やさしい哲学の象徴と記号論入門 存在から創造の時代へ

2022/07/28

やさしい哲学の象徴と記号論入門 存在から創造の時代へ

はじめに

我々は変わらないものを想定する傾向があるのかもしれません。
変わらないものとして想定するものの候補の1つが実在論における実体です。

もう1つが名前やことばなどの広い意味での記号です。
これは文字でも記録あるいは記憶された音声言語でも構いません。
自分の中で変わらないし、人にとっても変わらなければ不変であり普遍的とも言えるでしょう。

正しいとか確かだとか言う言葉は何をもって正しいとするか確かだとするかの定義によって違いますが不変で普遍なものはその候補になるかもしれません。

象徴化や記号化についてまとめました。

第1章 こころの想像と創造

私たちの頭の中はもやもやしている時もありますがはっきりしてくることもあります。
はっきりと意識してとらえられた何かに対して我々は創造を働かせます。

1つ目の創造は実体の想定です。
はっきり意識してとらえた何かが実体として存在すると考えます。
これを実在論と言います。

2つ目の想像は象徴化です。
はっきり意識してとらえた何かを象徴として固定化させようとします。
象徴を表現する際に名前や言葉などの記号、図象などを用いる場合があります。

実体と象徴は我々の想像が造るものですが方向性は違います。
それぞれ独立したものと一旦は見てもいいのですが、現実には混交してとらえられる場合が多いようです。

人間は人に教えてもらうのでなく自分自身で思いついた時により強いインパクトを受ける傾向があります。
そのため往々として人に聞いていたことを忘れてしまっていて自分で思いついたつもりになってしまったり、人の話を聞いている途中で話そうとしている内容を理解してしまい「んだ、んだ」と言って最初から知っていたような態度ばかり取るのが癖になってしまったりしてトラブルになることさえあります。

閃くとかインスピレーションとか思いつくとか思い出すとか能動的に自分の中からアイデアが湧き出た時にはその考えに強く惹きつけられてしまいがちです。

実体の想像についてはこれが典型的に当てはまって実体感、すなわち強くリアリティを感じることになります。

象徴は象徴性や象徴表現、記号や図象については人為的に自分で作ったという自覚があることが多いですが、象徴自体についてはカテゴライズや抽象化やその他のインスピレーションによって生起されることがあるため、やはり強い思い入れが入り実体感、リアリティさえ持つことがあるようです。

第2章 実体について

おそらくキリスト教の影響だと思われますが昔の西洋哲学では実体はあるものと考えられる傾向にありました。

その場合、実体と個物を分けて考える傾向がありました。
例えば人間で言えば個性を持った個々の人間が個物で、特別な個性のない完璧かつ理想的に典型的な人間像を持つ人間が実体と分けて考えます。

その上に、イデアのような完全なものとしての実体が上流にあって下流に不完全で個性のある個物があるという考え方とその逆に個物のように見えるものが実体であって実体と見えるものは人間がカテゴリー分け、類別することにより作られた二次的なものである2通りの考え方がありました。

現代の我々から見るとなぜそういう考え方をしなければいけないのか分かりませんが、心理学や脳科学、認知科学などが発展していない時代においては、神的、異界や異世界、現代的に言うと特殊な精神状態、あるいはオカルト的な考え方が普通に日常的な思惟であり学問的対象だったのでしょう。

例えば前者の考え方では人間には完全な人間像があって、現実の色々な個々の人間は個性のような特殊性があってどこか人間として完全ではない面を持っていると考えます。

後者の考え方では色々な違いを持った人間こそが実在していて、完全に典型的な人間像を持つ人間というものが色々な違いを持った人間と接する中で経験的に作られていくと考えます。

おそらく何かのインスピレーションに基づいた理想的な人間像が実体として存在して個々人の人間はその唯一の典型的な人間の何らかの繁栄に過ぎないのか、はたまた個物としての個々人の人間が実体であって、理想の人間像と言うのはそこから類推されるのか。
どちらにしても実体という考え方がどちらにもありますし、個々の人間や理想の人間と言う区別があってそれを結びつけるメカニズムについての仮説があるのが特徴です。

実体があると考えることを実在論と呼びましょう。
観念論は実在論ではないのではないか、という意見もありそうです。

そうかもしれません。
しかし多分観念論は実体を物質世界ではなく観念の中においたと考えた方がいいでしょう。
あるいは観念こそ実体、と考えたと思われます。

おそらく世界を物質の世界と観念の世界に分けて考える様になった時代の産物でしょう。

心理主義、とも言われますが形而上、形而下と分ける考え方は昔からありましたが、近代になって物質界以外を神的、異界や異世界、現代的に言うと特殊な精神状態、あるいはオカルト的なものから心、精神、脳などより生物学的なものに組み替えた結果かもしれません。

現代哲学では実体があるという考え方や実在論も特に否定しませんが、実体が存在しないという非実在論も理論やその両方を含んだ理論体系が造られています。
実体というものが実は実在しないものであったとしても人間は何かが実体であると感じたり、実体があるような感じを持っています。

実体でないけども実体のようなもの、実体であると思い込んでしまうようなもの、実体であって欲しいと願う心情が往々として生じます。
しかし実体ではないので実体と呼ぶわけにはいきません。

この本当は実体ではないけれども実体のように思えるものを表現する言葉を我々は日常語ではおそらく持っていません。

学問や思想の非日常的なタームではあるのかもしれませんが、それでもなかなか共通認識とされるような衆目が一致して賛同する言葉はないのではないでしょうか。

第3章 象徴について

象徴も記号も心理学的、あるいは精神的にははっきり意識してとらえられる想像であり表象であり認識です。
象徴を実体と見なす場合もあるかもしれませんが、基本的に別のものと捉えて下さい。

同じような意識的に認識される対象でも象徴は実体や実在とは違います。

まず象徴も何かを象徴化する場合も象徴自体を実体であるとは見なしません。
多くの場合に象徴により表されるものの代理や標識や名札のラベルのようなものと考えられています。

象徴により表そうとしているものが実体の場合も実体と思っているものの場合もそのどちらでもない場合もありますが、いずれにせよ象徴自体は実体とか事実とか真実とか本当の姿などとは違うというのが象徴です。

ですから何かを象徴する場合に様々な象徴化の方法があります。
名前を付ける、記号化、図象化、ジェスチャー、何でも構いません。
ここでは名前をつけること、あるいは記号化に絞って話を進めます。

記号化、名前を付けるということは実は大変重要な意味を持ちます。
名前や記号は不変なものの候補になるのです。
実体と記号は不変なものの候補になります。
実体から実在論が生まれ記号から記号論が生まれました。

中世神学の普遍論争では実在論と唯名論と言う学派が論争を行いました。
この場合実在論は実体を不変なものとして名(名前、記号)はそうではなく実体を象徴化してそれに名(名前、記号)をつけただけ立場であり、唯名論はただ名(名前、記号)だけが不変なものであり、実在論で実体と呼ぶものは不変ではなく名(名前、記号)から作られているという立場です。

記号は変わらず保存可能でそれが表すものもまた変化しないというのが唯名論の主張です。
これは現代哲学では重要な考え方です。

現代哲学の誕生や現代数学や言語学、文献学、書誌学、歴史学、テキスト論、文芸評論、文化人類学などの人文科学や時に社会科学の発想転換、発想の逆転によっているからです。
現代哲学や現代において、前の哲学、前の時代より頻繁に使われるようになった言葉は象徴や記号でしょう。

ソシュールという言語学者は言語を際の体系と呼び、レヴィ=ストロースは象徴の王国と言う本を出し、ジャックラカンは世界を象徴界、想像界、現実界に分けました。

デリダと言う哲学者は記号論ならぬ記号学という学問の創設を訴え、ウンベルト=エーコという記号学者は『薔薇の名前』というショーン・コネリー主演で映画化されたベストセラー小説を書いています。

実在論では実体の特徴からそれを表現するために象徴化が行われ、言語化、記号化されると考えます。
不変で確実なものから代理、代表、特徴、性質として言葉で表現されるようになります。

我々が何かに名前を付ける場合のことを考えてみましょう。

1つ目の方法はランダムにつけることです。
この場合a,b,cなどの記号でもいいですし1番、2番、3番などそっけない名前でいいでしょう。

2つ目は対象の特徴にちなんだ名前をつけること。
対象に本質というものがあるのならその本質にちなんだ名前でもいいですし、複数ある特徴のうちどれかだけを取り出してそれにちなんだ名前でもいいでしょう。

3つ目は連想でつけることです。
これは結果的に1つ目と2つ目の方法と重なることになるかもしれませんが、対象とは関係なく名付ける人の思い出や偶然の出来事を名前に結び付けたりなど、命名者側の事情だけで名付けられ、対象の本質や特徴を全く反映していない場合もあるかもしれません。

この様な名づけの場面を考えるとやはり言葉は本質でないと思いがちでしょう。
既に名前が付けられているものの意味や語源を考える場合も同じです。

ことばや記号は本質ではない、本質自体は直接表現できないので仕方なしに代理に象徴や言葉や記号を用いているのだ、という考え方を持ちがちになります。
しかし逆に考えると我々は実体や本質というものには直接接触できないという風にも考えることができるかもしれません。

直接我々がコンタクトできるのは何か直接コンタクトは出来ないが実在論者が実体や本質と呼ぶ何か良く分からないものではなく、実在論者が実体と考える何かから発せられていると思われる特徴や性質であり、もっと直接的にはそれを象徴化し、言葉にしたものです。

我々はそれが代理品で実体や本質を模る紛い物と見るかもしれません。
しかしこれも逆に見ればすべてが紛い物で紛い物である方が本質であって、むしろ真実や本質や実体と言われているものの方が本当は存在しない紛い物なのかもしれないという発想をここではしてみてください。

そもそも本当とか嘘とかいう発想自体が二項対立的な差異から作られているのかもしれません。
つまり人間が恣意的に作った産物に過ぎないかもしれません。

一旦この様に常識を壊しておきつつ、寧ろ不変で正しいのは文字や記号と考えてみましょう。

我々の頭の中はそもそももやもやしています。
たまに冴える時があると何かを思いついてそれを真実だと思い込む修正があります。

謙虚な人や知能が高い人であればそれは唯の思い付きに過ぎずそういう可能性もあるがそうでない可能性もあると冷静客観的に考えられるかもしれません。
しかしいわゆる今はやりの「行動力のあるバカ」な精神状態になってしまうと自分が思いついたことを真実と思い込みます。
その他状況や政治的事情もあり真実でないと思っていても真実と見なさなければいけない空気を受け入れる、あるいは受け入れてしまっている場合もあるでしょう。

そもそも象徴、何かの性質や特徴を表す記号の方が表されるものに先立つと考えてみましょう。
そうすると実体や本質と思われているものはその性質や特徴を示す、象徴や名前のラベル、説明や解説、注釈文などから作られているという風に考えることができます。
それはことば、文かもしれないし象徴的な図象やあるいは感覚的に、あるいは記憶によって想起されるものかもしれません。

象徴はことばや図象、あるいは感覚や記憶の断片、いろいろなものの連想を含めて沢山の形がありますが、記号や図象化されているものはごく一部です。
実体と思われているものは普通色々な特徴や性質を持っています。
色々な特徴や性質を持たないあるいは単一の特徴や性質だけを持つ、あるいは特徴や性質を全く持たない実体と見なされているものもあるかもしれません。

ただ我々の象徴や記号を用いたアプローチでは意識されるにせよ無意識的なものであるにせよ、実体のようなものの顕現は、沢山の性質や特徴に支えられていると考えることにします。
逆に言えばバラバラな性質や特徴を集めて単一の何かを作り上げたものを実体と見なします。

シニフィエ(サイン、記号化されたもの)に対するシニフィアン(サイン、記号化すること、記号自体)の優位という考え方を提示しましたがまさに「はじめに言葉があった」「言葉が受肉(インカネーション)した」ものが実体と呼ばれるものなわけです。

丹精込めて細部の積み重ねていったら魂が宿ったような感じでしょうか。

おわりに

まとめると人間の頭はもやもやしていますが、時にピーンときて何かを確かに分かった、納得したと思うことがあります。
その最右翼が実体概念でその最左翼が記号でしょう。

昔は実在論が強かったのですが人類の知識の進歩と核心によって記号論が支配的な世の中になってきました。
現代哲学があまり学ばれていないように見えても世の中は着々と現代哲学的になっている様に見えます。

現代哲学自体を色々なやり方で学問的に学ぶのもいいですが、世の中の雰囲気が現代哲学的になってきて、自然にそれが人々の頭の中に浸透したり、通念になったり、空気になっていくのは良いことと言えると思います。

一方勉強して身につけたのでなければ中途半端な理解になるので、ジレンマが生じたり葛藤や軋轢が生じることもあるかもしれません。

また世代や年代によって実在論と記号論の度合いが違ってギャップを生む面もあるでしょう。

どちらの考え方も理解して使いこなすのが一番いいですので、教育システムを整えて10代のうちに理解せずとも触れらるようにして生涯学習に移すのがいいのかもしれません。

現代哲学的な考え方を知らないとある場合に極端に効率が悪くなります。
特に大学などで数学を学ばなければいけない人も沢山いると思いますが、初等数学から高等数学の考え方が実在論と記号論のように真逆なので現代哲学を知っていればすんなり頭が切り替えられるかもしれませんが、切り替えられない場合には十分、あるいは納得して、あるいは充実感を持って数学を学べないはずです。

現代数学を広める会というのをやっていますので数の作り方を書こうと思って集合論や位相論を復習していますが改めて色々な教科書を読むと著者自体が現代数学基礎論の基本的な考え方、というより数理哲学を理解していない場合があるように感じられる時があります。

存在から創造へ、逆転の発想の時代に馴染んでいきましょう。