないはずの他人や電波や神の存在のリアリティを感じます。

存在しないはずの感覚や思考のリアリティが存在するという意味では広くいうと幻覚や妄想もリアリティの障害です。
リアリティの障害は感じるはずのリアリティを感じないのも感じないはずのリアリティを感じるのも含めて実体意識障害等とも呼ばれます。

急性で一過性な問題であればまだいいのですが、この様な状態が反復したり慢性化すると生活に齟齬を生じる場合があります。

という訳で実体意識障害は精神の失調であると考えられています。
ですから実体意識障害は精神の生理学ではなく病理学で研究されます。

精神生理学と言うのはおそらくないのですが脳科学や認知科学や神経心理学や単に心理学がそれにあたるのかもしれません。

病理が異常の研究であれば生理学は正常の研究です。

精神の生理学では従来リアルとリアリティの対応は自明とされてきましたがやはり現代ですのでリアルとリアリティの関係を複雑に考える考え方もあります。


第3章 リアリティを中心に考える

現代の哲学はリアリティを中心に考えます。
リアリティがあったとしてそれに対応する現実(リアル)があるかないかは問題としません。問題としないのは分からないからです。

分からないということは立証も実証も検証も証明も全て成功したためしがないからです。
ただし立証も実証も検証も証明が必要なのはリアル(現実)が存在しないと何も成り立たない場合です。

そもそもリアルの存在がなくても全てを説明できる理論や説明体系があればリアルの存在を仮定して前提にする必要はありません。

その様な理論であり説明体系をつくることに哲学は成功しました。
これによって我々はリアルが存在してもしなくてもそもそも違いがありません。 情報量がないと言えますし、差がないと言えます。

ですからリアルの存在は哲学では無視されるようになります。あるいはリアルを想定すると便利な場合には応用的にリアルを仮定して理論を作り議論を進めれば良い訳です。

これは功利主義、プラグマティズムなどの考え方です。

リアルの存在は哲学の基幹的なテーマから外れましたが、次はリアリティの研究が哲学の重要なテーマとなりました。
リアリティとは何か、なぜリアリティが存在するのか、リアリティは必要なものなのかなど様々な問題提起ができます。

ちなみにリアルがあるという考え方を実在論(リアリズム)と呼ぶ場合があます。
リアリスティック(現実主義的)という言葉もありますがリアリズムとリアリスティックは、リアルとリアリティが違うように異なるものです。

リアリズムはリアル(現実)が存在するという考え方だけではなく、創作などにおいて作品のリアリティ(現実感)を高めるという意味に用いられます。

リアリスティック(現実主義的)という言葉は実在論(リアリズム)を哲学の言葉として使うにせよ創作活動の言葉として使うにせよ“現実(主義)っぽく見せかける”という意味になります。
別の言い方をいうと何かに“リアリティを持たせる”という意味に使われることが多いです。

第4章 発想の転換

現代における最も重要な逆転の発想の1つに“存在から創造に発想を切り替える”というものがあります。

創造という言葉を使わずに構造という言葉を使い、構造論、構造主義と主に言われます。
構造は「構を造る」あるいは「構(機構)で作られる」あるいは「作られた構(かまえ、機構)」と言う風に理解してもらうと良いでしょう。

古い考え方はあるかないか、あるいはなぜあるかなぜないかを問いますが、新しい考え方は造られているか、あるいは作ることができるか、あるいはどのように造るのか、あるいはなぜ作られたのかを問題にします。

別に古い考え方と新しい考え方を併用しても構いません。しかし後者の問いこそ完成した哲学の眼目です。

リアリティに関しても同じです。リアリティがどのようにして造られているのか、リアリティをどのようにして造るのかを問題にします。
そもそも何かがあるかないかを考える時に、何かがない場合には今はなくても造ろうと思えばそれを造れるのであればあるとみなしてよいかもしれません。
作れれば結局はないと言ってもあると同じ事です。

“ある”事を証明することを存在証明と言います。
ちなみに“ない”ことを証明することを悪魔の証明と言う人もいます。

数学の存在証明には非直感的なものと構成的なものがあります。
何かを造れることを示すためには具体的な構成方法を示せれば一番建設的でしょう。

具体的な構成方法を示せれば作ったものの存在を自然に直感的に理解したような気分になります。
一方で具体的な構成方法はないものの「存在する」という事実だけを具体的な構成方法なしに背理法や選択公理などの非直感的手段を使って示す方法があります。

具体的な構成方法からなる創作方法の前者の手法だけを認めて後者を認めないのを直感主義、具体的な構成方法に加えて非直感的な背理法の使用なども認めるのを形式主義と言って現代数学では激しい論争が行われた時期があります。

何かを造ることができればそれはあると言えるでしょうが、逆に何かあるものを破壊したり解体することができるかもしれません。
そうするとあったものがなくなってしまいます。

造ったり解体できればあるものをなくしたりないものをあるようにできるということになりますのであるとを区別することは意味がなくなります。

造るとか創造するというよりは現代哲学では同じ意味で構築、脱構築と言う言葉を使います。
創造はcreateですから宗教的な意味がありますので避けた方が無難でしょう。

構造と言う言葉はストラクションです。
建築するという意味になります。
createするよりstructする方が言葉に色がついてなくて良いでしょう。

構造を造る、あるいは構造を造る時に言葉として「構築」「脱構築」という言葉を使います。
そうすると材料や部品から全体を造る建物や建築のイメージを借りることができます。


第5章 リアリティの作り方

哲学では存在を示すために「造る」ための具体的構成方法を占める方向に進化しました。

哲学においては数学のような抽象的な対象を扱いません。
ですから哲学においては数学のように背理法のような具体的な構成方法を示さず存在を積極的に認めるような手法にまで立ち入る必要がありませんでした。

何かにリアリティを与える、あるいは何かをリアリスティックに構成する方法については実は西洋哲学の正当であるlogos中心主義よりはソフィストによるレートリケー(レトリック、修辞学)的な方法の方が優れているかもしれません。

しかし西洋哲学の正当ではなく、亜流、あるいは傍流扱いされてきたと思われます。
中世神学では実在論に対して唯名論は異端的に扱われました。

それを引き継ぐのが大陸合理論とイギリス経験論です。
どちらかと言うと唯名論やイギリス経験論は劣勢に見えますがこれらはリアリティが造られるとする考え方と見ることができます。

哲学のブレイクスルーは哲学内部ではなく他の学問領域の影響を受けています。
フッサールという数学基礎論の学者が哲学に転向し現象学という方法を造りました。
哲学は現前を出発点として扱うべきだというものです。

現前とは言い換えればリアリティです。
フッサールの弟子のハイデガーは現前が意識化されるのは意味や道具連関、物連関があるためと考えました。
リアリティを造るためには意味が必要と考えたわけです。

ニーチェと言う学者はリアリティを造るのは存在して欲しいという感情、力(権力)の意志、ルサンチマンなど生の持つ欲望や衝動と考えました。

ジュリアス・シーザーは「人間は自分の信じたいことを信じている」あるいは「自分は自分の信じたいものしか信じない」と言いましたがそれと同じような考え方です。

言語学のソシュールは言語で表されるものに対する言語の優位性を主張し「差異の体系」と言う考え方を導入しました。

つまりリアリティの一要素は言語化、あるいは象徴化であり、また差異が大切だと言っています。

数学では論理主義、形式主義、公理主義などの考え方が確立しました。
これは形式があればリアリティは必要ないという考え方ではありません。

これは人間の立場から見れば形式にリアリティを感じることができれば数学は已然として創造的な学問として学問として成り立つことを言っています。

精神科医で精神分析家のラカンはリアリティの生成は他の何かのリアリティを取り込むことと考えました。
複数のリアリティを構成要素として新たなリアリティを造れるわけです。
ここで関わるのはエス(イド、リビドー)と言われるものと無意識と想像力です。

リアリティを造るという観点では哲学者より芸術家や文学者などの創作者、あるいはメディア関係者の方が具体的な方法に詳しいかもしれません。

そこではリアリティを与える、出すことは手法、技術です。
彼らが作り出したものに鑑賞者や受け手がリアリティを感じる様にします。
学校などで習う場合もあればその時その時の創意工夫による場合もあるでしょう。

完全にオリジナルと同じリアリティを持たせれば贋作やフェイクと呼ばれる場合もあります。

存在しないニュースやニュースの解釈の仕方を意味を受け手に作為的な方向に導こうとすれば捏造、改竄やフェイクニュースと呼ばれます。

多くの人はリアルだけで作られた現実が存在すると考えます。
一方リアリティだけで我々の環境や現実と錯覚されるものは成り立っているという見方をリアルだけで作られた現実と対照させてシミュレーション、シミュラークルと言います。


おわりに

生物学的にいうとリアリティの感覚は我々がリアルを感じ利用するために進化した脳の性質なのかもしれません。
つまり五感とな辞様に感覚のモダリティの一種なのかもしれません。

仏教では五感ではなくそこに「意」と言うのを加えて感覚のモダリティを六感としています。

仏教では六感の他に2種類の末那識、阿頼耶識という潜在意識、無意識が存在するとする瑜伽行唯識派という思想があります。
仏教の空の概念を深めるためには学習や思考だけでは難しい面があり、内省の修行が行われます。

哲学におけるリアリティの重視、あるいはリアルに対するリアリティの優位も西洋科学における心理主義の流行と関係あるのでしょう。

西洋哲学における「実」という言葉の使用は実でないものを念頭に置いており、実でないものに対する実の優位が無意識のヒエラルキーとして存在していたのでしょう。

リアルもリアリティも実を前提に考えられた概念です。

実ではない、非実ともいうべきものを端的に表現する言葉としてすっきりと認知されているものがないことでも非実の難しさは分かるでしょう。

日本は初等教育は一流だが高等教育は全然ダメと昔言われました。
いろいろな意味がありますが、例えば私立の進学校なら高校2年で社会科や倫理に関わらず全教科教育課程を修了しますが公立の学校では学校卒業時点で各教科最後まで終わらないか最後の部分を適当にします。

哲学の場合は最後だけが重要なので(逆に仏教の場合は最初が重要)、高校倫理は公立学校では趣味の世界か、学生に道を誤らせる可能性があるのでやらない方がましかもしれません。

更に悪いのは大学の教養課程や下手すると専門課程も日本で高等教育を受けている以上リベラルアーツ力が不足している教員が多いと見られるため各学問の基礎が良く分かっていない人が教えている可能性があり、悪臭が伝播、伝染していきます。

日本は昔は人材の他には資源がない国と言われました。
逆に人間は日本が優れていると考えて精神主義が流行った時もあります。

日本の地盤低下は人材、人的資源の低減による毒が回った状態、あるいは他国の進歩が速いため日本の優位性が低下したかあるいは逆転された状態と見ることができるかもしれません。

多分知らない人ならばリアルとリアリティの関係を理解するだけで軽く悟ることができるはずですので実学のみならず基礎科学(昔のではなく現代の哲学や現代数学)を勉強していくことが大切なのでしょう。

2022/06/10

究極にやさしい社会科の哲学

はじめに

哲学について簡単に説明します。

哲学は簡単に説明できます。
なぜなら哲学は既に完成した学問だからです。
いかに要約するか、いかにまとめるか、いかに分かりやすく説明するかだけに注力できます。

現在において哲学とされるものは応用哲学や哲学史の類で、哲学を言うより倫理学に属します。
終わってしまった学問なので更に進みようもありません。

歴史的な言葉遣いなどをより親しみやすく定義し直しつつ哲学をわかりやすくまとめてみましょう。

第1章 哲学の研究対象

哲学の研究対象を「存在とは何か」「認識とは何か」だけとまとめてしまいましょう。

思想や東洋思想と呼ばれるものは雑多な対象を研究しているので倫理学の範疇とします。
哲学は倫理や道徳や真善美の判断を研究していたこともありますがこれも倫理学に任せましょう。

哲学自体も倫理学に含まれますがその中で「存在論」と「認識論」だけを研究するとして倫理学と区別を行います。

第2章 存在と実在論と非実在論

我々は何かの存在を感じます。
そうすると2通りの考え方があります。
何かが実際に存在するという考え方と何かは実際には存在しないという考え方です。

シンプルに前者を実在論(realism)と呼びます。後者は非実在論とも言える理論がいくつかあります。
実在の対義語ですから「実」か「在」の対義語でしょう。

実の対義語に虚や無、名があります。
実在は虚であり無である考え方を虚無論(nihilism)とでも呼びましょう。あるいは存在するものは実体ではなく名であるという理論を唯名論と言います。

あるいは実在の実に対照する言葉ではなく、在るに対照する言葉として造る、造れる、造られているを考えると構造論という理論があります。
あるいは観念論や構造論も非実在論と言えます。

実在論をもう少し説明すると、「何か」が実際に存在するか、あるいは何かその物自体ではなくても実在を裏付けるものとしての「実体」が存在すると考えるのを実在論と言います。

第3章 認識について

「存在」は「認識」と関係しています。「何かが存在する」と感じるのも我々の中に「何か」の観念が存在してそれを認識するからです。

実在論ではまず実体があって、実体が観念として浮かび上がって、その観念を認識すると考えます。
この場合プラトンのイデア論では実体をイデア、観念をイデアの影と呼びました。
カントの純粋理性批判では実体を物自体と呼び、観念、認識が生じる仕組みを感性、悟性、理性などの言葉を使って説明しています。

プラトンやカントは純粋な実在論者とこの本では呼びましょう。
実在とは実体が実際にあるいは現実に存在するという意味です。

第4章 観念論

実体が存在しないという理論に観念論を言うものがあります。
実在論は実体があって実態から観念が生じて観念の認識するような構図でした。 観念論は上の構図から実体を取り去ります。そして観念と認識しかないと考えます。

我々が実体が存在するように感じてもその実体も実体が存在するような感じも両方とも観念が作り上げたものであると考えます。

唯心論という言葉もありますが大体同じに使われることがあります。
私の心しかなく、私の心が全ての世界を生成している、あるいは全ての世界は心の現われに過ぎず世界と心は同じものと言う風に考えます。

ちなみにこれと反対に唯物論という考え方もあります。
心も含めて全ては物で説明できてしまうという考え方です。

観念論と言う場合、ドイツ観念論が有名です。
フィヒテ、シェリング、ヘーゲルなどの考え方です。
カントの物自体の存在は仮定に過ぎないので切り捨てて全て観念や認識だけで説明してしまおうという考え方です。

第5章 認識論

認識という言葉をあえて分解してみると「認知」と「意識」となります。
認識とは「認知と意識」あるいは「意識を認知する」あるいは「認知を意識する」と考えてみましょう。

「何かの存在」にせよ「観念」にせよそれを認識することが哲学のテーマになります。
「正しく認識しているか?」「確実に認識しているか?」などについて厳密に考えることを「認識論」と言います。

認識論と言うと「何かを認識する」という使い方から受動的な意味合いが感じられるかもしれません。
「何かがある」から「それを認識できる」という思いが強い場合にその様に受け身的な感じを受けやすいのでしょう。

しかし逆の発想も出来ます。
「認識したから、認識されるものが存在すると思っている」という発想です。

実体→観念→認識が1つの構図であれば、これを逆転した認識→観念→実在もまた一つの考え方でそれで整合性のある理論を構築できます。
この考え方を厳密な科学の方法論としようとしたのがフッサールの現象学です。

現象学では観念という言葉は使わず、現象や現前という言葉を使います。

現象は「現れる表象」と書いて意識される、あるいは意識されなくても意識を向ければ表象として認識され得るものとしましょう。
現前は認識されているもの、すなわち認知されかつ意識されているものと考えてみます。

現象学では哲学を厳密な学問とするために誰にとっても確実なものとして認めるべきなのは現前であると考え、減算を出発点として哲学を構成するべきだと考えました。

第6章 実存主義

実在と紛らわしいのが実存です。
存在という二字熟語の存と在も紛らわしいので何となく紛らわしくなってしまうのかもしれません。

実存は現実存在、現実的存在の略とされます。
自分が現実的に、また実際にどのように存在し、どの様に存在すべきか研究します。

「事物が実際に現実に存在している」という一文、あるいは一命題でなる理論が実在論です。
実在論の否定は存在していない、になります。

実存主義においては自分の存在と自分を取り巻く外部要因や環境の存在は寄与のもので本当に存在するか、しないかと問うべき対象ではありません。
実存主義は簡単にいうと生き方論です。
どのように生きているか、どの様に生きるべきかを研究します。

生き方論なのですが、現象学や非実在論、例えば観念論や唯心論、あるいは虚無論や構造論と結びつくととんでもない破壊力を持った哲学に発展することがあります。

第7章 ニヒリズムとニーチェ

虚無やニヒリズムと言うと悪い意味で取られがちです。

ニーチェはニヒリズムをネガティブなニヒリズムとポジティブなニヒリズムに分類しました。
ニヒリズムでは実体がない代わりにカオスがあります。

そしてポジティブなニヒリズムでは力(権力)への意志や場合によってはルサンチマンによって認識対象の生成を行います。

広い意味のポジティブなニヒリズムでは何かがあるのではなく何かを造るという考え方です。
狭い意味のポジティブなニヒリズムは何も作らないか、あるいはルサンチマンによって何かを造ることでしょう。

第8章 現象学と実存主義とハイデガー(とサルトル)

ハイデガーは歴史に残るかもしれません。
サルトルは分かりません。

ハイデガーは現前がなぜ現象するかについて研究しました。
結果としては現前の意味論と道具的連関です。
つまり現前が生じるのは自分にとって何らかの意味がある、と言う観点に至りました。

意味があるから現前する、と言い換えられるかもしれません。
サルトルの自由論は素晴らしいかもしれません。

第9章 構造主義

何かの観念が存在するのは何らかの形で何かの観念の実体が存在するからと言う考え方が実在論です。

他方で何かの観念を認識しても何かの観念の元となる実体は存在しないと考えるのはある意味でニヒリズムと思われるかもしれません。

何かの観念が実体の存在から生じるのでなければ何から生じるのでしょう?

それは実体がなくても観念を生み出す機構を精神が持っていると考えます。
機構が何かの観念を造るのです。
「機構が造る」を略して「構造」と言いましょう。

構造が何かの観念を造るという考え方を構造主義と呼び、構造主義を使って作られた理論を構造論と呼びましょう。

構造主義を用いて哲学の主題である存在や認識に関する理論を造ることができます。

実在論は人間にとって最も大切な哲学理論かもしれません。
人間と社会は基本実在論をベースにしています。
また人が必ず身につけるのが実在論でしょう。

神に与えられたか禁じられた木の実から得た知性、あるいは近代的人間性、そういうものの根っこにあるのは禁断の木の実である実在論なのかもしれません。
これに上乗せや置き換わるように構造主義が増殖中です。

実在論や認識論を構造論にすることができたことが時代を近代から現代に進めました。
哲学の文脈で構造主義により実在論と認識論を造ったのはラカンやデリダです。

構造主義が哲学に大きな影響を与えたのは今まであると思われていたものを造ることができることを示したことに加えて、その造り方を具体的、操作的、形式的、手続き的に示したことです。

非実在論はしばしば否定的な言葉として使われますが、これまではあると思われていたものを人間が造ることができると言おうものなら観念的と批判されかねない状況でした。

その様な主張がしばしば抽象的で具体性がなかったからです。

構造主義を使えば現実を造れます。
まだ人間に構造主義を使いこなす能力や物量が少なすぎるので現在できることと言えば仮想現実くらいかもしれません。

構造主義に基づいたテクノロジーの1つがITです。
しかしその基礎にある数学や自然科学は現在すべて構造主義(またの名を形式主義)です。
その応用科学である情報科学や計算機科学、通信理論もすべて構造主義です。

PCもインターネットもスマートフォンもAIも全て構造主義です。

第10章 絶対主義と相対主義

構造主義を使って何かの理論を造ったとしてそれは絶対的なものではありません。
人間が作ったものを絶対的なものというのはそもそも誰にでも違和感がありますのでその様な主張は特殊な場合になされることがある可能性があるくらいのものでしょう。

一方実在論系の理論は絶対化されやすい傾向があります。
単なる観念論ではないと主張者や主義者が信じている場合が見られるからです。何かの実在を絶対化するとその実在を認めない考え方は正統派ではなく異端になります。

我々は普通特別な勉強をしなければ無意識的乃至は意識的に何かの実在を信じている傾向があります。
存在論や認識論を構造論化するまでは西洋哲学ではニーチェを除いて何かの実在を前提としています。

実在論と構造論は実は共存できます。
しかしアンチ実在論のカウンターである哲学的構造論あるいは構造論的哲学が成立するまでは広い意味での実在論系の哲学理論しかありませんでした。

1か無の場合、無ではどもならんので1を選択する、あるいは選択してしまう、あるいは選択してしまっている傾向があります。
実在論か狭い意味でネガティブな意味での本当に何もないカオスなニヒリズムでは実在論を選択してしまいそうでしょう。

しかし2と無なら、無以外のどちらかを選択できます。
実在論を取るか、構造論を取るか、あるいは両方を取るという選択が可能になります。

心理学的に選択のバイアスと言うかある心理法則があり、相手に選択肢をいくつか与えればその選択し以外の選択をしないという心理法則があります。

哲学の最終形はポスト構造主義と呼ばれます。
これは相対主義です。
何の相対主義化と言うと理論の相対主義です。

何か絶対化される理論はないということを言っています。
また特定の単一の基準で順序関係で理論の価値付けを行うことはできますが、順序付けするための基準は多数あります。
多数どころか数えきれないほどあるかもしれません。

無数の基準により理論にいろんな順位がつくのです。
どの順序、特に価値判断を含めて順位と呼ぶとどれが理論の優劣を判断するうえで正しいとは言えないでしょう。

ですからどれか特定の理論が特別視するのはナンセンスです。
これが哲学の理論を考える際のベースの理論になります。

おわりに

哲学は完成形があるのでまず完成形を理解してから哲学史上の色々な哲学を理解していければそれがベストで早道かもしれません。

急がば回れでしょうか。

完成形を理解するのが難しければ数学史の諸分野を渉猟しながら完成形を理解するための直感力や帰納的に理解するための知識や経験を得て哲学の完成形、すなわち数学基礎論のようなもので哲学基礎論のようなものに到達するのがいいかもしれません。

帰納演繹ではありませんが行きつ戻りつ理解するのがいいのかもしれません。

数学で言えば集合論や位相論の概要を知って解析学や代数学を勉強するのが王道かもしれませんが、高校や大学の教養で習った微分・積分や線形代数を勉強した上で集合論や位相論を勉強すると集合論や位相論の理解が容易になります。

早道や王道と書きましたが学問に早道も王道もないのかもしれません。
「「真理はない」は真理である」のようなパラドクス論が日本のフランス現代思想の流行期のニューアカデミズムで語られたことがあり、現代哲学を分かりにくくしていたことがあったと思います。

不完全性定理のゲーデルの御都合主義的借用から文系の学者が現代哲学の理解を混乱させてしまったように感じます。

別に無限を扱う必要もありませんし、理論が仮に非現実的ですが無限の濃度であってもラッセルのタイプ理論や公理主義的集合論や領域や圏や関手の理論など使って解消するか更に研究すればいいでしょう。

ただそうなると哲学と言うよりは数学の領分になるかもしれません。

ドゥルーズは哲学者と言うより現代哲学を応用した思想家や評論家や哲学史家と見るべき人かもしれませんが、彼のように現代哲学を踏まえつつ社会科の倫理学を勉強すると一番面白いかもしれません。

2022/06/01

すごく簡単な現代哲学の「脱構築」のやり方

はじめに

現代哲学のあらゆる面で使える便利な概念が「脱構築」です。
今の若い人には聞き馴染みがない言葉かもしれませんが、1980年代に日本にニューアカデミズムと呼ばれる現代思想ブームがありましたがその時にはよく通過われた言葉でした。
現代哲学を勉強する際にも現代哲学を応用する際にも使えます。

基礎から応用、入門から上級篇、あらゆるところで脱構築は有用です。
脱構築は色々な方法で実践できます。
その中で簡単そうなものを紹介します。

第1章 何を構築し、何を脱構築するか

脱構築の反対は構築でしょうか。
では構築とは何でしょう。

現代哲学では事物の実在を前提としません。
事物の実在を前提とする考え方を素朴実在論と言います。
これは現代哲学の1つの要素で現代哲学では事物を実在するとする考え方もします。

近代以前の哲学は素朴実在論は意識するとしないとにかかわらず無意識レベルの前提で、唯名論や大陸経験論のような一見素朴実在論、あるいは実在論を否定している様に見える思想でも気づかぬうちに素朴実在論を前提としています。

実在とはそこに既にあるもの、認識するもの、発見するものであって人間が同行できるものではないという先入観を持った考え方です。

人間はあくまで受動的で知覚したり認識するだけです。
近代哲学はざっくりいってしまうとここ止まりです。

現代哲学はこの様な考え方もできつつ、本質的に別の考え方をすることができます。

それは「実在している様に思える事物は人間が構築した者である」「人間は実在している事物を構築できるし、実在している様に思う感じも構築できる」という考え方です。

つまり人間は実在している様に思える事物を作ることができる、あるいは事物の実在感を作ることができると考えます。
あらゆる精神に現れる現象は人間が作ることができると考えます。

特に現象の中でも実在感を持って意識される「現前」と呼ばれるものと作ることができると考えます。

作る方法を構造主義といいます。
また「作る」を構築といいますし構造と言ってもいいでしょう。

 「構築」は「構(かまえ)を築く」と書きます。

 「構造」は「構(かまえ)を造る」と書けます。

 構築はconsutructionで脱構築はdeconstructionと書きます。

 構造はsutructureと書きます。

どれもstruct-(建てる)の語根からの派生語でしょう。
事物も実在もひっくるめてそのもととなると考えられた現前も人間が建てた(作った)ものと言う素朴実在論とは対蹠的な考え方も現代哲学にはあります。

これは近代哲学までの思想とは大きな違いです。

現前を作る方法を構造主義と言い、また事物や実在、またそのもととなる現前も人間が作るものであるという考え方も構造主義です。
あるいは構造主義を適用された哲学と言えるでしょう。 つまり近代までの哲学には素朴実在論の考え方しかなく、現代哲学は素朴実在論と構造主義の2通りの考え方があります。

つまり現代哲学より前の哲学の現前についての考え方は既にあるものを認識するというものですが、現代哲学では減算は認識するという古い哲学の考え方に加えて、現前は作るものと言う考え方が加わったわけです。

第2章 素朴実在論の同一性神話

我々は現前、あるいは実在するものは何らかの同一性を保っていると思っています。

赤ん坊のころの我々と青年期、壮年期の我々は同じか、青年期、壮年期の我々と老年期の我々は同じか。
素朴実在論では我々は同一人物ないつでも何らかの意味で同一であると考えます。

何らかの意味で同一性が保存される、質料保存則やエネルギー保存則は何らかの形で我々に身についているでしょう。

何かが変わっても同一性が保たれていると考えるのは、「脱構築」という言葉をおそらく作ったジャック・デリダの差延という概念です。

逆に物事が同一性を持つという感じを解体するのが脱構築になります。

差延と言う考え方は裏を返せば時間の経過で同一性が保存されないという考え方です。
時間を通して物事が変化していると言っているだけではなく、時間ごとに物事が完全に入れ替わっているとまで考えます。

素朴実在論で当たり前の感覚、時間の経過によって何らかの変化はあっても事物の何かは保存されているという考え方とは異なる見方を現代哲学では出来ます。
モダニズムのデカルトの要素還元的方法論はまずは物事を要素にバラバラに分けますが、現代哲学の目から見ると分け方の踏み込みが全然浅いのです。

学問の難問を解決するには時間や空間の概念も含めてもっとバラバラにして無意識の前提に気付く必要があります。
そしてバラバラにした要素を還元するのではなく構築するのです。

デカルトは事物が実在するという前提から離れられませんでした。
ですからデカルトや彼の後継者から発展していくものは構築ではなくて解析や分析です。

数学の分野ではデカルトの代数幾何学からニュートンやライプニッツが解析学(微分積分法)を作りました。

これを古典解析学とすると現代数学をベースとした現代の解析学は集合論や位相論から極限や収束、変換や連続関数、微分や積分ができる場を一から構築します。

第3章 良い、悪いによる脱構築

事物の認識の最も発生学的に初期の形はあかちゃんの心地良さ、心地悪さの感覚だという説があります。

おなかがすいたり、おむつに便をしたり、眠いのにねれなければ心地悪い、乳房に触れてミルクを吸ったり、便を拭いてもらって新しいおむつに替えてもらったり、温かくて柔らかい毛布に包んでもらってぬくもりと感じながら眠りに落ちれば心地よいと感じます。

この心地よさや心地悪さ、気持ちよさが気持ち悪さが人間の認識における良い、悪いの始まりではないかという説です。

それはともかく、人間は対象を良いか悪いかで区別する傾向があります。
良いか悪いかを使って脱構築の最も簡単で実用的な方法を示しましょう。

良いものにも悪い面がある、悪いものにも良い点があると考えるのです。
物事の良い点や良い面、逆に悪い点や悪い面をどれだけ思いつけるかはある程度の知的能力に依存します。

知的能力に関係なくこういう発想を持って物事を見るのに慣れていない人にはすぐに色々な見方が出てこないかもしれません。

ただ「知」のいい所は訓練が効くところです。
努力すれば誰でも知的能力を高めることができます。
知にはそれを訓練するための方法が色々と用意されています。

特に西洋的な知は方法への精神の部分がありますから、何かの知識に到達するための方法、手順を明確にしてあります。
地道に勉強すればいつかは理解できる仕組みになっています。

この方法は俗に「物事を肯定的に見る」などの形で一般社会に既に流布しているように見えます。

精神医学の認知行動療法などでは認知の歪みというものを治療するためにこの方法が使われます。

まあこれだけでも部分的に脱構築を利用していると言えますが、どうせですからさらに進めて「ネガティブに見ていたものをポジティブに見る見方や考え方を探してみる」という逆のアプローチもしてみましょう。

前者は物事に対するネガティブな見方をポジティブな見方もすることで脱構築する、後者は同じ物事に対するネガティブな見方をポジティブな見方をすることで脱構築するということになります。

これを行うことで、特に常時行う様に訓練すると我々は物事を単純に良いものであるとか悪いものであるとかなどの単純で情緒的な見方をすることを避けることができる様に訓練できます。

第4章 複対立的対象把握

ある面とかある点とか言いますが側面とか観点という言葉を使う場合、我々は物事を一通りではなく複数の見方をしていることが分かります。

昔クレッチマーという精神医学者が多次元精神医学というものを唱えて患者さんを複数の視点から見て分析することを唱えました。

情報とは「変化するパターンの中で選べるもの」で例えば「この命題は真」「清朝176㎝である」が情報となります。

物事は色々な見方ができます。
その物事は良いものであるの真か偽かを単純に主観的に決定してしまう場合があります。
これは前章のケースです。

ただ「良い」「悪い」の定義ができたら他の人にはもっと分かりやすいかもしれません。
傍の人からすればどういう点からみて良いか悪いか、これをまず知りたいところです。

「何もかも全ての点においてよいんだ」という答えが返ってくる可能性もありますが、「いい面も悪い面もあるがどっちかというと、あるいは総合すると良い方が勝る」とかより詳細な答えが返ってくるかもしれません。

点とか面とか言われているものを次元と表現しているわけです。
一つの次元とは例えば「この物事は美味しい」とか「この物事は何gである」とかになります。

美味しいかどうかならイエスかノーで答えられますが、何gかと聞かれると実数で答えるので答えが複数です。

前章のポジティブな見方やネガティブな見方を探すというのは複数の観点から対象を見てその良し悪しを考えることになります。
その場合何が良くて何が悪いのかが問題になります。

美味しいことはよいことか?

30gであることはよいことか?

良いとか悪いとかは主観的な印象で決まっている場合があるため、深く考えだすとその物事が良いのか悪いのかは自分の中で単純ではなくなります。

複対立対象把握は物事を出来るだけ多面的に見て、他と矛盾があったにせよ矛盾を矛盾のまま、複雑なものは複雑なまま抱き続けることを指します。

第5章 良い悪いとは

「良い」とか「悪い」とかは非常に大雑把な言葉です。

「いじめはいじめられた方も悪い」という言説が昔は(今も)ありました。
この場合の悪いは「うまいことやらなかった」「普段の姿勢に問題がある」「原因がある」などを指しているのでしょう。

「悪い」には善悪の悪、正義と悪の悪、倫理的な悪、下手な事、判断がまずかったこと、その他いろいろな意味が含まれます。
良いも同じです。

アメリカのアニメに「ビーバス&バッドヘッド」と言うのがあって、登場人物は全ての物事を「クール(最高)」と「サック(最低)」の2語で切り取ります。
物事を二元化、あるいは二項対立で見ているのかもしれません。

あるいはサピア・ウォーフ仮説と言うのがあって、人間の思考は言語から影響をつけます。
クールとサックの2語しかしらないので、全てのものをその2つに分類する思考が働くのかもしれません。

ある見方から物事を眺めたと気に、その結果を座標で表現し、軸ベクトル上の値と対応させてみましょう。

例えばその物事は美味しいか、という見方なら美味しければ+1、不味ければ-1、どちらでもなければ0とします。
またその物事は何gかであれば重さを量って出た数値を軸上に表現できます。

前者は離散的で前者は連続的な形で結果が出ます。
結果の解釈を自分にとって良いものか悪いものか決める基準があれば結果に対する良いか悪いかの判断は下せるでしょう。

しかし軸上の同じ点であっても実際にはポジティブにもネガティブにも判断できます。
ある本質に基づいて良いと判断されることがそれと同じ本質に基づいて悪いと判断できることもあります。

良いことと悪いことはコインの裏表みたいな見方をできると良いことにはかならず悪いことも伴い、悪いことには必ず良いことも伴うと心構えができます。

それは良いことを良いとみなす本質的な原因から同時に導かれる悪さかもしれませんし、良いとされていることを複数の異なる考え方に当てはめて考えると悪いことと見なせる場合が出てくる場合もあります。

あるいは結果の評価自体も多面的にできるので、ある軸上で+1の結果が出たことを評価する際に別の軸の結果が関係してきて、ある見方をするといい結果が別の見方をすると悪い結果と評価できる場合があります。

良い悪いは単純化する必要もないですし、複雑なものは複雑なまま、矛盾があってもそのまま丸ごと受け入れるのが現代哲学流の対象把握になります。

おわりに

物事を瞬間的に主観的に良い悪いと判断するのは必要な場合があります。
それはそれで重要なことです。

他方で知的に対象を考えたいときに良い、悪いという感情が先入観になって判断を変える場合があります。
その判断結果は主観的で感情的で知的ではないと思われてしまうかもしれません。また合理的、合目的的な判断を邪魔する場合があります。

脱構築の簡単な方法を使って対象の事物の偏見や無意識の思い込みを解体することで知的で合理的な思考をサポートしてくれることがあります。

瞬間的に感じる良い悪い感情を前面に出して生きている人は感覚的な人と見なされる傾向にありますし、対象やその良い悪いの判断を脱構築してしまって相対化することで冷静で中立的で客観的になった上で試行して結論を出すスタンスはよく言えば理性的、悪く言えば理屈っぽく見えるでしょう。

非常に簡単に書きましたが「ポジティブに見ている事物、あるいは事物に対する見方をネガティブに考えてみる、そしてネガティブに見ている事物、あるいは事物に対する見方をポジティブに考えてみる、ということを同時に行う」ことで事物に対する見方は簡単に変わります。
事物に対する見方が変わること、これは脱構築です。

脱構築は事物の実体性を消してしまったり、実在とみなくしてしまったり、現前を焼失させてしまったり、解体してしまったり、要素に分解してしまったり、いろいろなことができますが、単に微妙に見方を変えるだけでも脱構築です。

実在という前提からいったん離れて、構築する、という概念から見るのが望ましいですが、そういう見方を出来なくても、事物に対する見方を変えることは簡単にできる方法がいくらでもあります。
それらは全て現代哲学では脱構築の方法になりますが、現代哲学より前の考え方では「単に物事に対する見方が変わった」以上の意味はありません。

しかし仮に構造主義をマスターしておらず素朴実在論の感覚しかない人でも、このやり方は役に立ちますし、構造主義を理解する突破口になり得ます。