究極にやさしい社会科の哲学

2022/06/10

究極にやさしい社会科の哲学

はじめに

哲学について簡単に説明します。

哲学は簡単に説明できます。
なぜなら哲学は既に完成した学問だからです。
いかに要約するか、いかにまとめるか、いかに分かりやすく説明するかだけに注力できます。

現在において哲学とされるものは応用哲学や哲学史の類で、哲学を言うより倫理学に属します。
終わってしまった学問なので更に進みようもありません。

歴史的な言葉遣いなどをより親しみやすく定義し直しつつ哲学をわかりやすくまとめてみましょう。

第1章 哲学の研究対象

哲学の研究対象を「存在とは何か」「認識とは何か」だけとまとめてしまいましょう。

思想や東洋思想と呼ばれるものは雑多な対象を研究しているので倫理学の範疇とします。
哲学は倫理や道徳や真善美の判断を研究していたこともありますがこれも倫理学に任せましょう。

哲学自体も倫理学に含まれますがその中で「存在論」と「認識論」だけを研究するとして倫理学と区別を行います。

第2章 存在と実在論と非実在論

我々は何かの存在を感じます。
そうすると2通りの考え方があります。
何かが実際に存在するという考え方と何かは実際には存在しないという考え方です。

シンプルに前者を実在論(realism)と呼びます。後者は非実在論とも言える理論がいくつかあります。
実在の対義語ですから「実」か「在」の対義語でしょう。

実の対義語に虚や無、名があります。
実在は虚であり無である考え方を虚無論(nihilism)とでも呼びましょう。あるいは存在するものは実体ではなく名であるという理論を唯名論と言います。

あるいは実在の実に対照する言葉ではなく、在るに対照する言葉として造る、造れる、造られているを考えると構造論という理論があります。
あるいは観念論や構造論も非実在論と言えます。

実在論をもう少し説明すると、「何か」が実際に存在するか、あるいは何かその物自体ではなくても実在を裏付けるものとしての「実体」が存在すると考えるのを実在論と言います。

第3章 認識について

「存在」は「認識」と関係しています。「何かが存在する」と感じるのも我々の中に「何か」の観念が存在してそれを認識するからです。

実在論ではまず実体があって、実体が観念として浮かび上がって、その観念を認識すると考えます。
この場合プラトンのイデア論では実体をイデア、観念をイデアの影と呼びました。
カントの純粋理性批判では実体を物自体と呼び、観念、認識が生じる仕組みを感性、悟性、理性などの言葉を使って説明しています。

プラトンやカントは純粋な実在論者とこの本では呼びましょう。
実在とは実体が実際にあるいは現実に存在するという意味です。

第4章 観念論

実体が存在しないという理論に観念論を言うものがあります。
実在論は実体があって実態から観念が生じて観念の認識するような構図でした。 観念論は上の構図から実体を取り去ります。そして観念と認識しかないと考えます。

我々が実体が存在するように感じてもその実体も実体が存在するような感じも両方とも観念が作り上げたものであると考えます。

唯心論という言葉もありますが大体同じに使われることがあります。
私の心しかなく、私の心が全ての世界を生成している、あるいは全ての世界は心の現われに過ぎず世界と心は同じものと言う風に考えます。

ちなみにこれと反対に唯物論という考え方もあります。
心も含めて全ては物で説明できてしまうという考え方です。

観念論と言う場合、ドイツ観念論が有名です。
フィヒテ、シェリング、ヘーゲルなどの考え方です。
カントの物自体の存在は仮定に過ぎないので切り捨てて全て観念や認識だけで説明してしまおうという考え方です。

第5章 認識論

認識という言葉をあえて分解してみると「認知」と「意識」となります。
認識とは「認知と意識」あるいは「意識を認知する」あるいは「認知を意識する」と考えてみましょう。

「何かの存在」にせよ「観念」にせよそれを認識することが哲学のテーマになります。
「正しく認識しているか?」「確実に認識しているか?」などについて厳密に考えることを「認識論」と言います。

認識論と言うと「何かを認識する」という使い方から受動的な意味合いが感じられるかもしれません。
「何かがある」から「それを認識できる」という思いが強い場合にその様に受け身的な感じを受けやすいのでしょう。

しかし逆の発想も出来ます。
「認識したから、認識されるものが存在すると思っている」という発想です。

実体→観念→認識が1つの構図であれば、これを逆転した認識→観念→実在もまた一つの考え方でそれで整合性のある理論を構築できます。
この考え方を厳密な科学の方法論としようとしたのがフッサールの現象学です。

現象学では観念という言葉は使わず、現象や現前という言葉を使います。

現象は「現れる表象」と書いて意識される、あるいは意識されなくても意識を向ければ表象として認識され得るものとしましょう。
現前は認識されているもの、すなわち認知されかつ意識されているものと考えてみます。

現象学では哲学を厳密な学問とするために誰にとっても確実なものとして認めるべきなのは現前であると考え、減算を出発点として哲学を構成するべきだと考えました。

第6章 実存主義

実在と紛らわしいのが実存です。
存在という二字熟語の存と在も紛らわしいので何となく紛らわしくなってしまうのかもしれません。

実存は現実存在、現実的存在の略とされます。
自分が現実的に、また実際にどのように存在し、どの様に存在すべきか研究します。

「事物が実際に現実に存在している」という一文、あるいは一命題でなる理論が実在論です。
実在論の否定は存在していない、になります。

実存主義においては自分の存在と自分を取り巻く外部要因や環境の存在は寄与のもので本当に存在するか、しないかと問うべき対象ではありません。
実存主義は簡単にいうと生き方論です。
どのように生きているか、どの様に生きるべきかを研究します。

生き方論なのですが、現象学や非実在論、例えば観念論や唯心論、あるいは虚無論や構造論と結びつくととんでもない破壊力を持った哲学に発展することがあります。

第7章 ニヒリズムとニーチェ

虚無やニヒリズムと言うと悪い意味で取られがちです。

ニーチェはニヒリズムをネガティブなニヒリズムとポジティブなニヒリズムに分類しました。
ニヒリズムでは実体がない代わりにカオスがあります。

そしてポジティブなニヒリズムでは力(権力)への意志や場合によってはルサンチマンによって認識対象の生成を行います。

広い意味のポジティブなニヒリズムでは何かがあるのではなく何かを造るという考え方です。
狭い意味のポジティブなニヒリズムは何も作らないか、あるいはルサンチマンによって何かを造ることでしょう。

第8章 現象学と実存主義とハイデガー(とサルトル)

ハイデガーは歴史に残るかもしれません。
サルトルは分かりません。

ハイデガーは現前がなぜ現象するかについて研究しました。
結果としては現前の意味論と道具的連関です。
つまり現前が生じるのは自分にとって何らかの意味がある、と言う観点に至りました。

意味があるから現前する、と言い換えられるかもしれません。
サルトルの自由論は素晴らしいかもしれません。

第9章 構造主義

何かの観念が存在するのは何らかの形で何かの観念の実体が存在するからと言う考え方が実在論です。

他方で何かの観念を認識しても何かの観念の元となる実体は存在しないと考えるのはある意味でニヒリズムと思われるかもしれません。

何かの観念が実体の存在から生じるのでなければ何から生じるのでしょう?

それは実体がなくても観念を生み出す機構を精神が持っていると考えます。
機構が何かの観念を造るのです。
「機構が造る」を略して「構造」と言いましょう。

構造が何かの観念を造るという考え方を構造主義と呼び、構造主義を使って作られた理論を構造論と呼びましょう。

構造主義を用いて哲学の主題である存在や認識に関する理論を造ることができます。

実在論は人間にとって最も大切な哲学理論かもしれません。
人間と社会は基本実在論をベースにしています。
また人が必ず身につけるのが実在論でしょう。

神に与えられたか禁じられた木の実から得た知性、あるいは近代的人間性、そういうものの根っこにあるのは禁断の木の実である実在論なのかもしれません。
これに上乗せや置き換わるように構造主義が増殖中です。

実在論や認識論を構造論にすることができたことが時代を近代から現代に進めました。
哲学の文脈で構造主義により実在論と認識論を造ったのはラカンやデリダです。

構造主義が哲学に大きな影響を与えたのは今まであると思われていたものを造ることができることを示したことに加えて、その造り方を具体的、操作的、形式的、手続き的に示したことです。

非実在論はしばしば否定的な言葉として使われますが、これまではあると思われていたものを人間が造ることができると言おうものなら観念的と批判されかねない状況でした。

その様な主張がしばしば抽象的で具体性がなかったからです。

構造主義を使えば現実を造れます。
まだ人間に構造主義を使いこなす能力や物量が少なすぎるので現在できることと言えば仮想現実くらいかもしれません。

構造主義に基づいたテクノロジーの1つがITです。
しかしその基礎にある数学や自然科学は現在すべて構造主義(またの名を形式主義)です。
その応用科学である情報科学や計算機科学、通信理論もすべて構造主義です。

PCもインターネットもスマートフォンもAIも全て構造主義です。

第10章 絶対主義と相対主義

構造主義を使って何かの理論を造ったとしてそれは絶対的なものではありません。
人間が作ったものを絶対的なものというのはそもそも誰にでも違和感がありますのでその様な主張は特殊な場合になされることがある可能性があるくらいのものでしょう。

一方実在論系の理論は絶対化されやすい傾向があります。
単なる観念論ではないと主張者や主義者が信じている場合が見られるからです。何かの実在を絶対化するとその実在を認めない考え方は正統派ではなく異端になります。

我々は普通特別な勉強をしなければ無意識的乃至は意識的に何かの実在を信じている傾向があります。
存在論や認識論を構造論化するまでは西洋哲学ではニーチェを除いて何かの実在を前提としています。

実在論と構造論は実は共存できます。
しかしアンチ実在論のカウンターである哲学的構造論あるいは構造論的哲学が成立するまでは広い意味での実在論系の哲学理論しかありませんでした。

1か無の場合、無ではどもならんので1を選択する、あるいは選択してしまう、あるいは選択してしまっている傾向があります。
実在論か狭い意味でネガティブな意味での本当に何もないカオスなニヒリズムでは実在論を選択してしまいそうでしょう。

しかし2と無なら、無以外のどちらかを選択できます。
実在論を取るか、構造論を取るか、あるいは両方を取るという選択が可能になります。

心理学的に選択のバイアスと言うかある心理法則があり、相手に選択肢をいくつか与えればその選択し以外の選択をしないという心理法則があります。

哲学の最終形はポスト構造主義と呼ばれます。
これは相対主義です。
何の相対主義化と言うと理論の相対主義です。

何か絶対化される理論はないということを言っています。
また特定の単一の基準で順序関係で理論の価値付けを行うことはできますが、順序付けするための基準は多数あります。
多数どころか数えきれないほどあるかもしれません。

無数の基準により理論にいろんな順位がつくのです。
どの順序、特に価値判断を含めて順位と呼ぶとどれが理論の優劣を判断するうえで正しいとは言えないでしょう。

ですからどれか特定の理論が特別視するのはナンセンスです。
これが哲学の理論を考える際のベースの理論になります。

おわりに

哲学は完成形があるのでまず完成形を理解してから哲学史上の色々な哲学を理解していければそれがベストで早道かもしれません。

急がば回れでしょうか。

完成形を理解するのが難しければ数学史の諸分野を渉猟しながら完成形を理解するための直感力や帰納的に理解するための知識や経験を得て哲学の完成形、すなわち数学基礎論のようなもので哲学基礎論のようなものに到達するのがいいかもしれません。

帰納演繹ではありませんが行きつ戻りつ理解するのがいいのかもしれません。

数学で言えば集合論や位相論の概要を知って解析学や代数学を勉強するのが王道かもしれませんが、高校や大学の教養で習った微分・積分や線形代数を勉強した上で集合論や位相論を勉強すると集合論や位相論の理解が容易になります。

早道や王道と書きましたが学問に早道も王道もないのかもしれません。
「「真理はない」は真理である」のようなパラドクス論が日本のフランス現代思想の流行期のニューアカデミズムで語られたことがあり、現代哲学を分かりにくくしていたことがあったと思います。

不完全性定理のゲーデルの御都合主義的借用から文系の学者が現代哲学の理解を混乱させてしまったように感じます。

別に無限を扱う必要もありませんし、理論が仮に非現実的ですが無限の濃度であってもラッセルのタイプ理論や公理主義的集合論や領域や圏や関手の理論など使って解消するか更に研究すればいいでしょう。

ただそうなると哲学と言うよりは数学の領分になるかもしれません。

ドゥルーズは哲学者と言うより現代哲学を応用した思想家や評論家や哲学史家と見るべき人かもしれませんが、彼のように現代哲学を踏まえつつ社会科の倫理学を勉強すると一番面白いかもしれません。