すごく簡単な現代哲学の「脱構築」のやり方

2022/06/01

すごく簡単な現代哲学の「脱構築」のやり方

はじめに

現代哲学のあらゆる面で使える便利な概念が「脱構築」です。
今の若い人には聞き馴染みがない言葉かもしれませんが、1980年代に日本にニューアカデミズムと呼ばれる現代思想ブームがありましたがその時にはよく通過われた言葉でした。
現代哲学を勉強する際にも現代哲学を応用する際にも使えます。

基礎から応用、入門から上級篇、あらゆるところで脱構築は有用です。
脱構築は色々な方法で実践できます。
その中で簡単そうなものを紹介します。

第1章 何を構築し、何を脱構築するか

脱構築の反対は構築でしょうか。
では構築とは何でしょう。

現代哲学では事物の実在を前提としません。
事物の実在を前提とする考え方を素朴実在論と言います。
これは現代哲学の1つの要素で現代哲学では事物を実在するとする考え方もします。

近代以前の哲学は素朴実在論は意識するとしないとにかかわらず無意識レベルの前提で、唯名論や大陸経験論のような一見素朴実在論、あるいは実在論を否定している様に見える思想でも気づかぬうちに素朴実在論を前提としています。

実在とはそこに既にあるもの、認識するもの、発見するものであって人間が同行できるものではないという先入観を持った考え方です。

人間はあくまで受動的で知覚したり認識するだけです。
近代哲学はざっくりいってしまうとここ止まりです。

現代哲学はこの様な考え方もできつつ、本質的に別の考え方をすることができます。

それは「実在している様に思える事物は人間が構築した者である」「人間は実在している事物を構築できるし、実在している様に思う感じも構築できる」という考え方です。

つまり人間は実在している様に思える事物を作ることができる、あるいは事物の実在感を作ることができると考えます。
あらゆる精神に現れる現象は人間が作ることができると考えます。

特に現象の中でも実在感を持って意識される「現前」と呼ばれるものと作ることができると考えます。

作る方法を構造主義といいます。
また「作る」を構築といいますし構造と言ってもいいでしょう。

 「構築」は「構(かまえ)を築く」と書きます。

 「構造」は「構(かまえ)を造る」と書けます。

 構築はconsutructionで脱構築はdeconstructionと書きます。

 構造はsutructureと書きます。

どれもstruct-(建てる)の語根からの派生語でしょう。
事物も実在もひっくるめてそのもととなると考えられた現前も人間が建てた(作った)ものと言う素朴実在論とは対蹠的な考え方も現代哲学にはあります。

これは近代哲学までの思想とは大きな違いです。

現前を作る方法を構造主義と言い、また事物や実在、またそのもととなる現前も人間が作るものであるという考え方も構造主義です。
あるいは構造主義を適用された哲学と言えるでしょう。 つまり近代までの哲学には素朴実在論の考え方しかなく、現代哲学は素朴実在論と構造主義の2通りの考え方があります。

つまり現代哲学より前の哲学の現前についての考え方は既にあるものを認識するというものですが、現代哲学では減算は認識するという古い哲学の考え方に加えて、現前は作るものと言う考え方が加わったわけです。

第2章 素朴実在論の同一性神話

我々は現前、あるいは実在するものは何らかの同一性を保っていると思っています。

赤ん坊のころの我々と青年期、壮年期の我々は同じか、青年期、壮年期の我々と老年期の我々は同じか。
素朴実在論では我々は同一人物ないつでも何らかの意味で同一であると考えます。

何らかの意味で同一性が保存される、質料保存則やエネルギー保存則は何らかの形で我々に身についているでしょう。

何かが変わっても同一性が保たれていると考えるのは、「脱構築」という言葉をおそらく作ったジャック・デリダの差延という概念です。

逆に物事が同一性を持つという感じを解体するのが脱構築になります。

差延と言う考え方は裏を返せば時間の経過で同一性が保存されないという考え方です。
時間を通して物事が変化していると言っているだけではなく、時間ごとに物事が完全に入れ替わっているとまで考えます。

素朴実在論で当たり前の感覚、時間の経過によって何らかの変化はあっても事物の何かは保存されているという考え方とは異なる見方を現代哲学では出来ます。
モダニズムのデカルトの要素還元的方法論はまずは物事を要素にバラバラに分けますが、現代哲学の目から見ると分け方の踏み込みが全然浅いのです。

学問の難問を解決するには時間や空間の概念も含めてもっとバラバラにして無意識の前提に気付く必要があります。
そしてバラバラにした要素を還元するのではなく構築するのです。

デカルトは事物が実在するという前提から離れられませんでした。
ですからデカルトや彼の後継者から発展していくものは構築ではなくて解析や分析です。

数学の分野ではデカルトの代数幾何学からニュートンやライプニッツが解析学(微分積分法)を作りました。

これを古典解析学とすると現代数学をベースとした現代の解析学は集合論や位相論から極限や収束、変換や連続関数、微分や積分ができる場を一から構築します。

第3章 良い、悪いによる脱構築

事物の認識の最も発生学的に初期の形はあかちゃんの心地良さ、心地悪さの感覚だという説があります。

おなかがすいたり、おむつに便をしたり、眠いのにねれなければ心地悪い、乳房に触れてミルクを吸ったり、便を拭いてもらって新しいおむつに替えてもらったり、温かくて柔らかい毛布に包んでもらってぬくもりと感じながら眠りに落ちれば心地よいと感じます。

この心地よさや心地悪さ、気持ちよさが気持ち悪さが人間の認識における良い、悪いの始まりではないかという説です。

それはともかく、人間は対象を良いか悪いかで区別する傾向があります。
良いか悪いかを使って脱構築の最も簡単で実用的な方法を示しましょう。

良いものにも悪い面がある、悪いものにも良い点があると考えるのです。
物事の良い点や良い面、逆に悪い点や悪い面をどれだけ思いつけるかはある程度の知的能力に依存します。

知的能力に関係なくこういう発想を持って物事を見るのに慣れていない人にはすぐに色々な見方が出てこないかもしれません。

ただ「知」のいい所は訓練が効くところです。
努力すれば誰でも知的能力を高めることができます。
知にはそれを訓練するための方法が色々と用意されています。

特に西洋的な知は方法への精神の部分がありますから、何かの知識に到達するための方法、手順を明確にしてあります。
地道に勉強すればいつかは理解できる仕組みになっています。

この方法は俗に「物事を肯定的に見る」などの形で一般社会に既に流布しているように見えます。

精神医学の認知行動療法などでは認知の歪みというものを治療するためにこの方法が使われます。

まあこれだけでも部分的に脱構築を利用していると言えますが、どうせですからさらに進めて「ネガティブに見ていたものをポジティブに見る見方や考え方を探してみる」という逆のアプローチもしてみましょう。

前者は物事に対するネガティブな見方をポジティブな見方もすることで脱構築する、後者は同じ物事に対するネガティブな見方をポジティブな見方をすることで脱構築するということになります。

これを行うことで、特に常時行う様に訓練すると我々は物事を単純に良いものであるとか悪いものであるとかなどの単純で情緒的な見方をすることを避けることができる様に訓練できます。

第4章 複対立的対象把握

ある面とかある点とか言いますが側面とか観点という言葉を使う場合、我々は物事を一通りではなく複数の見方をしていることが分かります。

昔クレッチマーという精神医学者が多次元精神医学というものを唱えて患者さんを複数の視点から見て分析することを唱えました。

情報とは「変化するパターンの中で選べるもの」で例えば「この命題は真」「清朝176㎝である」が情報となります。

物事は色々な見方ができます。
その物事は良いものであるの真か偽かを単純に主観的に決定してしまう場合があります。
これは前章のケースです。

ただ「良い」「悪い」の定義ができたら他の人にはもっと分かりやすいかもしれません。
傍の人からすればどういう点からみて良いか悪いか、これをまず知りたいところです。

「何もかも全ての点においてよいんだ」という答えが返ってくる可能性もありますが、「いい面も悪い面もあるがどっちかというと、あるいは総合すると良い方が勝る」とかより詳細な答えが返ってくるかもしれません。

点とか面とか言われているものを次元と表現しているわけです。
一つの次元とは例えば「この物事は美味しい」とか「この物事は何gである」とかになります。

美味しいかどうかならイエスかノーで答えられますが、何gかと聞かれると実数で答えるので答えが複数です。

前章のポジティブな見方やネガティブな見方を探すというのは複数の観点から対象を見てその良し悪しを考えることになります。
その場合何が良くて何が悪いのかが問題になります。

美味しいことはよいことか?

30gであることはよいことか?

良いとか悪いとかは主観的な印象で決まっている場合があるため、深く考えだすとその物事が良いのか悪いのかは自分の中で単純ではなくなります。

複対立対象把握は物事を出来るだけ多面的に見て、他と矛盾があったにせよ矛盾を矛盾のまま、複雑なものは複雑なまま抱き続けることを指します。

第5章 良い悪いとは

「良い」とか「悪い」とかは非常に大雑把な言葉です。

「いじめはいじめられた方も悪い」という言説が昔は(今も)ありました。
この場合の悪いは「うまいことやらなかった」「普段の姿勢に問題がある」「原因がある」などを指しているのでしょう。

「悪い」には善悪の悪、正義と悪の悪、倫理的な悪、下手な事、判断がまずかったこと、その他いろいろな意味が含まれます。
良いも同じです。

アメリカのアニメに「ビーバス&バッドヘッド」と言うのがあって、登場人物は全ての物事を「クール(最高)」と「サック(最低)」の2語で切り取ります。
物事を二元化、あるいは二項対立で見ているのかもしれません。

あるいはサピア・ウォーフ仮説と言うのがあって、人間の思考は言語から影響をつけます。
クールとサックの2語しかしらないので、全てのものをその2つに分類する思考が働くのかもしれません。

ある見方から物事を眺めたと気に、その結果を座標で表現し、軸ベクトル上の値と対応させてみましょう。

例えばその物事は美味しいか、という見方なら美味しければ+1、不味ければ-1、どちらでもなければ0とします。
またその物事は何gかであれば重さを量って出た数値を軸上に表現できます。

前者は離散的で前者は連続的な形で結果が出ます。
結果の解釈を自分にとって良いものか悪いものか決める基準があれば結果に対する良いか悪いかの判断は下せるでしょう。

しかし軸上の同じ点であっても実際にはポジティブにもネガティブにも判断できます。
ある本質に基づいて良いと判断されることがそれと同じ本質に基づいて悪いと判断できることもあります。

良いことと悪いことはコインの裏表みたいな見方をできると良いことにはかならず悪いことも伴い、悪いことには必ず良いことも伴うと心構えができます。

それは良いことを良いとみなす本質的な原因から同時に導かれる悪さかもしれませんし、良いとされていることを複数の異なる考え方に当てはめて考えると悪いことと見なせる場合が出てくる場合もあります。

あるいは結果の評価自体も多面的にできるので、ある軸上で+1の結果が出たことを評価する際に別の軸の結果が関係してきて、ある見方をするといい結果が別の見方をすると悪い結果と評価できる場合があります。

良い悪いは単純化する必要もないですし、複雑なものは複雑なまま、矛盾があってもそのまま丸ごと受け入れるのが現代哲学流の対象把握になります。

おわりに

物事を瞬間的に主観的に良い悪いと判断するのは必要な場合があります。
それはそれで重要なことです。

他方で知的に対象を考えたいときに良い、悪いという感情が先入観になって判断を変える場合があります。
その判断結果は主観的で感情的で知的ではないと思われてしまうかもしれません。また合理的、合目的的な判断を邪魔する場合があります。

脱構築の簡単な方法を使って対象の事物の偏見や無意識の思い込みを解体することで知的で合理的な思考をサポートしてくれることがあります。

瞬間的に感じる良い悪い感情を前面に出して生きている人は感覚的な人と見なされる傾向にありますし、対象やその良い悪いの判断を脱構築してしまって相対化することで冷静で中立的で客観的になった上で試行して結論を出すスタンスはよく言えば理性的、悪く言えば理屈っぽく見えるでしょう。

非常に簡単に書きましたが「ポジティブに見ている事物、あるいは事物に対する見方をネガティブに考えてみる、そしてネガティブに見ている事物、あるいは事物に対する見方をポジティブに考えてみる、ということを同時に行う」ことで事物に対する見方は簡単に変わります。
事物に対する見方が変わること、これは脱構築です。

脱構築は事物の実体性を消してしまったり、実在とみなくしてしまったり、現前を焼失させてしまったり、解体してしまったり、要素に分解してしまったり、いろいろなことができますが、単に微妙に見方を変えるだけでも脱構築です。

実在という前提からいったん離れて、構築する、という概念から見るのが望ましいですが、そういう見方を出来なくても、事物に対する見方を変えることは簡単にできる方法がいくらでもあります。
それらは全て現代哲学では脱構築の方法になりますが、現代哲学より前の考え方では「単に物事に対する見方が変わった」以上の意味はありません。

しかし仮に構造主義をマスターしておらず素朴実在論の感覚しかない人でも、このやり方は役に立ちますし、構造主義を理解する突破口になり得ます。