やさしい哲学・仏教・数学を使った創造性の発揮のしかた

2022/07/21

やさしい哲学・仏教・数学を使った創造性の発揮のしかた

題名はややあとづけ

はじめに

現代哲学が誕生した背景を過去の歴史からみる背景には実在論の批判と存在論と認識論を完成させたことが見て取れます。
そうした現代哲学をマスターしたら過去の歴史ではなく未来を見て応用していきましょう。

ざっと現代哲学のマスターのメリットは3つあります。

  • 倫理道徳として確固とした個人主義が身につくこと。
  • 創造性が高まること。
  • 学習能力が高まること。

です。

大は小を兼ねるとは限らないかもしれませんが、現代哲学をマスターした方がしていないより良いと言えます。
現代哲学の活用法を解説します。

第1章 個人主義と集団主義

現代哲学の結論は世俗的な考え方や行動の仕方については何でもありというものです。
過激に言うと、自分のやりたいことをするためなら犯罪を犯してもいい、ということになります。

他の哲学や宗教であってもそういう結論になってもいいはずなのですが、古典的な倫理、思想、哲学、宗教は向社会的、集団主義的につくられています。
つまり集団の秩序を乱さないように作られています。

現代哲学ははっきりいうと集団と言う概念がありません。

一応現代哲学を操る自分と言う概念はありますが、それ以外のものについては特別視しないので他者がいるかどうかも前提にしていません。
また全ての世俗的な考え方について絶対化を否定しますので、「犯罪を犯すべき」も「犯罪を犯さないべき」もどちらの考え方も肯定も否定もしません。
世俗的な生活に対する強制も制限もないので自由にしたらいいのです。

しかし他者はいないと言っても実際にはいますし外部は環境として実際には感じます。
事物は現代哲学的に言えば理由は不明ながらも現前しますし、仏教的に言えば因縁は生起します。

我々は現象する世界に生きているわけです。
幸せに生きるにはある程度世界との折り合いをつける必要があります。

そこで必要なのはメタ認知と記憶と自覚と覚悟です。
これらがなければ自己同一性や役割同一性を持てませんし主観的にも客観的にもなれません。

我々は常に選択できますので時と場合によって個人主義的であったり集団主義的であったりスタンスを柔軟に変えるのが良いかもしれません。
ただ現代哲学を身につけたのであれば究極、あるいは極端な個人主義を持てるようになると良いでしょう。

集団主義は集団、他者に忖度や配慮する考え方です。
個人主義を究めると他者と無関係になります。
他者や集団がどうであるかを配慮せず、自分の思考や行動を決定します。

自分と他者や集団を完全に切り離します。
これが極端な個人主義です。

現代哲学をせっかくマスターしたのであれば必要に応じてこの極端な個人主義のモードになれるようにするといいでしょう。

人間が完全に個人主義で自由ならば集団がまとまらないという意見が昔からありました。そうかもしれませんがそれならそれで仕方がないのでしょう。
歴史的にいえばどちらかというと全体主義や共産主義などの集団主義の方が戦争や粛清で人を殺す数が多いようです。

そもそも現代哲学をマスター出来るのは大体思春期をとおに過ぎてある程度人間が固まってからなので、極端な個人主義の発動も自覚や覚悟や結果の予見をもって行えますし、そもそも集団に対する配慮をにじませた極端な個人主義にはならないことが多いでしょう。

大数の法則や中心極限定理というものがありましてそれが現代社会の理論的な基盤になっていますが、そもそも全員が極端な個人主義であったとしてもおそらくそこそこの状態に落ち着くでしょう。

またメタ認知と記憶と覚悟と自覚がある場合には極端な個人主義者になる機会もあまりありません。
極端な個人主義を貫いて生きていけるのはよっぽどの大物だと思いますが、人間はちっぽけで脆弱な面がありますのでどこかで転ぶことが多いでしょう。

第2章 創造性の向上

実体、現前、差延、存在者、空、仮、戯、因縁、縁起、無常、無我、無定義概念、無定義語

その他、我々が事物を表す言葉には色々なものがあります。

構造主義的哲学や現代数学の形式主義や公理主義、仏教の因縁生起論では事物に実体があるという考え方は必要ないので無視します。
事物の同一性や恒常性が成立するのは差異の体系、関係性、相依性、因縁生起、構造、形式などによるわけです。

物質と反物質が接触すると対消滅します。
逆に何もない所から、といってもエネルギーはあると思いますが、物質と反物質が対で生成します。

これは2つの物の関係ですが、例えば赤というものを世の中から消してしまいたければ世の中の赤いものを全て無くしてしまえばいいのです。
と言っても赤というものは生物学的に言えば電磁場と人間の脳が造る視覚のモダリティに過ぎません。
物理的にはある波長あるいはいくつかの派長の電磁場の和になります。

そういうことはおいておいて世の中に赤いものがりんごと血液とハイビスカスしかないのであればりんごとハイビスカスと血液をなくしてしまう、あるいは見たことがない人には赤というものは存在しません。赤というものを成り立たせるためには成り立たせるための何かが必要になります。

りんごをなくしてしまいたければ木の実と赤と丸と味と匂いなどをなくしてしまえばいいのです。
ハイビスカスをなくしたければ花や名前や南国のイメージをなくしてしまえばいいのです。
血液をなくしたければ液体や体液や赤血球や白血球や血小板や血漿をなくしてしまえばいいのです。

何でもいいですが何かをなくそうと思えばその因縁をなくしてしまえばいいのです。
逆に何かを造ろうと思えば因縁をつけていけばいいのです。

考えている集合に赤いものが血液とハイビスカスとりんごしかなければ血液とハイビスカスとリンゴが消滅すれば赤も対消滅ではないですが消滅します。
共消滅とでも言いましょうか。

あるいは世界に赤いものが血液しかなくて、赤の色が血液にのみ依って成立しているのであれば血液が無くなれば赤色という概念が消滅します。
この場合は対消滅と呼べるでしょう。

逆に赤色が考えている世界から消滅すれば血液の概念は変化します。
血液のアイデンティティから赤色が無くなるからです。

別の例を出しましょう。

初等数学を勉強すると我々はユークリッド空間があると思っていてそこではイプシロンデルタ論法やコーシーの収束点列が成り立つと考える様になります。
逆に高等数学で数学の基礎を学ぶとイプシロンデルタ論法やコーシーの収束点列からユークリッド空間が成り立つことが分かります。

すなわち集合論や位相論にによって、元の集合に順序や整列や集合の濃度、位相、連結性、コンパクト性、分離公理、距離などの構造を集合に取り入れることによってユークリッド空間が構成されることが分かります。
つまり初等数学と高等数学は真逆なことをしているわけです。

元と元を色々な形で関係づけるということは、集合に構造を入れ込むということです。
構造が取り入れられていない集合は元と元の関係がないので数学的にはあまり関心をひかない、という表現をします。

これが構造主義ですが、仏教では元と元を何らかの形で関係つけるという代わりに、元と元を何らかの形で因縁をつけるという表現になります。

この因縁という言葉は仏教の言葉ですが現代哲学の重要な概念を簡潔に表す言葉であるにもかかわらず、現代哲学にはこれに代わる適当な言葉がありません。
現代数学や現代哲学に比べると仏教は2000年以上昔の思想なのでやはり年季が入っているという所でしょうか。

現代哲学による新しいものの創造はこの仏教の因縁や縁起(因縁生起)の手法や現代数学の学問の対象を一から組み立てる方法を使います。

よく数学に秀でた人をほめる言葉に「彼or彼女は一つの分野の数学を作ってしまうほど天才だ」みたいな言い方をする人がいますが、「彼or彼女」が天才であるかどうかはともかくその様に誉めた人は初等数学までしかやったことがない人なのでしょう。

高等数学を勉強していれば数学の分野を作ることはできるでしょう。
しかしその造った数学の分野が多くの数学者の関心をひくか、流行るか、数学や数学以外の分野に大きな影響を及ぼせるかはまた別の問題です。

既存の理論の公理を一つ取り換えるだけで、あるいは仏教流にいうと因縁を一つ取り換えるだけで全体の体系は別のものになります。

数学の話にすると整合性や無矛盾性が問題になりますが、アートやクリエーションの世界であれば整合性や矛盾などを考える必要はない訳です。

造ったものに数学風にいうと数学者にとってあまり興味のない対象ではないもの、アートで言えば人に感動や感銘を与えたり新鮮さや衝撃を与えたり面白みや関心を抱かせるものでなければ廃れるだけです。
廃れても別の場面や別の時に意味を発揮するかもしれないことにも注意が必要です。

時代に先駆け過ぎた、早過ぎた天才の業績といわれるものはありますし、別の場所で評価されることもあります。
しかしやはり学術でも芸術でもしょうもない仕事の方が多くなるのは一般的に障害ないでしょう。

おわりに

『違う』ということは多分いいことでしょう。
これは面白さやおかしさや変な感じ、個性につながる可能性があります。

人をひきつけますし人に好かれる、あるいはつながるきっかけになるでしょう。
つまらない、退屈、飽きることは多分あまりいいことではありません。

よほど好奇心や物事に関心が広く深い人でなければ人をひきつけませんし特にすかれる機会も場面もなく終わりそうですし、出会いの機会も付き合いが続くきっかけにもならないでしょう。

面白さやおかしさ、個性は時に創造性、刷新性、新規性などによって生み出されます。

何か新しいものを作り出すこと、これは経済にとっても重要です。
超長期の経済成長やGDPなどの生産性の指標では表せない見えない部分の幸福度は往々にして技術革新などによってなされます。

運や信仰、運命や宿命は大切です。
しかし現代は人が地道に何かを創造しないといけない時代になってしまっています。
何にせよ自分で作ることができると何事も便利ですしそれ自体が面白いでしょう。

現代哲学でも現代数学でも仏教でも核心を理解してしまえば創造力がつきます。
それぞれの転換点は近代哲学から現代哲学、古典数学から現代数学、因縁生起の理解によって新たな段階へ古い段階を超克して新たな段階へ至ることができるでしょう。