究極にやさしい仏教の「因縁」の解説

2022/07/01

究極にやさしい仏教の「因縁」の解説

はじめに

お釈迦様が仏教を悟ったのは因縁を発見したからです。因縁は人類初の実在論否定の思想でしょう。

因縁は後に空の思想や現代数学、構造主義と現代数学の形で整理されていきます。
因縁のイメージつくりと実体や実在との関係を解説します。

第1章 よってしか成り立たない

因縁は因も縁も「よる」と言う意味です。

よるという言葉は、よらない、よって、より、よれば、よりかかる、おる、~よる(西日本の方言)などの言葉と同根の言葉です。

これらの言葉を使えないと日本語が大変不便な言葉になるのが予想できます。
特に表論文などは大変でしょう。

仏教の因縁という言葉は全ての事物は「よって成り立つ」という意味に使われます。
お釈迦様の悟った因縁は十二因縁生起と呼ばれます。
因縁、縁、因縁生起を略した縁起などは日常語として使われるでしょう。

因と縁という言葉はどちらもよるという意味がありますが、因は原因や因果や内因のように使われ、縁は外因、依存や寄与、何かと関係する、繋がる、何かを要素とするという風なニュアンスの違いがあるかもしれません。

よるというと原因や因果関係のように使われますが、寄るや依るの漢字からどこかに行く、近くにくる、集まる、依存する、寄与するなどの意味を持ちます。
因縁を考える際には原因や因果の意味のよるだけでなく依存する、寄与するの意味も考えて下さい。

「よって成り立つ」「よるから存在する」の意味をはっきりさせるためによらないで存在してる場合を考えてみましょう。

  • 何にもよっていないので自身以外は無でも存在できます。
  • 世界や宇宙は無であってそれ自体が単独で存在しています。

これが分かりやすい実在論の考え方になります。
無の中になにものにもよらず存在している、存在し得るイメージで実体というものを考えてください。

世界というのは単独で存在できる実体の寄せ集めと言うのが実在論です。

因縁の考え方は事物と言うのはあらゆる面で何かに依存しています。
何かによって成り立っているものでも、何かによっていない部分がある、依存して成り立っていない部分がある場合とない場合が考えられます。

その場合は物事は実体の部分と何かによって成り立っている部分の混合と言う風にして見ることができます。

因縁の考え方は何かによっていない部分がないという考え方です。
つまり実体の存在を否定します。
実体の存在を否定しているのにリアリティがあるのはなぜか、を説明するのが因縁の考え方です。

言い換えると因縁の考え方は、実体の存在を積極的に否定するために発案されました。

存在証明は難しい、非存在証明は難しいと言われます。
この言葉は本当は現代では正しくなくて証明ではなく実証が難しいというのが正しい表現です。

証明は数学の言葉で数学においてはある種の存在や非存在証明は可能である場合がありますが、事物の存在や非存在ではなく命題の真偽、肯定か否定か、あるいは独立かを証明することになります。

現代数学では公理体系を作ってからその内部で証明を作業として行うことになります。
これは論理を土台として公理を導入することで体系、正解を造ったうえでの作業になります。

実際に難しいのは存在するかしないかの実証です。
存在するにしてもしないにしてもそれを示す必要があり、そのためには必要な全ての場所を探索しつくして、さらにその探索方法まで添えて、見つかるか見つからないかを言わないと行けません。
全ての場所を探索しつくすのは現実的にも原理的にも不可能な場合があります。

現実的な不可能とは時間や労力や資金が足りない場合などで原理的に不可能なのは探索範囲が無限に及ぶような場合です。
これは古典物理学の空間も時間も実体も存在しているという考え方を前提にしています。

因縁の考え方は事物は他の事物が初めから存在するから存在し得るという考え方です。
複数ある事物のどれもが他の事物を必要としています。
ですから因縁の世界観は始めからたくさんの事物が存在する世界観です。

事物には実体の部分が全くありません。
事物は他の事物の存在によって存在しているので他の事物が無くなるとよって立つものが完全になくなります。

よるものが無くなっても実体はもともとないので実体だけ残るということはありません。
ですから単独で存在している事物というものはありません。

  • 実在論は他の実在する事物が存在しなくても単独で存在し得る。
  • 因縁の考え方では他の事物が必ず存在する。

これが全体像から見る実在論と因縁の考え方の大きな違いになります。

第2章 全体と個物

真空の時空間の中に単一の何かが存在し得ると考えるのが実在論でした。

因縁の考え方はたくさんの事物によって事物は存在し得るので沢山の事物がないのに実体だけ存在するということはなく事物自体も存在しなくなる、ですので一つの事物が存在するためには初めからたくさんの事物が存在すると考えます。

世界の中に事物があるのではなく事物の総体が世界であると言えますし、世界があるのが前提、事物が満ちているのが前提と言う考え方になります。

この全体性が因縁の考え方の特徴になります。

ただ全体、というと無限に事物があるかもしれず、何をもって全体とするか良く分かりません。
ですから体系や構造、関係性、連関、連想、連合という言葉に言い換えてみましょう。

事物が互いに寄って成り立つさまを相依性といいます。

因縁の世界では個別の事物、個体、個はどうやって成り立っているのでしょう。 因縁の考え方では事物のリアリティは何かによって生じます。

リアリティがあるのでリアルな実体がある、あるいはリアルな実体があるのでリアリティがある、という反対の考え方がありますが、とにかくリアリティと実体はペアのような物です。
リアリティがどうやって作られるのか、の説明が因縁の理論です。

実在論は実体があるからリアリティがあるという考え方をします。
因縁はリアリティがあるから実体があると思い込むという考え方をします。

第3章 リアリティ生成の実例1:りんごの実の場合

りんごの実のリアリティを感じる方法を考えます。

一つの方法はりんごを頭の中で想像してみることです。
りんごをよく知っている人は簡単に頭の中に林檎をイメージ出来てそれにリアリティを感じるでしょう。

別の方法は工作でりんごを作ってみることです。
出来が良ければそれをりんごの実と間違う出来栄えとなるでしょう。
絵でもCGでも構いません。
創作した作品の出来次第でりんごのリアリティを感じます。

創作物で言えばリアリティにもピンからキリまであります。
本物以上のリアリティを感じる場合もあればりんごとどうにかわかる程度のリアリティもあるでしょう。

我々の認識は何をもってリアリティがあると感じるのでしょうか。
何か渡された時に何をもってそれからりんごのリアリティを感じるでしょうか。まず五感の感覚が考えられます。

  • 視覚では形と色、陰影や質感などにリアリティを感じるかどうかです。
  • 聴覚では林檎を触ったり叩いたりかじったり切ったりしたりつぶした時の音などにリアリティを感じるかどうかです。
  • 触覚では手で感じる質感の他触感などにリアリティを感じるかでしょう。
  • 嗅覚では嗅いだり切ったり食べる時の匂いです。
  • 味覚はりんごの味がするかどうかです。

感覚の他に精神の中にある様々な要素が影響を与えます。精神要素を分類して色々挙げていってもしょうがない気がしますのでざっくりいいますと記憶です。

人間は自分の中に蓄えている林檎に関連する記憶を目の前にとって手に取っている林檎を認識する際にも利用しています。
りんご自体を五感で感じた思い出の時もあれば、文章の中に林檎の記載があってそれに影響を受けた場合もあるでしょう。

我々がりんごの実を与えられた時にそれをりんごの実として認識するのはこういった感覚や例えば記憶を代表とする精神的要素の寄与を受けて、あるいは依存してりんごのリアリティを感じ、認識を行います。

ではりんごの実をはじめて与えられた場合はどうでしょう?
りんごの実に対する過去の経験がありません。

実物に接したことはなくても何らかのりんごの実に関する知識はあるかもしれませんがないかもしれません。
りんごの実に関する知識がなければ何らかの精神的要素は働くかもしれませんがりんごの実の知識や記憶はありません。

すると感覚でりんごの実を何らかの物としてリアリティを感じたり認識することになるでしょう。

それをりんごの実と聞いて「ふーん、そうなんだ」と思ったり「こんな果物はじめてみた!」と強く感銘を受けるかもしれません。
これを皮切りに色々なりんごの実を見れば自分の中でりんごについてのイメージを持つようになるかもしれません。

このりんごのイメージで想像するだけでりんごにリアリティを感じられるかもしれませんし、何かの機会にりんごの実に接する機会があった時にそれをりんごの実と認識しリアリティを感じるのに役に立つかもしれません。

りんごのリアリティ形成と認識はこのように五感や記憶などいろいろなリアリティを感じ認識される事物によりなされます。
この場合、「事物」の「事」とは精神的な要素からなり「物」とは感覚的な要素からなります。

物事は物性と事性のスペクトラムからなっているとイメージしましょう。

りんごの実のリアリティを感じたり認識するのに先立って視覚で色や形を認識しました。では色や形は実体では?という疑問がわきます。
それを実体や実在論抜きで説明する方法を常に探し続けるのが因縁の思考法になります。

例えば赤という色について考えてみましょう。
「赤」に対してリアリティを感じられるか、認識できるかが問題です。

たとえばりんごの実、夕焼け、血液、ハイビスカスの花の記憶から赤色と言うリアリティと認識が生じてくるのかもしれません。
りんごの実のリアリティと認識は赤色によっており、赤色のリアリティと認識がりんごの実によっているならお互いに寄りかかっているわけです。
この場合は双方向の矢印と考えられるでしょう。

もしかしたらハイビスカスの花のリアリティと認識は赤色によっているけれども、赤色のリアリティと認識はハイビスカスの花には寄っていないかもしれません。
これは片一方が片一方に一方的に寄りかかっているだけですから一方向の矢印で示せるでしょう。

または初めて赤や色を認識したのは青や白や黄色や黒や緑と違う何かを感じた瞬間かもしれませんし、色と言うものがあると感じたとき、また色には色々な色があると感じた時かもしれません。

りんごの形が球と言えるか分かりませんが、単純化して仮に球であるとして球の何によってリアリティを感じたり認識したりしているのでしょうか。
やはりりんごの実からの連想かもしれませんし、ボールや月、二次元の円や陰影からかもしれません。

りんごの実から球のリアリティと認識が生じて球からりんごの実のリアリティと認識が生じるなら人と言う字のように支え合って成り立っているのかもしれません。相思相愛です。

相依性ということもあります。

原因や結果、材料と完成品のイメージで語ることもあってその場合は一方向矢印なのでしょう。
これも2つの事物の一方は他方にリアリティと認識の生成を依存しているが、逆は成り立たず、他方の方は一方からはリアリティも認識の生成も関与を受けていないような場合です。

数学で相関関係と因果関係は違うなどと言われますし、必要条件と十分条件を混乱してしまう場合がありますが、「よる」という言葉はこういう部分にも関係してきます。

またテキスト論や文芸評論では一文は全体の文章の中に置かれた上で意味を考える、別の言い方でいうと文脈を読むことについての分析を行います。
更にもっと広くテキスト全体を超えて著者の背景や時代背景や書かれた理由を考える「行間を読む」ことを考える場合もあります。

逆にメディアなどの情報操作の手法に文章全体から一文だけ切り抜いてそれだけを公開し、文章全体の中のその一文の意味を隠ぺいして、一文のみの意味を本来の意図と変えて報道する手法が使われることもあります。

文章に限らず何かを隠して一部だけを報道することは嘘をつくために使うことができますのでこれも意図的に行われれば改竄や捏造の一種でしょう。

第4章 因縁な生活

前章で改竄や捏造などと物騒な言葉を使いましたが、因縁の世界には実体と言う概念と共に事実や真実と言う概念もありません。

条件や前提を与えた前置きを詳しく老いた上での、つまり真実や事実の定義をはっきり行った上ならば使ってもいいのでしょうが、使う場合にはそのような厳密な前振りが必要で軽く使える言葉ではなく重たく仰々しい言い方でしか使えません。

因縁の世界では実在論の世界のように個物が単独で存在できません。
何か複雑なことを言いたければ、いろいろな前提を明示した上でよく考えながら話さなければいけません。

実生活では日常生活でも社会生活でもこの様なことはあまり行われないでしょう。行われるのは数学者が数学をする時くらいでしょう。

ことばを安易に前提を明示せずに使うので特に意図がなくても、嘘や捏造や改竄に大方はなってしまいます。

ことばの世界によらずとも我々の世界認識も同じです。
無限とも思われる全体の事物とその「より成り立つ」関係全てを知ることはできません。
また何か簡単なことを簡単に認識するにも表現するにも何かが大概は切り捨てられます。

ですから仏教では本質的に世の中を仮や戯としてみます。
言い換えれば世界は改竄と捏造であるのが本質です。

ラプラスの悪魔のような全てのデータをインプットして計算できる悪魔と計算機があれば別ですが残念ながら難しいでしょう。

現代哲学ではこの意味で世界をシミュレーション、シミュラークルと呼んでいます。これは模擬や模造品と言う意味で悪く言うと紛い物と言う意味です。

これは悪いことのように考えられがちですが、我々のキャパシティの限界を意識した謙虚な見方と見るのが良いでしょう。

我々はラプラスの悪魔ではないですし、数学者の態度で全ての生活を送るわけにはいきませんし、ある種の発達障害である自閉症スペクトラム的な傾向のある人のように厳密にこだわるわけにはいきません。

発達障害の対義語を定型発達といい、揶揄して定型発達症候群と言われますが、世の中を空気を読みながら簡略化し渡っていくしか仕方がありません。

おわりに

実在論の実体(entity)に対応する、非実在論の言葉がないかと探しているのですが、あまり日常で使われない言葉しか思いつきません。
実体はなくても(あるいはあってもいいが)、しっかりと殻や外見やのれんだけは持っていることを示すような言葉がいいのですがしっくりきません。

そこでその様な言葉として「因縁」や「縁起」が使えないかと考えました。

大乗仏教では実体に対照する言葉として空が使われます。
しかし空は一般的ではありませんし数学の空と誤解されそうです。

とある人によると南伝仏教ではその様な言葉として無常、無我が使われるそうです。
数学では無定義語や無定義概念と言ったりしますがやや長そうです。

現代哲学では差延、現象学では現前、現代思想ではシミュラークルなどが候補に挙がりそうです。
構造主義のレヴィ=ストロースがプリコーラージュということを言っていますがそれもいいかもしれません。

普遍論争では実在論と唯名論(nominalism)があって名のnominalやnomenというのはありかもしれません。
名から連想して顔の哲学者、レヴィナスにちなんで、factとfaceと並べて実体をfactとして対照するものとしてfaceとするのもありかもしれません。MOD(modification)、mod(各種mod-系の言葉の語根)、modeなども現代的ですし上記の連想からいいかもしれません。

今回、全体性の観点と個体の生成の観点から因縁を解説しました。

そういう意味では因縁という言葉は全体性の面からも全体の存在を意味的に内包していますし、個体の生成の面では外殻、外延としての他の何かと「よる」ことのできる縁という言葉をもっていますので非常に良い言葉ではないかと考えます。